2019年8月31日土曜日

明日は礼拝です

説教者:吉谷正典牧師(引退教師)
ぜひお越しください。お待ちしています。

2019年8月30日金曜日

鹿児島教会カフェへ

明日は鹿児島教会カフェで交流会
大江教会・阿久根教会の皆さんも
大学生Youth Caféとのバーベキューです!

2019年8月29日木曜日

「ある一瞬で」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ある一瞬で」
 
 ボーイスカウトのハイキングで、砂谷牧場へ牛の乳搾りへいってきました。秋晴れの素晴らしい天気と、広々とした牧場で食べたお弁当はまさに格別でした。なにが人間を心地よくさせるのかをあらためて体験しました。
 
 プログラムの中に「アイスクリーム作り」と「バター作り」とありました。アイスクリームはなんどか作った経験があります。ところがバターというのは初めての経験でした。わりと簡単にできるものだなと思いました。それに作りたてのフレッシュバターのおいしかったこと。表現できないものがあります。教えてくださった方は「このバターは最高においしいはずです。最高の材料を使ったという意味ではなく、自分で作ったという味が入ってます」と説明されました。確かにその通りです。
 
 さて、バター作りですが、これは本当に不思議でした。筒のようなタッパーにクリームをいれて手早くシェイクすればいいのです。ところが、よく振っているとある一瞬でバターが出来上がるのです。その一瞬がいつかはわかりません。ある一瞬でバターと低脂肪乳とが分離するのです。やりすぎてもいけないし、おとなしく振ってもいけません。タイミングが重要なのです。
 
 バターを作りながら、神様の救い、神様の恵みを考えていました。信仰にもある一瞬というのがあるのだと思います。信仰のタイミングというものがあります。それは神様のみにしかわかりません。そのタイミングを逃すと、なかなか大変なことになりかねないのです。
 
 信仰の一瞬をとらえるには、御言葉を聞き、祈ることが大切です。礼拝に出席するということは、その一瞬の救いを逃さないということでしょうか。
 

2019年8月28日水曜日

「苦しまれたからこそ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「苦しまれたからこそ」

ヘブル  2:18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

東北被災地救援終了にあたって、これまで出会った被災者の方々に挨拶をしたときのことです。そ一人のおじいちゃんに「これから奈良にいくんだっぺか」と聞かれました。何のことかと思いました。どうも台風豪雨被害にあった奈良に救援活動にいくと思われたみたいです。被災者の方々はよく「わたしよりももっと大変な人がいるから」と言われます。「うちは流された人が2人だから。5人6人は大変だぁ」とも。自分のこともですが、被災にあって苦しんだからこそ、隣にいるひとの苦しみがよくわかると言うのです。現場にいなければわかないことがたくさんありました。救援活動の原点は現場に共にいることだと思います。

ヘブル書における「試練を受けている人たち」とは、ローマ帝国によって迫害されている人たちをさしています。しかし、迫害ゆえに信仰の疲れが生じ、信じることが出来ないというような内面的な試練の意味が強いと思われます。その試練さえも、イエス様の十字架の試練によれば取るに足らないと言います。イエス様が試練と苦しみに打ち勝たれたからこそ、苦しみ悩む者を助けることが出来る。苦しむ悩む者の試練をよくわかっていてくださるというのです。

奥様を先に天に送られ本当に心を痛めておられる方がいました。生前に奥様が描かれた油絵のすべてを亡くなってのち額に入れ、お部屋の中に飾っておられました。それだけでなく、遺骨をいつも腰のウエストポーチに入れいつもつけておられました。いつも共にあるのだということ、いつも共に礼拝しているのだという信仰だったのでしょう。 前夜式では1ヨハネ4章をお読みしました。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神からでるもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているのです」と。

イエス様は十字架という試練を体験されました。そこでイエス様みずから苦しまれた。そしてそれをのりこえて復活されたのです。痛み苦しみと共におられるのです。その体験によって私たちを苦しみから救い出してくださるのです。試練を共に体験したものが、より深くそれを思うことができる。そこに愛があると思います。

 

2019年8月27日火曜日

「答えは一つではない」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「答えは一つではない」
 
 2年ぶりで、香港・マカオへいってきました。香港はこの2年の間に、中国へ返還されたり、新しい国際空港ができたり(まだ工事中ですが、できればものすごく大きい空港となるでしょう)と変化がありました。また、マカオは来年の12月20日にポルトガルから中国へ返還されることが決まっている国でもあります。しかしながら、ビル乱立というか変化の大きさに戸惑いを感じました。
 
