2017年2月28日火曜日

存在感

クレヨン牧師のミニエッセイ
「存在感」
 
 少し年上の牧師から、「そろそろ存在感のある牧師にならないと」という言葉をいただきました。「存在感」とはいったい何だろうかと考えています。また同じ時に「自分はこれだというモノを持っていないと」という言葉もいただきました。「これだ」というモノを持つ必要を考えています。
 
 きっとその牧師には、「存在感」があり、「これだ」というモノがあるのでしょう。しかし、自分が思っているほど人には伝わっていないということもあるのですが。
 
 さて主イエスには「存在感」があるでしょうか。もちろんあります。しかし「存在感」がないときもあるのです。野の花はそうだと思います。「存在感」があるとかないとか、野の花はいいません。しかし、関わりを持つ人によっては素晴らしい「存在感」をもっているのです。それでいいと思います。
 
 たぶんその牧師は、「あなたは存在感があるね。あなたないはこれだというモノがあるね」と言われたかったのかもしれません。

2017年2月27日月曜日

友と呼んでくださる

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「友と呼んでくださる」

 ヨハネ 15:15 わたしはあなたがたを友と呼ぶ

テレビで三木たかしさんの葬儀模様が流れていました。弔辞は萩本欣一さんでした。その弔辞の内容に少し驚きました。萩本さんは次のように語りかけたのです。「今日であなたと友はやめます」(正確ではないかも)。友達関係は終わりと言われたのです。その後「これからは先生です。三木先生」と。尊敬をこめてこれからの新しい関係に心から感謝されているような弔辞でした。普通なら「ずっと友達でいましょう」というところですが「先生」と呼ばれたところに2人にしかない特別な関係の強さ、尊敬、信頼をみることができました。

 ヨハネ福音書にある告別説教でのみ言葉です。十字架での死を前にした、最後の晩餐の席上でのみ言葉になります。イエス様は、明日は死を迎えることを知っておられました。遺言のように語られた言葉で、弟子たちにむかってあなたがたは「僕(しもべ)」ではなく「友」といわれたのです。弟子たちは自分たちのことをどう思っていたのでしょう。もちろん「僕」と思っていたでしょう。イエス様のことは「先生、師匠」と考えていたかもしれません。それは、あたり前のことだと思います。しかし、あえて「友」と呼ばれたところに感動を覚えます。

 日本海外医療協会派遣医師の講演会がありました。ある地区のキリスト教会の合同集会として行なわれた講演会でした。そこで改めてキリスト者の働きについて学びました。医師は幼いころからのキリスト者で、講演の最後に祈ることについて話されました。「とにかく誰でもいいです。アジア・アフリカにいる方の顔を思い浮かべてください。テレビでみた子供でもいいです。そしてその子のために具体的に毎日祈ってください」と言われました。「そのことが、世界に友を具体的につくることです」と教えてくださいました。

 イエス様は「先生」と呼ばせず、「友」と呼べといわれました。イエス様の方から「友」と呼んでくださったのです。その関係の中におおきな神様の愛を感じます。私たちはイエス様を友としてよいと言われました。神様を友としていることは、なんと奇跡なことでしょうか。萩本さんが「先生」とよびながら、友であることを表現されたことに関係の深さをみることができました。

2017年2月25日土曜日

気ままな休日

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   阿蘇で青高菜を買ってきました。いつもは母が漬けたものをたべていました。仮設でも漬けられるけど、高菜がないとのこと。
   そうでした従姉妹の畑が被災して高菜を植えられなかったのでした。来年は漬けると張り切っておりましたが。畑の断層をなんとかしなきゃと。
   希望持って待ちます。でも、これは美味しいです。

2017年2月24日金曜日

痛みを負う

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「痛みを負う」

 イザヤ 53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病をしっている。

中央線を四谷から三鷹まで利用しました。東京の電車にはテレビモニターがついており、いろんな情報を教えてくれます。天気、ニュース、マナー講座、今日の一品など。その中に「ネット検索用語ランキング」というものがありました。ネットで検索するキーワードで一番多いものは何かということです。1位は「痛み」でした。とても以外でしたが、「痛み」というキーワードが意味しているものを考えてしまいました。たぶん痛みには「心」と「体」の両方があるのでしょう。痛みを取りのぞきたい、痛みから解放されたいという思いから、なんとかしたいと「痛み」という言葉で検索をされているのだろうと思います。しかし、痛みを完全に取り除くことはできません。痛みがあるから生きているという実感もあるでしょう。痛みには深い苦しみと嘆きも感じます。この痛みと共に生きていかねばなりません。でも、痛みを軽くすることはできます。痛みを共に負ってくださる存在に気がつくことです。

