2019年7月31日水曜日

「動いていると」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「動いていると」

 ヨハネ  5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」

 「あなたは落ち着きのない子ね」とよく言われました。落ち着きがないのではなく、いろいろなものに興味があるから絶えず動いていたのだと思います。幼稚園でも「落ち着きのない子」と言われている子どもほど、本当に面白い個性を持っています。絶えず何かに関心を持ち、それをひたすら追いかけているのです。落ち着きがないのではなく、興味がありすぎると言う個性を持っているとみてあげたらいいと思います。

 エルサレムにある「ベテスダの池」での出来事です。イエス様は、長い間病気で苦しんでいた人を癒されます。池の水が動いたとき、一番はじめに池に入ったひとが癒されるという伝説があったようです。しかし彼はそこに行くことができず、誰も彼を池に連れていってくれなかったのです。池は間欠泉であったといわれていますが。イエス様は「水が動く」ことではなく、「心の動き」を重視されました。「よくなりたいのか」というみ言葉への「はい」という信仰。まずイエス様から心を動かされる。そしてそのイエス様にむかって心を動かすことを大切にされたのです。これが信仰なのでしょう。神様に対してたえず心を動かしておくことを教えられるのです。

 パソコンの前にもう動かない腕時計がひとつあります。まだ電池を交換すれば動くのですが、そのままにしてあります。実はこの時計は、教会で葬儀をされた方のご遺族からいただいたものです。この方とは天に召される数日前に病床でお会いしただけでした。その後なくなる直前に洗礼を受けられました。葬儀をキリスト教で行い、式が終了してから奥様に「主人が使っていた時計です。感謝のしるしとして受け取ってくださいますか」と言われ、喜んで頂くことにしました。その時はまだ動いていましたが、いつのまにか止まってしまいました。何度も電池を交換しようと思いましたが、なんだかできず1時36分でとまったままです。しかし、この時計を見るたびに、その方の人生に触れるようなきがしてなりません。いろいろと思いめぐらしては、きっとこの時計はこの方の人生を知っているのだなと楽しく思えてならないのです。神様がその人生の最後に出会わせてくださったのですが、いまもその人生は神様のもとで続いている。その続いている人生をこの時計が教えてくれるようです。また動くときに復活の希望がこの時計に凝縮されているように思えます。

イエス様に病を持った人が「主よ、水が動くとき」と言いました。動くことに希望があり、この動くときに救いがあることを指し示す言葉です。しかし、私たちにとって動くのは「水」ではなく、神様の「御心」です。イエス様の御心は私たちに対して常に動いています。止まってはいません。私たちの職場でもたえず共に働く者へ心を動かし、認め合って仕事をしたいと考えています。

2019年7月30日火曜日

「どうせまた殴るんだろう」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「どうせまた殴るんだろう」
 
 一言の重みを感じることがあります。それが何気ない一言でも、自分にとっては忘れられない言葉として心に残ることがあります。しかし、その言葉も喜びをもたらしてくれるものと、生き方を反省させられるものとがあります。
 
 夏休みも終わりに近づいたある日のことでした。あまりにも子供たちがダラダラとしているので、「少しは勉強したらどう」と言ってみました。すると、「だいたい親は勉強しかさせることがないのか」と反発されました。その一言にカチンときました。「もう一度、今の言葉をいってみろ」とばかりに子供に詰め寄ったのです。すると頭を抱えながら「どうせまた殴るんだろう」と一言。その言葉の重さにに一瞬たじろいでしまいました。
 
 「どうせまた殴るんだろう」。その言葉の背後にはいったい何が隠されているのでしょうか。結局は力で押さえつけてきたのかもしれない。「どうせまた・・」の中にある深い心の傷に打ちのめされた思いでした。「人格の未熟な親ほどよく子供を叱る」という言葉があります。まさしくそのとおりだと思います。未熟だからこそ奢り高ぶってはならないのです。
 
 やっぱり子育ても最後は祈りだと言えます。神様にお聞きするしかないのです。そういう意味では、私たち親子は恵まれていると思います。イエス様という共通の神様を知っているのですから。とは言うものの、毎日が懺悔の繰り返しに、イエス様もほとほとまいっておられるかもしれません。まあしかし、今年の夏の一言は強烈に懺悔を迫られる一言でした。感謝。

2019年7月29日月曜日

「目的をもって」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「目的をもって」

2コリント  5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。

学生の頃、目的地に無事に到着するには、正確な地図を必要とすると教えられました。当たり前のことだと考えていました。しかし先生は、「人生の目的」「人生の地図」を持っているものはいますかと問われ、すこしドキッとしました。「何のために生きるのか」をじぶんはわかっているだろうか。そのために必要な手段や道具を持っているだろうかと思ったのです。目的と手段。この二つを信仰生活の中に見出しているか?そのような問いかけを持ちながら生活しているように思います。

パウロはキリストがすべての人のために死んでくださったと教えています。その目的は何か。キリストと共に「新しい人」としてキリストのために生きるためだと言います。生きる目的は、キリストのために生きることなのです。それがパウロの心を駆り立てています。パウロにとってこの目的はたせつなものでした。何をしなければならないか、どうしてそれをするのか。そして何のおくてきでするのか。パウロの答えはただ一つ、キリストのために生きるでした。

