2018年5月31日木曜日

「毎朝のリズム」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「毎朝のリズム」
 
 次女・愛美の朝は、台所へ行くことから始まります。始めは気にならなかったのです。ところが、起きたらすぐに台所へいく姿を見て、いったいそこに何があるのか確かめてみたくなりました。
 
 ある日のこと、朝起きてきたのを幸いに、後をこっそりついていきました。すると愛美は、トコトコと台所へ行き、なんと自分の弁当を覗いていたのでした。つまり、彼女の毎日は、自分のお弁当に何が入っているのかを確かめることで始まっていたのでした。わりと好き嫌いがある方なのか、自分の嫌いなものが入っていると抗議をしてきます。また、彩りとかを注文したり、とにかくうるさいのです。
 
 さて、私たちは毎日何から始めているでしょうか。自分のことを考えてみると、やっぱり新聞を読むでしょうか。そしておもむろに洗顔でしょうか。つまり、毎日のリズムなどは忘れているようなものです。忘れてもできるからリズムよく動けるのかもしれません。
 
 礼拝もリズムだと言われます。「今日こそ行くぞ」も必要ですが、自然とそこに座っているというのが本当の礼拝といえます。生活のリズムとしての礼拝ができれば、負担になることから解放されそうです。しかし、人間はすぐにリズムを壊してしまうものなのですよね。

2018年5月30日水曜日

「受けるだけでなく」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「受けるだけでなく」

2コリ 8:7 あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。

広島のストリートにハギーというミュージシャンがいました。夢を追いかけていたに違いありませんが、33歳の若さで天に召されました。夢だけで生きていたら終わりということも知っている彼でした。夢を追いかけるためには、昼間は重労働し汗まみれに働いて、よるデパートの前で唄っていたのです。彼の歌で「自由詩人」というものがあります。繰り返しでてくる言葉は「奪うことは止めにして、与えて生きていこう」でした。イエスが言われた「受けるより与えるほうが幸いである」という言葉と重なりました。彼の中にもイエスが御言葉をまかれていたのですね。彼は長崎の五島列島出身でした。

この手紙の8章9章は、エルサレムの貧しい聖なる者たちへの募金を訴える趣意書のような内容です。パウロは「異邦人の使徒」であったが、エルサレムの聖なる者たちへの募金活動を、ガラテヤ、マケドニア、アカイアの各地方で行っていました。コリントの人々はパウロとの関係で、この募金を停止していたようです。そこで、もう一度再開するようにと呼びかけています。その中で、コリントの人々が豊かに受けている恵みをあげ、それゆえに奉仕することを促しています。

イスラエルに「死海」という湖があります。地球上で最も低い所にある湖で、海抜マイナス418メートルにあります。海水の塩分が3%に対して、死海は30%あります。当然ながら、生物の生息には不向きな環境であるため、湧水の発生する1ヶ所を除き、魚類の生息は確認されていない。死海という名称の由来もここにあります。この死海についてイスラエルの旅行ガイドは次のように説明しています。「死海はヨルダン・ガリラヤの何本かの川から命の水を受けているが、自分から外にだすことはない。受けるだけで与えることがなければすべては死んでしまう」と。神様からのたくさんの恵みを受けるだけで隣人に与えることがないならば、その人の信仰は死んでしまうということです。

パウロは「すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」と言います。神様から受けたものを与えることによって、自分も豊かな者になるということです。イエス様の言葉として使徒言行録には「受けるよりも与える方が幸いである」と記されています。

2018年5月29日火曜日

「伝道マニュアル必要論」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「伝道マニュアル必要論」
 
 教会の伝道についても「マニュアル必要論」が多くなってきました。いまや、なんでもマニュアルの時代になりつつあります。あるハンバーガーショップなどは、世界の人に同じ味とサービスをということで、なんと1万ページにおよぶマニュアルと90本のビデオがあるそうです。本当にそれだけ必要なのでしょうか。もし必要であってもなにかそこには寒いものを感じます。
 
 一方、東京ディズニーランドの掃除マニュアルには次のようにかいてあります。「ハイハイできる赤ちゃんが、ハイハイしても汚れないこと」。たったこれだけです。なんと単純なことでしょうか。しかし、本当はこれだけでよいと思うのです。あとは自分が考えることが大切だといえます。
 