 イザヤ書の中にある「苦難の僕」として有名な箇所です。イエス様の十字架の苦難を預言したものです。まさに十字架の出来事がここにあるといえます。「軽蔑され見捨てられる」イエス様の姿に心が痛くなります。

 注射というのはいやなものです。とくに『痛い』ことがいやです。ところがとってもいい話を聞きました。痛みを和らげる方法です。それは、注射の数秒前に太腿をつねるという方法です。これをやると痛みが半減します。この方法は、麻酔科のお医者さんが発見し、学会に発表された説でもあります。なぜ痛みが半減するか?それはハリ療法がなぜ痛くないかと一緒です。つまり人間の体は、たくさんの痛みのなかで、一番刺激の強い痛みだけを感じるという性質をもっているのです。ですから、ハリ療法は押手というテクニックを使うのです。すると注射の前に太腿をつねれば、注射の痛みよりも刺激が大きいので、痛みが半減するというわけです。自分の痛みしか見えない人はその痛みに苦しむ。しかし、キリストが十字架の上で、それ以上の痛みを感じてくださったことを知る人は、キリストの痛みゆえに、自分の痛みが和らげられるのではないでしょうか。

イザヤは「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病をしっている。」と告げています。あなたの痛みを知って、共に負っている方がおられる。その方の存在に触れたとき、痛みは軽くなると思います。イエス様が十字架でしめしてくださったのは、この痛みを共に負うということだったといえます。心・体にみな痛みを持っています。それを共に負い合う教会でありたいものです。

2017年2月23日木曜日

流れている水

クレヨン牧師のミニエッセイ
「流れている水」
 
 六日市から、たくさんのハナミズキをいただきました。今日の礼拝堂の花がそうです。ところがこの花は一度枯れかかったのでした。牧師館と教会にわけて活けておきましたが、教会のものは前週のカラーと一緒にしておいたのです。そのカラーの水を変えるのを忘れていあたため、水が腐っていたのかもしれません。一日で元気がなくなってしまったのです。ところが、牧師館のハナミズキは元気そのものでした。
 
 水の大切さを思います。しかも生きた水の大切さです。主イエスはサマリアの女に「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました。
 
 主イエスが私たちに与えてくださる水は、いつも流れている水です。流れている水は腐らないのです。もし主イエスが与えてくださる水が腐れているのなら、私たちが「そのままに」していたり、「ため込んで」いたり、「忘れたり」しているためだと言えます。それでは主イエスが与えてくださる水とな何か。それは命のみ言葉(聖書)でしょう。

2017年2月22日水曜日

中を見たい

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「中を見たい」

 ルカ 8:17 隠れているもので、あらわにならないものはなく・・

ある本で面白い話をよみました。ニューヨークの工事現場の塀にはいくつも穴があいているのだそうです。しかもわざとあけてあるそうです。理由は中で何が行われているか興味があり、穴がない塀はすべて壊されて中がみえるようになるからです。そこで始めから穴をあけて中を見せることにしたというのです。

 イエス様の教えの一つです。はじまりは「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり・・しない」という話の中にあります。ともし火は何のためにあるのかをきちんと考えないということ。また、み言葉の光は隠されたままにはなく、かならず光輝くのだということでしょう。悪いことを影でやっても公にされると読むひともいるかもしれません。

あれもいけない。これもいけない。世のなかが暗くなればなるほど、暖かい話を聞きたくなるのはどうしてでしょう。なんとかして、この世を肯定して生きていきたいからです。「隠れたところでは、こんないい話がある」ということで安心したいのです。テレビのニュ-スを観ながら、「これから中高生が生きていく世界は何と暗いことか」と嘆きたくなります。しかし、必死に肯定できるものを探してみる努力をしたいと思います。肯定できるもの、それは、この世を造られた神様が、イエス様を通して今も働かれているということです。

