2018年1月31日水曜日

「神のみ言葉は隠れない」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「神のみ言葉は隠れない」

マルコ 421 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。

P.F.ドラッカーの本に、ギリシャ時代のことが書かれてありました。フェイディアスという彫刻家がいました。かれはパルテノン神殿の彫刻を任された長でした。無事にその仕事を完成させアテネの会計官に請求書をだしました。すると、アテネの会計官は支払いを拒んだのです。「誰にも見えない彫刻の背中の部分まで彫って、請求してくるとはなにごとだ」というのです。するとフェイディアスは次のように答えたのです。「そんなことはない。神々が見ている」と。

今日はイエス様の有名なたとえの一つです。神様の目には、隠されているもので表にでてこないものはないということでしょう。灯は神様の言葉と同じ意味を持っていますので、み言葉はかならず表にでてくるというたとえでもあります。私たちの信仰生活で、神様の目から隠れることもできないし、隠すことのできないのがあります。それはみ言葉です。このみ言葉に照らされながら私たちは生きています。そして、このみ言葉こそが我が足の灯です。だからこそ隠れることも、隠されることもありません。

「サンタクロ-スがすねちゃった」という傑作絵本があります。子供達にとって、サンタクロ-スはクリスマスの楽しみです。この絵本では二人の大人が、「もうごぞんじですか、サンタクロ-スなんていないんですよ」といったことから始まります。そしてなんと次の日の新聞のトップニュ-スが「サンタクロ-スはいない」と書いたから大変です。それを読んだ世界中のサンタクロ-スがすねちゃった。世界サンタ会議まで開いて、今年は何も配らないということになってしまいました。残りはどうぞ絵本で読んでください。私はこの本が大好きです。なぜならこの本の最後にサンタクロ-スがこう言うのです。「目をつぶって見てごらん。サンタクロ-スの姿が見えてきたでしょう。見えるものはちゃんといるんだよね」。あなたはどうですか。目をつぶってみてイエス様が見えますか。見えるお方はいまあなたと共におられるのです。

イエス様は「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」と教えられました。私たちが奉仕をするときの心構えとは何でしょうか。結果を出すこと、成果をあげること。もちろんそうです。しかし一番大切なことは「神様がみてよしとされる」ことを自分に求めることです。私たちが託されている働きは、神様から任せられた働きであることを考えながら今週もすごしましょう。神様は見ておられる。そして私たちの中に働くみ言葉は隠されたままにはおかれないのです。

2018年1月30日火曜日

「レッテルがある」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「レッテルがある」
 
 禅の話で次のようなものがあります。
 
 池で、あなたの母と妻が溺れている。あなたならどちらを先に助けるべきだと思うか。禅僧がそのような問題を出した。これは大変です。そこに母、妻の両方がいた場合、答えよっては家族争議にもなりかねません。
 
 年をとって弱っている母から助けるべきだ。妻は元気だから少しは泳げるのではないか。いやいや、母は命がもうそんなには長くない。妻はまだ長生きできる。元気な妻を助けて、それから二人で母を助けるのがよい。いやいや、それでは母が死んでしまうではないか。と意見は一致しませんでした。質問をだした禅僧は「おいおい、そんなに議論していると、二人とも溺れ死んでしまうぞ」と言うが意見はまとまりませんでした。
 
 それでは、「老師、老師はどちらから先にされますか」と問いました。すると禅僧は、「わしか、わしは、近くにいるほうから先に救う」と答えた。
 
 これが禅の「空」の思想でしょう。つまり母とか妻とか、レッテルにこだわらない。レッテルを貼っているので、どちらを先にと考えてしまうのです。レッテルをはがしてしまえば、そこに溺れているのは二人の人間です。それがわかれば迷いなく近くにいる方から救えるのです。やっぱり、私はクリスチャン。禅僧にはなれません。神様の御心でどちらかが先に救われると考えているのですから。