「一歩一歩、ていねいに歩いたことがありますか」と聞かれたらどのように答えるでしょうか。一歩一歩をていねいに歩いていけば、必ず目的地につくはずです。「歩歩是道場」ということです。弘法大師の言葉にも「一歩三礼」というものがあります。つまり一歩一歩を参拝する気持ちで歩きなさいということだと思います。私たちはどうでしょうか。一歩一歩を大切にしているでしょうか。実際祈りつつ一歩を歩いてみると、なかなか大変です。一歩進んで祈り、一歩進んで祈る。大変ですがとても心が満ち足りてきます。絶えず祈るということは、一歩一歩をていねいに歩くことかもしれません。大江教会はどこに行こうとしているのか。目的地はどこなのか。宣教する教会となるには、目的が必要です。大江教会のビジョンはみえています。

パウロは「その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」と言っています。キリストの十字架の意味と目的をはっきりしめしているのです。この目的のためにキリストにあって「新しい人」として生きることが神様の御心です。

2019年7月28日日曜日

きままな休日・大牟田のうどん

大牟田教会の礼拝に行く途中の「あずま」のうどんです。
福岡のうどんって麺が柔らかいですね。
出汁がきいており美味しかったな~

2019年7月27日土曜日

明日は礼拝です

明日は大江教会とのTV中継礼拝です。
説教者:立野泰博牧師(主任)

2019年7月26日金曜日

整えられていく

阿久根教会はどんどん整えられていきます。
聖書台がリニューアルされました。

2019年7月25日木曜日

「買うか死ぬか」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「買うか死ぬか」
 
 東京での本教会総会のため、久しぶりに上京いたしました。全国規模の活動が縮小され、その活動の拠点が教区レベルへ、また各個教会へとなってきたので、東京へ行く機会も少なくなってしまいました。5年ほど前までは毎月のように上京していたのですが・・・。しかし、それが良いことだったかといえば、「そうだ」とは言えない点も多々ありましたが、全体教会の宣教方策が縮小されつつあることは否めません。今回、久しぶりの東京は息苦しいものでした。全体としての力に期待するより、私たちのこの教会の働きを強めることのほうが大切なようです。
 
 さて、総会会場への行き帰りに、ある雑誌の宣伝ポスターをいつも眺めていました。そのポスターとは、若者のおしゃれ専門雑誌のもので「秋・冬コレクション特集」でした。なぜそのポスターが印象深かったかといえば、そのキャッチコピーにありました。「Buy or Die」というもので、私には「買うか死ぬか」と読めました。あまりにもストレートなので、引きつけられたのでしょう。しかし、いったいこれにはどんな意味があるのか考え込んでしまいました。
 
 「あれかこれか」で判断することは多いものです。「あれもこれも」という考えかたもあります。しかし、「これでなければ死」という考えはあまりにも唐突だといえます。
 
 それでは信仰の世界はどうでしょうか。もしかすると、信仰の世界では先の考えは唐突ではなく、キリストに「従うor死」ということになるかもしれません。しかし、レベルの違う問題だと思うのですが・・・。そうそこが大問題。

2019年7月24日水曜日

「聞くのは大変」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「聞くのは大変」

ルカ 9:35 「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。

格言集を開くと次のような言葉に出会いました。「『listen(耳を傾ける)』という単語は、『silent(無言)』と同じ文字で出来ている」。良くできているなと感心しました。そのことを自慢げに娘に教えてみました。すると素直にきいていました。確かに耳を傾けて聞くときには無言でなければなりません。それができないので自分が話してしまいます。また無言の中には答えはありません。みな答えようとして聞いていると無言になれずに聞けなくなるのでしょう。聞くということの本質をもういちど考えてみたいものです。

イエス様の変容の出来事は、マタイ、マルコの福音書にもあります。3つの記事のなかでルカの特徴は、イエス様が祈っておられたときに変容の出来事が起こったことです。祈りという神様との会話がありました。また、モーセとエリヤとの会話もあります。その中でも興味深いところは、神様の言葉「これに聞け」という声(弟子たちとの会話)が聞こえたとき、そこにはイエス様だけがおられたと記しているところです。つまり、これに聞けとはイエス様に聞けということでした。

この暑さの中、イライラしているときは「笑い」が一番。健康にも「笑い」が一番。さっそく、以前から買っておいた「爆笑漫才大ヒットパレードCD」を聴いてみることにしました。さすがに、「ダイマル・ラケット」「いとし・こいし」「かしまし娘」「千里・万里」「レッツゴー三匹」「唄子・啓助」といった大御所だけに大笑いしてしまいました。ところが、長女はあまり面白くなさそうです。普段は吉本新喜劇をみて大爆笑しているのに、いっこうに笑いません。どうやら、動きがないのが面白くない原因のようでした。生まれてこの方、テレビで育った娘たちにはラジオで聴く漫才は興味がないらしいし、どこが面白さのポイントかがわからいようでした。この世の中、だんだん言葉だけでは伝わっていきにくくなっているのかもしれません。キリスト教は聞く宗教だといわれます。神様のみ言葉を聞く宗教です。イエス様のみ言葉を聞いて理解することは大変な事ですし、じつは私たちの中の準備が一番大切と思われます。