 さて、教会の「伝道マニュアル」は何と書きましょうか。きわめて単純なことでよいと思います。《礼拝を守る》です。この世界において礼拝を守れるということは奇跡です。その奇跡に気が付いていないのが私たちなのです。毎週たった1時間を厳守できないのです。リズムをつくることができない。《礼拝を守る》というたったひとつのことが、すべての信仰を表していくのだと言えます。
 
 私たちの生活は何が中心なのか。どこに中心をおいているのか。誰が支えてくださっているのか。そのことを問い直してみると、伝道マニュアル「礼拝を守る」これだけでいいように思えますが。どうでしょうね。

2018年5月28日月曜日

「種から育つ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「種から育つ」

1ペトロ 1:23  あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

ある牧師さんから秋だというのでプレゼントされたものがあります。それは植物の種です。つばき、せんりょう、あけび、かりん、その他。なんとこれは東京の教会のベランダでとれたものだそうです。それらの木を大切に育てておられました。しかし、もっと驚いたことは、これらの木は誰が植えたのでもなく、鳥が運んできた種が木になったということです。神様の命を誰かが受け継いでくれるのですね。しかも、その木が都会に潤いを与えているのです。宣教の種蒔きも同じかもしれません。根気よく、あせらず、こがらず。きっと花咲く時がくることを信じていたいものです。

ペトロの名がついた手紙は2つあります。本日の箇所は「聖なる生活をしよう」という表題がついています。「いつでも心を引き締め」「身を慎んで」と。しかも「生活のすべての面で聖なる者となるように」と教えます。そのような生活がいまの私にできるかどうか。ペトロはできるという確信のもとに教えられています。それは「朽ちない種」「神の生きた言葉によって」私たちの「いま」があるからです。

ある幼稚園を訪問しました。園長先生の交代とともに、教育方針の改革をおこなったことを知っていました。その改革とは、園庭を自然に戻したのです。もともと森の中にあった土地を開墾して広場をつくったのですが、その運動場に再び木を植えて森にし、森の中の幼稚園にされたのです。子どもたちが森の中で遊んでいる様子が新鮮でした。その園長先生から不思議な話をききました。種から植えて育てた木と、植林した木では育ち方や力強さがちがう。種から育った木は「育つ力があり元気」、植林した木は「順応するために力をつかうから育ちが悪い」と。種から育つことの意味を教えられました。

ペトロも「種」を問題としています。この「種」は朽ちないもので「神の変わることのない生きた言葉」によると言うのです。私たちにはこの「種」が与えられています。この種に力があることを受けとめでいきてまいりましょう。

2018年5月27日日曜日

礼拝に来ませんか

本日の礼拝説教者は
松岡俊一郎牧師(大岡山教会牧師・元阿久根教会)です。
懐かしい先生と共に零敗を守ります。

2018年5月26日土曜日

気ままな休日・肥後の赤牛

たまには「肉」を
食べるなら美味しい肉を!
きっとこれは肥後の赤牛だと思います。
おいしかったな~

2018年5月25日金曜日

もう夏でしょうか

鹿児島へ向かう高速道路のPA
すっかり緑も深くなってきました。
暑くなりましたね~もう夏でしょうね

2018年5月24日木曜日

「困難の中で」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「困難の中で」
 
 「違う角度からの人生観」という本に、《信じること》と題して書いてあります。
 
 「ぼくは小さくて、野球もフットボールもまだできない。だって八歳になっていないんだもの。それに、ママは、ぼくが野球をはじめても速く走れないって言う。足のしゅじゅつをしたからね。でもぼくはママに言ったんだ。『速く走れなくてもかまわないんだ』って。だって、ぼくが球を打つと、ぜったい野球場の外に出ちゃうんだから・・・。走る必要がないんだ。あとは歩いてホームインするんだ」。
 
 私たちは、人生の中で困難に出会うと、どうしても後ろ向きに考えてしまいます。なにかのバチが当たったとか、もうだめだとか。しかし、本当にだめなのでしょうか。そのようなことにぶち当たったときに、どうしたら前向きに考えることができるでしょうか。それは《信じる》ことです。
 