 さて、私たちの教会はどうでしょうか。教会で語られる福音を隠したりしてないでしょうか。いや、教会の塀をこわしてまで覗きたいものとして捉えているでしょうか。私たちに与えられている神様のみ言葉の価値をも一度再確認したいと思います。「隠れているもので、あらわにならないものはない」のに、こんな素晴らしい宝を隠しているのはいったい誰でしょう。

2017年2月21日火曜日

教会に必要なグッズ

クレヨン牧師のミニエッセイ
「教会に必要なグッズ」
 
 「伝道推進センター」会議で東京にいってきました。この会議は、教会の会議の中では珍しく「楽しい会議」です。それは伝道をどうやって推進していくかを話し合う会議だからです。
 
 本来「伝道」とは楽しいものです。どうやって主イエスのみ言葉を伝えるか。仲間を増やしていくか。それを考えることがキリスト者を生き生きさせるからです。
 
 さて、全国の教会にアンケートをだしました。「あなたの教会にとって必要で、センターに作成して欲しいものは何か」。あなたなら何と答えますか。いろいろありましたが、一番多かったのは「フォローアップのためのグッズ、マニュアル」でした。教会に来ていただくためのプログラムはいろいろなものがあり、すでに行われています。ところがせっかく来てくださってもそのあとのフォローアップが何もないという現状だったのです。私たちの教会も同じです。
 
 次回の会議では「フォローアップマニュアル」の作成と、グッズ作成を行います。それを作るのは牧師たちだけではありません。大手広告代理店の方や、主婦も入るチームです。
 
 出来上がったものを、使うか使わないかは私たちの「熱情」次第です。
 

2017年2月20日月曜日

自分のものとする

阿久根ルター君の朝のみ言葉

ルカ 4:6 悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」

「偉くなりたいは悪いことではない」という言葉を聴きました。確かに偉くなることはわるいことではないし、偉くなることを目指すのもいいです。しかし、何のために偉くなるのかです。すべてを自分の思い通りにできるから偉くなりたいでは、結局自分がつらくなると思います。偉くなったときには、偉くなったときにしかわからない責任が大きいことを知らないのです。イエス様は仕える偉さということを弟子たちに教えておられました。

本日の聖書は、「悪魔の誘惑」の箇所です。私たちには「人のパンだけで生きるものではない」というイエス様の言葉でも有名です。イエス様は40日40夜の断食の後、悪魔から誘惑を受けられます。しかし、そのすべてを神様のみ言葉によって退けられました。この箇所の誘惑には「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」というみ言葉で退けておられます。主なる神様を第一とするということです。「この国々の一切の権力と繁栄」を自分のものにする。これはとても魅力的です。自分で何でもできるからです。しかし、所詮すべてのものは神様から与えられた神様のものです。自分のものになったというのは錯覚だと気が付かねばなりません。

こんな話を読みました。日本のテレビで韓国の方が、カップラーメンのコマーシャルをみた。それは一つのカップラーメンを兄弟で奪い合っているものです。「これは僕のだ」「いや僕のだ」と。そして「それほどおいしいカップラーメン」という文字が映し出されるというものです。

 私たちはこの映像を何気なく見ています。そして、それほどおいしいのかと思います。ところがこれを見た韓国の方は、「なんとまずいカップラーメンだ」と言ったそうです。また、こんなコマーシャルだったら誰も買わないというのです。それでは韓国ではどんなコマーシャルになるのかといえば、まず兄弟が譲り合いをしている映像が写ります。「弟よ食べなさい」「いいえお兄さんが食べて下さい」と。そして、それほどおいしいカップラーメンとなるのだそうです。私たちは、奪い合って食べるほどおいしいと考えます。しかし、奪い合って自分のものにして食べても、後味は悪いのです。むしろ譲り合って一緒に食べた方が、たとえ少量でも格段においしいのではないでしょうか。

悪魔の誘惑は「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。」というものでした。私たちはついすべてのものを「自分のもの」としてしまう危険を持っています。その時は自分を神様としてしまっているときなのでしょう。「すべては神様のものである」という視点に立つとき、罪の誘惑を退けるポイントがあるように思います。

2017年2月18日土曜日

きままな休日・ドイツのお弁当

 ドイツの旅行ではじめてお弁当を食べる!
    ドイツのお弁当ってこんなんです。
   いや~ドイツらしいでしょう。
   簡素、簡素、簡素~
   でもこれでいいんだよね。だって毎日食べ過ぎてビール飲みすぎているんだからね。
   とってもいい経験させてもらいました。
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2017年2月17日金曜日