2018年1月29日月曜日

「確実な一歩を」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「確実な一歩を」

詩編 17:5 あなたの道をたどり 一歩一歩、揺らぐことなく進みます。

禅の逸話に次のようなものがあります。ある高僧が弟子を連れて庭を歩いていました。風が吹いて落葉が一枚落ちてきました。その高僧は落葉を拾って袂(たもと)に入れました。弟子は「老僧、やめてください。落葉はのちほど、誰かに掃かせますから」とたしなめました。すると高僧は「馬鹿者!『のちほど』で庭が綺麗になるか。いま1枚拾えば、その分だけ庭が綺麗になったのだ」と弟子を叱りつけた。私たちは目の前に与えられている課題を「のちほど」「あとで」と考えることがあります。この考えを持つと、その仕事はできなくなってしまいます。目の前にあるものから、まず片付けていくことで仕事を完成することができます。この心がけが今の季節に大切なことです。

今日読みました詩篇は、裁判に臨む無実の人の祈りと理解されています。詩篇が書かれた時代は、夜の間に裁判が行われ、翌朝に判決が言い渡されていたようです。詩人は神様の正義が公平に行われるように祈っています。そして与えられた信仰によって、目の前の「一歩」を確実に進むことを望んでいます。神様にあって正しいとされる目の前の「一歩」を進むことを忘れてはいけないと訴えています。これも自分の心を神様の前で点検することでもあります。

「一歩一歩、ていねいに歩いたことがありますか」と聞かれたらどのように答えるでしょうか。一歩一歩をていねいに歩いていけば、必ず目的地につくはずです。「歩歩是道場」ということです。弘法大師の言葉にも「一歩三礼」というものがあります。つまり一歩一歩を参拝する気持ちで歩きなさいということだと思います。私たちはどうでしょうか。一歩一歩を大切にしているでしょうか。実際祈りつつ一歩を歩いてみると、なかなか大変です。一歩進んで祈り、一歩進んで祈る。大変ですがとても心が満ち足りてきます。絶えず祈るということは、一歩一歩をていねいに歩くことかもしれません。

アドベントの季節は、まず悔い改める一歩を踏み出す時です。詩編の作者は「あなたの道をたどり 一歩一歩、揺らぐことなく進みます」と祈りました。私たちに与えられたこの時期の働きも、後回しにせず目の前のことから確実におわらせていくことです。今年も終わりに近づきました。今年の働きは今年の内に。御子の誕生をお迎えするためにも確実な一歩を今日歩みましょう。

2018年1月26日金曜日

きままな休日・いちき串木野マグロ丼

いちき串木野に途中下車
ここはマグロ漁船の本拠地
やっぱりマクロ食べなきゃですよね!

2018年1月25日木曜日

「ねばならない?」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ねばならない?」
 
 この世の中けっこう「こうでなければならない」が多いように思えます。またけっこうこの思いによって縛られて自由でない方が多いのも事実です。
 
 先日も結婚式の相談の電話がありました。相談といっても、バージンロードを誰と歩くかという相談です。電話は新婦のお母さんからで、「娘は私と入場したいと言ってますが、これはやはり父親でなければならないのでしょう。しかし、父親は10年前に他界しておりますので、やっぱり男の伯父でなければならないと思いまして」という相談です。答えは簡単。「一応『父親』となっていますが、そうでなければならないことはありません」です。
 
 しかし、お母さんは「やっぱり男でなければならないのが常識ですよね」と言われるのです。それを聞きながら「ねばならない」って人を縛るものだと考えていました。そのお母さんに牧師として答えようと思い「娘さんはお母さんと歩きたいのではないですか。そこには娘さんの感謝の気持ちや、願いや、愛が含まれていると思いますよ。その気持ちを大切にしてあげてください。娘さんはお母さんと共に歩きたいのですよ」と答えました。
 