イエス様が山上で変容された時「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という神様の声が聞こえてきました。この出来事は変容の出来事ですから、これを見なさいといわれるのが普通です。しかし、神様は見るのではなく聞きなさいと言われたのです。つまりイエス様のみ言葉を聞きなさいということです。私たちは今日もイエス様のみ言葉を聞いて過ごしていきましょう。

2019年7月23日火曜日

「神様の音を聞く」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様の音を聞く」
 
  北原白秋の詩を読んでいましたら、次のような詩に出会いました。
 
  落葉焚けばおもしろ、
 
  櫟(くぬぎ)の葉はふすふす。
 
  萱(かや)の葉はちょろちょろ、
 
  松の葉はぱちぱち。
 
 
 なんという心の余裕でしょうか。ふつう焚き火をするときなど、騒ぎ回って静かな心でその音を楽しむなんてことはありません。よっぽど静かな心で焚き火を見つめていないとわからない音の違いがあるのです。
 
 教会から出ていろいろなことに忙しくしていると、何か大切なことを忘れてしまうことがあります。忙しい中にいるときは、その時のことしか考えられず、一番いい時を過ごしていると思います。しかし、神様がなぜそこに自分を遣わされたのかを忘れてしまうのです。
 
 全国青年修養会は確かに有意義な時でした。しかし、静かに牧師室で祈っていますと、自分は何のためにそこに遣わされたのかなと考えてしまいました。組織を確立するためか、青年と楽しむためか、仕事の一つだったのか。何か違うような気がしてなりません。心静かに神様の音を聞いてみると、「そうか」とわかったことがあります。それが何かはちょっと言葉にならない音です。

2019年7月22日月曜日

「魅力とは何か」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「魅力とは何か」

ルカ  4:20 会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。

秋に宣教会議が行われています。ある時の会議の中で、現代の教会は若い人たちにとって魅力のある場ではないという意見が出されました。若手牧師が、教会に新しくきた青年にきいたところ、いまの自分が興味ある順番を教えてくれたそうです。1、バイト・学校。2、友達と遊ぶ。3、時間がありヒマなら教会。中高生ならば1、部活・クラブとなるそうです。なるほどだと思います。あと加えて牧師の子どもたちが礼拝に出席しないということも言われました。なぜ牧師の子どもが礼拝にでないのか。教会に興味がないからでしょうか。

イエス様は、ユダヤ教のきまりに従って安息日には会堂で礼拝をされています。当時の礼拝は「シェマー(聞け、イスラエル)」で始まり、祈り、聖書朗読と続きました。その聖書朗読の時にイエス様に巻物がわたり、イザヤ書を朗読されたのです。その内容が「主の恵みの年を告げる」というもので、この解釈について人々の目がイエス様に注がれたのです。何を語られるかに興味津津だったと言えます。

秋葉原で不思議なカフェをみつけました。「スモーキングカフェ」です。ビル一画のガラス張りの部屋があります。そこの中は煙がモウモウ!よく見るとタバコの自動販売機が、たくさん並んでいます。そうです、ここは気兼ねなく自由にタバコを吸ってもいい空間です。最近は千代田区など、歩きながらの喫煙が規制され、罰金をとられます。はじめのうちは吸っている人もみかけました。最近では隣に位置する新宿区で歩きながら吸っている人々も、千代田区にはいるなりタバコをしまう姿がみられます。タバコを自由に吸える空間が無くなってきたのです。そこで登場したのが「スモーキングカフェ」なのでしょう。私自身タバコを吸わないのでわかりませんが、何かタバコがもっている魅力があるのでしょうか。やめられない魅力とは何でしょうか。「は~この一服が安らぐ」という言葉をききます。多くの人は緊張して生きているってことかもしれません。その緊張をほぐす役割があるのでしょうか。「安らぎ」。これはどこからくるのでしょうか。もちろん神様からですといいたいのですが、安らぎはそこにあるのに、受け取ることができない問題もあるなあ~と考えて秋葉原の雑踏を歩いてきました。

イエス様が聖書を朗読されたあと「会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた」と、ルカ福音書は記しています。イエス様が次に何を言われるか、みな固唾をのんで見守っていたのです。そこから聞こえてきたのは救いの言葉でした。み言葉や教会に魅力がないわけではありません。魅力がないようにしている私たちの問題だと思います。生き生きとした福音をいただいているかどうか、自分自身を点検してみなければなりません。


2019年7月21日日曜日

気ままな休日・鹿児島教会カフェごはん

鹿児島教会の礼拝後はCaféでごはん。
じゃがいもごはんと健康ゴーヤ!
トマトのソースがかかったヨーグルト。
皆さんもどうですか。
成人病の方々に優しいメニューです。

2019年7月20日土曜日

明日は礼拝です

説教者:立野泰博牧師(主任・大江教会)
どうぞお待ちしています。

2019年7月19日金曜日

熊本で宗教改革の集い

熊本では宗教改革の集いがあります。
まだちょっと早いですが
お知らせで~す。

2019年7月18日木曜日

「トンボの産卵から

クレヨン牧師のミニエッセイ

「トンボの産卵から」
 
  先週は一週間にわたって、キャンプ三昧の日々でした。月曜日からの3日間は三原鷺島の海で「こどもキャンプ」、木曜日からの3日間は能勢の山で「青年キャンプ」でした。どちらもたくさんの人数でした。とくに青年キャンプは全国のルーテル教会から参加で、100名を越える若者が結集しました。全国青年担当教職としても大変嬉しいひとときでした。しかし、自分はもうおじさんかな?と自覚しました。なにせそのパワーといったら、2晩徹夜しても平気なのです。様々な問題を真剣に語り合っている姿に、少しルーテル教会の未来の明るさを感じました。
 
