2018年12月31日月曜日

「主の山に備えあり」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「主の山に備えあり」

創世記 22:12 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。

2018年の最後の日を迎えました。今年も神様の導きと祝福のもとに守られて生きてきました。心から感謝いたします。いま1年を振り返ると、私にとっても移動の年でした。本教会の事務局長を辞して現場に戻りました。現場に戻るということで不安もありました。しかし、すべてのことに「主の山に備えあり」を確信した年でした。こころから感謝します。

毎年この日は恵みを数えることにしています。ある青年から教えていただいたことです。その青年は毎年大晦日に「大きな恵み3つ、小さな恵みを3つ数えている」というのです。それを教えてもらってから続けています。神様からの大きな恵みと小さな恵みを同時に数えることの不思議さを感じます。すべての恵みを確信することもできます。恵みを数えてみると、すべてに神様の備えがすでにあったと教えられました。やはり主の山に備えありです。

アブラハムは「その場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた」とあります。確かに主は備えてくださるのです。この神様に新しい年も従ってまいりましょう。必ず主の山には備えがあります。それを信じて新しい歩みを始めましょう。今年1年の全てに感謝します。新しい年も神様の祝福がありますように。

2018年12月30日日曜日

気まま休日・限定バーガー

今年最後の日曜日!
なんとサブウエィの限定バーガーをいただきました。
なんでも中のハンバーグがすごい和牛だとか????
う~ん味はねえ~美味しかったとしか言えないです。ははは

2018年12月29日土曜日

2018年最終礼拝に感謝

2018年最終礼拝です。
今年もありがとうございました。
最後も礼拝で終わりましょう!
説教:立野泰博牧師

2018年12月28日金曜日

クリスマスおめでとうございます!

今年もクリスマスを迎えました。
感謝です。さらに新しい年にきぼうを!

2018年12月27日木曜日

「自然の力をみた」

クレヨン牧師のミニエッセイ
「自然の力をみた」
 
 先週はいろいろなことがあった1週間でした。まとめてみると、自然の力を見せつけられた週だったように思います。
 
 まずは、地震。けっこう揺れを感じました。そして6月の台風。6月に台風がくることは珍しく、しかも2つもやってきました。名古屋地区の「みのり教会」では屋根が吹き飛ばされたそうです。神様の平安を祈ります。
 
 さて、私たちの教会は「地震にしても台風がやってきてもビクともしませんでした」と感謝していましたら、思いがけない自然の力を見せつけられました。それは、教会にある鉢植えの樅(もみ)の木が突然枯れはじめたのです。せっかく新芽が出て、その生命力を喜んでいましたが、その新芽がほとんど緑のまま枯れ落ちてしまいした。原因は水不足だったのです。いまの季節はたっぷり水をやらねばいけなかったそうです。
 
 自然の力は計り知れないものがあります。それと同時にその「もろさ」も教えてくれるのです。神様がお造りになったこの自然の前に、私たちは畏敬をもって立つ事なしには生きていけません。
 
 枯れはじめた樅の木ですが、まだこれからがあります。いまならまだ間に合う、きっと命の再生という神様の御力をみせてくれるはずです。

2018年12月26日水曜日

「思慮深く語る」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「思慮深く語る」

箴言 12:18 軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。

「一言の重み」という言葉を聞いたことがあります。人はその一言で傷つき、一言で癒されるといいます。それがどんな言葉かはその人の状況や感情によって違います。「ありがとう」で救われたり、「ばか」で傷ついたりします。その人は何気なく言葉を発しているのかもしれませんが、届いたときにそれはまったく別の言葉として届くこともあるのです。だとすると、言葉は軽率にだすのでなく、思慮深くださねばなりません。その思慮深さとは、相手を考えることです。

箴言1216節以下は、自分が賢いものと思っている愚者と、本当の賢者とはどのような人かを対象にして語られています。愚者の特徴はなにか。それは自分の「いらだち」や「不機嫌」をそのままストレートに出す者と言われます。賢者は思慮深く、しっかり考えて行動し、言葉を語るというのです。

クルマの免許取り立てのときは、なにかと冷や汗がでてきます。とくに車庫入れなどは、のろのろやっていたのでは後車から、プップップ-と怒られてしまいます。先日あるファミリ-レストランの駐車場での出来事です。ランチをとりながら外を眺めていたところ、若葉マ-クの御年輩の女性がやってきました。さあ大変です。どうなることかと見守っていますと、すぐに車庫入れが終ってしまったのです。そのご女性が上手だったのかというとそうでもありません。実は誘導係のおじさんの慣れた誘導と、その言葉がすぐに終らせたのです。「うまいですよ。そのちょうし。OK、OK。ばっちりです」とニコニコ。おまけに終ったときには大拍手。車の中では万歳をしておられました。私まで拍手をしてしまいました。神様はいつもそうなんだと思います。「それでいいよ。それでいいよ。問題ない。問題ない」と。