 主イエスも私たちを縛られません。こうありたいと思う私たちの心を大切にして共に歩んでくださるのです。

2018年1月24日水曜日

「悔改めは本気で」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「悔改めは本気で」

マタイ 3:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」

ある行動生理学者が待つということについて書いていました。人間が待ち合わせをする場合、待っている方は、相手が来るであろう方向にいつも向いている。しかも期待をもって身を傾けながら待っていると。自分の経験を考えてみても、こっちから来るとわかる方に向いています。そう思いながら待ち合わせ場所を眺めていると、全員違った方向を向いていることに気が付きます。これは方向を見定めているからです。待ち人が来る方向と期待の表れなのです。だとすると待つ季節であるアドベントにどのようにイエス様をまてばよいのでしょうか。

聖書には、イエス様の宣教開始の前に、バプテスマのヨハネが登場してきます。彼はヨルダン川流域で特殊な宣教活動を始めていました。その特徴は「悔改め」でした。この活動はユダヤ全土に大きな影響を及ぼしていたのです。もしかしたらヨハネこそ来たるべきメシア(救い主)ではないかと。しかし、ヨハネ自身は「私はメシアでなく、主の道を整える者」だと言ったのです。マタイによる福音書もイザヤ書の預言をとおして語られた「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」との成就がここにあると記しています。ヨハネの主張は悔改めイエス様を待てということでした。

坂村真民さんの詩に「本気」というものがあります。

 本気になると

 世界が変わってくる

 自分が変わってくる

 変わってこなかったら

 まだ本気になってない証拠だ

 本気な恋

 本気な仕事

 ああ

 人間一度

 こいつを

 つかまんことには

 悔い改めとは本気になって方向を変えることだと思います。

2018年1月23日火曜日

「正しいという頑なさ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「正しいという頑なさ」
 
 最近では、天気予報がはずれることはありません。しかし、つい一昨年頃までは、大切なときに予報が外れることが多いと感じる天気予報でした。実際はそうでもないのですが。ところで、気象庁では次のような笑い話が語り継がれています。
 
 ある予報官が、明日の天気を「快晴」と予報しました。そして彼は早々と宿直室へいって寝てしまったのです。しかし、翌朝は土砂降りの雨となりました。彼の予報は見事に外れたのです。すると、その予報官は自分のデスクから昨日の天気図を出し、じっとその天気図を眺めました。そして、窓から土砂降りの雨を眺めてひとこと呟きました。「この天気図によると、絶対雨は降らない。したがって、降っている雨が間違っているのだ・・・」。
 
 私たちの人間関係で失敗しやすいのは、この「降っている雨が間違い」と同じかもしれません。人は自分だけが正しいと思っています。また自分しか信じられないという人もいます。自分はあくまでも正しいという頑なさが、人との関係を悪くしているのです。
 
 人間は、みんな正しさも持っていますし、同じようにみんな間違いも持っています。正しさとは神様だと信じているのがキリスト者です。

2018年1月22日月曜日

「悔改めて待つ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「悔改めて待つ」

マタイ 3:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」

教会の暦は、アドベント(待降節)真っ最中です。教会の典礼色も「紫」となり、悔い改めと主の苦しみを覚える季節になりました。この季節に求められていることは「キリストの来臨を待つ」ということです。この待つということには2つの意味があります。「誰を」待つか「どうやって」待つかです。

聖書には、イエス様の宣教開始の前に、バプテスマのヨハネが登場してきます。彼はヨルダン川流域で特殊な宣教活動を始めていました。その特徴は「悔改め」でした。この活動はユダヤ全土に大きな影響を及ぼしていたのです。もしかしたらヨハネこそ来たるべきメシア(救い主)ではないかと。しかし、ヨハネ自身は「私はメシアでなく、主の道を整える者」だと言ったのです。マタイによる福音書もイザヤ書の預言をとおして語られた「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」との成就がここにあると記しています。ヨハネの主張は悔改めイエス様を待てということでした。

ある行動生理学者が待つということについて書いていました。人間が待ち合わせをする場合、待っている方は、相手が来るであろう方向にいつも向いている。しかも期待をもって身を傾けながら待っていると。自分の経験を考えてみても、こっちから来るとわかる方に向いています。そう思いながら待ち合わせ場所を眺めていると、全員違った方向を向いていることに気が付きます。これは方向を見定めているからです。待ち人が来る方向と期待の表れなのです。だとすると待つ季節であるアドベントにどのようにイエス様をまてばよいのでしょうか。

