2018年9月30日日曜日

きままな休日・三女とイタリアン

   会議が早く終わって、三女と夕食。イタリアンがいいね!と
   ワインで乾杯。なかなか千葉でイタリアンもいいね。
その後にセブンに寄っておでん買ったのはナイショ!

2018年9月27日木曜日

明日はTV中継礼拝

明日の礼拝
TV中継礼拝です。
説教者:立野泰博牧師(大江教会)

「ここに神様がいるよ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ここに神様がいるよ」
 
 赤ちゃんが病気になるとき、それは急の場合が多いものです。さっきまで元気で走り回っていたのに、次ぎの瞬間は高熱を出してうなっていることがあります。自分の口で体調を訴えることができないので、親としては不安がつのります。
 
 日曜日のことでした。夕食まで元気だった1歳の聖美が、いきなり高熱をだしてぐったりしたのです。「もしかしたら」と思っていたら案の定「熱性けいれん」を起こしてしまいました。赤ちゃんが「けいれん」を起こした時、親はそれが経験があったとしてもおろおろしてしまいます。やれ、頭を冷やせ、救急車だ、医者に電話だ、このまま直らなかったらどうしようと、パニックになってしまいそうでした。
 
 今回は早い時間でもあったので、上の二人の娘もその様子をみていました。娘たちにとっては初めての経験で、親以上にパニックでした。普段は喧嘩ばっかりしている姉妹でも、そのときの協力は素晴らしいものでした。私はそのパニック状態の娘たちに「信仰」をみた思いでした。二人はその状態の中で、まず祈りだしたのです。それは必死の祈りでした。「神様、聖美ちゃんを助けてください」と涙声で祈ってました。そして何を思ったのか、家中の十字架を持ってきてベットに並べ、「聖美ちゃん大丈夫だよ、ここのイエス様がいるよ」と励ましていたのです。そして、祈りは聞かれました。信じる者の祈りはやはり聞かれる。

2018年9月26日水曜日

「自分以外をみる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「自分以外をみる」

 フィリピ 2:4  めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

いろんな人と食事をしていると「自分流」ということを感じます。その人にとってはあたりまえのことでしょうが、とても不思議に見えることがあります。なんでも酢をかけて食べる人。カレーに醤油・ソースをドボドボかける人。とんかつに醤油をかける人。牛丼の肉よりも多く紅ショウガを入れる人・・・。自分にとってはあたりまえでも、人からみれば特殊というのがたくさんあります。このことが人に不快感をあたえなければいいのですが。共に生きていく、働くという場面においては「自分流」も少し見直していくことが大切かもしれません。

 パウロは「キリストを模範とせよ」というテーマで、自分のことだけでなく互いに思いを一つにと教えます。「同じ思い」「同じ愛」「心を合わせ」「思いを一つ」にと強調しています。そのために必要なことは「へりくだる」ことです。互いに相手を自分より優れた者と考えなさいと教えるのです。共に生きていくには、自分勝手に生きるのではなく「互いにへりくだる」ことが必要であり、それはキリストが模範として示してくださったことだと言うのです。

 「どうして牧師に祈ってもらわんの」という言葉を、あらためて深く受けとめました。そういえば、「このために牧師先生祈ってください」とお願いされたことはあまりありません。私たちは祈りをお願いするということはあまりないのでしょうか。「それぞれ祈り方が違う」「祈りとはそんなものではない」「祈ってもどうにもならない」という言葉をよく聞きます。しかし、私たちは追いつめられ、どうしようもない状態になったら、祈らずにはおれないのです。祈りの力を知らない。祈ることの素晴らしさに気がついてないと思います。祈ることはキリスト者の命です。そして自分のことだけでなく、教会のために祈ることは、教会の命です。牧師のために祈ることは宣教の命です。自分のことばかりでなく、自分以外を考えて生きていきたいと思います。

 パウロはキリストを模範にといいます。そのキリストは「へりくだった」のだと。この「へりくだり」の心を互いに持つことが、自分以外をみることにつながります。

2018年9月25日火曜日

「古本屋さんでクレヨンが」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「古本屋さんでクレヨンが」
 
 市内の他教派の牧師が訪ねてくださり、びっくりするようなニュースを教えてくれました。そのニュースとは「先生の書かれた『神様のクレヨン』を古本屋で見つけましたよ」というものです。本当にびっくりしました。
 