箴言は「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す」と教えています。軽率と知恵の違いはどこにあるのでしょうか。軽率と言う場合は、相手のことなどまったく構わないで口にだしてしまうということです。言葉の一つ一つに心をこめ、愛情をこめ、気持をこめるならば、それはきっと人を癒す言葉になることでしょう。知恵ある人は思慮深い人だと思います。

2018年12月25日火曜日

「いつでもオープン」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「いつでもオープン」
 
 毎朝の日課として、まず起きるとすぐ教会の扉を開けにいきます。その後、礼拝堂にて記念日ノートを眺めます。今日の日はどんな日なのか、誰の記念日なのかを知り祈るためです。毎朝のことですが、この教会が果たしてきた役割の大きさを実感するときでもあります。そしてやっと朝食となるのです。
 
 教会の扉を開けておくと、いろいろなことに出会います。また、ある時は迷い込んでくるものもあります。先週の日曜日にはスズメが舞い込んでいたそうです。一度教会の玄関に入ってしまうと、出ることが難しいのでしょう。礼拝堂に入ったらなお大変だと思います。しかし、スズメはガラスにぶつかってしまったのか、気絶したようにぐったりしていたそうです。それからどうなったのか・・・。実は、傘立てのところに小さくうづくまっていたのを見つけました。「だいじょうぶだよ、元気だして」と声をかけると、チュンと挨拶して青い空に飛び出していきました。なんだか聖フランチェスコになった気分でした。
 
 教会の扉を開けておくというのは、神様との出会いを体験することでもあります。ロシアから来られていたナタリアさんは、毎日私の知らないうちに教会にきて祈られたといいます。帰国される前に「広島教会はいつでもオープンでした。私の信仰を支えてくださって感謝です」と言葉を残されました。神様はいつでもオープンだから、広島教会もいつでもオープンです。 

2018年12月24日月曜日

「つながってここにいる」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「つながってここにいる」

ヨハネ15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。

 ある会議の合間に、幼稚園の園長もしておられる牧師が教えてくださいました。「今日は幼稚園で一日を過ごしました。そこでお誕生日会があり、私はずっと一人の3歳児の手を握っていました。自閉症で多動なのだけど、手をつないでいるとおとなしくして会に参加できるのですよ」と。素敵な話だなと聞いていました。手をつないでいることで、子どもと牧師の間にどんなことがおこっているのでしょうか。「ここに一緒にいようね。ここにいてもいいよ。いることを確かめようね」という会話が聞こえてきました。 ここに共にいてつながっていようね。イエス様もここにおられるよというメッセージが手をつなぐことで伝わっているのだと思います。

ヨハネによる福音書には、「イエス様の決別説教」があります。十字架を目前にして弟子たちにどうしても言い残さなければならない遺言のような説教です。今日のみ言葉はその中でも有名なものです。イエス様は「わたしにつながっていなさい」と言われました。イエス様につながることが信仰の本質です。人につながるのではありません。そのあと「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」といわれています。何か成果を出せといわれているわけでなく、つながっていることで実を結ぶといわれたのです。ですからイエス様にまず「つながる」ことが大切です。「つながる」ことで実るものがあります。それはきっと素晴らしいものです。

 世の中には相乗効果といわれるものがあります。その相乗効果という話題で、アメリカでのドイツ車大流行の話をききました。新聞・ニュースでは日本車の売上が伸びているのは事実ですが、ここにきてドイツ車に人気が集まっているというのです。その理由は、新しいタイプのフォルクスワーゲンが発売されたのです。むかし「かぶと虫」と言われていたあの車です。このデザインがかわいいので、みんなが競ってドイツ車の販売店におしかけたのです。しかし、売り切れ。しかたなく他の車でも見て帰ろうか・・が、ほうドイツ車って良いじゃんとなり、他のドイツ車がどんどん売れているのだそうです。宣教の方法もこの相乗効果を考えました。教会へつながるということは、キリストにつながるということです。そのために教会の中にはいっていただけることを考えています。

 私たちはここに「いる」存在です。それは一人ではなく、ここで信仰の交わりをもつ方々と共に「いる」存在です。そしてイエス様とつながってここにいる存在です。そんな私たちですから、誰もかけてはなりません。イエス様につながっていることで一つに「いる」ことを思い、神様の業の実を結んでいきましょう。

2018年12月23日日曜日

きままな休日・横浜中華街のワンタン麺

横浜中華街でワンタンメンをご馳走になりました。
本場の香港で食べた味と同じでした。
海老のプリプリ感が最高でした!