 さて、今年の夏はいたるところでトンボの産卵風景をみました。学校のプールで、京橋川で、水たまりで。何とかして自分たちの命を継承しようとしている姿をみて、複雑な心境でもありました。なぜなら、こんなところでは死んでしまうと思われるところに産卵しているのです。とくに学校のプールでみたトンボは哀れでしかたありませんでした。塩素で消毒され、機械で濾過された水ではもう絶望というとこでしょう。ところが、今回のキャンプでもっと哀れなトンボに出会ったのです。それは、学校の体育館の床に必死に産卵しているトンボにであったのです。あまりにも床がピカピカと光っているので、床が水面に見えたのかもしれません。
 
 主イエスは「み言葉の種は、落ちるべき所に落ちたとき初めて生きる」と教えて下さいました。トンボの産卵も産み落とされるべき所に落ちてはじめて、生きると思います。私たちの心はどうでしょうか。主イエスのみ言葉の種が落ちるべき所でしょうか。主イエスに心向けたとき、はじめて落ちるべき所となるのでしょう。

2019年7月17日水曜日

「安易な答えでなく」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「安易な答えでなく」

黙示録 2:5 どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。

ある本で読んだ話です。毎日職場に遅刻する職員がいました。上司は再三注意し、彼に遅刻をしないように解決策を出させました。彼が出した解決策は「目覚まし時計を増やす」というものでした。ところが、遅刻は改善されませんでした。上司の方が考えを改め、問題を根本的に考えてみることにしたのです。「何についての問題か」朝起きられないこと。「何が問題か」睡眠時間が少ない。「それはなぜか」遅くまでテレビゲームをしている。「何が問題解決のカギか」夜23時以降はゲームをしない。この話はとても面白いと思いました。安易に答えをだしてしまうより、問題の発生源までとことん考えようということです。それが見つかったら本当の解決策がありそうです。あとは本人がやるかどうか。それで仕事を続けられるか辞めざるをえなくなるか。そこからは本人の問題なのです。

本日読みました黙示録の箇所は、エフェソの教会にあてた手紙の一節です。ここに「落ちる」という表現があります。これはキリスト信仰から外れることを意味しています。エフェソの人々は初期に伝えられた福音とは異なる信仰に陥っていたようです。むしろ信仰の緩み、疲れが問題とされています。このような状況の中で、神様に従うことへ立ち返るように「悔い改め」を筆者は勧告しているのです。

「ここで陸終わり、海はじまる」という言葉を航空機内の雑誌で読みました。マカオの観光案内にポルトガルの言葉として紹介してありました。ポルトガル大航海のスローガンだったようです。ポルトガルの岬に立った彼らは「ここで陸が終わる。新しい出発のために海に出ていく」との決意を現した言葉でした。その後マカオについた彼らは、次ぎのように叫んだといいます。「ここで海終わり、陸はじまる」と。キリスト教の宣教、み言葉もこうやって海を渡ってきたのだと、ちょっと感慨深く思いました。と考えながら・・・はたしてキリスト教はこの日本の陸に立っているかと疑問をもちました。簡単にいえば土着しているかということです。まだ海の上にあって、私たちの国にとっては、いまでも外国の宗教として受け取っているのではと思ったのです。海が終わる直前まで来ているけれど、まだ陸が始まってない。そのような所にいるような気がします。遠くでながめていないで、キリスト教を陸にあげなければなりません。その為には初めに戻って考えることです。

今日の聖書でも、「どこから落ちたかを思いだし」とあります。その出発点で何があったかを思い出せをいうのです。出発点が一番の問題だからです。それがわかったら悔い改めること、そして神様が与えてくださった道にもう一度立ち返ることを教えているのです。私たちも何か問題を抱えた時、安易に答えを出して決めるのでなく、問題の発生源にいきつくとこまで考えみたいと思います。そこに解決のカギがあるからです。

2019年7月16日火曜日

「聞いて理解するセンス」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「聞いて理解するセンス」
 
 やっぱり夏ですね。暑いのは言うに及ばず、広島特有の「凪」に夏本番を感じてしまいました。甲子園の高校野球で、母校「九州学院の惜敗」に今年の夏の悲哀を感じてしまいましたが・・・。
 
 子どもたちの夏休みも、やっぱり中だるみ。宿題などは3日で終わってしまい、毎日のプールにもやや飽き、暑さと、気怠さにイライラの毎日が続いています。どこかに連れていってやりたいのですが、この暑さでは一歩は出ずです。そこで、イライラしているときは「笑い」が一番。健康にも「笑い」が一番。さっそく、以前から買っておいた「爆笑漫才大ヒットパレードCD」を長女と聴いてみることにしました。さすがに、「ダイマル・ラケット」「いとし・こいし」「かしまし娘」「千里・万里」「レッツゴー三匹」「唄子・啓助」といった大御所だけに大笑いしてしまいました。
 