 今回の旅の目的は、「神様のクレヨン2」の出版報告をかねたものでした。感謝すべきことに、神様のクレヨンを通してたくさんの方々と出会わせていただきました。今回の集会に集った方々も、ポルトガル国籍の中国人、マカオ在住の日本人、ブラジル・フィリピン・韓国・アメリカ・日本の女子パウロ会のシスター達、旅行中の方々と様々でした。その中でもいつも熱心に読んでくださっているのは、マリアさんでした。この方は日本人を夫にもつ、ポルトガル国籍の中国人です。彼女が話せる言葉は、広東語、上海・北京語、英語、ポルトガル語、日本語、イタリア語というから語学の天才でした。
 
 さて、マリアさんの「神様のクレヨン2」の感想は、「『かもしれない』という言葉が多くつかってありますね」とうものでした。あまり意識してなかったのですが、そういえば「かもしれません」という言い方多くしています。断定的にものを書いているのではなく、譲歩しているように読みとれたのかもしれません。マリアさんは続けて「でもいいんじゃない。答えは一つではないからね」と言ってくれました。
 
 「答えは一つではない」という言葉を、マリアさんの生きている状況の中から聞き取ろうと必死になって帰ってきました。神様の答えも一つではないものですよね。

2019年8月26日月曜日

「思い悩むと」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「思い悩むと」

マタイ 6:34 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。

禅の話に次のようなものがあります。「池で自分の母と妻が溺れていたら、どちらから先に助けるべきか」という話です。自分ならどうするだろうと思いました。その行動によって「愛」「思い」が表にでてくるような。思い悩んでいるうちに2人とも溺れてしまいそうですが。禅僧の答えは簡単なものでした。「自分に近い方から助ける」です。これは「空」ということのたとえだと思いますが、母か妻か、どちらが大切か、あとでどうなるとか思い悩む必要はないということでしょう。目のまえの出来事に素直に生きていくことです。

イエス様が山上で説教された言葉のひとつです。この34節には「思い悩む」と言う言葉が2回でてきます。聖書で同じ言葉が2回でてくるときは強調を表します。6章の最後にこの節があることを考えると、神様への信頼によって思い悩むことから解放されなさいということでしょう。しかも、明日のことまでもと言われていますから、目の前にある今日を大切にしなさいということです。

ある会合で、90歳の会社社長さんのお話しがあり、テーマは「年金なんかもらわないほうが長生きできる」というものでした。というのも、人間はやることがなくなれば早死にするといわれるのです。お友達の例をとって、「ここ数年、現役で仕事をしたり、大学教授をしていた友達が、家族から『もう歳だから仕事はやめて年金生活でゆっくりしなさい』と、仕事を辞めさせられた。すると3ヶ月もしないうちにみんな死んでしまった」と笑いながら話されるのです。人は生きるために、自分が必要とされていることが大切だと力説しておられました。「今日やることがある」「自分が今日も必要とされている」という人生は、人を生かしていく。ということでしょうか。

今日をしっかり生きることが明日へつながります。今日の命を感謝して、神様へ信頼することです。明日のことは明日自らが思い悩むことですから、それは神様におまかせして、明日の問題とすることでしょう。与えられた今日、いま目の前にある働き、招き、使命に素直にとりくんでまいりましょう。

2019年8月25日日曜日

阿久根教会聖書台復活

初代宣教師ウエンツ先生が使用していた聖書台!
信徒の手て復活です。塗装やら車をつけたり。
さらにアメリカLCR復活教会から新しい聖書が贈られました。
感謝!ますます聖なる空間になっていく教会です。

2019年8月24日土曜日

礼拝へどうぞ

明日はTV礼拝です。
説教者:立野泰博牧師(大江教会)
お待ちしています。

2019年8月22日木曜日

「大海の一滴」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「大海の一滴」
 
 全国を飛び回ったり、伝道セミナーを開いたりしていますとよく聞く言葉があります。それは「今の社会の中では何をやっても同じ」「やってもやっても実りがない」「教会は無駄なことばっかりしている」などなど。確かにそうだなと思いますし、無駄と思うことは止めようと思った時もありました。それでも、なんとかやってこれたのは、次のようなマザー・テレサのことばに出会ったからです。
 