2018年12月22日土曜日

明日はクリスマス礼拝です。

明日の礼拝は
クリスマス主日の礼拝となります。
説教者:吉谷正典牧師(引退教師)
ぜひ礼拝にお越しください。

2018年12月21日金曜日

クリスマスイブTV中継礼拝

今年も大江教会とのTV中継礼拝!
パイプオルガンの音色に癒されてみませんか。
12月24日(月)19:00~です。

2018年12月20日木曜日

「ブロークンでOK」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ブロークンでOK
 
 やっぱり今年も異常気象のようです。毎年のように聞くこの言葉にもなれてきました。しかし、よくよく考えると大変なことが世界に起こりつつあるようですが。
 
異常気象のためでもないのでしょうが、谷の百合幼稚園の月下美人は、5つの蕾が順番に咲いたのはいいが、それが2日も咲き続けているそうです。皆さんも御存知のように、月下美人は夜中に2~3時間しか咲きません。それがなんと2日も咲き続けているのです。広島植物園に問い合わせてみても「前例がない」とのことです。やっぱり異常気象なのでしょうか。
 
 昨日、ロシアから来ておられる、ナタリア姉を囲むひとときが与えられました。
 
ロシア語がわかればいいのですが、共通する言葉は英語しかありませんでした。ナタリアさんは上手ですが、私たちはブロークンでした。みんなでブロークンですまないと言い合っていたとき、一人の姉妹が「みなアメリカ人ではないから大丈夫よ」といわれ大笑いしました。しかし、その一言が会話をスムーズにしていったのも事実です。まあ、みな楽天的だったということです。
 
 違う国の人々が、また違う国の言語をつかって会話することじたい、異常な光景かもしれません。しかし、神さまが下さった恵の時の中で、充分楽しみ、交わりがもてました。ブロークンでもけっこう。神さまがなんとかして下さるものです。

2018年12月19日水曜日

「共にいることの介入」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「共にいることの介入」

マタイ 1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

ある時、総会資料の牧師報告を読まれた一人の姉妹がすぐに電話をくださいました。「先生のお考えがあったら失礼ですが、イエス様の御言葉に間違いがあると思います」と。さっそく読んでみて冷や汗がでました。たしかに間違っていました。「悔い改めて、福音を信じない」と印刷されているではありませんか。自分では「悔い改めて福音を信じなさい」と書いたつもりでした。「さ」が入るのと、入らないのとでは全く意味が違います。最近こういったキーの打ち間違えの多さに自分でも困っています。この前は「教会総会」を「教会疎開」としてしまいました。一字の違い、一言の違いと簡単にすめばいいのですが、そうはいかないこともあります。「何が食べたいですか?」と言われたとき、「ラーメンでいいです」という返事と、「ラーメンがいいです」という返事ではかなり違います。「何でもいいです」というのが一番困りますが。 イエス様は「聖書の一点、一画もくずされることはない」と言われています。神様の御言葉はたった点のひとつでも大切な言葉です。おろそかにできません。そのような御言葉を私たちも頂いています。

本日与えられている聖書のみ言葉、イエス様の系図です。はじめて聖書を読む人の前に立ちはだかるのがこのマタイによる福音書「系図」です。新約聖書は「マタイによる福音書」からはじまるので、多くの人はここに戸惑いをもちます。ただし、この系図もよく読むと、興味深いことに出会います。女性がマリアを入れて4名だけ出てくるとか、バテシバの名前はなく、「ウリヤの妻」となっているとか。神様のまえに罪を悔改めた人々の系図でもあります。どこを切っても神様が共におられるという系図になっています。

その中でも、本日の箇所はかなり面白いところです。クリスマスの出来事が書いてあるのですが、どうみても系図としてはなりたっていないのです。イエス様の系図となっていますが、もともとこれはマリアの夫ヨセフの系図です。イエス様はおとめマリアから生まれますので、つながりはあいません。ところが、いつのまにかそこに神様が介入され、イエス様がこの系図に入ったことになっています。「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアから」を読むと、本当は「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このヨセフから」と書かねばならないところです。しかし、ここにクリスマスの出来事の意味が記されています。

クリスマスは、神様が人間の系図に「介入」された出来事です。私たちの救いのために、介入された出来事なのです。「ヨハネ3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神様の深い愛のゆえに、私たちの人生に介入される。共にいてくださるという介入なのです。今週もクリスマスの意味を考えながら、過ごしてまいりましょう。

2018年12月18日火曜日

「信仰の乳離れ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「信仰の乳離れ」
 
 三女も2歳になりました。そろそろ乳離れの時期かなと思いますが、こればっかりは自分から離れていくとは思えません。彼女の人生の喜びは「オッパイ」につきるとでも言いたくなります。
 
 さて、この「乳離れ」というのは自立と関係があるのでしょうか。私は育児の専門家ではないので、ちょっと考えてみました。そこでといっては何ですが、動物にも乳離れがあるのかと調べてみました。動物たちの乳離れは、次ぎの子どもが生まれるとか、親がナワバリから子どもを追い出すとかといった必要から起きるとありました。ですから、子どもが哀願してもかなり邪険に突っぱねてしまうそうです。なにせ親も生きていかねばなりませんので。しかし、そうはいっても子どもたちはもしお乳がまだ飲めるチャンスがあれば、その機会を見逃すようなことはありません。そこに年齢はないそうです。キリンなどはすでに自分でも授乳しているものまで母親の乳を飲んでるそうです・・・。そこで、動物園の最長記録はというと、ナマケグマとマレーグマの混血のオスだったそうです。彼はなんと10年間の全生涯に渡って母親のオッパイを飲みつづけたそうです。
 