 ところが、長女・華美はあまり面白くなさそうです。普段は吉本新喜劇をみて大爆笑しているのに、いっこうに笑いません。どうやら、動きがないのが面白くない原因のようでした。生まれてこの方、テレビで育った娘たちにはラジオで聴く漫才は興味がないらしいし、どこが面白さのポイントかがわからいようでした。この世の中、だんだん言葉だけでは伝わっていきにくくなっているのかもしれません。
 
 キリスト教は聞く宗教だといわれます。神様のみ言葉を聞く宗教です。「イスラエルよ聞け」という言葉が何回も聖書にでてきますし、「聞く耳のあるものは聞くがよい」と主イエスは言われました。主のみ言葉を聞いて理解することは、以外と大変な事ですし、じつは私たちの中の準備が一番大切と思われます。

2019年7月15日月曜日

「自分で考えてみる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「自分で考えてみる」

マタイ 12:12 安息日に善いことをするのは許されている

ある宗教学者が「遅刻のすすめ」を書いています。わざと毎日遅刻しなさいというものではありません。会社・学校では遅刻は絶対ゆるされません。1分の遅刻であっても、校門の扉に挟まれて死亡事故がおこるような現代です。子どもたちは遅刻しまいとして必死で、朝ごはんも食べないで脇目もふらずに学校へいくのです。その学者がいうには、「もし、いま登校途中で困っている人に出会ったら子どもたちはどうするだろう。きっと見捨てていってしまう。なぜなら、遅刻は悪いことだから。私は自分の子どもには、遅刻はいいことだ。困っている人を見捨てるくらいなら、どうどうと遅刻せよと言っている」と書いていました。そういう遅刻ならばゆるせるでしょう。何を大切にしているかという問題です。

イエス様はある安息日に片手の萎えた人を癒されます。これはユダヤ人からすると律法違反です。安息日は何もしてはならないと理解し厳格に守っていたのです。しかし、イエス様は律法を守ることと、律法を生きることの違いをしめされました。律法は何のためにあるのか、神様との関係においてどう生きるかを問われます。私たちは間違ったことをしたくないために「ねばならない」ということにこだわります。ねばならないと決めた方が楽かもしれません。それをしていればいいのです。しかし、イエス様の教えは信仰によって自分で考えなさいということが多いようです。

世の中「こうでなければならない」が多いように思えます。先日も結婚式の相談の電話がありました。相談といっても、バージンロードを誰と歩くかという相談です。電話は新婦のお母さんからで、「娘は私と入場したいと言ってますが、これはやはり父親でなければならないのでしょう。しかし、父親は10年前に他界しておりますので、やっぱり男の伯父でなければならないと思いまして」という相談です。答えは簡単。「そうでなければならないことはありません」です。

しかし、お母さんは「やっぱり男でなければならないのが常識ですよね」と言われるのです。それを聞きながら「ねばならない」って人を縛るものだと考えていました。「娘さんはお母さんと歩きたいのではないですか。そこには娘さんの感謝の気持ちや、願いや、愛が含まれていると思いますよ。その気持ちを大切にしてあげてください。娘さんはお母さんと共に歩きたいのですよ」と答えました。

イエス様は「安息日に善いことをするのは許されている」と言われました。私たちはどうでしょうか。一度「ねばならない」と思ったらそれしかみえません。なにが神様と私の関係に善いことか、考える余裕をもっと持ちたいと思います。遅刻をするかしないかという問題ではなく、神様との関係において何が正しいかを判断し、信仰をもって決断していくことを求められています。

2019年7月14日日曜日

気ままな休日・阿蘇赤牛の丸焼き

大江教会では毎年阿蘇YMCAで野外礼拝をおこなっています。
そして毎年恒例なのがこれ!
赤牛の丸焼きです。今年は10キロでした。感謝。

2019年7月13日土曜日

明日は礼拝です

説教者:吉谷正典牧師(引退教師)
どうぞおこしくださいませ。

2019年7月12日金曜日

鹿児島ルーテル教会にできたyouthCafé

荒田にある鹿児島教会のカフェで行われている
youthCaféが地域の方々に喜ばれています。
教会は場所を用意してお貸ししているだけですが。
楽しく有意義な場所に慣れて感謝です。

2019年7月11日木曜日

「クレヨン効果」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「クレヨン効果」
 
 広島教会の7月は、3つのコンサートと野外礼拝という超多忙の月でした。しかし、それぞれに楽しい思いでができたことを感謝しています。
 
 それにしても、この7月でどのくらいの人が教会へ足を運んでくださったのでしょうか。コンサートだけでも500人、結婚式2組で100人、それに礼拝・諸集会で200人位でしょうか。そうすると、800人以上の方々が礼拝堂に集ったことになります。「場所はどこにありますか」という電話だけでも30本以上受けました。教会の場所を知っていただくこと、礼拝堂に足を踏み入れてくださること。まずは、そこからだという願いを、神様はよしとしてくださっているのでしょう。
 
 教会受付に「神様のクレヨン2」を置いていますと、週に5冊~10冊はどなたかの手に渡ります。それがどなたかはわかりません。コンサートへこられた方、結婚式でこられた方、ふらっと教会をのぞかれたかた・・・。これはとても嬉しいことです。一人でも多くの方に神様の福音を届けることが願いだからです。
 