聖書は「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」とバプテスマのヨハネの登場を示唆しています。待ち合わせでは、すっぽかされることもあります。しかし、クリスマスは必ずやってきます。み子イエスはこの世にやってこられるのです。その確実な来臨のためにどうやって待つかです。バプテスマのヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と言っています。自分の心の道を整え、真っ直ぐにイエス様のみ言葉にむかうことです。

2018年1月19日金曜日

きままな休日・豚天丼

ちょっと疲れがたまったな~
そうだこんな時は食べよう!
がっついりいくぞ~で豚天丼です。

2018年1月18日木曜日

「思いやりとは」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「思いやりとは」
 
 久しぶりに東京で吉祥寺から三鷹・西野までバスに乗りました。この路線は神学校時代によく利用したものです。もっぱらパルコ・ブックセンターに行くためのもでした。今回懐かしさもあって、キョロキョロしていますと考えさせられる出来事に出会いました。
 
 ある停留所にバスが止まり、そこには数人のお年寄りが待っておられました。初めの方は半身に障害がありゆっくり乗ってこられました。次のお年寄りは元気そうでしたが、それでもゆっくり転ばないように乗ってこられました。出来事はこれからです。三番目のお年寄りが乗ってこられると、運転手さんが怒鳴ったのです。たぶん後ろに車がつかえていたのでしょう。「はやくして。料金は初めからわかっているんだから、用意しておいたらどうだ」と。するとそのお年寄りは言い返して「年寄りだからしかたないだろう」と言われたのです。
 
 私にはどちらも正論だと思いました。しかし、どちらもおかしいかなとも感じました。どちらにもいえることは「思いやりの欠如」ではないでしょうか。運転手さんもお年寄りも待たせていることは同じなのです。ちょっと思いやりの一言で変わると考えてしまいました。
 
 人々が共に生きていくことの難しさを教えられました。こんなとき主イエスだったどうされるかなと思いながら次の停留所で降りました。

2018年1月17日水曜日

「座ってみて」

 阿久根ルター君の朝のみ言葉

「座ってみて」


ルカ 1428 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

海外の教会オフィスに招かれて何回かいったことがあります。おもに仕事の話が多く、オフィスに着いたらすぐに話を始めようとします。しかし、いつも「まずお茶でもどうぞ」と飲み物をすすめられます。いや、まず仕事の話をして、それからお茶にしませんかと言いたくなります。どうも私たちは「まずお茶でもどうぞ」という言葉がでてきません。形式的にはお茶は出しますが、その時にはすでに仕事の話がはじまっています。「まずお茶でも」ということは。まず落ち着きましょうということなのでしょう。

本日の聖書をみてみましょう。テーマは、「捨てる」ということと「腰を据える」ということです。しかし、どちらも同じことを言っています。後半部分のたとえは、「腰を据える」ことが中心であるといえます。しかしこれは座るという意味です。ここのところを誤解するとこのたとえがわからなくなります。つまり、「考える」ではなく「座る」こと自体が求められているのです。私たちはイエス様の十字架によってしか救われない。しかしなお、この世の事に執着し、ああでもない、こうでもないと考えてしまう。しかし、イエス様のみとしたときにすべては与えられるということです。

幼稚園生活は大変だなとおもいます。先生たちにとっては、とてもやりがいのある神様の仕事だと感じておられることでしょう。こどもたちのケンカの仲裁、生活の指導。いっしょに楽しんで、ある時はいっしょに悲しんで、またある時はいっしょに泥団子をつくる。先生たちの働きに、ただただ感謝してみています。私が幼稚園のチャプレンだったとき一番楽しんだことは、いっしょにお弁当をたべることです。これもまたどこへ座るかでいつも大騒ぎになります。お祈りの歌をうたって、お祈りして食べる。毎日のお弁当をいただくことによって、子供たちは愛をいただいているのです。座ったときにその愛は伝わっています。子供たちはいつも真剣に食べているのですから。青山俊董尼はある講演で次のようにいわれました。「ただ着せればよい、ただ食べさせればよいというものではありません。愛を着せ、愛を食べさせる。祈りを着せ、祈りを食べさせてやってください」と。あたりまえのことです。