 クリスマスの出来事は、実は非常に困難な出来事の上にあります。結婚してないのに身ごもったマリア、大きいおなかを抱えて旅をする二人。泊まる宿屋がない。馬小屋で出産。このような次から次へと起こってくる困難の中で、マリアとヨセフはただ信じたのです。何を信じたのか。それはただひとつ「神様の御言葉」です。前向きに生きるために《御言葉》は命です。
 

2018年5月23日水曜日

「今日何を行う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「今日何を行う」


1コリント 15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。

伝道セミナーに参加して、一番の収穫は私自身の宣教に対する「悔い改め」でした。宣教・伝道は牧師がするものという考えがあります。また計画やプランも伝道のプロである牧師が立てるものだという考えがあります。私もそのように考えてきました。しかし、「教会の宣教ビジョンは、信徒に与えられる」ということをいつも学びました。この教会をどのような教会にしたいかというビジョンは、神様からこの教会の信徒に与えられるのです。30人位の家庭的な教会でよい、というビジョンならそうなります。100人礼拝を目指すというビジョンなら、そのために何をするのかを出し合うことが必要です。牧師はその案をいかに実現できるかを祈り求めていく存在なのです。先の夢にむかって今があることを考えてみたいと思います。

パウロは神様の教会を迫害したにもかかわらず、その彼が使徒となったのは「復活の主」との出会いによります。その出会いが恵みであり、神様によって「今」があるというのです。過去でも未来でもなく、「今在る者」として他の弟子たちより多く働いたと言っています。

ある本の中で次のような1節を見つけました。「プランニングにおいて重要なことは、明日何かを行うかを考えることではない。明日のために今日何を行うかを考えることである」。仕事にしろ、人生にしろ、いろんな計画を立てながら生きています。多くは明日何をするかを考えています。しかし、目標が何であり、なぜ自分は生かされているかを知ることによって、その明日のために「今日」何をするかが大切なのです。

パウロは神様から大きな恵みを受け、罪赦された者となりました。その時、異邦人への福音宣教というプランを与えられました。そのプランの実現のために「今日」何を行うべきか、「今日」あるべき姿を示すのです。自分の明日のために「今日何を行う」べきであるかを考えながら過ごしていきましょう。

2018年5月22日火曜日

「どこに焦点を」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「どこに焦点を」
 
 説教集「神様の色鉛筆」がやっと出版にこぎつけました。ひとつの本を出版すると、さまざまな反応が返ってきます。その反応が、ときには大変な気づきとなることがあります。
 
 さて、今回の説教集への反応は二通りあります。その一つは、「若い感覚の説教集ですね」「わかりやすい説教です」「簡単な言葉で神様の福音が語られているような気がします」といったもの。これはルーテル教会内の方々からの反応です。
 
 一方、もう一つの反応は、「前回のクレヨンからはちょっと難しくなりましたね」「私たちにはついていくのがやっとです」「考えさせられる内容でした」「少しミッションの学校でのことを思い出しました」といったものです。この反応は教会外の方々、結婚式で教会に来てくださった方々の反応です。
 
 この二つの反応から、牧師が語る内容は、とても難しく受け止められているのだと思いました。教会内の方々は聞き慣れた内容だけに、それが変わった視点で語られることに好意的だといえます。しかし、教会外の方々にとっては、もっと分かりやすい内容、言葉にしなければ福音は届いていかないのだと気がつかされました。言葉(キリスト)を伝えることは、大変な作業です。どこに焦点を合わせるのか、そのことがこれからの課題です。

2018年5月21日月曜日

「信仰というよりも」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「信仰というよりも」

ルカ 17:6 もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

ある女子高生が、教会の修養会で話していました。「わたしはカタクリコです」と。皆さんには、どういう意味かわかりますか。私はまったくわかりませんでしたが、これは日本のキリスト者の重要な課題なのだと知らされました。しかも、それは信仰の継承の問題なのです。「わたしはカタクリコ」というのは、「わたしは、両親のうち片方だけがクリスチャンの子です」ということなんです。笑い転げながら、これは深刻な問題かもしれないと思いました。今の教会には「カタクリコ」はどのくらいいるのでしょうか。多分そうとうの数の「カタクリコ」がいると思います。その子供たちが自分の両親を見ていく時、どのように両親から精神的なものを受け取っていくのかなと考えてしまいます。そこに信仰を見出すでしょうか。