復活は日常の中で

クレヨン牧師のミニエッセイ
「復活は日常のなかで」
 
 不思議な体験をしました。どんな体験かといえば、「死んで復活したのかもしれない」というものでした。
 
 先週の事でした。高速道路を走っていますと睡魔がおそってきました。そしてついにガクンときたのです。これは危ないと思い、佐波川のサービスエリアで休憩することにしました。ちょっと一眠りしようと寝たのが午後三時でした。十五分も寝たかなと思って時計をみると午後五時。なんと二時間も寝ていたのです。これは大変と思ってすぐに車を走らせました。しかし体が寝ているようでおかしいのです。夢でもみているのかとバックミラーを見て仰天です。私の車のミラーに写っていたのは、私の車だったのです。車体も色も同じ。置いてあるぬいぐるみも同じ様。運転してるのは家内にそっくり、二人の女の子が乗っていたのです。
 
 私はそのとき「これはもしかしたら、居眠り運転して死んだのかもしれない」と思いました。そして、「いまいる私はいったい誰で何をしているのか。きっと復活して家族の守護霊にでもなったのかも」と真剣に考えてしまいました。
 
 やっと追い越していった車をみて、寝ぼけたことがわかりホッとしました。復活はなにげない日常のなかで起こると確信したのでした。
 

2017年2月16日木曜日

種をまく


阿久根ルター君の朝のみ言葉
 
マルコ 4:3 よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。

「教会の子ども達は幸せだな」と思うことがあります。それは、いつでも神様から与えられている種を確認できるからです。というのも、礼拝の中に子ども達が一緒にいると、知らず知らずにみことばを聞いているのです。

 讃美歌のときに皆さんはよく、子供とともに座っておられます。子育てを終えられた方もおられれば、まだ結婚しておられない方もいます。しかし、全員が一応に子ども達と一緒に讃美をしてくださっているのです。なにげないひとときですが、私には信仰の確認・継承に見えるのです。讃美歌を歌うということは、「私はこのことを信じていますよ」と優しく語りかけておられることと同じです。これこそが、子どもたちに与えられた「神様の種」を確認させているのです。「あなたには神様の種がまかれていますよ。私にも同じ種がまかれているように」という信仰の確認になっているのです。信仰の継承がおこなわれているのです。

 イエス様が語られたたとえ話のなかでも「種まき人」は有名です。種まき人が種を蒔いたところ、道ばた、土の薄い石地の上、茨の中、よい土地の上に落ちたというものです。良い土地に落ちた種は、芽を出し、成長し、実を結びます。他の所に落ちた種は実を結ばないという教えです。イエス様はこの種のことを「神の言葉」であると言われました。すべてのものに蒔かれている「神の言葉」は成長し、実を結ぶと教えておられます。

 地方の教会を訪問しました。徐々に人がいなくなり、すでに礼拝出席10名の教会になっていました。礼拝のあと食事をしながら、この教会はあとどれくらい存在していられるかという話になりました。もって10年という意見が多く、みな暗い雰囲気につつまれました。そのとき一人の青年が次のように言いました。「イエス様の種まきのたとえを読んでいるのですが、収穫は大切なことです。でも、種を蒔かずに長年刈り入れを続けてきたせいで、種を蒔く必要性を忘れてしまったのではないかと思います」と。種を蒔かなければ収穫はありません。蒔かないところから収穫をしようとしているのが今の教会かもしれません。

 イエス様は「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と言われました、この「よく聞きなさい」をいままで、種が落ちたところのことについて「よく聞きなさい」と言われたのだと聞いていました。しかし、「種蒔きに出て行った」という言葉についても言われたのかもしれません。教会の成長はやはりみ言葉の種を蒔くことからだと思います。

2017年2月15日水曜日

信仰が伝わって

クレヨン牧師のミニエッセイ
「信仰が伝わって」
 
 突然の出来事にビックリしました。礼拝からの帰り道で、教会の婦人が高校生の乗った自転車とぶつかり大腿部を骨折されました。なにか朝からいやな予感がありましたが、気が重くて仕方ありません。
 