 答えがでないことで悩むより、神様によって与えられている答えを受け入れたいと思います。その答えは、「神様の御心のままに」です。どんなに悩んでも、神様の御心のままにしかならないのです。つまり、大切なことは神様の前に座ることです。神様にすべてまかせてしまうことです。座ってみてはじめてわかる愛があります。

2018年1月16日火曜日

「本当の子育て」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「本当の子育て」
 
 親というものは、自分の子供に対しては冷静になれないものだ、とつくづく感じます。冷静に接しているように思えても、親としての愛が積もり積もってエスカレートしていくと、怒鳴ったり叩いたりです。
 
 長女が一年生のとき、足し算の勉強をしています。問題はいたって簡単なものです。「5は□と2です」。さて□にはどんな数字をいれるかというものです。親にとっては簡単なのは当たり前です。しかも、それが簡単にできるように勉強するのが一年生です。ところがそれを忘れてしまうのが親なのです。
 
 「なんでわからないの」「だいたい基本がわかってない」「こんなのもわからないなら学校やめなさい」と怒りだす。しまいには「クラスであなただけがわからないの。となりの子はできるんでしょう」と、つまらないことを言ってしまうのです。涙を流しながらやっている娘をみていると、そんなに問題となることではなく、できないのがあたりまえなんだと思います。
 
 神様は私たちを子としてくださいます。だとすれば、私たちにとって親です。親なる神様は私にどのように接しておられるのでしょうか。怒鳴ったり叩いたりはなさいません。ましてや人と比べたりはなさいません。よき子育てもまた神様に聞くのが本当ですね。これまた祈りです。

2018年1月15日月曜日

「聞くという奉仕」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「聞くという奉仕」

ルカ 1042 必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。

「相田みつおカレンダー」には次のような言葉があります。「親切という名のおせっかい そっとしておく おもいやり」。私たちは親切という名のもとに、おせっかいをしていることがたくさんあります。そして、そのおせっかいに人を巻き込んでしまうこともあるのです。

イエス様の過ごされた時代は、女性が男性を迎える習慣はありませんでした。つまり普通ではなかったことです。しかし、ここでイエス様は、男と女の差別や区別などなさいませんでした。同じ人間として接しておられます。ということは、当然なこととしてマルタとマリアをも差別なさるはずはありません。同じ目でみておられます。決してどちらか一方に思いを寄せてはおられないのです。人間の目からみれば、マルタはどのようにイエス様をもてなすかと働き、マリアはイエス様の足元に座っているのです。マルタから不平不満がでてきてもしかたありません。マルタの主張は、「マリアは私だけを後に残して、自分だけ主の言葉を聞いている。マリアも私を手伝って主のもてなしの用意をすべきだ」ということです。自分だけが働くことの不当を訴えているのです。しかし、イエス様を迎え入れたのはマリアではなくマルタなのです。

次女が一歳の時でした。家では「おせっかい娘」といわれるくらいに、人に何かをするのが好きでした。ある日のこと、朝六時にひょっこり一人で起きて、なにやらトコトコと歩いて寝室を出ていきました。黙って様子を伺っていると、台所の方でコソコソ音がしています。静かにしている時には、なにか悪い(親はそう思うのですが)ことをしているものです。暫く好きなようにさせていますと、またトコトコと歩いてもどってくる音が聞こえました。そして寝室に現われた姿を見て大笑いです。両手と口にアンパンをもっていたのでした。それからが大変です。みんなを起こして「食べろ」とばかりに口にもってくるのです。おなかが減っているのなら、自分一人で食べればいいのですが、みんなも同じ様におなかが減っていると思ったのでしょう。「おせっかい」もたまにはいいですが、度々では疲れてきます。