 古本屋に出回るようになったのか、と感慨深いものがあります。見に行きたいという衝動もありますし、いったい値段はいくらかなと心配でもあります。いろいろと想像して楽しみました。もしかするとルター先生の本と並べてあったりしてとか、バルト先生の横だったらどうしようとか。いやいや漱石の横かもしれないし、鴎外かも。いやいやゲーテだったらどうしようなどなど。それは楽しい時間を与えてくれたのです。
 
 たかが1冊の本ですが、私にとっては子どものようなものです。いまそれぞれの本はどのようになっているのでしょうか。家の中のどんなところに置かれているのでしょうか。そして、その本を通してどんな人生が送られているのでしょうか。そのように考えると祈らずにはおれません。
 
 聖書は私たちにとって命の本です。毎日読んでもいても新しい発見ができます。しかも、神様がいかに私たちを大切にされているかがわかるのです。聖書は神様の御言葉そのものです。その一つ一つが私たちを支えてくれるのです。いつもそばにある聖書は神様の御子キリストと同じように感じます。

2018年9月24日月曜日

「命の言葉」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「命の言葉」

フィリピ 2:16 命の言葉をしっかり保つでしょう

 「心にしみる名僧・名言逸話集」の前書きに、次のようなことが

書かれてありました。「人間が生まれたのには何か使命があるのだろう。使命とは、この自分の命を使うことであり、生命とはこの自己の命を生かすことだと気がついた」。この言葉の前にいま立ち止まっています。神様からいただいたこの命を使うとは、どのようなことでしょうか。また、この命を生かすにはどうしたらよいでしょうか。使命と生命。もし与えられた命を自分のためだけに使うとしたら・・・。そうありたくないと思います。神様と隣人のために私の与えられた命を使うとき、やっぱり私の命は生かされるのだと言えます。

 パウロは、「命の言葉をしっかり保つ」と言います。言葉には命があるのです。心の振動・命を伝えるのが言葉です。「ありがとう」の一言が人を生かすのは、その「ありがとう」に心が込められているときです。私たちはイエス様から「命の言葉」をいただいています。その「命の言葉」がどんなときでも励まし、慰めを与えてくれるのです。その「命の言葉」を大切にすることがキリスト者の努めだと言えます。使命も生命も、その中止には神様のみ言葉があります。

何世紀もの昔、イギリスである王様が驚くような実験をしたそうです。それは生まれたばかりの赤ちゃん10人に対して、一言も言葉をかけなかったら成長して何語を話すかという実験です。大変残酷な実験だと思います。言葉による触れ合いをさせなかったというのです。さて、皆さんにはこの実験結果がどうなったかわかりますか。実は、赤ちゃんは2歳にならないうちにみんな死んでしまったのです。

 パウロは、「命の言葉をしっかり保つ」と言います。私たちの人生は神様のみ言葉をしっかりと持つことによって生かされた人生となります。命の言葉を保つことによって使命が与えられます。今日は自分の言葉のひとつひとつに「命」を意識して過ごしてみたいと思います。

2018年9月23日日曜日

きままな休日・ホテルごはん

36994423_1702202043208316_7848349578574168064_nホテルでの会合に招かれました。
会席料理でしょうね~いろいろとあって嬉しいです。
ただ、もっとガッツリ食べたいと思う夏の終わりですね~

2018年9月22日土曜日

2018年9月20日木曜日

「天国のような会話」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「天国のような会話」
 
 六日市の友貞姉から聞いた微笑ましい話。
 
 3人の老婦人の会話です。
 
 A「わたしは最近、何をするにも『よっこいしょ』と声をかけなければ体が動かないので、どうにもやれん」
 
 B「そりゃあまだいいね。わたしは『どっこいしょ』といわねばならん」
 
 C「2人ともまだまだいいんね。わたしは『よっこら、どっこいしょ』といわねばならん」と。
 
 なんとも、微笑ましい限りです。ゆっくりと時間が流れているような感じがして。なんだか天国にいるような会話だと思いました。
 
 誰が言ったかわかりませんが、次ぎのような言葉があります。
 
 「子共 叱るな 来た道だもの 年寄 笑うな 行く道だもの」
 
 なかなかいい言葉だなあと思います。私たちは自分がその時にどんな思いをしていたかよく忘れます。また逆にその時になってみなければわからないことがたくさんあります。あくまでも自分に謙虚であることが大切だと思います。
 