 しかし、初めて救急車に乗る経験もできました。感想はといえば、「わりと乱暴な作りなんだな」ということです。病院につくまでの間、救急車の固いベッドで、しかもよく揺れるので姉の痛さはどれほどのものかと、私まで痛みが伝わってきました。そのような痛さにもかかわらず、「あの方はまだ若いのだから、あまり責めないでくださいね」と、事故をおこした高校生を気遣う姉の言葉に感動しました。
 
 救急車の中で「朝から早くいって、礼拝堂の椅子の掃除をしていてよかったわ。来週でもいいかと思ってましたけど、イースターの前にできてよかった」と。また、診察室のベットの上では、「来週イースターの献金を出そうと思っていましたけれど、こんな状態ですのでカバンに封筒がありますから取ってくださいね」と。
 
 姉の信仰が伝わってきて涙がでそうになりました。イースターの献金は姉の礼拝復活のときに、神様が頂かれることでしょう。(

2017年2月14日火曜日

目標・ゴール・期間

阿久根ルター君の朝のみ言葉

マタイ 10:7 行って、「天の国は近づいた」と宣べ伝えなさい。

広島教会時代「今年のクリスマスは500人を招こう!」との目標を立てました。その中でも、一度でいいから礼拝堂を、子どもたちで溢れさせたいと夢を持っていました。具体的な目標を出したのです。結果はメサイア160名、オルガン・ミサ127名、クリスマス主日120名、こどもXmas275名、イブ礼拝105名で、全員では787名でした。しかし大切なのはこの787名をどうやってフォローアップしていくかでした。最終の目標は、キリストと出会っていただくことですから、次なる宣教の目標を立てなければなりません。それにはまず祈りから始めました。神様が教会に与えてくださっている使命を祈り求めたのです。

イエス様は弟子たちを派遣するにあたり、イエス様は同じ権能を弟子たちに与えられました。その働きはほとんどイエス様の働きと同じです。また、行って人々に宣べ伝えることも「天の国は近づいた」ということであり、これもまたイエス様の教えに基づいています。また派遣するにあたり注意されたことは、的確な指示でした。

少し落ち着いてきたので、時間をみつけて読書をするようになりました。めまぐるしく時間が過ぎていくなかで、何かひとつでも違ったことをしておかねばとおもったからです。しかし活動に入り込んでしまうとそのような時間はなくなってしまいます。今日読んだ本の中にあった言葉です。「オーケストラは、これから演奏しようとする楽曲、つまり目標を知らないメンバーはいない」。宣教活動も一致した目標は何かを常に示す必要があります。具体的数字であればもっと良いと思います。目標とゴールと期間。これが明確にしめされてこそ宣教活動がよりよい報告に進んでいくのです。この3つを教会が示しているかをたえず考えておかねばなりません。

イエス様は弟子たちを派遣するにあたり、「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」と言われました。大きな目標はみ言葉を宣べ伝えることでした。このはっきりとした目標のもとに派遣されたのです。私たちの活動におけるイエス様のみ言葉はなにかを考えつつ今日も被災地に立っています。

2017年2月13日月曜日

捨てきれない

クレヨン牧師のミニエッセイ

「捨てきれない」
 
 教会の姉妹が大学進学のために、東京へ旅だって行かれました。この季節が来るたびに自分の原点を思い出します。親から離れて一人立ちしたのが、大学進学の時だったのです。
 
 神学大学の寮につき、自分の荷物をまえにしたときの、なんとも表現できない悲しいような気持ちを思い出すのです。部屋についた荷物は、布団一組と段ボール箱一つでした。箱の中には本が三冊とカセットテープ、鉛筆削り、そしてインスタントコーヒーだったのです。あれから十五年、なんと荷物が増えたことでしょうか。三冊だった本はいまや段ボール百箱。あ~あ。家族が増え、家具が増え、ステレオに車が増え、心に平安が増え、心配事が増え。
 
 私たちはたくさんのモノを持っています。物質的にも、精神的にも。持ってしまった以上に捨てきれないのも私たちです。しかし、原点を思い出すたびに何が大切かを思い知るのです。なぜなら、三冊の本とは「聖書」だったのですから。
 
 捨てきれない荷物のおもさまえうしろ 山頭火
 

2017年2月11日土曜日

きままな休日

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 元祖熊本ラーメンと言われている玉名ラーメンです。
   これが熊本ラーメンのはじまりの味だとききました。
   う~ん。確かにいつも食べるラーメンとは違います。
   スープはトロ~としているし。香りもちょっと違うかな。
   でもこれは博多ラーメンとは違うものですね。美味しい!それが一番です。