 信仰には乳離れがあるでしょうか。自立した信仰という言葉をききますが、自立したからといって絆がなくなることはありません。神様と私たちは、神様から自立する存在ではなく、むしろ乳離れかなと思いました。


2018年12月17日月曜日

「思慮深く語る」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「思慮深く語る」

箴言 12:18 軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す。

「一言の重み」という言葉を聞いたことがあります。人はその一言で傷つき、一言で癒されるといいます。それがどんな言葉かはその人の状況や感情によって違います。「ありがとう」で救われたり、「ばか」で傷ついたりします。その人は何気なく言葉を発しているのかもしれませんが、届いたときにそれはまったく別の言葉として届くこともあるのです。だとすると、言葉は軽率にだすのでなく、思慮深くださねばなりません。その思慮深さとは、相手を考えることです。

箴言1216節以下は、自分が賢いものと思っている愚者と、本当の賢者とはどのような人かを対象にして語られています。愚者の特徴はなにか。それは自分の「いらだち」や「不機嫌」をそのままストレートに出す者と言われます。賢者は思慮深く、しっかり考えて行動し、言葉を語るというのです。

クルマの免許取り立てのときは、なにかと冷や汗がでてきます。とくに車庫入れなどは、のろのろやっていたのでは後車から、プップップ-と怒られてしまいます。先日あるファミリ-レストランの駐車場での出来事です。ランチをとりながら外を眺めていたところ、若葉マ-クの御年輩の女性がやってきました。さあ大変です。どうなることかと見守っていますと、すぐに車庫入れが終ってしまったのです。そのご女性が上手だったのかというとそうでもありません。実は誘導係のおじさんの慣れた誘導と、その言葉がすぐに終らせたのです。「うまいですよ。そのちょうし。OK、OK。ばっちりです」とニコニコ。おまけに終ったときには大拍手。車の中では万歳をしておられました。私まで拍手をしてしまいました。神様はいつもそうなんだと思います。「それでいいよ。それでいいよ。問題ない。問題ない」と。

箴言は「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す」と教えています。軽率と知恵の違いはどこにあるのでしょうか。軽率と言う場合は、相手のことなどまったく構わないで口にだしてしまうということです。言葉の一つ一つに心をこめ、愛情をこめ、気持をこめるならば、それはきっと人を癒す言葉になることでしょう。知恵ある人は思慮深い人だと思います。

2018年12月15日土曜日

明日は礼拝です

説教者:中村朝美牧師(宮崎教会)
南九州地域の講壇交換です。

きままな休日・中国東北地方の鍋


熊本にある中国東北地方から来ておられる方のお店の鍋料理。
   普通は味も優しいのですが、皆さんが食べている辛さで食べたいとお願いしました。
   すると鍋の中は真っ赤に。水餃子を入れてみました。辛い辛い!でも体はポッカポカ。
   とても美味しくいただきました。

2018年12月14日金曜日

クリスマスイブ礼拝

今年も大江教会とTV中継のイブ礼拝となります。
ぜひお越しください。

2018年12月13日木曜日

「緑が元気に」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「緑が元気に」
 
 牧師室にも「緑」が欲しい・・・というわけでポトスを買ってきました。なぜポトスかといえば、これだったら自分でもなんとかなりそうだったからです。やっぱり自然の緑はいいなあと思います。
 
 ところが、部屋の中の薄暗いところではかわいそうな気がしてきました。あまり強い日光にあてるはいけないかも。しかし、草花も自然の風を感じたいだろなあ、と思ったのです。先週の新聞には「ポトスも雨にあたると喜ぶ。雨が降ったら外にだしてあげましょう」と書いてありました。草花が喜ぶだろうかと考えてしまいました。
 
 教会にも新しい植物が2つ増えました。ある方のご厚意でいただいたものです。しかし、いただいたときには、元気がありませんでした。鉢が小さすぎて窮屈そうだったのです。さっそく鉢を変え、枝を「せんてい」し(といっても花屋さんがしてくださった)水をたっぷりとあげました。ついでに外に出してあげました。するとどうでしょうか。みるみる元気になりました。草花の喜びと感謝がつたわってくるような感じです。
 
 主イエスは「実のならないたとえ」の中で、「木のまわりを掘って、肥やしをやってみます」といわれました。ちゃんと時に適ったことを私たちにもしてくださいます。すべては、私たちが実をつけるために。

