2018年7月10日火曜日

「うそでうそは隠せない」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「うそでうそは隠せない」
 
 天声人語に、高校生が創作した格言が紹介してありました。その中で、「うそ」をめぐる傑作が書かれてありました。
 
 「うそでうそは隠せない」「うそをついている時ほど言葉が多い」「うそをつきすぎると自分もだませる」。これらの格言をひとつひとつ吟味してみると、今の世の中への痛烈な批判のように感じました。偉そうなことは言えませんが、某テレビ局の謝罪会見のニュースを見ながら、「うそ」で「うそ」を隠そうとする態度に、真実を伝えるメディアの根本が崩れ去ったような思いをいだきました。 私たちは「うそ」をつかないで生きていくことはできない。しかし、なるべくなら「うそ」をつかないように努力しながら生きているのではと思います。なにか苦しいことにぶつかると、つい自分に対して「うそ」をついてしまうものです。そして、真実からいかに遠ざかるかを考えるのです。本当はどうにもならないのに、逃げることによって自分が助かると思い込んでしまいます。その生き方そのものが「うそ」であるといえます。
 
 主イエスの十字架を見上げるとき、「うそ」がないことに気かつきます。神様の独り子としての十字架の苦しみの中に、「真実」をみるのです。主イエスを十字架につけた人々は「神の子ならおりてみよ」と自分たちのやったことを正当化しています。「うそ」とは罪人である自分の正当化なのです。