 先週、いきなりFAXがおくられてきました。「コンサートの時、本を勝手にいただきました。心がほのぼのとしました。」というものでした。また、いきなりパソコンメールが送られてきます。「友人の結婚式でクレヨンに出会いました。信仰って堅苦しいものではなく、ありのままでいいのですね。」というものでした。はたまた、「わたしはいろいろな牧師先生に出会いましたが、立野牧師が一番変わっています。共感しました。」というのもありました。出会いは神様が用意してくださっているのですね。その出会いがこれからも、この教会でなされていくことでしょう。開かれた教会が、私たちのルーテル広島教会だと思います。

2019年7月10日水曜日

「行動変容がなければ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「行動変容がなければ」

ヨハネ 21:17 ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか

自分は思考方の牧師ではないなと思います。すぐ考えもせず行動する牧師だと思うのです。多くの課題を、これからあれもこれもしていくのでしょうか。もっと大切な「たった一つのこと」がないだろうかと思うのです。牧師として「これのみ」を探したいと願っています。ある本を読んでいますと次のようなことが書いてありました。「これからの親は『何かをする』とかに対してではなく、むしろ『何かをしない』という愛情のために心のエルルギーを使うべきである」。なるほど、なるほどと思いながら、何もしないでいることができないのが私という牧師です。

復活したイエス様がペトロに3回聞かれたことばが「わたしを愛しているか」でした。多くの意味を含んでいると思います。十字架のとき3回もイエス様を知らないと否定したペトロ。だから同じように3回も聞かれたのだと。そうなると「裁き」かな?と思います。しかし、何度も読んでいるとイエス様の大きさを感じる言葉です。イエス様の方から先に「わたしはあなたを愛しているよ」と聞こえてくるのです。その言葉をペトロが意識した、その瞬間に使徒ペトロは誕生したのです。3度目にイエス様から「愛しているか」と聞かれてペトロは「悲しくなった」と聖書は記しています。悲しくなるほど愛されているのがわかったのです。

鎌田實さんが脳卒中のことを講演した時のことです。塩が悪いという話をされたそうです。みんないい話を聞いたといっていたが、講演後すぐに野沢菜が大量にでてきたといいます。その塩分が悪いと話していたのに。人の習慣をかえるのは難しいといわれていました。その記事の中で、次のように言われています。「行動変容を起こすには、まずその人が『これを改めよう』とはっきり意識しないとダメです。テレビ番組を見るだけでは、行動変容は起きにくいですね。何となくいいと思っても、番組が終われば、忘れてしまう。行動変容には結びつきません」。続けて「顔と顔を突き合わせて直接聞いた話とか、本を読んでいて線を引いた内容のほうが、行動変容を起こす力を持っています。僕は新聞を読んでる時、大事なところに印を付けたり、切り抜きをしたりして、忘れないようにする習慣があるんです。そのようにしっかり意識付けすることがポイントです」と。私たちも毎日聖書のみ言葉を聞いていますが、イエス様に愛されているということを意識できるかということです。

イエス様の大きさは、計り知ることができません。その大きさはペトロに「愛しているか」というみ言葉に集約されているように思います。その大きさに触れたペトロは「悲しくなった」のです。イエス様の愛を意識したのです。わかったのです。心に刻んだのです。こんなに自分を愛しておられる方がいてくださるという胸を打たれる悲しさで、イエス様の本当の愛を知ったのでしょう。彼が殉教するまで宣教した行動変容はここからきています。

2019年7月9日火曜日

「祈りとな何か」

クレヨン牧師のミニエッセイ


「祈りとな何か」
 ここに書きたいことも多いし、書かねばならないことも多いのですが、書けない時というのはまったく手が付けられないものです。
 
 今週はいろいろなことがあり、様々なことに出会ったのですが、「今週のこれ」というものがないのです。この一週間で熊本、神戸などにでかけたのですが、何を書いて良いやらさっぱりです。気になるのは明日のお天気ばかりです。久しぶりの野外礼拝ですが、やっぱり雨でしょうか。雨ならば雨なりに、神様が何か用意された出来事がまっているのでしょうし、雨でなければならない神様の理由があるのだろうと、開き直っています。ああ、ますます雨が強くなってきました。
 
 雨といえば、祈りについて次のような話しがあります。
 
 「ある幼子が夜寝る前に祈りました。『神様、明日は楽しい遠足です。どうか雨を降らさないでください』。同じ時間、となりの家である農夫が祈りました。『神様、明日こそ雨を降らせてください。このままでは作物が枯れてしまいます』。さて次の日、神様はどちらの祈りを聞かれたのでしょうか」
 
 この話しは「祈りとは何か」を学ぶためのたとえ話です。結論は祈りとはそのようなものではないということです。神様は祈りを聞いてくださいますが、それは神様の御心によってであって、祈ったからの結果ではないのです。晴れでも雨でもそれは神様の御心なのであって、そこには神様だけが知っておられる恵みがあるのです。
 
 雨のときは雨なりに、神様の恵みとは何かを知る時となるでしょう。でも、やっぱり晴れてほしいなあ。神様、お願い。

2019年7月8日月曜日

「まずお茶をどうぞ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「まずお茶をどうぞ」

ルカ 1428 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

海外の教会オフィスに招かれて何回かいったことがあります。おもに仕事の話が多く、オフィスに着いたらすぐに話を始めようとします。しかし、いつも「まずお茶でもどうぞ」と飲み物をすすめられます。いや、まず仕事の話をして、それからお茶にしませんかと言いたくなります。どうも私たちは「まずお茶でもどうぞ」という言葉がでてきません。形式的にはお茶は出しますが、その時にはすでに仕事の話がはじまっています。「まずお茶でも」ということは。まず落ち着きましょうということなのでしょう。