2017年2月10日金曜日

カタクリコ

阿久根ルター君の朝のみ言葉

ルカ 17:6 もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

ある女子高生が、教会の修養会で話していました。「わたしはカタクリコです」と。皆さんには、どういう意味かわかりますか。私はまったくわかりませんでしたが、これは日本のキリスト者の重要な課題なのだと知らされました。しかも、それは信仰の継承の問題なのです。「わたしはカタクリコ」というのは、「わたしは、両親のうち片方だけがクリスチャンの子です」ということなんです。笑い転げながら、これは深刻な問題かもしれないと思いました。今の教会には「カタクリコ」はどのくらいいるのでしょうか。多分そうとうの数の「カタクリコ」がいると思います。その子供たちが自分の両親を見ていく時、どのように両親から精神的なものを受け取っていくのかなと考えてしまいます。そこに信仰を見出すでしょうか。

イエス様は「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」と言われています。ということは、人間にはたったそれだけの信仰もないということでしょう。それだけの信仰があるならば木が動くと言われています。

信仰とはいったい何でしょうか。ルター先生の言葉を借りれば、『「不信仰な私を赦してください」という祈りこそ信仰者の祈り」と言っておられます。私たちは、信仰があるのか、ないのか、多いのか、少ないのかとよく考えています。しかし、神様しか信仰があるかないかなど分からないことです。そう思うと、私などが「あの人には信仰がない、あの人の信仰は薄い」などと言えないのです。そんなことを言って自分を慰めるよりももっと信仰の徳を高める言葉を語りたいと思います。

本日の聖書では、からし種一粒の信仰の話の前後に、『赦し』と『奉仕』の話がでてきます。「信仰・信仰」と言ったり考えたりするよりも、『赦し』と『奉仕』でわかるものだよといわれているような気がします。

2017年2月9日木曜日

信仰を感じる

クレヨン牧師のミニエッセイ
「信仰を感じる」
 
 阿蘇垂玉温泉「山口旅館」にいってきました。大浴場もさることながら、露天風呂「かじかの湯」が最高でした。二人の娘たちと露天風呂に入っていますと、なんとバスが前を走っているという素晴らしさでした。のどかというか、なんというか。とにかくゆったりとした時間でした。
 
 大浴場につかりながら窓を開け放ち、阿蘇の山々をみていると、神様が創られた自然がせまってきます。そして神様の声が「あなたのことを包んでいるから、安心していいよ」と聴こえてきました。
 
 「ゾウの時間・ネズミの時間」の中にある、「人はたえず自然に触れていなければ、自分の頭の中だけを見つめるようになります。そして頭でっかちになってしまうものです」という言葉を思い出します。信仰は頭だけで受け取るものではありません。信仰もまた感じるものではないでしょうか。
 
 考えこんでばかりでいないで、たまには外へでて土に触れてみましょう。草花のつぼみは膨らみ、チューリップの第一号がさき、確実に春がきているのがわかります。イースターまですぐそこです。

2017年2月8日水曜日

中をみたい

阿久根ルター君の朝のみ言葉

ルカ 8:17 隠れているもので、あらわにならないものはなく・・

ある本で面白い話をよみました。ニューヨークの工事現場の塀にはいくつも穴があいているのだそうです。しかもわざとあけてあるそうです。理由は中で何が行われているか興味があり、穴がない塀はすべて壊されて中がみえるようになるからです。そこで始めから穴をあけて中を見せることにしたというのです。

 イエス様の教えの一つです。はじまりは「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり・・しない」という話の中にあります。ともし火は何のためにあるのかをきちんと考えないということ。また、み言葉の光は隠されたままにはなく、かならず光輝くのだということでしょう。悪いことを影でやっても公にされると読むひともいるかもしれません。

あれもいけない。これもいけない。世のなかが暗くなればなるほど、暖かい話を聞きたくなるのはどうしてでしょう。なんとかして、この世を肯定して生きていきたいからです。「隠れたところでは、こんないい話がある」ということで安心したいのです。テレビのニュ-スを観ながら、「これから中高生が生きていく世界は何と暗いことか」と嘆きたくなります。しかし、必死に肯定できるものを探してみる努力をしたいと思います。肯定できるもの、それは、この世を造られた神様が、イエス様を通して今も働かれているということです。