 主イエスは共感することを教えられます。これほど難しいものはありません。自分を捨てなければ共感できないことが多いからです。その点では、主イエスは十字架によって、すべてのことにおいて共感されたのだと思います。

2018年9月19日水曜日

「主が必要とされる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「主が必要とされる」

マルコ 11:3 『なぜ、そんなことをするのか』『主がお入り用なのです』

心理学者のユングがある書物のなかで、「人間の幸福の条件」として五つのことをあげています。第一に「健康」、第二に「自分でほどよいと思う程度のお金」、第三に「美しいことを知る能力」、第四に「人間関係」。そして最後の一つは「朝起きたときにやらねばならぬ仕事があること」です。はじめの三つはいつも言われることですが、あとの二つは軽視されていることです。ほんのわずかの働きでも、何か必要とされている。それが私たちを本当の幸福に結びつけるのです。

奉仕が私たちを幸福にしてくれるのは、こんな私でも必要とされているからです。

イエス様がいよいよエルサレムへ入場される場面です。神の子として、王としての入場ですからさぞかし華やかだったかといえば、そうではありません。この入場に必要とされたのは「子ロバ」でした。旧約聖書の預言の成就ということもありますが、「主が必要とされる」ということに注目したいと思います。

さて「いかに伝道するか」という講演会のお手伝いをしていると、帰りぎわに信徒の方から声をかけられることがあります。その中で多いのが「どうしてそんなに伝道しなければいけないのですか」という言葉です。はじめは、本気でおっしゃっているのだろうかと思いました。しかし、このように思っている人達が多いことに気がつきました。きっと、生活や仕事に忙しいのです。それに加えて伝道なんてとても出来ないと思っておられるのです。伝道はきついものだ、辛いものだ、時間がかかるものだ、お金がかかるものだ、という考えが多いのです。牧師からも同じことを聞きますから「どうしてそんなに伝道しなければ」となるのでしょう。そんなに数を増やさなくてもよいと。しかし、伝道は喜びの出来事を伝えることなのですが。

なぜ伝道するか。答えは「主が望んでおられるから」です。これが本当の答えになっているかどうか疑問です。主が望んでおられても、「わたしにはできません」と答えているかもしれません。それでも「主は望んでおられる」のです。この教会での働きも主が望んでおられる働きです。そこに思いを集中してまいります。

2018年9月18日火曜日

「ストレスがたまると」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ストレスがたまると」
 
 ストレスというのは不思議なものです。これがたまってくると、思いもしないことが、正しいことになってしまうようです。
 
 先日テレビで「日本一気持ちのいいカラオケ」と題して、あるお店が紹介されてありました。どうして「気持ちのいいカラオケ」なのかといえば、ストレスを発散できるからなのです。しかし、日本一というからには、その店にしかないものがあるのです。それは、その店に飾ってあるものは何でも壊していいのだそうです。例えば、花瓶、お皿、時計、壷などの骨董品、テーブル、コップなどなど。つまり、1万円払えば、その店の中のものを破壊してもよいのだそうです。しかも、その店は1年先まで予約で一杯というから驚きました。
 
 みなさんはどう思いますか。私は恐ろしくなりました。このままこんなことが受け入れられていったとすれば、人をどれだけ殴ってもいいカラオケとか、お年寄りをいじめていいカラオケなどが出現するかもしれないと思ったのです。
 
 お金を払えば、自分のストレス解消のために何でもやっていいということはありません。むしろ、そのストレスの原因を見つけて処理するほうがいいと思うのですが。ストレスをためている自分を見つめ直すことが大切ではないでしょうか。 主イエスにはストレスはなかったのでしょうか。なかったと思います。なぜなら、父なる神様にすべて「おまかせ」しておられたからです。

2018年9月17日月曜日

「宣教は刈り入れ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「宣教は刈り入れ」

ヨハネ 4:38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。

教会の椅子をきちんと並べることが牧師の仕事」と、先輩の牧師に教えられました。その言葉を聞いて25年がたちます。まだ新卒だった私にはピンとこず、もっと大切なことがあると思っていました。牧師と召されて26年目を迎える頃になって、あの牧師の言葉がずっしり響いてくるのです。教会の椅子は礼拝が終ると乱れます。そのままにしてお茶を飲んでから並べればいいのですが、いつ誰がそこでお祈りされるかわかりません。神様にお祈りするとき椅子が乱れていたらどうでしょうか。初めて教会にきてそのとき椅子が乱れていたらどうでしょうか。そこに神聖さを感じるでしょうか。教会の椅子を並べることは、いつ誰が来られても神様と出会えるように配慮することだといえます。この配慮ができるか、宣教する教会とはそこに集う一人一人がそれをいつも考えていることです。