 「わたしがしてきたことは大海の一滴に過ぎません。けれども、もしそのひとしずくがなかったら、今、海の水は、その分少ないわけです。みなさんご自身や家庭、そして通っている教会についても同じ事がいえます。とにかく一歩一歩進んでいくことです」。
 
 マザー・テレサの言葉の重みと、そのユーモアに畏敬の念を覚えました。大海の一滴だけれど、それがなければ海の水はその分少ない。これはなんという素晴らしい言葉だろうと思います。ちっぽけな私の存在も、神様の目からみたら同じではないでしょうか。大海の一滴だけれど、しかし大切な一滴としての私がここにいるのです。神様の目というのはそのような見方をなさるのです。心から感謝したいと思います。
 
 広島教会の宣教も、実は大海の一滴にすぎないかもしれません。たぶんそうでしょう。この世の中ではほんの小さな滴かもしれません。しかし、そのちいさな滴でも無くなってしまえばそのぶん、神様の働きは少なくなるのです。私たちは神様の働きのい最先端をになっているということを覚え、感謝したいと思います。
 
 一歩一歩進んでいきましょう。急激な変化はないかもしれませんが、確実に成長している教会の群れでありたいと願っています。

2019年8月21日水曜日

「指」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「指」

ルカ 1:76 主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。

テレビの取材をうけました。テーマは「なぜ男性は結婚指輪をはずしてしまうのか」というものでした。そこで「結婚指輪とは本来何か、どうして左手の薬指か?」という取材でした。あらためて聞かれるとはっきりと知っているわけでないので、困ってしまいました。通説では心臓に一番近い指だからとありますが、何の根拠もないのです。指輪を与えるということはすでに旧約聖書・創世記41章42節にでてきます。エジプトの王ファラオがヨセフに指輪を渡しています。これは「あなたが私の財産のすべてを管理しなさい」ということでした。それがローマ帝国のころは自分の奴隷たちに指輪をさせ、自分の財産のしるし、自分に仕えるしるしとなったのです。お互いにはめるのは、互いに仕えあうというところからきてるのでしょうか。それが発展して結婚指輪・契約のしるしとなったとのことです。

ルカによる福音書の1章には預言と呼ばれるものが記されています。本日の箇所は「ザカリアの預言」とよばれるものです。ザカリアとはバプテスマのヨハネのお父さんにあたります。この預言の前半はイスラエルのエジプトからの解放と、その後のメシアによる民の救いという内容です。後半はこれに加え、バプテスマのヨハネの姿を指示しています。このヨハネこそ「指」です。

 バプテスマのヨハネといっても、あまり馴染みはありません。悔い改めの季節にあらわれる人と言えば、このヨハネ以外はありませんが。クリスマス前のアドベントの季節、そして受難の季節。この季節に共通することは「悔い改め」です。さて、バプテスマのヨハネの役割は何でしょうか。私にとっては『指』のような存在です。バプテスマのヨハネはつねに指差しているのです。その指を追ってみるとそこにはイエス様がおられるのです。バプテスマのヨハネがのべ伝える悔い改めをとおしてイエス様をみることが大切だといえます。

バプテスマのヨハネの悔い改めは、私達に罪の赦しによる救いを教えます。そのこと自体がイエスの十字架のできごとです。バプテスマのヨハネによって示された悔い改めをもう一度心に留めてみたいものです。

2019年8月20日火曜日

「宣教タイプもいろいろ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「宣教タイプもいろいろ」
 
 教区青年大会の準備で京都教会へ行ったときのことでした。京都教会の場所は鴨川の近くにあり、少し時間があったので、その土手を散歩してみました。とても気持ちよくなって川面をながめていると2羽の白鷺を見つけました。ところがその白鷺の対照的だったこと。何が対照的だったかといえば、その餌の取り方にありました。多分小魚を食べているのでしょうが、2羽はまったく別の行動をとっていたのです。そこに宣教の視点をみた思いでした。
 
 1羽の方は、ただじっと立っているだけでした。微動だにせず、何十分でも立ち続けていました。ところがもう1羽は、それはもうせわしく動き回っていました。あっちこっちをつつき回り、派手に動いていたのです。さてどちらが魚をたくさん取ったでしょうか。どうみても同じようでした。2羽はそれからも1羽は立ったまま、1羽は動き回っているだけでした。
 