2018年12月12日水曜日

「正しい行動をとる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「正しい行動をとる」

箴言 11:5 無垢な人の慈善は、彼の道をまっすぐにする。

ここ数年のタイガーマスク現象(「第1号」はクリスマスの朝、群馬県中央児童相談所(前橋市)に届いた。玄関前に、包装紙にくるまれたランドセル10個(計30万円相当)が積まれていた。「伊達直人」という差出人名を聞き、「タイガーマスクでは」と気づいた。それが全国にひろがった)をうけて、精神科医はネットニュースの中で次のようにコメントをしていました。「児童虐待などで子どもに同情している人や、誰かを喜ばせたいと思う人が多いのだろう。素直に行動に移せなかった人がヒーローの名を借り、行動に移せたのかもしれない。ただ、物を置いていくのは一方的。『できることはありますか』と声に出し、自ら動くことで感謝されればより大きな喜びは得られる」と。この現象、人と人が双方向にかかわる動きに発展するかとニュースは問いかけていました。

箴言11章の3節から6節までは「慈善」をテーマに語られます。その「慈善」といっしょに何度も出てくる言葉は「まっすぐ」というものです。聖書では「正しい人」と訳されていますが、これも「まっすぐにする」という言葉です。正しい人は共同体の期待に応えて正しい行動をとる者であり、誠実にそれを実行するのです。共同体の期待に応えることに慈善の意味があります。

ある仮設住宅で「おすそわけプロジェクト」を行いました。「ルーテルおすそわけ」が口コミで広がっていました。第1回目のときは20名位の被災者の方がこられたのですが、ある時7は開始1時間以上前にすでに200名の方が待っておられました。この時「大変なことになった」と思いました。品数が少ないと思ったからです。これではみんなにいきわたりません。それでも計画通り実行しました。やっぱり一つもとることができない人もおられました。申し訳ない気持ちになっている女性会の方々の所に一人のおばあさんがこられました。被災者の方で99歳だそうです。彼女も1時間待ってなにも受け取ることができませんでした。おばあさんは女性会の方々に優しく言われました。「あんたたちは悪くないよ。遠くから物資をもってきてくれたのだから。もらう方も悪い。みんなでわけあってもらえばいきわたる。ひとりがたくさんとったからだよ」と。
 東日本大震災から7年が過ぎました。ルーテル教会も支援活動をしました。被災地での支援部しい配布、心のケアなど。これもまた「できることはありますか」との問いかけからはじまったことでした。神様の導きのもとで「まっすぐ」に行動することは何かを教えられたできごとでした。祈りとみ言葉によって正しい行動は導かれるのです。

2018年12月11日火曜日

「十人でも多く」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「十人でも多く」
 
 少しずつ肩から力が抜けてきたような気がします。「等身大の自分」でいこうと思っていても、なかなかそうはいきません。もっとも、はじめからリラックスしていては、若い牧師らしくないと言えますが・・・。
 
 それでも、リラックスしてくると、「あれもしたい、これもしたい」と思い始めました。教会案内を作りたい。ホームページを開設したい。月報を結婚式をされた方や新しく来て下さった方に毎月送りたい。礼拝をお休みされたかたに、説教録としてみ言葉をその週の内に届けたい。掲示板を充実させたい。「教会祭」みたいなものを企画したい。子どものプログラムは何かできないか。それぞれの趣味にあった集いができないか。話題の小説を読む会はどうか。主日に3礼拝位できないものか。何か楽しい企画がないか。などと次々と考えてしまいます。
 
 さて、そんなことを考えていたら、不思議と大笑いする出来事に出会いました。夕食のことです。わが家では小さい順に、食前のお祈りをします。聖美(1歳)「アーメン」。愛美(6歳)「(前略)明日一人でも多くの人が礼拝にこれますように。アーメン」。するとさすが長女の華美(8歳)は、「明日十人でも多くの人が礼拝に来ますように。アーメン」と祈ったのです。それは欲張りだよと言いそうになりながら、自分を振り返りました。「あせらずゆっくりと」と神様のみ言葉だったのでしょう。

2018年12月10日月曜日

「自分を愛するのは」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「自分を愛するのは」

 ガラテヤ 5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。

次のような話があります。目の不自由な人が夜遅く友人の家から帰ろうとします。すると友人は灯りのついた提灯を渡します。その人は不思議に思い「目の不自由な私には提灯はいりません」といいました。すると、「あなたには提灯はいりませんが、あなたが持っていないと、目が見える人があなたに気がつかずぶつかって危険かもしれません」と教えてくれたという話です。

 イエス様の教えで基本的なものは「神様を愛する」「隣人を愛する」の2つです。ルカによる福音書では、律法学者の「何をしたら永遠の命を受け継げるか」との質問に、この2つを答えられました。ただ、新共同訳と口語訳(1955年)ではちょっと言葉が違います。口語訳では「自分を愛するように、隣人を愛せよ」とあります。この「自分を愛するように」にという言葉にちょっと戸惑いをかんじていました。ただ手紙の最後には「ご自愛ください」と書きますが。