イエス様は『宣教は刈り入れである』。この視点は私を驚かせました。また、新しい宣教への夢を抱かせてくれました。 ある本のなかで、社会学者の方がこのことを指摘され、ピンと心にくるものがあったのです。 私たちは今まで教会の宣教を考える時、それは『種まき』だと考えてきました。ある意味ではそうやって自分達を慰めてきたのかもしれません。いつか芽がでるから、神様の計画のなかにあるからといっては御言葉の種を撒き続けることに主眼を置いてきたのです。

ところが、イエス様は宣教について『種まき』といわれたことはありません。ヨハネ福音書でも「あなたがたは自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。」といわれているとおりです。種は十分まかれている。刈り入れもせずに、まだ種まきだといって何もしていないのではないかと思うことがあります。

教会の宣教は、種まきではなく刈り入れである。いったい刈り入れとは何でしょうか。神様の業がここにもあそこにも刈り入れを待っている。ミッション系の幼稚園、学校に通った方々の数はどれくらいでしょうか。キリスト教に一度でも触れたひとはどれくらいいるでしょうか。刈り入れをまっているのに、そこに届くみ言葉を語っているか。教会の敷居は高くないか。誰を招き、誰と共に生きていくのか。もういちど宣教について考えてみたいものです。

2018年9月16日日曜日

きままな休日・LAの朝

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アメリカでホームステイ先のママが「アボカドトースト食べる?」と。
ここでは朝の定番よとのことでお願いしました。アボカドとライムのペーストに目玉焼き。
いや~いい気分でした。しかもお庭で朝食。優雅~~~~!

2018年9月15日土曜日

2018年9月13日木曜日

「神様におまかせ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様におまかせ」
 
 ユダヤ教の話に次のようなものがあります。
 
 あるラビが、弟子たちに問題をだしました。「安息日に、金の入った財布が落ちているのを見つけた。おまえは、その財布を拾うか否か」。これが問題でした。もちろん、安息日の律法では、金を拾うことが禁じられています。だから、律法においては拾ってはいけないのです。指名された一人の弟子は、「もちろん、拾いません」と即答しました。あたりまえの答えです。ところがラビは、「おまえは馬鹿だ」と弟子を叱りました。言われて弟子はきょとんとしています。そこでもう一人の弟子が指名されました。前の弟子のことも考えながら、「はい、もちろん拾います」と答えました。すると「おまえは罪人だ、けしからん」と叱られました。三人目が指名されました。彼は困りました。どちらも答えられなかったからです。あなたならどう答えますか。
 
 この三人目の弟子は、静かに考えながらこう答えました。「わたしにはわかりません。きっとその場になれば、拾おうか、拾ってはならないのか、あれこれ迷うだろうと思います。しかし、わたしは、きっと正しい決断ができるだろうど信じています。神様が正しい決断をさせてくださると信じています」と答えました。 これは、深い話だなと思います。「これをせよ」「これはしてはならない」にとらわれないで、神様にまかせることができますか。

2018年9月12日水曜日

「あなたが言っていること」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「あなたが言っていること」

マルコ 15:2 それは、あなたが言っていることです

子どものころ、親に言返すとよく次のように怒られました。「それはあなたが言っていること。それは通じない」と。 私たちは自分勝手な考えを人に押しつけようとします。子どものときは「だだをこねる」と言われました。自分の正しさを無理やり証明したいからではなかったか、自分の間違いを隠すためだったかもしれません。しかし、親は私のことを考えて客観的に見ていてくれたのだと思います。

イエス様は、死刑の判決(十字架)を受けられる前に裁判の場に立たれます。ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と質問します。それに対して「それは、あなたが言っていることです」と言われました。ピラトが言うまでもなく、イエス様は神様であり王なのです。ピラトの言葉に対して「どうぞお好きなように」といわれたのではないでしょうか。