イエス様は「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」と言われています。ということは、人間にはたったそれだけの信仰もないということでしょう。それだけの信仰があるならば木が動くと言われています。

信仰とはいったい何でしょうか。ルター先生の言葉を借りれば、『「不信仰な私を赦してください」という祈りこそ信仰者の祈り」と言っておられます。私たちは、信仰があるのか、ないのか、多いのか、少ないのかとよく考えています。しかし、神様しか信仰があるかないかなど分からないことです。そう思うと、私などが「あの人には信仰がない、あの人の信仰は薄い」などと言えないのです。そんなことを言って自分を慰めるよりももっと信仰の徳を高める言葉を語りたいと思います。

本日の聖書では、からし種一粒の信仰の話の前後に、『赦し』と『奉仕』の話がでてきます。「信仰・信仰」と言ったり考えたりするよりも、『赦し』と『奉仕』でわかるものだよといわれているような気がします。

2018年5月19日土曜日

きままな休日・トビウオの塩焼き

熊本にある29チャンネルのランチです。
いまが旬のトビウオだとか。
あっさりしていて美味しかったです。

2018年5月18日金曜日

鹿児島教会イノベーション

聖壇を広げました

聖なる空間へ
皆さんも一度是非鹿児島教会へきてください。

2018年5月17日木曜日

「それぞれの信仰」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「それぞれの信仰」
 
 娘が3人与えられていますが、それぞれの性格の違いに驚いています。その中で(まあ、3番目はまだわかりませんが)、かなり積極的なのは、次女です。誰に似たのでしょうか。
 
 実は次女には「ゆうすけ」くんという、好きな男の子がいるのです。その子へのアタックは親も驚くほどなのです。まず、ゆうすけくんに「誰が好きか」と聞いたそうです。彼は「まなちゃんといっちゃん」と答えました。すると次女は、遊んでいたいっちゃんを連れてきて、「どっちが好きか」と聞いたらしいのです。彼は優しいので、「両方」と答えました。納得しないのは次女です。「それじゃどっちと結婚するか」と詰め寄りました。彼も「両方」とは言えなかったのでしょう。「○ちゃんとする」と答えてくれたのです。次女は得意になって報告してくれました。「わたしゆうすけくんと結婚することに決めた」。
 
 この押しの強さを少しわけてもらいたいほどです。たぶん次女の信仰もこのようなものではないでしょうか。「ストレート信仰」だと思います。一方長女は違います。これは「てれやの信仰」でしょう。良く言えば「おしとやかな信仰」でしょうか。彼女の信仰は「イエスさまおまもりください」によく現れているといえます。
 
 どんな信仰でも、受け継いでくれたらそれだけでアーメンです。

2018年5月16日水曜日

「無一物」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「無一物」

2コリ 6:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

先輩の牧師がラジオ番組に出演された時のことでした。その番組は、ある宗教がスポンサ-で、どうしても牧師と紹介できないとディレクタ-は困っていたそうです。録音の日になり、三人のゲストが揃い番組は始まりました。最初は司会者がゲストの紹介をします。さて牧師と言わずに何と紹介したのでしょう。「本日のゲストは、岡山大学の〇〇教授、ノ-トルダム女子大の〇〇教授、そして日頃ボランティアにがんばっておられる方です」。私たちはそれぞれ肩書きを持っています。また、肩書きで人を見たりもします。しかし、肩書きは肩書きでしかないのです。その人の全てではないということです。肩書きのないところで、自分は自分をどう紹介するでしょうか。

コリント2の手紙の6章でパウロは、コリントの人々へ語ってきたことを一度まとめています。結論としては「心を開くように」と勧めています。それが警告の言葉であったとしても、心を狭くせずに受け止めなさいというのです。パウロの言葉の背後には、パウロが持っている福音があります。何ももっていないパウロがもっているキリストのみ言葉によって「心を開くように」と言うのです。

千利休が陶工・長次郎に造らせた抹茶碗に「無一物(むいちぶつ)」というものがあります。松平不昧公(17511818)所持で知られる赤楽茶碗の名碗です。この茶碗になぜ「無一物」と名前がついたのか私にはわかりません。無一物とは、好き嫌いとか損得、良し悪し、などといった二見にとらわれた概念がないことです。囚われない心というのかもしれません。この茶碗をみていると、その存在のみでいいのだという気になってきます。どう受け取るかはあなた次第。そうするとこの茶碗には無限の解釈ができるということです。心を開いてみるときに受け取る無一物があるのでしょう。