 最近FMラジオを聞いています。先週はNHK/FMから永六輔さんの声がきこえてきました。何人かの方々との対談でした。その中で自分たちがやっていたテレビ番組と現在の番組の違いを話しておられ、心に残った言葉はつぎのようなものです。「バラエティ番組なのだけれど、昔の番組は『笑わせる番組』だった。いまのは『笑われる番組』になってしまった」と。この2つはとても違うなと思いました。「笑わせる番組」を作るのは大変なことでしょう。視聴者の感覚を捕らえ、構成し、よく考えて作らねばならないからです。一方「笑われる番組」を作るのはどうでしょうか。誰かタレントをつれてきて、笑われればいいのです。そう考えると、いまのバラエティ番組が何をやっているか少し理解できました。タレントに変なことをさせて笑いをとっている。親たちがみて下品なことでも笑われればいいのかな、と思ってしまいます。サーカスにいたピエロとも違うのです。ピエロは笑われているようで、じつは笑わせていたということに気がつきました。神は私たちを「愛する」お方であって、「愛される」ために何でもされる方ではないのです。愛されようとして、「人間の思いのまま」に動かれるお方ではないのです。ラジオからの一言でああでもない、こうでもないと考えてみました。「神様は愛するお方だ!」と知ったときさわやかな感じがしました。

 自分を愛することは自分のためではありません。隣人を愛するためです。自分を愛する愛し方を分かっている人は、隣人をどのように愛するべきかを知っているのです。「ご自愛ください」とは、あなたが病気になると、家族や共に生きる方々に迷惑がかかるからです。自己愛で自分勝手に生きて行きなさいという意味ではなのですね。

2018年12月9日日曜日

きままな休日・広島むさし銀むすび




やっぱり広島にいったらこの「銀むすび」!むさしはやっぱり好きです。
画像に納めとこうとおもっていたら、忘れてパクリ。
そうなんです、温かいうちが美味しい。握りたてですから。
ということで一口食べた後の画像になりました。ま、いいか。

2018年12月8日土曜日

2018年12月7日金曜日

阿久根からルーテル幼稚園へ

阿久根教会の獣医さんから
熊本ルーテル幼稚園の羊に干し草をいただきました。
お腹がすいてた羊さんがいつもメエメエと鳴いておりました。
これでお腹いっぱいになるでしょうね。感謝

2018年12月6日木曜日

「いびつな力・十字架」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「いびつな力・十字架」
 
 この季節、牧師室からの眺めは最高です。とくに朝早く、牧師室の窓をあけてベランダへ出るひとときが、いまの最高の楽しみでもあります。とくに車が走ってない時間は特別に新緑がさえるときです。「ああ、今日も生かされている」と心から思います。
 
 昨日もこのベランダのひとときを過ごしていますと、ラジオから最近のヒット曲が流れてきました。なにげなく聞いていると、次のような歌詞に「あれっ」と気になりました。「いびつな 力で きみを守りたい ずっと」。スピッツというグループの「君をみつめていた」という歌らしいのです。「いびつな力で」とは何でしょうか。この歌の出だしはとても奇麗な歌詞です。「暖かい場所を探し求めていた、最後の離島で、君をみつめていた・・・」と。なにかのんびりした中で、出会いが起こり、そこから何かが始まっていくというものだろうと想像していました。それはそれでいいのですが、「いびつな力で」というのは理解に苦しみました。しかし、人間の愛は「いびつな力」ものかもしれません。
 
 ところが、十字架というのも本来は「いびつな力」かもしれないと言えます。本来はあってはならないことです。それをあえて、私たちの罪の赦しのために神様の力が働いたと考えられます。本来のものを変化させてまで、神様は私たちを愛されたのです。何のために「いびつ」かは問われるのです。

2018年12月5日水曜日

「判断基準は神様のみ言葉」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「判断基準は神様のみ言葉」

箴言 9:10 主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。

「ちょっといい話」を耳にしました。東京教会のT姉はお風呂の水をとっておかれ、その水で洗濯される。ここまでは誰でもされていることですが、まだまだ水は残ります。その水でトイレをも流されるとのこと。ここまで使用されているとは驚きなのですが、それをずっと水不足のまえから何十年もつづけておられる。震災のおこるずっと前からです。神様が生きるために与えて下さったものを大切に使わせていただく。その心が見える思いです。聖書には「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者」(マルコ9:41)という御言葉があります。水のない所の話です。このことができるのは「ひと」の渇きをしっている人なのです。そしてまた、その渇きに対して神様の恵みを知る人なのです。それが知恵だといえます。

箴言は知恵とは何かを考えさせます。しかし、その知恵がどこからでてきたものかは重要です。今回の知恵も、女性として人格化された知恵が、未熟な若い男を招く話になっています。本当の知恵とは何か、それを見極めることは大切なことです。

小学校4年生の道徳の授業参観をしたことがあります。授業内容は「麻薬の危険から身を守る」ということでした。興味本位で手を出したりしないようにということでした。内容はどんな麻薬があるか、麻薬に犯されると人間はどうなっていくかなど、分かりやすいものでした。そして最後に先生が麻薬を使うことに多数決をとられたのです。なぜ麻薬は恐ろしいか、使用してはいけないかを話してきて最後は多数決で決定という授業に疑問をもちました。判断の基準はどこにあるのだろうと思ったのです。