 牧師の宣教タイプも同じかなと思いました。ひたすら礼拝を守ることに中心において宣教する静止タイプ。いろいろとイベントをやって、動き回る活動タイプ。しかし、どちらも御言葉を伝えるということにおいては同じだと言えます。どうも、私などはイベントタイプのようです。いろいろと企画して、当日が近づいてくると「もうやめよう」と思うのですが、終わってしまうと「次は何をしようか」と考えてしまうのです。だいたい私のようなタイプはフォローアップが苦手だということを知っています。
 
 これからも、ご意見を頂きながら宣教を進めていきたいと思います。また、フォローアップのほうは皆さんでよろしく・・・。と勝手なことを考えています。

2019年8月19日月曜日

「信仰の扉を開く」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「信仰の扉を開く」

 黙示録  3:7 聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない。

 何か新しいことをする時、大江教会の一部からいつも同じ言葉が聞こえてきます。「説明してください」と。説明することは大切だと思って、丁寧に説明してきました。しかし、何回説明してもそれが理解していただけないということに気がつきました。そこで「説明してください」の意味が違うのだと思いました。それを理解したいと言われているのでなく、自分の知らないところでなされることに抵抗があり、すべてが受け入れられないのでしょう。ということは何度説明しても同じだなと思うようになりました。本当に聞きたい言葉は「説明しろ」ではなく「一緒にやりたいので教えてください」かなと思います。

 ヨハネの黙示録には7つの教会にあてた手紙が書かれてあります。エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラディルフィア、そしてラオディキアの教会宛です。その中でもフィラディルフィアの教会は高い評価をうけています。最終的に救いに至る道が既に開かれており、恵みの根拠としてキリストの言葉に心を開き、信仰に堅く立っているからです。

 ビジネス本にあった言葉です。「誰も説得によって人を変えることはできない。すべての人は堅くガードされた心の変化の扉を持っており、その扉は自分で中からしか開けられない。説得や感情に訴えることによっても、その扉を他人が外から開くことはできない」。人の持っている心の変化の扉とはいったい何だろうと思います。それは自分中心の見方でしかないと言えます。自分を開くのは自分しかないという言葉が当たり前のようで、一番できないことだと私たちは知っているのではないでしょうか。

 ダビデの鍵を持つ方とは、イエス・キリストのことです。イエス様のみ言葉を受け入れるときに自分の扉を自分で開けることができるようになります。自分中心からキリスト中心へと変わることが大切なことです。しかも信仰によって開かれた扉は、誰も閉じる事が出来ません。また不信仰によって閉じた扉は人では開くことができなくなります。神様が閉じられるからです。

2019年8月18日日曜日

きままな休日・Caféで健康ソーメン

鹿児島教会の礼拝後にCaféでそーめん
具がたくさんあって、素晴らしい。
塩分、糖分調整の健康ソーメンです。感謝!

2019年8月17日土曜日

明日は礼拝ですよ

明日は礼拝です。
説教者:立野泰博牧師(主任牧師)
お待ちしています。

2019年8月16日金曜日

鹿児島教会のyouthCafé

一度覗いてみませんか?
鹿児島市荒田のルーテル教会カフェです。

2019年8月15日木曜日

「再編と再生」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「再編と再生」
 
 西教区の「宣教4ヶ年計画」の素案つくりのために。福山・鞆の浦の国民宿舎「仙酔島」へ行ってきました。なかなか素晴らしいところでした。
 
 今回この計画をまかされたのは、教区の中でも若手牧師を中心とする「宣教研究チーム」のメンバーです。若手って誰かといえば、松岡牧師、松本牧師、三浦牧師と私の4名です。なかなか面白いメンバーだと思いますが・・・。
 
