2017年11月30日木曜日

「新しい試み」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「新しい試み」
 
 教会は様々な新しい試みができる教会です。隣の教会との連立教会としてだけでなく、牧師を神様の働きために送り出す教会でもあります。そのことは特別伝道にいった先々の教会でいつも話題になるのです。「留守礼拝はどうされているのですか」と。
 
 これまでいろんな留守礼拝を守ってきました。ビデオ礼拝、テープ礼拝、信徒証言礼拝、祈祷礼拝。そしていま行っているのが「朗読説教礼拝」です。これまでいろいろな試みをしてきましたが、この「朗読説教礼拝」がいまのところ一番よい方法だと思われます。
 
 説教とは神様の言葉です。それは牧師を通して、そして朗読奉仕をしてくださる方々を通して語られる福音です。そう考えれば、それがビデオでも、テープでも同じです。しかし、そこに人の存在があるかないかは大きな違いです。朗読される方を神様は用いて祝福を与えられるのです。
 
 これから牧師数が減少していきます。そのとき教会の試みが全体教会の益となればいいと思います。ご意見をください。

2017年11月29日水曜日

「種から育つ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「種から育つ」

1ペトロ 1:23  あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

ある牧師さんから秋だというのでプレゼントされたものがあります。それは植物の種です。つばき、せんりょう、あけび、かりん、その他。なんとこれは東京の教会のベランダでとれたものだそうです。それらの木を大切に育てておられました。しかし、もっと驚いたことは、これらの木は誰が植えたのでもなく、鳥が運んできた種が木になったということです。神様の命を誰かが受け継いでくれるのですね。しかも、その木が都会に潤いを与えているのです。宣教の種蒔きも同じかもしれません。根気よく、あせらず、こがらず。きっと花咲く時がくることを信じていたいものです。

ペトロの名がついた手紙は2つあります。本日の箇所は「聖なる生活をしよう」という表題がついています。「いつでも心を引き締め」「身を慎んで」と。しかも「生活のすべての面で聖なる者となるように」と教えます。そのような生活がいまの私にできるかどうか。ペトロはできるという確信のもとに教えられています。それは「朽ちない種」「神の生きた言葉によって」私たちの「いま」があるからです。

ある幼稚園を訪問しました。園長先生の交代とともに、教育方針の改革をおこなったことを知っていました。その改革とは、園庭を自然に戻したのです。もともと森の中にあった土地を開墾して広場をつくったのですが、その運動場に再び木を植えて森にし、森の中の幼稚園にされたのです。子どもたちが森の中で遊んでいる様子が新鮮でした。その園長先生から不思議な話をききました。種から植えて育てた木と、植林した木では育ち方や力強さがちがう。種から育った木は「育つ力があり元気」、植林した木は「順応するために力をつかうから育ちが悪い」と。種から育つことの意味を教えられました。

ペトロも「種」を問題としています。この「種」は朽ちないもので「神の変わることのない生きた言葉」によると言うのです。私たちにはこの「種」が与えられています。この種に力があることを受けとめでいきてまいりましょう。

2017年11月28日火曜日

「神様のベット」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様のベット」
 
 幼子の寝顔はやっぱり平和だなとしみじみ思います。
 
 先日、愛美と昼寝をすることになりました。同じ布団に入り枕を並べて、しかも手を握って昼寝をせねばならなくなったのです。たぶん三番目がで来たことで甘えん坊になったのでしょう。
 
 さて、横にいて違うことを考えていました。「人間が眠る瞬間とはどのような時だろうか」とふと思ったのです。そこで愛美が眠る瞬間を見てやろうと薄目を開けて眺めていました。ところが眺めているうちに、私の方が寝てしまったのです。あまりにも平安に満たされた顔をしていたので、私の方が先に安心しきってしまったようです。
 
 「平安」とはいったい何でしょうか。それは幼子の寝顔そのものだといえます。私たちの寝顔もそうかもしれません。なぜならば、本当に安心しきってないと充分に眠ることができないからです。幼子たちが私たちに教えてくれる平安とは、すべてを委ねきった安心感でしょう。
 