パウロは「無一物のようで、すべてのものを所有しています」といいます。何も持っていないようですべてを持っているというのです。パウロにとってキリストの福音を持っているということは、すべてを持っているということと同じことなのです。私たちが人生の中で持たねばならないものは多くはありません。いや一つです。それがイエス・キリストなのです。

2018年5月15日火曜日

「あのね」

クレヨン牧師のミニエッセイ

あのね」
 
 長女はいま「せんせい、あのね」という作文を書くのが楽しみのようです。先日はこんなことを書いていました。
 
 「せんせい、あのね。わたしのおとうさんのなまえは、やすひろといいます。おかあさんはてるみです。わたしははなみといいます。いもうとはまなみです。あかちゃんはみなみといいます。みんなみがつきます。でもおとうさんだけみがつきません」と。すると、先生の返事は「みんなすてきななまえですね。おとうさんもみはつかないけれど、やすひろというなまえはすてきななまえですね」と。微笑ましくて、なんだかうれしくなってきました。長女と先生のやりとりのなかで、何か暖かいものが行き交っているような感じがします。そのやりとりを見ていると、神様と私たちも同じやりとりをしていることに気が付きました。
 
 「祈り」とはそのようなものではないでしょうか。「かみさま、あのね」と感じたこと、感謝したいこと、訴えたいことなどを、書き連ねているような日記かもしれません。その日記へは、御言葉というすばらしいもので返事をくださるのです。
 
 いつもは親としての権威をみせている私ですが、やっぱり祈りの中では神様の子供です。思いっきり甘えてみたり、怒られてみたり、感謝したり、訴えたり。どんなときも返事を返してくださる神様に心から感謝です。

2018年5月14日月曜日

「み言葉の命を」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「み言葉の命を」

ペトロの手紙1 1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

私たちは毎日何から始めているでしょうか。自分のことを考えてみると、やっぱり祈りからでしょうか。そしておもむろに洗顔でしょうか。つまり、毎日の習慣などは忘れているようなものです。忘れてもできるからリズムよく動けるのかもしれません。礼拝も生活習慣だと言われます。「今日こそ行くぞ」も必要ですが、自然とそこに座っているというのが本当の礼拝といえます。生活のリズムとしての礼拝ができれば、負担になることから解放されそうです。しかし、人間はすぐにリズムを壊してしまうものです。

ペトロは手紙の中で「聖なる生活をしよう」と呼びかけています。私たちを不順な生活から召しだして下さった神様にならって、その生活面で聖なる者となることを求められています。それができるのは、召しだされた者が、新たに生まれたものだからというのです。しかも神様の言葉という朽ちない種から生まれた信仰者だからこそ聖なる生活をしようと言われています。み言葉の種は生きており、新たに生まれさす力をもっているのです。

宮戸島にある月浜の被災地に行ったときのことです。。その集落は津波によってほとんどの家が全壊していました。やっと重機がはいり、整理が始まった頃かもしれません。全壊した家の前にたち祈っていますと、ふと足元に花を見つけました。よくみるとジャガイモの花でした。ちょうどそこは家の台所があった場所のようでした。家にあったジャガイモが津波で全壊した家の下から芽をだし、花を咲かせたのです。もうすぐ実もなることでしょう。神様が与えられた命はこんなに力強いのです。芽を出すだけでなく、明日へと命をつなぐ実を結ばせるのです。生きた命の尊さと力を教えられました。

ペトロは「神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」と教えてくださいました。私たちは、神様の生きた御言葉によって新しく生まれたものです。私たちの中には神様の命が宿っています。この命が「死んでも生きる」命です。私たちに与えられた御言葉を見つけ出すとき、私たちはおのずと聖なる生活に招かれていることがわかります。

2018年5月12日土曜日

気ままな休日・大地に恵みポーク新製品

大地の恵みポーク、スペアリブ骨なし肉を漬け込んだ製品です。
肉自体が美味しいので、これもまた美味しです。
皆さんもどうですか?