箴言は「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め」と教えています。私たちに与えられている知恵は神様からくるものです。その知恵の根拠は聖なる神様を知ることから始まり、それが判断基準となっていくのです。分別の初めもすべては神様から、そして神様とはその御言葉にあります。

2018年12月4日火曜日

「神様のものさし」



クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様のものさし」
 
 子どもたちの感性には、大人をあっと言わ せるものがあります。子育て中の私などは、毎日が気づきの時ですが・・・。
 
 その子どもの言葉に、次ぎのようなものがあります。
 
 「運動場で遊ぶとき、
 
  みんなは、せまいせまいと、
 
  文句をいう。
 
  でも、運動場の掃除をするとき、
 
  みんなは、ひろい、ひろいと、
 
  文句をいう」。
 
 運動場の大きさは変わらないのに、人の置かれた状況や、考え、心の持ち方でせまくもひろくもなる。子どもにとっては、不思議なことなのでしょう。
  私たちは「自分の物差し」を持っています。それはそれでいいことですが、その物差しを絶対にしたり、その物差しは「みんなの物差しと同じ」だと考えてしまうものです。
 しかし、私たちの「物差し」は絶対のものでしょうか。人間の物差しほどいいかげんなものはありません。そのことを子どもの言葉が教えてくれているのでしょう。
  ここまでくると何を伝えたいかはお分かりだと思います。私たちには、人間の物差しではない、「別の物差し」が必要なのです。それは、神様の物差しです。私たちクリスチャンにとっては、キリストのみ言葉だといえます。キリストがなにを基準にしておられるのか、知ることでもあります。
 
 人間の物差しは、100人いれば100の物 差しがあります。そして、みんな自分の物差しが正しいと信じています。しかし、この世界で絶対なのは神様の物差しだけなのです。
  ある小説には次のように書いてあります。
 相手にも正義があると考えない限り、話し合いなどできるものではない」。
 自分だけが正義であるはずはない。正義は神様のものだからです。
 

2018年12月3日月曜日

「反省はサルでもできる?」

 阿久根ルター君の朝のみ言葉


「反省はサルでもできる?」

箴言 8:5 浅はかな者は熟慮することを覚え、愚か者は反省することを覚えよ。

ある信徒の方から、教育部長あてに一冊の本が送られてきました。その本とは「ビジネスマナー・ポイント集」です。手紙には、「この本、役に立つよ。牧師はマナーと常識が大切です」と書かれていました。実は、牧師の常識のなさ、マナー欠如が深刻な問題なのです。はじめのころは、宗教家たるもの《非常識のなかの常識》こそ大切だと思っていました。神様のみことばを伝えることはそれ自体で非常識の中にあると思っていたのです。ところが、信徒の皆さんがおっしゃる《常識》とはレベルが違うことに気がついたのです。皆さんが問題にされる《常識》とは、人が生きる上でのマナーの欠如ということなのです。そしてもっと言うなら「知恵」を働かせないということのようです。マナーも知恵の一部だと言われました。

箴言8章の教えは「知恵」についてです。知恵が人格をもって語りかける形をとり、知恵自体が自己紹介や自己推薦をしています。面白いことに知恵自身が、その働きと成果について紹介していのです。その中でも知恵は、神様が天地創造をされたときに、すでに神様のもとにあったと告げています。

ある遊園地で「反省ザル(猿)」という芸をやっていました。むかし日光猿軍団の中で披露され、テレビで人気がでた芸だったなと思い出しました。あのときのキャッチコピーは「反省はサルでもできる」というものでした。その当時は笑ってみていましたが、よく考える意味が深い言葉でした。形だけの反省なら猿まねにすぎないという意味がこめられていたかもと改めて思ったのです。あの芸をみていた人たちもその事に気がついて笑ってみていたのでしょう。それを自分にあてはめてみることもありました。

箴言は「愚か者は反省することを覚えよ」といいます。また他の箇所では「心の中の板に書き記せ」と命じています。大切なことは反省すること以上に、それを覚え、心の板に書き記すことです。何回も同じ間違いをするのは覚えていないからです。「反省はサルでもできる」が、心の板に書き記し、常に覚えることが反省することの本当の意味なのです。

2018年12月2日日曜日

きままな休日・ちょっと遅い収穫感謝祭

大江教会カフェでは英会話クラスによる収穫感謝祭が行われました。
地域の方々がたくさん来てくださいました。
ターキー!すごく楽しいです。朝からじっくり焼いて!ランディがさばいています!
カフェでは毎日パーティ!!地域に開かれた教会になりました。

2018年12月1日土曜日

2018年11月29日木曜日

「愛されてみたい」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「愛されてみたい」
 
 教会掲示板に礼拝案内を貼ってみました。いまは教会の礼拝案内だけですが、ゆくゆくは人の心を捉えるようなものを作り上げて行きたいと思っています。いつでもアイデア募集中です。
 