本日の聖書をみてみましょう。テーマとなっているのは、「捨てる」ということと「腰を据える」ということです。しかし、どちらも同じことを言っています。前半部分では、「家族だけでなく、自分の命までも憎まないなら」とでてきます。これは憎むというよりも、放棄するとか脇におくという意味です。文字通りによむと憎らしく思うという意味にとれますが、そうではありません。イエス様の弟子の第一の関心は家族や自分の命ではなく、もっぱらイエス様にあるべきだといわれるのです。また、後半部分のたとえは、「腰を据える」ことが中心であるといえます。しかしこれは座るという意味です。ここのところを誤解するとこのたとえがわからなくなります。つまり、「考える」ではなく「座る」こと自体が求められているのです。私たちはイエス様の十字架によってしか救われない。しかしなお、この世の事に執着し、ああでもない、こうでもないと考えてしまう。しかし、イエス様のみとしたときにすべては与えられるということです。

人に何かを教えるということは大変なことです。ある本に「人から50習いたければ、相手に50与えねばならない」という言葉を見つけました。一方的に教えるのではなく、相手からも教えて頂こうという姿勢がなければ講演は成功しないと考えています。しかし何を学べばいいのでしょうか。講演の依頼を受けるときは「喜んで」と受けます。期日が迫ってくると「なんで引き受けた」と悔やみ、最後の一週間は「逃げ出してしまいたい」となります。そして前日の真夜中になって「あきらめる」のです。「神様にお任せしよう」これがでてくれば大丈夫です。すべては神様の計らいの中で全力を尽くすしかないのです。そう思いながら、「何を話すか」が頭からはなれません。しかしすべてを委ねる時に話すことは出てきます。

答えがでないことで悩むより、神様によって与えられている答えを受け入れたいと思います。その答えは、「神様の御心のままに」です。どんなに悩んでも、神様の御心のままにしかならないのです。つまり、大切なことは「あきらめる」ことです。つまり、神様にすべてまかせてしまうことにほかならないのです。イエス様に従うものは、すべてを捨てる。しかし実際に捨てるのは、そのものではなく、そのものに対する執着を捨てるのです。なぜなら、イエス様以上に私たちが執着をもってはならないからです。すべてのことはイエス様が与えてくださる。そのことに気がつくために、一切を放棄してまず座るのです。

2019年7月7日日曜日

きままな休日・アメリカのワイン売り場

さすがにアメリカでした。
ワインの種類が多すぎる。
味のちがいがわかればね~

2019年7月6日土曜日

2019年7月5日金曜日

2019年7月4日木曜日

「どこから見ても同じ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「どこから見ても同じ」
 
 いよいよ夏がやってきます。夏といえば「花火」を連想するのは私だけでしょうか。夏には欠かせない花火大会。子どもの頃よく見学にいったものでした。
 
 さて、子どもの頃のこと、一つの疑問がありました。それは「打ち上げ花火は神様からはどのように見えているのだろうか」というものです。つまり、空から見ればどんな形に見えるのかなあと考えていたのです。ところが、数年前のことでした。夏にインドネシアにいくとこになりました。ちょうどその日が隅田川の大花火大会の日だったのです。快晴の成田から離陸し数分したときに、なんと空の上から花火大会をみることができたのです。なんだか、少し感動しました。花火は上から見たらこうだったのかと疑問が晴れたからです。
 
 そうなんです。打ち上げ花火は空からみても同じように丸く見えるのです。つまり、花火は平面に広がっているわけではなく、大きな球体になっていてどこから見ても同じ形に見えるのは当然のことだったのです。
 
 どこからみても同じ。それは神様のことだと思います。三位一体とはどこから見ても同じということかもしれません。それぞれ見方は違っていても、同じものというのが存在するのです。自分を考えて見ると、どこから見ても同じではないことに気がつかされています。牧師として、夫して、父親として。しかし、そのような中で同じものがあるとするならば、主イエスをキリストであると告白することにおいて三者は同じであると言えます。それはすごいことなのだと考えている私です。

2019年7月3日水曜日

「やった気になって」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「やった気になって」

マタイ 23:3 彼らが言うことは、すべて行ない、また守りなさい。しかし、彼らの行ないは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。

礼拝堂で毎朝祈っていますと、聖霊を感じることがあります。心が安定して気持ちよくなってきます。そして不思議なことに出会うことがあります。先週の水曜日に祈っていたときのことです。礼拝堂の窓ガラスをトントンと叩く音が聞こえてきました。一瞬ドキッとしました。誰だろうとみてみると、なんと野鳥が窓を叩いていたのです。きっと野鳥も祈っていたのでしょう。

一回だけの偶然かなと思って窓のところへ行ってみますと、毎日来ている様子がわかりました。皆さんも見て下さい。礼拝堂の窓です。汚れているのではなく、野鳥が毎朝つついたあとなのです。もしかすると何かを訴えているのかもしれません。童話の話みたいですが、この教会がここに存在することの素晴らしさを教えられたようです。毎日の祈りこそです。