2018年5月11日金曜日

明日は鹿児島教会でワークです。

新しく整えられた鹿児島教会へも
ぜひお越し下し。きれいな会堂になりました。

2018年5月10日木曜日

「なつかしい匂い」

 
クレヨン牧師のミニエッセイ

なつかしい匂い」
 
 今年初めて、「白い吐息」を見ました。というのも、先週六日市での帰り道に外に出てみると、ハーッと出た吐息が真っ白になったのです。もう季節は冬なのです。最近まで暑いと思っていたのに不思議です。
 
 この季節は私の好きな香りがします。あの籾殻を焼いている匂いです。あの匂いを嗅ぐと季節を感じますし、生まれた田舎を思い出してしまいます。あの籾山の中に芋を入れてよく食べました。しかし、走り回っていたので、どの山に入れたか忘れてしまったことなどもありました。そんなことを思い出させてくれるの匂いなのです。
 
 人には、なつかしい匂いというものがあります。この匂いは忘れられないものとか、この匂いを嗅ぐと安心するとか。他人には臭くてしかたないものでも、自分にとっては思いでの一部になっていることもあるのです。とくに漬物などはそうかもしれませんし、香水にいたっては言うにおよばずです。
 
 「キリストの香り」という言葉があります。どんな香りでしょうか。これは人それぞれだと思います。しかし、どんな香りであってもよいのです。その人がその「キリストの香り」によって平安を得ることができたらそれでよいのです。一番悲しいのは、その香りを忘れてしまっているときだと言えます。でも安心してください。ふとどこからともなく漂ってきますよ。きっと。

2018年5月9日水曜日

「先に」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

先に」

  マタイ  14:22 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。

   NTTが毎年、「おいで、おいで、心にとまるいい話」という募集をしています。去年の作品のなかに、九才の女の子が「『おはよう』おばあさん」というのを書いていました。その話は、「『おはよう』、朝一番に聞こえてくる声です。まだねむい目をこすりながら起きていくと『おはよう』とおばあさんの声。わたしが『おはよう』と言うまで、何度でもいいます。だから、毎日、わたしとおばあさんとで、どちらが先に『おはよう』と言うか、きょうそうしています」というものです。最後のほうには、「家中あいさつをしていると、誰もがにこにこ顔になって、わたしのまあるい顔がますますまあるくなってきます」で終っています。どちらが「先に」というところに微笑ましさを感じます。
  
イエス様が湖の上を歩いたという奇跡物語です。これを合理的に解釈しようとする人たちは「イエス様は岸辺の浅瀬を歩いておられたのであって、弟子たちが嵐で動転していたため夜明けの薄明かりの中で見誤った」と解釈しています。また象徴的解釈としては、「沖へ漕ぎだす舟は教会を表し、イエスが不在の教会は夜の闇の中で逆風と波に悩まされる。そこへイエスは神として現れ、弟子たちを救助する」とあります。どちらにせよ、弟子たちを「強いて先に行かせた」というところが心に止まりました。
  
今年は台風が首都圏を直撃しました。心配はしていましたが、進路は変わらずに上陸し、日本列島を縦断しました。こんなとき事務局は、どのような対応をされたのかと思いました。そこで振り返ってみると、台風が来るたびに危機管理ということをまた学びました。いつどの時点で帰宅指示をだすか、なにを優先させるべきか。それらはすべて危機管理がどうであるかが問われることです。被災地でもこの危機管理ということを何度も聞きました。ある被災者は「先をみた早めの判断」ということ言われました。危険が近づいている時、先を考えて、早めに対処すること。なにもなければそれが一番よいことであると。管理職に求められる危機管理に「先をみて判断する能力」があると言えます。
  
イエス様は弟子たちを「強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせた」とあります。先をみておられたのでしょう。しかし、その「先」はただの逆風ということではなく、そこにおける信仰をみておられました。神様がなさることは「先先へ」と進んでいきます。あとで分かることが多いものですが、すべては神様の導きの中にあることを信じて歩むことが大切です。

2018年5月8日火曜日

いじりすぎ

クレヨン牧師のミニエッセイ

「いじりすぎ」
 
 生まれて始めて《点滴》というものを経験しました。病院にお見舞いなどにいくとよく見かけていましたが、自分がするとは夢にも思っていなかったのです。 診察してくださったお医者さんが「これでは物が食べれないでしょう。時間があれば点滴しませんか。そのほうが治りもはやいですよ」との言葉に、返事もできない私はただうなずいてお願いしました。しかし、なにぶん初めてのことなので、「痛いかなあ」「気分悪くならないかなあ」「途中でおしっこに行きたくなったらどうしよう」「寒くないかな」などと心配していましたら、それはみんさんプロの集団なので、暖かくしてくださるし、親切にしてくださいました。
 