イエス様の前に立つ時の、思い悩みにならない奉仕。心を用いる奉仕はただ一つだけです。「主の足元に座って聞く」奉仕です。ここにマリアの奉仕があるのです。それは、マルタがどんなことをしてもマリアから取り去られない奉仕であり、イエス様の喜ばれる奉仕でもあります。イエス様は「必要なことはただ一つ」といわれました。それは、イエス様にとっても、マルタにとっても、マリアにとっても一つなのです。つまり御言葉を聞くことです。

2018年1月13日土曜日

気ままな休日・宇土の甘酒饅頭

これは私が一番好きな饅頭です。
宇土教会の前にお店があります。
このまんじゅうを食べるとほっこりします。
餡が素晴らしいです。

2018年1月11日木曜日

「聖書の早合点読み」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「聖書の早合点読み」
 
 インドの笑い話に次のようなものがあります。
 
 旅人がサトウキビを積んだ牛車のおじさんに道を尋ねました。
 
 「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」
 
 「そうだな、三・四十分というところだな」
 
 「そうですか。ところで、すみませんが、わたしもこの牛車に乗せてもら えませんか」
 
 「いいとも。乗りなされ」
 
 それから四十分ほどして、旅人は尋ねました。
 
 「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」
 
 「そうだな、一時間くらいかな」
 
 旅人は怒りました。さっきは、三・四十分といったではないかと。すると 牛車のおじさんは言いました。
 
 「旅の人よ。この牛車は反対の方に進んでいるのですぞ」
 

 
 進んでいる方向を確かめなかった旅人が悪いのです。しかし、このような間違いを聖書を読むときにしてませんか?早合点読みです。黙示録の早合点読みが、終末思想をあおり立てています。
 
 終末は必ずやってきますが、そのときは主イエスが来て下さる救いの時です。喜びの日であって、悲しみの日ではありません。今、主イエスとともに生きることがどれだけ大切なことでしょうか。

2018年1月10日水曜日

「上に立つ御言葉の権威」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「上に立つ御言葉の権威」

ローマ13:1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。

 ニュースで「こんな上司はいやだ」というアンケートをしていました。それによると、1位・気分によって言うことが変わる。2位・責任をとらない。3位・自分の間違いを認めない。4位・接する相手によって態度が変わる。5位・飲み会ばかりする、とありました。上に立つ者の果たすべき役割の自覚を思います。

パウロは「上に立つ権威に従うべき」と言いました。この言葉はこれまでも間違って受け取られてきました。「上に立つ」ということの理解です。しかしここでパウロがいっていることは「上に立つ人」に従えとは言っていません。上に立つ人はその人の置かれた立場、役割、何によって立っているのか(これが権威です)を十分に自覚しなければなりません。教会でも役についている者は、神様の業を果たすために、神様によってこの役職をいただいています。

 街の清掃キャンペーン集会で代表が言われました。「ゴミを拾う人はゴミを捨てない。ゴミを拾わない人がゴミを捨てる」。とても納得して聞きました。この集会は、街からゴミをなくそうという運動集会でした。ゴミをなくすにはゴミを捨てる人が少なくなればいいのですから、「ゴミを捨てないようにしましょう」でいいのです。しかしあえて「ゴミを拾う人はゴミを捨てない。ゴミを拾わない人がゴミを捨てる」と言われたことに感銘をうけました。いままで何回も「ゴミを捨てるな」という言葉を聞いてきました。そのように実践もしてきました。しかし、捨てるなではなく「拾おう」というところに発送を転換させたのです。ゴミを拾う人は捨てないのであれば、拾う人を増やせばいいのです。また拾うという行為に、みな善いことをしているという実感と喜びも生まれてきます。「捨てるな」という否定よりも、「より積極的に拾いましょう」のほうがいいのです。言葉も伝え方次第で違うものです。人を動かすには権威をもって命令した方が早いかもしれません。そこには共感は生まれないし、言われたときだけということになります。イエス様の言葉は、権威ある新しい教えではあっても、命令ではありません。