 さて、第1回の会合のために場所探しから始めました。「じっくりとことん」話し合える場所がほしかったのです。そのために用意されたのが鞆の浦・仙酔島でした。なぜか・・実はここは離島になっています。午後10時になると船がなくなってしまいます。しかし、「何のために生きているのか気づかせてくれる島」というコンセプトで、新しくオープンした民間委託の国民宿舎なのです。しかも、目の前は海。ですから自然を感じていただくために、部屋にはテレビがありません。料理は最高。温泉も最高というところです。ということで、私たち4名は朝から晩まで、模造紙を広げてとことん話し合うことができました。島から出れないし、遊ぶ場所もない。雨が降っているので外へは出られず。こんなもってこいの環境でした。しかも、波の音がすばらしく感動しました。なんと寝るときにたえず波の音が聞こえてくるのです。こんなにリラックスして眠れたのは久しぶりでした。
 
 さて、とことん話し合った結果でてきたテーマは、「再編と再生」というものでした。西教区のこれからは、教会の再編をどこまでできるか、そして再生させていけるかだと思います。具体的にはこれからのこととなりますが、やっぱり決断を誰がするかかなと思います。

2019年8月14日水曜日

「天の星のように」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「天の星のように」

出エジプト  32:1 あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」

心の片隅に覚えていた小さな詩があります。絵本の中の言葉だったと思いますが、あるカトリックの神父さんの本で紹介されていました。小さな子どもの言葉をそのまま書き記した口語詩のひとつです。

    おほしさんが

    ひとつでた

    おとうちゃんが

    かえってくるで

 夕暮れに小さな子どもが空を見上げると、光り輝く金星がひとつあった。その星をみた子どもの心に映ったのは、世界でたった一人のお父さんが帰ってくる姿。なんだか暖かく、家族ってこんなものだなと感動しながら読みました。「かえってくる」ではなく「かえってくるで」という、この「で」に、子どもの気持ちが表れている。この「で」を読んだとき、そうだ!と思いました。星を見ながら人は様々な思いを持つのです。

 出エジプト記の中で神様は、イスラエルの民のかたくなさに激しく怒り、民を滅ぼそうとなさいました。それに対してモーセは、切々たる執り成しの祈りをしました。そこで神様は民に下そうとされた審判を思いとどめられたのです。その切実な祈りが今日のみ言葉です。

 昨日礼拝後に釧路のことで話が盛り上がりました。その時に帯広教会(帯広・池田・釧路)の信徒修養会に招かれて、屈斜路湖のペンション「ぱぴりお」にいった時のことを思い出しました。ここは信徒の方がやっておられるペンションで、素晴らしい露天風呂もあり自然を満喫してきました。ヨシュア記を学び、就寝前にはテサロニケの信徒への手紙を輪読し、聖書のみ言葉を自然の中で聞くという恵み満ちあふれました。そして寝る前に屈斜路湖に。明かり一つない湖、上を見上げると満天の星。星の数が半端ではありませんでした。空全体が星だったのです。この夜空をアブラハムもみたのだと思いました。

 神様はアブラハムに「わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる」と約束されました。それは、「私を神とし、従う」ならと言われたのです。その約束のゆえに恵みがあたえられるのです。アブラハムが徹底的に神様に従った信仰を思いました。

2019年8月13日火曜日

「人のことを考えて」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「人のことを考えて」
 
 「もう少し、人のことを考えて行動しなさい」とは、子どもたちによく注意する言葉です。しかし、自分自身を振り返っても「隣人のことを考える」余裕がどれだけあるかなと思います。ましてや人のことを考えるとはどういうことでしょうか。
 
 土曜日の昼の出来事でした。この日は給食がないので、子どもたちといっしょに食事をしなければなりません。たまたま今回は結婚式もありお弁当を買ってくることになっていました。長女と次女の仕事です。二人でフジに出かけていきました。かなり時間がかかったので心配していると、「食事の用意ができた」と内線を受けました。家へ帰ってビックリしました。というのも面白い弁当がそこにあったからです。「野沢菜炊き込み寄せ集め弁当」と書いてありました。
 
 娘たち曰く「まずお弁当売場にいって、お父さんが好きなものは何か考えた。高菜が好きなので探したけれどなかった。次にお父さんが好きな物は何か考えて二人でだしあった。するとこの弁当が一番好きな物が多くはいっとった」とのこと。なんだか嬉しくなりました。野沢菜と高菜は違うと二人で話し合ったけれど、きちんと話せばわかると思ったそうです。しかも、熱いカップ味噌汁つきでした。
 
 「もう少し、人のことを考えて行動しなさい」とはいいますが、自然とで来ているものだと思います。つねに家族の祈りの中で「仕えるものにしてください」と祈ってきました。それを神様が聞き届けてくださっているのだと思います。
 