 先日のことでした。今週のポスターをみながら、会話してる声がきこえてきました。「おい、愛されると悲しくなるか。おれはとても嬉しくなるけどなあ」。するともう一人が「わかってないなあ。あんたのは、遊ばれているだけ。おれは悲しくなるのがわかるな あ。うん、本当に愛されたら涙がでるもんよ」。「そうかね。それくらい愛されてみたいもんだ」・・・と。
 
 この会話を聞きながら、「それくらい愛されてみたい」という言葉に、現代の人間のもつ寂しさみたいなものを感じたのです。悲しくなるほど愛されてみたいというのは、愛を実感したいというのとはちょっと違うのではないでしょうか。そのような愛に(出会いたい)ということかもしれません。主イエスの愛は、実感するだけのものではなく、出会うものです。そこから何かが始まるのです。「愛されてよかった」だけでなく、その愛から押し出される一歩を踏み出す勇気を与えられるのです。
 
教会の掲示板には来週の説教題が掲げられています。その題は「神秘的結合」はてこれを見てどんな会話が交わされるのかなと思います。

2018年11月28日水曜日

「まじめにコツコツ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「まじめにコツコツ」

箴言 7:2 戒めを守って、命を得よ。わたしの教えを瞳のように守れ。

「父や母が教えてくれたこと」というテーマの本があります。人はそれぞれの家庭で、その家にあった教えをうけて成長します。その家庭が大切にしている教えでもあります。どの教えも「もっともだ」と思います。そのなかでもよく聞く教えは「まじめにコツコツと」というものです。人のすることはすべて神様が見ておられる。だから誤魔化さずに、「まじめにコツコツと生きること」だという教えです。この誰もみてないようでも、神様は見ておられるという教えは大切なものです。

箴言の7章には父の諭の中に、若者が女性に誘惑される場面がでてきます。聖書には「わたしが家の窓から、格子を通して外を眺めていると浅はかな者らが見えたが、中に一人、意志の弱そうな若者がいるのに気づいた」とあります。誘惑を受ける若者は、浅はかな者だけでなく、意志の弱い者であると忠告しています。

ある少年と死の話をしたことがあります。その少年もまた小学生のときに突然お父さんを天に送らねばならなかった子でした。じつは私と同じような境遇の少年だったのです。「人はなぜ死ぬのだろうか、私のお父さんもなぜ死ななければならなかったのだろうか」と話していました。するとその少年は次のように教えてくれたのです。

 「牧師先生、お父さんは死んでないんだよ。だってみんな僕をみてお父さんにそっくりだという。顔形も言葉も話し方だって。そして少し猫背のところまで似てるっていうんだ。だからね、お父さんは死んでない。僕の中に生きている。僕をみればお父さんを見ることができるんだ」と。そして、「先生の中にもお父さんを見ることができるんだよ」と。イエス様も「私を見たものはすなわち父を見たのと同じである」と言われました。それはイエス様の中に父なる神が生きておられるからです。同じように、私たちの中に父、母がいます。そしてずっとさかのぼっていくとキリストまでいくことができます。実は、私たちの中にはキリストがいてくださり、私たちを見たものはキリストをみたことになるということなんです。

 箴言は、「わたしの教えを瞳のように守れ」といいます。瞳のようにとは、注意深く見つめることを意味し、目をそらさない、中心を見ぬくということでもあります。神様の教えをそのように守ることを教えています。み言葉から目をそらさずに、その教えをきちんと守っていくことこそ、まじめにコツコツと生きることなのです。その姿は自分の中に神様を見ることです。

2018年11月27日火曜日

「人生を構築させたゴミ?」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「人生を構築させたゴミ?」
 
 「よくもまあこんなにゴミがあるものだ」というのが、今回の引っ越しで経験したことです。どれだけ捨ててきたかといえば、ちょうど2トントラックに2台分でしょうか。これではゴミと生活していたようなものです。
 
 ところが、これは本当にゴミなのかなと考えてみました。確かにいまはいらないものになったかもしれないのいですが、ひとつひとつはすべて意味があるものです。人から見ればつまらない意味ですが、あの時あの場所で買ったものとか、あの人がくれたものとか・・・。そして、それは自分の人生を少なからず構築してしてきたものなのです。
 
 引っ越しの片づけがなかなかはかどりません。しかし、自分の人生を顧みていると思えばゆっくりやるのもいいかもしれません。司牧室にはたくさんの書籍が残されていました。森司牧から頂いたものですが、その一冊一冊に重みを感じています。森司牧の人生をほんの少し知ることができるような気がするのです。
 
 私たちには4つの福音書が残されています。いろいろな方向から見たイエス様でしょうか。しかし、どの方向からみたとしても、その存在の重さにはかわりありません。福音書を読むとき、私たちはイエスと出会います。
 
山積みにされた荷物の中に、何十冊という聖書をみつけました。こんなにイエスと出会っていたのだと感謝しました。