 パウロは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と教えています。上に立つ権威とは神様のみ言葉しかありません。そこに権威があり、そのみ言葉に従うのです。上に立つ人ばかりをみるとき、失望が多いものです。しかし、その人に語られているみ言葉が示されたとき、私たちはそのみ言葉の権威にしたがうのです。だとすると上に立つということは、イエス様のみ言葉を常にいただき、それをしめさなければなりません。

2018年1月9日火曜日

「心に余裕があれば」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「心に余裕があれば」
 
 華美が一年生になって一ヶ月が過ぎました。幼稚園時代はあんなにおとなしい娘だったのに、いまではハイテンションでガチャガチャ娘へと変身してしまいました。
 
 先日も一緒に寂地山に山登りに行ったのですが、落ちつきのないハラハラの連続でした。何回怒ったことか。ところが山に登り、カタクリの可憐な花をみたとき、「自分はどうしてこんなに怒ってばかりいるのだろう」と、ふと考え込んでしまいました。きっと何か自分に問題があるはずなのです。するとやっぱり、余裕がないことに気がつきました。いろいろな仕事を多く与えられ、ありすぎるために何一つまともにできないイライラがあったのです。お弁当を食べながら、まわり一面に咲いているカタクリが、心に余裕を与えてくれました。
 
 心に余裕がでてくると、「華美も子供らしくなったものだ」と感心したのです。いまこの交わりの中で、華美はありのままでいられるのだなと思いました。学校の緊張から解放され、自然ととけあって遊んでいる。やっぱり、主イエスを中心とした教会の交わり、そして神様が創造された自然の包容力は見事なものだと感心しました。

2018年1月8日月曜日

「今日を生きること」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「今日を生きること」

マタイ 6:34 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。

「慢」ということばは、仏教では煩悩を表わすそうです。我慢もそのひとつ。それは、自分という存在が永遠不滅のものだと錯覚している煩悩なのです。自分中心に考えることは、どの宗教にとっても問題があります。その自分中心とはいったい何でしょうか。それは自分が神様になることではないです。私たちは中心をどこに据えるか、自分に据えるか、イエス様に据えるか。常に考えながら生きていたいと思います。自分中心で生きていくと、思い悩むことが多くなります。

本日の聖書のみ言葉は、イエス様が山上で説教された言葉のひとつです。この34節には「思い悩む」と言う言葉が2回でてきます。聖書で同じ言葉が2回でてくるときは強調を表します。6章の最後にこの節があることを考えると、神様への信頼によって思い悩むことから解放されなさいということでしょう。しかも、明日のことまでもと言われていますから、目の前にある今日を大切にしなさいということです。

「セレンディップの3人の王子」という話があります。この童話の王子様はしょっちゅう探し物をしています。だから人々からはおかしな人と思われている。でも、しょっちゅう探し物をするのは普通のことです。私たちもしょっちゅう探し物をしているのですから。しかし、この王子様が私たちと違うところはしょっちゅう探し物をしているが、探している物は見つけられない。そのかわり別の宝物を見つける。探しているものよりもっと貴重な物を見つけ出してくるという王子様なのです。つまりこの王子様は思いがけない発見をする能力をもっていたのです。自分が思い悩んでいること以上に、神様は守っていてくださることを知る。その発見があれば今日のことで生きていける発見をするのです。

イエス様は「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」と教えられました。今日をしっかり生きることが明日へつながります。まず今日の命を感謝し、神様を信頼することです。明日のことは明日自らが思い悩むことですから、それは神様におまかせすればよいのです。明日の問題とすればいいと言われます。与えられた今日のこと、いま目の前にある働き、招き、使命に素直にとりくんでまいりましょう。

2018年1月5日金曜日

2017年最終礼拝

2017年の最終礼拝は12つき31日でした。
20名の参加があり感謝感激でした!