 もしかすると、「もう少し、神様のことを考えて行動しなさい」ということと、隣人のことを考えることは同じかもしれないなあとふと思いました。
 

2019年8月12日月曜日

「応答」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「応答」

ヨハネ1423 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住。

2週間分の週報を作ってみますと、先のことはわからないのだと思います。やっぱり先のことより今この時の恵みに、どのように応答していくかという信仰生活の大切さを感じています。「情報は生ものです」という言葉を耳にします。私たちにとっては「信仰は生ものです」かもしれません。つねに新しい命をもつ信仰が、イエスから私たちに与えられています。先のことはわからないけれど、このいまの信仰が先の事柄への平安を生み出していることに気がつきました。毎朝の神様と自分の応答の時間を大切にしたいと思います。それがこの朝礼拝でもあります。

 ユダという名前の弟子は、一人ではありません。有名なユダは「イスカリオテ」のユダ。このユダはイエス様を裏切ったユダです。本日のユダは別の人です。そのユダが質問しました。イエス様が弟子たちにはご自分が誰であるか示されるのに、人々には示されないのはなぜかということでした。啓示の問題です。これに対しイエス様は啓示とは一方的なものではく、人々を選択して与えられるものではなく、応答だと言われました。そこで愛の問題を語られています。簡単に言えば、愛というものは往復切符であり、愛されても応答し愛を返さない限り片思いになると言われるのです。つまり、人が神様を信じるという選択も、イエス様との応答の中でこそはっきり与えられるということです。

こども説教を作るときにいつも「応答」ということを考えます。「問」と「答え」を大切にしたいということです。多くのこども説教は「教える」ということにポイントがあります。しかし、イエス様のみ言葉は「教える」ことではなく「伝える」ことがポイントだとおもうのです。教えるなら一方的でいいが、伝えるにはそこで応答が必要です。

イエス様は「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」と言われました。イエス様を愛するという行為の応答はイエス様の言葉を守るということです。この応答が大切です。私たちはイエス様を愛するから、イエス様の言葉を守る。イエス様の言葉を守ることで信仰が豊かにされていきます。

2019年8月11日日曜日

きままな休日・焼き鳥でしょう

やっぱり夏は生ビールでしょう。
つまみは、、、焼き鳥でしょう!
この焼き鳥は最高に美味しかったです。

2019年8月10日土曜日

明日は礼拝です

明日は礼拝です。
説教者:吉谷正典牧師(引退教師)
お待ちしています。

2019年8月9日金曜日

タイ若竹寮支援

今年も無事に送金できました。
来年に向けて募金活動をしてまいります。

2019年8月8日木曜日

「居場所を与える」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「居場所を与える」
 
 昨日、久しぶりに「自由人クラブ」の例会に参加させていただきました。いろいろな業種の方々があつまる自由な会です。
 
 この例会は食事とスピーチがあり、今回は「小学生ドッチボール全国大会優勝」の金剛寺ファイターズ監督のお話しを聞きました。監督とはいっても、実は普通のおばちゃんだったのです。しかし、なかなか感動してしまいました。全国でも小さな体格のチームを率いて、全国優勝するまでの道のりや、子どもたちとのふれあいやなどを聞きながら、教育ってなんだろうと考えさせられたのです。
 
 印象に残った言葉は「努力なくして栄冠なし」「全国大会で初戦敗退のとき、女の監督では優勝できないから止めるといったとき、子どもたちが僕らはおばちゃんとやりたいんだと言ってくれた」「80の力しか出せないと思っていても、100出すことを叱咤激励する」「ドッチボールは攻めのスポーツだが、女の自分には攻めには限界がある。むしろ守りのチームをつくって守り抜く作戦を考えた。守ることは最大の攻撃です」などなど。
 
 一番印象深い言葉は、「子どもたちに居場所を与えてあげること。居場所があれば彼らはどんなことにでも耐えて努力する」というものでした。ここから、いろいろな話題へと発展していきました。
 
 居場所がある。これは本当に大切なことだと思います。自分の居場所はいったいどこに用意されているのか。神様はいったいどこに私の居場所をおいてくださっているのでしょうか。教会の中のあなたの居場所はどこでしょうか。