「読むクスリ」という本があります。最近出された本に「女性が物を買う4つの条件」というのが書いてあり、楽しく読ませていただきました。みなさんはその4つの条件がわかりますか?4つとは以下のものです。

 1、みんな持っているから。

 2、誰も持っていないから。

 3、やせてみえるから。

 4、夫が「買うな」と言ったから。 

 どうでしょうか。ここに非常に面白い現象があります。それは1と2です。相反する気持ちをもっておられるということです。「みんなが持っている」というのは極めて日本人的な思考で、安心するということでしょう。しかし、反対に「誰も持っていない」というのは、それだけ稀少価値があるということで、ちょっと自慢できるということでしょうか。人間はいつもこの矛盾の中に生きているものだと言えます。それでは信仰はどうでしょうか。これもまた同じではないかと思います。「信じる」という思いと「信じられない」というこの2つが、同じ私の中にあるのです。つまり、信仰というものが矛盾しているように思えるのです。しかし、そうかなと考えてしまいます。これは矛盾しているのではなく、実は一つのことの裏表なのです。「信じる」から「信じられない」のです。つまり、信じるために疑うことをするのが私たちなのです。

 イエス様は私たちが、「あなたは神様です」と告白したから神様になったのではありません。むしろ神様だから私たちが告白することをゆるされたのです。そこのところを勘違いすると大変なことになります。 「あなたがいっていること」というイエス様のみ言葉を思い出し、自分の言葉を顧みるひと時をもちましょう。

2018年9月11日火曜日

「朝が待ち遠しい」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「朝が待ち遠しい」
 
 お盆を過ぎると、朝晩が多少涼しくなってきました。とくに朝は気持ちの良い涼しさがあります。こうなってくると、なかなか起きれなくなって困っています。 起きれないといえば、大学生のころの私の最高睡眠時間は、21時間というものがあります。よくもあれだけ寝ることができたなと感心してしまいます。しかし、人間は多く寝ることがいいことではありません。寝過ぎると反対に疲れるものだということも、そのときわかりました。
 
 さて、わが家での一番の早起きは、3女の聖美です。朝がくるのが待ち遠しいのか、とにかく早く起きて遊んでいます。どうしてあんなに早く起きるのは楽しいのだろうかと疑問に思います。私にとっては1分でも寝ているほうが喜びなのですが。しかし、その姿をみていると、神様が今日も新しい命を与えておられることがよくわかります。その新しい命の躍動が伝わってくるような気がします。
 
 大きくなればなるほど、神様からいただく毎日の命をおろそかにするのでしょうか。あたりまえのようにいただけるものですから、感謝もなく過ごしているのかもしれません。今日、私に命があたえられている。この命を大切にし、感謝して過ごさせていただく。そのためには、朝がくるのが待ち遠しいものでしょう。 ああ、もう少し寝ていたい。あと1分でいい。ずるずると寝ているまに、神様の恵みは先へ進んでいってしまいそうです。

2018年9月10日月曜日

「夢中になって」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「夢中になって」

ルカ  19:48 民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

「何かに夢中になると免疫力があがる」という話をきいたことがあります。ある研究者がその実験をしたそうです。日頃からプロ野球でひいきのチームをもって夢中になって応援する人を、各チームから10名ずつ選び、試合を観戦して試合後に採血検査をする。これを繰り返し調査したそうです。するとチームの勝ち負けに関係なく、夢中になって応援したファンの免疫力が増しているという結果がでたそうです。つまり、夢中になることで人は免疫力がアップするというのです。

イエス様はエルサレムに入城されたあと、神殿の境内で民衆に教えておられます。この神殿では「宮清め」商人たちを境内から追い出すという厳しいイエス様をみることができます。祭司長や律法学者、民の指導者たちはイエス様を殺してしまおうと計画しています。しかしできませんでした。なぜか?それは「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたから」でした。聖書の中で「夢中」とい言葉が使われているのは、ここしかありません。私たちは「夢中になって」イエス様のみ言葉をきいているでしょうか。