2018年1月4日木曜日

「みんなと再開します」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「みんなと再開します」
 
 「キリストと笑い」という本の中に、ひとつのユーモアがあります。
 
 カール・バルト(神学者)は少ししつこい婦人から、永遠の生命について尋ねられた。「先生、教えてください。私たちが天国で私たちの愛する人々にみな再開するというのは、本当に確かなものでしょうか」。バルトは、その婦人を鋭く見すえながら、おもむろに、しかし力をこめて言った。「確かです。だが、他の人々とも再開します。
 
 婦人は、愛する人再開できるかと聞きました。バルトは、愛する人と再開するけれど、同時に会いたくないと思っている人たちとも再開しますと答えたのです。これはとても面白い話です。
 
 この婦人は、自分の都合のいい愛する人たちとだけ再開したかったのです。ところがこの考えは、自分勝手で虫のいい願いです。主イエスの十字架を思うとき、私に都合のよい人だけの十字架ではありません。むしろ、私に都合の悪い人にとっても赦しの十字架なのです。私の立場がどうであろうと、主イエスは救いに導かれるのです。それでなければ、主イエスを信じたりはしません。
 
 神様の救いは全ての人のためにあります。だから、神様の国ではみんなと再開するのです。ただし、神様に救われた人たちになった姿で再開します。
 

2018年1月3日水曜日

「単ではなく」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「単ではなく」

エフェソ 2:20 そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。

あるビジネス関係の本を読んでいました。すると面白いことに目がとまりました。それは船の話でした。船を作っている部品はすべて単体では海に沈んでしまうが、船として組み立てられると海に浮くというものでした。確かに、スクリューや舵、窓、煙突など船を構成している部品は、ただそれだけでは沈んでしまうのです。船というコンセプトがあって、そこに向かって組み立てられるから海に浮くのです。このことは何を意味しているのだろと思いました。

パウロは、「キリストにおいて一つとなる」ことを教えます。本日の箇所では、教会という交わりについて、建物のイメージからのべています。教会の交わりには「かなめ石」としてのキリストがおられます。この「キリストにおいて」が繰り返されていることによって、キリストとの結び付きが交わりを支え、成長する基になるというのです。すべてはキリストが中心です。私たちの教会も、一人一人が単体であるならば決して宣教できるものではありません。「御言葉を一人でも多くの人に宣べ伝える」という教会の船にならねば沈んでしまうと思います。宣教する船である教会にはイエス・キリストという「かなめ石」があるのです。人をみず、キリストをみることによって教会は一致できると思います。そしてすべてをキリストのみ言葉から見ることができれば一致できるし、大きな力となります。その時に神様の御心による宣教が始まります。

パウロは、キリストがすべての「かなめ石」であるといいます。ここに私たちの基準があります。人間の言動に左右されない、確かなみ心がここにあります。聖書を読むことは、すべての基本であると改めて教えられました。私たちはキリストを中心にして教会の宣教をしていきましょう。一人一人の賜物をもちよってキリストの体となり一つになりましょう。

2018年1月2日火曜日

「間」



クレヨン牧師のミニエッセイ

「間」
 
 ヤクルトスワローズの野村監督が、ある対談で次のようなことを言ってました。監督によれば野球の打者は打つさいに、「イチ、ニイ、ノー、サン」と唱えなければいけないそうです。この「ノー」が入らない打者は、「ノー(能)なしなのだ」と言ってました。
 
 バッターが構え、振り上げて打つとき、真っ直ぐの球ならその動作は「1、2、3」でよい。しかし、微妙な変化球を打つには「ノー」を入れた「間」が必要だというのです。大切なのはこの「間」だと言ってました。
 
 私たちの人生にはこの「間」があるでしょうか。間のない人生のことは「まぬけ」というのかもしれません。信仰にも同じことが言えます。これでなければならない、という考えには「間」がありません。宗教の恐ろしさとは、この「間」がなくなったときだと思います。熱狂的になるあまり本来の姿を見失ってしまうのです。
 
 しかし、「間」ばっかりでもいけません。信仰まぬけにならないためには、つねにキリストの御言葉を聞くことしなかいようです。しかし、それが一番難しいのですが・・・。

2018年1月1日月曜日

新年は礼拝から

あけましておめでとうござます。
大江教会では11:00~新年礼拝です。
今年もよろしくお願いします。