2019年8月7日水曜日

「自分のいいところ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「自分のいいところ」

 ヤコブ  2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。

 研修会で経営コンサルトの話をきいてきました。園内、職場環境をよくするということがテーマだったようです。話の中で「自分のいいところ探し」ということがありました。まず自分のいいところを20個書き出す。私もやってみましたが、これはとても難しいです。7個位はでてきますが・・。それでも多すぎでしょうか。次に家族の誰かをきめて、また20個書き出す。これも大変。次に共に働く仲間のいいところを20個。これも書けません。しかし、書けない原因のもとは、自分の20個がでてこないことにあります。自分に「いいところ」を探すことができなければ、人に「いいところ」を探すことはできません。

 聖書の言葉に「自分を愛するように、隣人を愛せよ」があります。これを読むとき、「隣人を愛せよ」はわかるのですが、「自分を愛する」ことが、自己愛やわがままにつながらないかな?と考えてしまいます。しかし、自分を本当に愛せない人は、神様の愛もわからず、隣人をどうやって愛していいかもわからないのかもしれません。

ある会で講演をしてきました。主催は「LCL」という会でした。代表の方は、叙情詩人の方で、県下に1500人以上の受講生がおられ、全国ではもっと多くの数になります。この会は氏が34歳の時に「満足して死を迎えるために」ということから始めた講座だったそうです。それから25年、現在では「充分満足に生きたものが、満足した死を迎えることができる」という考えのもと、いまの人生を充分に生きるということを考えておられました。その中で「心とからだ」がテーマになってきたということでした。その心の部分の講演を頼まれたのです。テーマは「私の幸福論」でした。参加者の方々の熱心さに心を打たれて帰ってきました。まったくキリスト教の素地がない方々へ、キリストを直接語らないで、キリストの愛をいただくことの幸福を話そうという試みだったからです。何が一番の幸福か、それはキリストが私を愛してくださっていることを知ること、そして、私もまた愛するものを持っていることだと思います。キリストに愛されているから、私も愛することができる。こんな幸せを伝えたかったのです。

 ヤコブは「隣人を自分のように愛しなさい」を実行しなさいと教えています。これは、神様がどれだけ自分のことを愛してくださっているか、その御心の大きさを知ることです。神様が愛してくださっている私自身を、自分も愛することが必要です。その愛を自分だけのものとせず、隣人へと向けていく。神様はたくさんのいいところを私に与えてくださっています。それを発見してみたいと思います。



2019年8月6日火曜日

「人生の話」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「人生の話」
 
  ある本でみつけた話です。
 
 「96年のことである。46日間漂流して奇跡的に助かった漁師がいる。沖縄の人である。当時67歳。軽い脱水状態だったが、生命には別状がなかった。
 
 取材記者に救出の模様を語っていた。しめくくりの言葉が凛として見事だった。
 
 『これからまた漁にでますか』二コリともせずに答えた。『わしは漁師だからね』と」。
 
 もうひとつ。
 
 「ある自転車愛好家がいる。といっても、並の愛好家ではない。南北アメリカ、欧州、アジア、アフリカ、オーストラリアの80ヶ国を走破した人である。走行距離は13万7千キロ。六年半かかったそうである。
 
 日本に無事帰ってきて、旅の感想を聞かれた。そのときのひとことが、私たちに勇気を与えてくれる。
 
 『自転車乗りは上り坂を目指すんです。坂道はきついが、頂上はかならずあるんです』と」。
 
 これら2つの話を読みながら、これはどちらも人生の話なのだと思いました。先週の長老祝福・感謝礼拝にお配りした、アンケートの一つ一つがまさによみがえってきたのです。主イエスと共に生きてこられた方々の証しを読みながら、すべてはあるがままの信仰が支えてきたのだと思いました。秋の夜長、さわやかな感動をふたたびいただいています。

2019年8月5日月曜日

「天国も秋」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「天国も秋」

エフェソ 24-5 憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです。

五、七、五のなかにすべてを集約させていく俳句。その俳句をつくってみようと考えましたが、やっぱりだめでした。どうしてもとってつけたような言葉になってしまうのです。素直に感じたままを言葉にするのは大変なことだと思います。まして愛を表現するのは大変なことです。日頃の生活の名kで、言葉を選ぶよりも、こころを伝える姿勢に変わりたいと思います。俳句とはこころを震動させて伝えることだとわかったのは、ひとりの小学生の句に出会ったときでした。