 ところが、始めのうちはよかったのですが、時間がかかるのでヒマになってきたのです。何をすることもなく、聞いちゃいけないと思いつつ、人の診察に聞き耳を立ててしまいました。すると案外耳をいじって炎症を起こしている人が多いことに気が付きました。「先生、耳が痛いのですが」というほとんどの患者さんに対して「耳をいじりすぎていますよ」と答えておられました。ある方など、「でも毎日さわらないと気持ちわるくて」と。へんにいじくり回すといけないこともあるものだと、点滴を受けつつ思いました。
 
 信仰も同じですよね、へんにいじくりまわすと心に炎症を起こしてしまいます。与えられた信仰は与えられたままに受け取るのが恵みというものです。

2018年5月7日月曜日

「ありがとうを返す」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「ありがとうを返す」

ヨハネ 3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

ある本の中の言葉です。「JRの駅のトイレに入った。用をたす。その目の前に貼り紙があった。《汚さないでください》といった注意書きではなかった。それでいて、何となくきれいに使いたくなる貼り紙だった。その内容は・・・。《きれいに使って頂いてありがとうございました》」。さて、私たちのまわりには《否定語》を使うことが多々あります。自分のことを反省してみると、子供にたいしてなんと否定語が多いことかと、がっかりします。注意や禁止を告げる言葉も、言い方によっては人を傷つけずにすむものです。本当に愛のある言葉は人を癒すのです。

 ヨハネ福音書の中で、最も有名な箇所です。たいてい好きな聖句のトップにこの聖句が上げられます。神様が、独り子であるイエス様を十字架の死に渡してまで、私たちを愛してくださったのです。私たちの罪を赦しあがなうためです。「たち」というより、これを読む人は「私」と置き換えます。こんな私のために、神様がそこまでしてくださったことに感謝するのです。

 会話の中でよく聴く言葉があります。「すみません」という言葉です。本来「ありがとう」と言うところで、「すいません」といいます。何も悪いことはしていないのに謝っているように聞こえます。しかし、ある仏教のお坊さんの解釈を思い出しました。「すいません」という言葉は、「私」はこれまで多くの人、出会い、物、大自然のおかげで今日まで生きてくることができた。しかしそれに対して何一つ恩返しができていない。つまり「すみません(申し訳ない)」という気持ちを表した言葉ですと。あなたからの恩になにも返せなくて「すみません」ということです。

 神様から私たちが頂いたものを数えることができません。(あまりにも多くて)イエス様の命までも頂いたのです。神様に何を返していけばいいのでしょうか。いや、返すことを神様は望んでおられないと思います。「ありがとう」と感謝して受け取ればいいのです。そして、頂いた恵みを隣人と分かち合い、「あなたも神様から愛された存在ですよ」と伝え、隣人に仕えることが「すみません」の言葉、それが本当の生き方だといえます。

2018年5月6日日曜日

2018年5月5日土曜日

聖霊降臨日「教会誕生祭」

今年はテレビ中継礼拝です。
小学生ギタリスト・高校生による絵本朗読があります。

2018年5月4日金曜日

きままな休日・串木野のマグロ

串木野のみなみマグロ
いつ行っても食べられなかった2色丼
今回初めてゲットしました。人気ですもんね。
マグロ祭りやっていました!