ある雑誌に、ラオスでドングリを食べた話が書いてありました。山奥の村にでかけていったとき、夕食に単に茹でたドングリがでたそうです。特に美味しい訳でもなかったけれど、いつのまにかなくなっていたという話です。その作家は続けて書いていました。「もともと人間の食とは、そこにあるものを食べるということ」だと。「そこにあるものを食べる」。それを料理して美味しく食べるのは文化です。しかし、そこにないものを高いお金を出して取り寄せて食べるということは、本来の「食」の在り方だろうかというものでした。たしかに、食についての疑問はたくさんあります。美味しいと思う部分のみを食べ、それ以外は捨ててしまう。賞味期限に惑わされる。本来の食べるということから間違った方向を歩んでいるのかもしれません。そこにある物とは、神様がその人に与えた物ということです。神様は、その人にあった物を与えられる。そのままいただくことの難しさを感じます。神様の愛を素直に受けることで、私が生かされるはずなのに素直に受けられないでいる。本当に何が大切かを考えなければなりません。

民衆が「夢中」になってイエス様のみ言葉聞いている。このイエス様の言葉には力がありますから、夢中になって聞いた民衆が救われるのは当然のことです。命の免疫力をアップしたいなら、イエス様のみ言葉に「夢中」になることです。

2018年9月9日日曜日

気ままな休日・ファイアーストーンのテイクアウト

LAで最近はやっているファイヤーストーン!
テイクアウトでローストビーフです。
サラダがめちゃ美味しかった。さらにワインも!

2018年9月8日土曜日

明日は礼拝です

明日の礼拝
説教:吉谷正典牧師(引退教師)
どなたでも 待ちしています。

2018年9月7日金曜日

2018年9月6日木曜日

「ひとりよがりは」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ひとりよがりは」
 
 教会では、毎週30~40通の封筒が送られていきます。礼拝を休まれた方、遠くに住んでおられる方に、週報と「神様の色鉛筆」等を送るためです。遠くはホンコンや東京まで送られています。なんとか、同じ恵みを分かち合っていただきたいとの思いからです。
 
 さて、週報や説教集を読んでくださった方から、よく手紙をいただきます。そのような手紙は、この働きを支えてくださる私たちにとって本当の恵みです。今回、ある方が週報に載せられた私の夏の行事をみて、引退された牧師の手紙を送ってくださいました。その手紙には次ぎのように書かれてありました。
 
 「神様の働きだからといって無理を重ねるひとりよがりは、神様のみこころでないこととおもいませんか」。
 
 まったくそのとおりだと思います。無理を重ねるのはいけません。自分では無理だと思ってない傲慢もいけません。神様の御心を思い知ることができました。 やっと、夏の行事をすべて終えることができました。がむしゃらに走りながら、それでもたくさんの恵みと出会いを感謝いたします。18日から休暇をいただきますが、しっかり休ませていただきます。一人よがりの働きは、家族だけでなく、教会をも疲れさせていくことに気が付かせていただきました。それでも、いまできるうちに・・・。いやいや・・・。休んで考えてみます。

2018年9月5日水曜日

「良く計算して」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「良く計算して」

ルカ  14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

ルサレムに行くと幽霊ホテルといわれているものがあります。外国の資金で建てられた高級ホテルになる予定でした。しかし、完成はしたのですが一度もオープンせず、そのまま放置してあるのです。出資会社が倒産したわけでもありません。じつは、そのホテルはデザイン重視で総ガラス張りのホテルだったのです。中近東の砂漠地帯にエルサレムがあることを計算に入れずに建築した結果です。つまり、中で人がくつろぐような温度ではなく、砂漠以上に暑いホテルになってしまったのです。どうしてまず計算して考えなかったのでしょうか。

イエス様はエルサレムに向かう途中で、一緒についてきた群衆に弟子の条件を話されました。とても厳しい言葉がならんでいます。「もし~~でないならば、わたしの弟子ではありえない」と3度も言われました。最終的にはすべてを捨てて従うことを求められます。自分の人生においてよく考え、計算し、中途半端な決意は失敗すると、たとえをもって語られました。大切なことは、よく考えることです。

牧師会の最中にふと、「一日を大切にしているか」と考えていました。朝がきて夜がきての繰り返し。どれだけのものに感動し、心を動かされ、神様を讃美しているか。ただ単にボケ~っと日々を重ねてきたのではなかろうかと考えてみたのです。さっそく計算機を出して、いままで何日生きてきたかを計算してみました。いま54歳と半年なので、ザ~っと計算そても「19787日」となります。四十五歳の人では「一六五00日」で、七十歳では「二五五00日」です。ちなみに三歳の子では「一九0五日」ですが・・・。いったいこの日数のうち、どれだけを覚えているでしょうか。昨日のことすら思い出せない私ですから、ほとんどわからないかもしれません。一日を大切に生きようと思っても、なかなか大切にはできないものです。たぶん感動とか、感謝を忘れているのかもしれません。