 さて、私たちの教会はどうでしょうか。教会で語られる福音を隠したりしてないでしょうか。いや、教会の塀をこわしてまで覗きたいものとして捉えているでしょうか。私たちに与えられている神様のみ言葉の価値をも一度再確認したいと思います。「隠れているもので、あらわにならないものはない」のに、こんな素晴らしい宝を隠しているのはいったい誰でしょう。

2017年2月7日火曜日

なぜ急ぐの

クレヨン牧師のミニエッセイ
「なぜ急ぐの」
 
 京都教会に出張のおり、ニュー新幹線「のぞみ」に乗りました。新しいものには興味があるので、いろいろと見て回ったりして楽しみました。たしかに快適にできています。また赤ちゃんへの配慮や、お年寄りへの配慮もみられました。しかし、なんといっても「速さ」は格別でした。窓際にのってみると飛行機にのっているような音がするのでした。
 
 さて、どれくらい速いか。私はいつも大阪へいくときは文庫本を買って乗ることにしています。いつもなら一冊ちょうど読み切るのですが、これが読み切れないほどの速さです。往復二冊でしたが「のぞみ」でいけば、一冊半となりました。私は半分残った文庫本をながめて、やっぱり「のぞみ」は速いと実感しました。
 
 しかし、この新幹線に誰が「のぞみ」と名前をつけたのでしょうか。そしてなぜ「のぞみ」としたのかと思います。速く走ることによって何をのぞむのだろうと思ったのです。
 
 朝五時の京都駅でみた光景は寒気さえしました。それは、貨物車にのせられた何十台ものトラックが目の前を通り過ぎていったのです。なんで急ぐのだろう。なにを望みながら急ぐのだろう。教会に来たときくらい、「ゆっくりしいや」と神様は言われていますよ。

2017年2月6日月曜日

見えている案内人


阿久根ルター君の朝のみ言葉

マタイ  23:24 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。

大型タンカーの船長だった人から聞いた話です。大型タンカーは航行中にすぐに止まれない。完全に停止するまでには3時間以上かかる。港に入っていくとき、これを計算しなければならない。また湾に入ったときには必ず水先案内人が必要となる。この案内人は3時間先にどうなるかを計算しながら状況を把握し、さらにすべての舟の位置をチェックしている。大きな流れは止められないこと、止めるためには前もっての準備と知識を必要とする。案内人には、すべての命がかかっているのだからと。

イエス様は、律法学者とファリサイ派の「偽善」に対して激しく非難しておられます。長い言葉からなる批判ですが、大きくは3つに分けられます。1、ユダヤ教指導者の偽善への批判。2、7項目の不幸の宣言。3、キリスト教迫害の実態。本日の言葉はその「不幸」とされた1つです。ぶよは小さくても律法では汚れた動物とされています。これがぶどう酒に入らないように注意深く濾過しているのに、大きくてラクダ(これも汚れた動物)を呑み込ませている。そんなことをする案内人は不幸だと言われるのです。案内しなければならない人がその道がみえていない。これでは案内はできません。イエス様は案内人の条件として「見えている」をあげられています。この「見えている」は人生において最も大切なことだと言えます。

山道を通る道で大変な時があります。それは、濃霧がでたときです。その中でも、1㍍先が見えない霧にであうことがあります。これにあうと、頼りになるのはガードレールとセンターラインだけです。スピードを落として、ゆっくりすすむのです。普段の倍以上に疲れます。このような濃霧の中で教えられるのは、いつもなら遠くまで見えるハイビームよりも、足元がよくみえるライトの方がよいということです。私たちが生きている時代は、先の見えない時代だと言われます。こんな時は、足元をきちんと見る必要があります。禅の言葉では「脚下照顧」です。足元を見る時に見えてくるものもあります。その足元の灯りとしてのみ言葉があります。

イエス様は「ものの見えない案内人」という言葉で、真実の救いへと導くこと大切さを語られました。私たちにとっては、イエス様のみ言葉が、ものの見える案内人として与えられています。今日は何を語っておられるのか、どのように命への道を案内して下さるのかを注意深く聞きとっていきましょう。

2017年2月4日土曜日

きままな土曜日

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熊本には「あげたて」という安くて美味しい天ぷら屋さんがあります。
   目の前で天ぷらを揚げてくれます。
    しかも7品で700円。ご飯、みそ汁お代わり自由。
   イカの塩辛、高菜漬けも食べ放題!
この丼は見事でしょ!
   いやいや、このボリュームですよね。
豚の天ぷらと鳥てんぷら。しかも温泉卵。これって最高の組み合わせ。
   どんなもんだい!という感じでしょう!