2018年5月3日木曜日

見極め失敗

クレヨン牧師のミニエッセイ

「見極め失敗」
 
 恒例になったともいえる、一年一度の大風邪ひきが、今年はこんなにも早くやってくるとは思いませんでした。先週の月曜日の朝から「ちょっと体調が変だな」と思っていました。しかし、大阪へ出掛けたのがそもそもの間違いだったのです。 火曜日から発熱。ついでに牧師の大切な喉をやられました。それでも、金曜、土曜と結婚式があるので、それまでになんとか立ち直ればと考えていたのは甘い考えでした。日を過ぎれば過ぎるほどひどくなる。喉のために、ネギを巻いたり、アラジオを巻いたり。カリンをなめたり、ネギを煎じてうがいしたり。民間療法のありとあらゆる手と、薬局の薬を飲みまくりました。ところがそれでもだめでした。木曜日の深夜、「ああ火曜日に医者に言ってればよかった」と改めて思いました。
 
 私たちには自分で何とかできるものと、自分ではどうにもできないものがあります。その見極めを失敗するとこうなるのだと教えられました。やっぱりおかしいなと思ったら医者にいくべきですよね。
 
 そしてもうひとつ。牧師にとって声がいかに大切かを知らされました。声が出ないということは、ほとんどのことができないことがわかりました。結婚式も、電話相談も、はたまた子育ても。これからはノドをいたわりつつ、この声を与えられていることに感謝したいと思います。 

2018年5月2日水曜日

「たった一言で」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「たった一言で」

マタイ  8:8 百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。

お寺の前を通るとき、よく掲示板をみます。たいていは墨字で達筆にかかれてあります。あるとき旅行中に小さなお寺を見つけました。そこには大きな字で次のように書いてありました。「たった一言が、人の心を傷つける。たった一言が、人の心を温める」と。言葉というものには力があります。たった一言の力だと思います。その使い方によって、人を傷つけるし、癒すこともできるのです。この言葉の力をもっと考えていかないといけないのです。

イエス様のもとに「百人隊長」がやってきて懇願するという出来事です。たったこれだけでも凄いことです。百人隊長はユダヤ人を支配し、命令する立場にあります。またユダヤ人は百人隊長を異邦人として忌み嫌って近づこうとしないからです。そんな関係がある者が、出会うのです。そして、イエス様に百人隊長の方から部下の「いやし」を懇願したのです。その中に「ただ、ひと言」という言葉があります。

ある本でみつけた話です。「96年のことである。46日間漂流して奇跡的に助かった漁師がいる。沖縄の人である。当時67歳。軽い脱水状態だったが、生命には別状がなかった。取材記者に救出の模様を語っていた。しめくくりの言葉が凛として見事だった。『これからまた漁にでますか』二コリともせずに答えた。『わしは漁師だからね』と」。もうひとつ。「ある自転車愛好家がいる。といっても、並の愛好家ではない。南北アメリカ、欧州、アジア、アフリカ、オーストラリアの80ヶ国を走破した人である。走行距離は13万7千キロ。六年半かかったそうである。日本に無事帰ってきて、旅の感想を聞かれた。そのときのひとことが、私たちに勇気を与えてくれる。『自転車乗りは上り坂を目指すんです。坂道はきついが、頂上はかならずあるんです』と」。人生の中で見つけた一言はとても重い言葉です。

 百人隊長は、イエス様がどんな方で誰であるかを本当にしっていたかどうかわかりません。しかし、そのみ言葉の力は信じていました。言葉には力があります。

2018年5月1日火曜日

無条件に笑う

クレヨン牧師のミニエッセイ

「無条件に笑う」
 
 我が家の三女・聖美も5ケ月を迎えることができました。多少、人見知りはするものの、元気で過ごしています。
 
 さて、聖美の笑顔の研究をしてみました。どんな時に笑うか。どんな人に笑いかけるか。どんな風に笑うか。などと楽しんで観察してみたのです。すると結果は、「どんなときでも笑うのだけれど相手による」でした。とにかくニコニコしている人に抱かれたり、あやされたりすると笑うのです。赤ちゃんは無理やり笑わせようとしてもだめです。自分からほほ笑みかけていったときに初めてほほ笑むということがわかりました。
 
 ところが、無条件に笑う相手もいます。それはお母さんです。これはいつでも無条件に笑いますし、その笑顔の質が全然違うことも明らかです。同じ屋根の下に住んでいても、お母さんに対してだけは格別の笑顔をみせるのです。それくらい信頼、安心してすべてをまかせているということでしょうか。
 
 私たちは神様に対して祈るとき、どんな顔をしているのでしょうか。つらく苦しい顔でしょうか。それとも輝く笑顔でしょうか。私たちはなかなか笑顔では神様の前に立てません。それは自分を隠そうとしているからでしょうか。すべてを捧げて安心できる関係ならば、やはりどんなときでも笑顔で祈れるような気がします。