  天国も もう秋ですか おとうさん   塚原 彩 『ちいさな一茶たち』より。

何かこの句は、人を生かす力を持っています。死んでいた心に命をふきこむような。

パウロはエフェソの教会人々は、救われる以前の「死んでいた」状態であったと告げています。エフェソの人々の過ちに、罪が加わり、さらに多くの罪を重ねた生き方は、生きていながら死んでいる状態だというのです。そういう人間に対して神様は3つのことで、罪ある人間を救われたのです。「憐れみ」「愛」「恵み」です。この3つが、人間を絶望の状況から救いの状況へと逆転させたと述べています。パウロは「わたしたちをこの上なく愛してくださり」といいます。イエス様がわたしたちをこの上なく愛してくださったのです。その愛を中心に憐れみ、恵みがあります。

テレビで「心霊現象」の番組が最近多いことが話題になりました。私は小さい頃からそのような番組は観ないことにしています。きっと怖いからかもしれませんが、観たあとに必ず熱をだしてしまうのです。これも気分の問題でしょうが。さて、ご主人を先に天国に送られた方が「いまでも隣にいる感じがする時がある。昨日も夜中に目が覚めて、ハッと隣に主人を感じた」と言われました。すると、もう一人の方が「そうなのよ。台所で炊事をしていると、隣の部屋でお茶を飲んでいる主人を感じることがある」と。またまた別の方が「私もそんなときがあった。ふとテレビを観ていると、横で主人も観ているような感じがするときがある」と。けっして幽霊の話ではありません。愛する方の存在をいつも感じることがあるという話です。ともに生活してきた夫婦だからでしょうか、なにか守られているような特別な感じかもしれません。やっぱり守られている所に愛があるといえます。

パウロは「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり」と教えています。イエス様がわたしたちをこの上なく愛して下さっています。それが伝わってきます。しかもあるがままに、ストレートに伝わってきます。そのイエス様の愛によって生かされていることを感謝する1日にしていきましょう。

2019年8月4日日曜日

きままな休日・大地の恵みソーセージ


生ビールの季節ですね。
となるとソーセージですよね。
大地の恵みポークのソーセージは阿蘇の香りがする!
生ビールに会いますよ!

2019年8月3日土曜日

2019年8月2日金曜日

鹿児島教会(荒田)のyouthCaféにどうぞ!

ぜひ一度お越しくださいね!
お待ちしています!

鹿児島教会のカフェ情報

鹿児島教会Caféでは、より良いカフェになるように
定期的にミーティングを開いています。
夏も面白いイベント満載のようですよ。

2019年8月1日木曜日

「きっと伝わる」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「きっと伝わる」
 
 子どもっていうのは、本当に面白いものです。礼拝中に説教を聞いてないようでいて、実はちゃんと聞いているものです。しかし、その聞き方が問題です。
 
 先週の礼拝で、「悟りというのは、いつ死んでもいいという覚悟を決めることだ」と話しました。するとそれを聞いていた、三女・聖美は礼拝堂の扉からロビーにいる、めいちゃんに次のようにいったそうです。「めいちゃん。おとうちゃんはもう死んでもいいんだって」と。また続けて「おとうちゃん死ぬって」と。これにはまいってしまいました。が、まだその続きがありました。家に帰ってから、なにやらブロックで携帯電話を作っていました。出来上がると「もしもし神様ですか。おとうちゃんは死ぬそうです」と神様に電話をしていました。よほど、「死ぬ」という言葉が心に残ったのかもしれません。
 
 いつ死んでもいいという覚悟、これは十字架を背負って主イエスに従うことです。この十字架を背負って主イエスに従うということを、子どもたちにはどのように伝えればいいのでしょうか。信仰にあって死ぬということはどのように子どもたちに伝えられていくのでしょうか。きっと伝わると信じていますが、それはまさに生き方で伝えるしかないのでしょう。
 
 本日は長老感謝・祝福礼拝を持ちました。はじめての試みでした。アンケートに答えてくださった皆さんの言葉を通して、豊かな信仰を伝えておられることに感謝しています。家族5人で11時までかかって讃美歌集をつくりました。こうやって牧師の家族は信仰を伝えていくのだなあとフト思いました。感謝。