2017年2月3日金曜日

白い煙

クレヨン牧師のミニエッセイ
「白い煙になりたい」
 
 娘が小さいころ、言葉にドキっとすることがありました。。
 あるときキョウザを蒸している湯気をみて、「白い煙になりたいな」と一言。煙になってどうするのかと思いつつ「なんで」と聞いてみました。すると、「だってあたたかいもん」だそうです。大きくなったら「暖かい人になる」のだそうです。
 
 特別な意味はないかもしれません。ただ体温が高い人間にないたいのかもしれません。しかし、親としては感動した一言でした。「あたたかい人間となる」。人が娘といるだけで「あたたかく」感じるような人間として成長してくれたらと願います。
 
 イエス様のことを考えるだけで、心にあたたかさを感じるのですから。

2017年2月2日木曜日

反省は。。。

阿久根ルター君の朝のみ言葉

箴言 8:5 浅はかな者は熟慮することを覚え、愚か者は反省することを覚えよ。

ある信徒の方から、教育部長あてに一冊の本が送られてきました。その本とは「ビジネスマナー・ポイント集」です。手紙には、「この本、役に立つよ。牧師はマナーと常識が大切です」と書かれていました。実は、牧師の常識のなさ、マナー欠如が深刻な問題なのです。はじめのころは、宗教家たるもの《非常識のなかの常識》こそ大切だと思っていました。神様のみことばを伝えることはそれ自体で非常識の中にあると思っていたのです。ところが、信徒の皆さんがおっしゃる《常識》とはレベルが違うことに気がついたのです。皆さんが問題にされる《常識》とは、人が生きる上でのマナーの欠如ということなのです。そしてもっと言うなら「知恵」を働かせないということのようです。マナーも知恵の一部だと言われました。

箴言8章の教えは「知恵」についてです。知恵が人格をもって語りかける形をとり、知恵自体が自己紹介や自己推薦をしています。面白いことに知恵自身が、その働きと成果について紹介していのです。その中でも知恵は、神様が天地創造をされたときに、すでに神様のもとにあったと告げています。

ある遊園地で「反省ザル(猿)」という芸をやっていました。むかし日光猿軍団の中で披露され、テレビで人気がでた芸だったなと思い出しました。あのときのキャッチコピーは「反省はサルでもできる」というものでした。その当時は笑ってみていましたが、よく考える意味が深い言葉でした。形だけの反省なら猿まねにすぎないという意味がこめられていたかもと改めて思ったのです。あの芸をみていた人たちもその事に気がついて笑ってみていたのでしょう。それを自分にあてはめてみることもありました。

箴言は「愚か者は反省することを覚えよ」といいます。また他の箇所では「心の中の板に書き記せ」と命じています。大切なことは反省すること以上に、それを覚え、心の板に書き記すことです。何回も同じ間違いをするのは覚えていないからです。「反省はサルでもできる」が、心の板に書き記し、常に覚えることが反省することの本当の意味なのです。

2017年2月1日水曜日

この道しか

クレヨン牧師のミニエッセイ
「この道しか」
 
 2月に入っても寒い日が続いています。雪がちらつくほどですが、庭に咲いたポピーを見ていると、確実に春は近づいているのがわかります。そこで山頭火の弥生の句を三つ。
 

 
 ゆらいで梢もふくらんできたような
 
 ふるさとは遠くして木の芽
 
 この道しかない春の雪ふる
 

 
 山頭火が詠んだ「この道」とは、いったいどんな「道」だったのでしょうか。悟りの道といえば簡単ですが、「この道」を見いだすまでが大変なことはよくわかります。「この道」と決めた心に、降ってはすぐ消えてゆく淡い春の雪。じ~んときてしまいます。
 
 キリストはご自分を「道」といわれました。私たちキリスト者には、この道(キリスト)しかない。それが悟りなのです。