イエス様は「まず腰をすえて」と言われます。客観的という意味にも取れますが、信仰にとって何が一番大切かを考えてみよと言われたのではないでしょうか。あなたの人生にとって何が大切でしょうか。

2018年9月4日火曜日

「状況がみえない」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「状況がみえない」
 
 「これは非常識だな」という出来事に出会いました。というのも、家族であるレストランにでかけたときのことでした。あいにく混み合う時間にいきましたので、かなり待っておられる方がおりました。私たちも待つことにしたので、順番の紙に並んで記入しようとしたときです。まだ何人も前の方が書いておられるのに、突然4人の中年女性がずかずかと割り込んできたのです。そして、人の順番を押しのけ係の人に名前を書かせたのでした。
 
 それだけならまだしも、待ち合い所のイスがあくとすぐ割り込んで席を確保し、他の友達を「まだまだだから、ここで座って待ちましょう」と呼んだのです。しかし、そこには私たちだけでなく、子供連れの客が何人もいました。ある子供たちは床に座り込んで、ある人は赤ちゃんをだっこしていたのです。この状況が彼女らに見えないわけはないと思うのですが。おまけに、苦しそうに立っている子供に「このお店は何がおいしいの」と聞いている始末。救いようがないと思いました。
 
 回りの状況が見えなくなる。それは確かにあります。自分ではいっさい気がついてない。いや気がつかなくなっているのです。その内に回りはどんどん疲れていってしまう。この状況がいまや家族の中にも入り込んできています。主イエスは「自分の目にある梁を取りのけなさい」といわれました。

2018年9月3日月曜日

「人の知識をこえた愛を」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「人の知識をこえた愛を」

エフェソ 3:19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

盤珪禅師の逸話にこのようなものがあります。

 「ある僧が盤珪禅師のところへまいり、次のように訴えます。『自分は生まれながら短気である。どうしたら、この短気がなおせるか』と問います。さて盤珪禅師は何と答えたでしょう。盤珪禅師いわく『さて、面白い人じゃ。その短気がいまあるか。あればここへだしてみなさい。なおしてあげよう。さあだして。さあだしてみよ』と」私たちは自分はこうだときめつけています。しかし、その人にとってそれは一部分であり、生まれながらそうなのではありません。自分はこうだというきめつけが、自分を縛っているということにあまり気がつきません。生まれながらの私は、神様の姿を刻まれた人としての私がいるだけです。どの視点でみるかで、かなり見え方がちがってくるのです。

 パウロは、エフェソの人々がキリストの愛にしっかり立ち、神様の愛を知る者になるように祈ります。これはパウロの執り成しの祈りでもあります。キリストの十字架の愛を知ることは、人の知識をはるかに超えたものであること。その愛か知り、広さ、永さ、高さ、深さを理解することも大切であると祈ります。

 LWFから救援アドバイザーのマタイさんと食事をしたことがあります。彼にはインドに3名の娘さんがおられるそうです。そのうち、双子の娘さんもおられると聞きました。インドでは娘さんが結婚するとき、娘さんの家族が持参金をたくさん持たせねばならないと教えていただきました。多額の持参金がないと結婚が破断になったり、実家に戻らされたりするとか。娘さんをもつと破産するなとか。しかし、もともとの理由は嫁いでいった先で生活に苦労しないためだそうです。親の娘への愛情がそこにあらわれているのです。どちらから考えるかでかなり違うはなしだと思いました。親心というのでしょうか、それがあるからいまも風習としてのこっているのでしょう。

 パウロは「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり」と言っています。神様の愛というのは人の知識をはるかに超えています。その愛を知ることが神様の豊かさにあずかることになると言っています。その豊かさにあずかったものは、すべてに満たされていくのです。まずは神様の人の知識を越えた愛をしることです。

2018年9月2日日曜日

気ままな休日・LAビーチのタコス

ビーチが見えるレストランで
タコスセット。ここLAではメキシカン料理も有名。
とてもスパイシーでしたよ!

2018年9月1日土曜日

礼拝に来ませんか

明日の礼拝
説教:吉谷正典牧師(引退教師)
どなたでも 待ちしています。