イエス様は律法学者、ファリサイ派の人々の教えと行いについて弟子たちに注意を促されました。ファリサイ派の人たちが民衆に律法を教え、具体的に生活の中でどのように守るべきかを指導してきたことは認めておられます。しかし、問題はその教えではなく、彼らが言うだけで実行しないことだと言われます。いい事を人に押しつけるだけで、人を助けようとしないことを問題とされました。「言うだけ人間」になってはいけないと戒められ、本来の働きをしていないことを指摘されたのです。

大江教会に赴任して変わったことは、パソコンの前に座る時間が少なくなったということです。また毎日処理するメールの数が10分の1になりました。事務局時代は毎日やってくる多量のメールを処理することが仕事だったように思えます。対外的な関係の仕事が多かったということでしょうか。しかし、このメールのやり取りは気を付けないといけません。仕事をした気になるからです。いま振り返ると、パソコンの前に座ってメールを処理し、文書をまとめるとそれで仕事が完結したように思っていました。いま、パソコンからはなれ足で歩きまわっていると、人と人の関係の大切さを思います。今度は歩き回ることだけが仕事にならないようにしなければなりません。出かけて行ってそこで人に会う。祈る。これはイエス様をそこにお連れするということだと思っています。

その人の生き方が信仰を語ります。祈ってないキリスト者、聖書を読んでないキリスト者、礼拝を大切にしないキリスト者はすぐにわかります。その人がどんなことをいっても、人は動かされないのです。そこにイエス様がおられないからです。信仰の言葉は、実行されてはじめて人を動かす力になるのだといえます。やった気になってはいないか。それを点検する日でありたいものです。

2019年7月2日火曜日

「約束の重み」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「約束の重み」
 
 我が家では「テレビ」で問題が起きることが多いようです。チャンネル争いというのはありませんが、ついダラダラと見てしまうのです。時間を決めて見ることを約束しても、学校から帰ってくるとランドセルを置く前にテレビをつける始末。ついにテレビ禁止命令を出してしまいました。しかし、何度禁止命令をだしても同じことの繰り返しです。大人の私でさえついダラダラと見るものですから。
 
 さて、そこで今回は契約書を書かせました。「今日から一週間テレビを見ません」と。しかし、それでは同じことの繰り返しになると思い、約束を破ったときにどうするかも書かせたのです。そして出来上がった契約書は、「今日から一週間テレビを見ません。もし見たら家を出ていきます。華美」。家を出て行くほどの決意はないだろうし、親としては三日もてばいいと思っていました。
 
 ところが、なんと華美はこの約束を守り通したのです。先週一週間、一度もテレビを見なかったのです。一週間目の昨日は二人で抱き合って喜びました。親バカですが、私は華美の姿勢に感動さえ覚えました。この一週間で、私も華美も約束の重みを学んだのだと思います。
 
 約束。それは破られてはならないものです。私たちは神様とどんな約束を交わしているのでしょうか。神様は私にどんな約束を与えて下さっているのでしょうか。何度でもその言葉を繰り返し伝えて下さるのですが、いつかはその約束を受け入れる時も与えられているのです。聖書のなかにその約束はあります。

2019年7月1日月曜日

「神のために合わせて」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「神のために合わせて」

コリント  3:9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

東日本震災救援をしていたとき、ボランティアセンターの受付をしました。たくさんの方々が受付に来ますが、対応に苦慮したのは宗教関係のひとたちでした。とくにキリスト教関係の人たちは自分勝手な思いを押し付ける団体がありました。自分が牧師という立場だったからそう思ったおかもしれません。ただ、受付に来る団体は私がキリスト教の牧師と知らないのです。自分たちは神様の業をしている。聖書には奉仕がどんなものであるか書いてある。あなたに教えてあげましょうという態度でした。あたかも神様の代弁者のようでした。これにはとてもついていけませんでした。

パウロは教会を、神様が奉仕者たちを用いて「耕作する畑」「建てる建物」といいます。ここに神様の同労者であるという表現が用いられています。これは神様と共に働く者という意味ではなく、神様のために、神様に用いられて、私たちが共に働く者という意味です。神様と同じことをしているという意味ではありません。その辺を誤解すると、裁きへとつながっていきます。自分たちは神様と働いているのだという思いで、相手をつい除外してしまうことにもなりかねません。

 熊本地震支援活動で宗教団体の姿がみえなくなったとお聞きしました。たぶん支援活動の区切りが半年を見据えて終わってきたのでしょう。緊急支援から始まり、避難所支援、がれきの撤去などの活動が落ち着いてきたのかもしれません。ただある人が次のように言われました。「残念ですよね。宗教の出番はこれからなのに、帰っていくのですよね」と。確かにそうだなと思います。宗教のもつ心の寄り添い、傾聴はこれからです。そこには目が向かずに活動を終了したり、違う活動へと流れたり。きっと見ているところが違うのかもしれません。私たちは力を合わせて働きます。しかし、私たちの賜物を忘れてはいけません。そこに神様から与えられた使命と言う者があります。いま被災地に留まり、踏ん張る寄り添いが求められているように思いますが。

パウロは「わたしたちは神のために力を合わせて働く」と教えています。力を合わせて行くということは、自分一人ではできません。お互いが合わせていかねばならないのです。しかしその目的は一つです。「神のために」。この目的がはっきりしてから、「合わせる」ということの意味もはっきりするのです。