 私たちはどこにいても、いかなる状況でも神様の懐という一番安心できるベットを持っています。それだけでも幸せです。

2017年11月27日月曜日

「今日何を行う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「今日何を行う」

1コリント 15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。

伝道セミナーに参加して、一番の収穫は私自身の宣教に対する「悔い改め」でした。宣教・伝道は牧師がするものという考えがあります。また計画やプランも伝道のプロである牧師が立てるものだという考えがあります。私もそのように考えてきました。しかし、「教会の宣教ビジョンは、信徒に与えられる」ということをいつも学びました。この教会をどのような教会にしたいかというビジョンは、神様からこの教会の信徒に与えられるのです。30人位の家庭的な教会でよい、というビジョンならそうなります。100人礼拝を目指すというビジョンなら、そのために何をするのかを出し合うことが必要です。牧師はその案をいかに実現できるかを祈り求めていく存在なのです。先の夢にむかって今があることを考えてみたいと思います。

パウロは神様の教会を迫害したにもかかわらず、その彼が使徒となったのは「復活の主」との出会いによります。その出会いが恵みであり、神様によって「今」があるというのです。過去でも未来でもなく、「今在る者」として他の弟子たちより多く働いたと言っています。

ある本の中で次のような1節を見つけました。「プランニングにおいて重要なことは、明日何かを行うかを考えることではない。明日のために今日何を行うかを考えることである」。仕事にしろ、人生にしろ、いろんな計画を立てながら生きています。多くは明日何をするかを考えています。しかし、目標が何であり、なぜ自分は生かされているかを知ることによって、その明日のために「今日」何をするかが大切なのです。

パウロは神様から大きな恵みを受け、罪赦された者となりました。その時、異邦人への福音宣教というプランを与えられました。そのプランの実現のために「今日」何を行うべきか、「今日」あるべき姿を示すのです。自分の明日のために「今日何を行う」べきであるかを考えながら過ごしていきましょう。

2017年11月25日土曜日

きままな休日・ジャーマンポテト

これって好きです。
ドイツのビールに絶対合うと思います。
いやいや日本のビールにも合います。
じゃがいもとベーコンさらにチーズなんですから。

2017年11月23日木曜日

「神様がセキュリティー」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様がセキュリティー」
 
 教会には、多くのセールスマンの方がやってきます。事務機関係、電話帳、公告関係、新聞、有線放送、書籍などなど。先日もある業者の方がやってこられました。しかし、ちょっと首を傾げて帰っていかれたのです。その業種とは「セキュリティシステム」です。
 
 セールスマンいわく「このシステムは防犯のために役立ちます。いろいろな方の入室が防げます。二十四時間体制ですので安全です」とのことでした。私は「この教会はたとえそれが泥棒でも入ってよいのです。二十四時間鍵はかけてありません。いろいろな方が自由に入室してもいいのです。神様みずからがセキュリティーです」と答えました。すると彼は「そんな無茶苦茶でいいんですか」と言うのです。
 
 私たちにとって教会を守ることは大変なことです。しかし、それを機械まかせにしたり、誰かを雇ったりはできません。教会を守るということは、一人一人が祈るほかないのです。どうか祈ってください。教会がどんなときでも地域にたいしてオープンであることを、祈りで支えてください。神様の守りこそが最高のセキュリティーですし、そこに奇跡がおこるのです。
 

2017年11月22日水曜日

「信仰というよりも

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「信仰というよりも」

ルカ 17:6 もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

ある女子高生が、教会の修養会で話していました。「わたしはカタクリコです」と。皆さんには、どういう意味かわかりますか。私はまったくわかりませんでしたが、これは日本のキリスト者の重要な課題なのだと知らされました。しかも、それは信仰の継承の問題なのです。「わたしはカタクリコ」というのは、「わたしは、両親のうち片方だけがクリスチャンの子です」ということなんです。笑い転げながら、これは深刻な問題かもしれないと思いました。今の教会には「カタクリコ」はどのくらいいるのでしょうか。多分そうとうの数の「カタクリコ」がいると思います。その子供たちが自分の両親を見ていく時、どのように両親から精神的なものを受け取っていくのかなと考えてしまいます。そこに信仰を見出すでしょうか。

イエス様は「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」と言われています。ということは、人間にはたったそれだけの信仰もないということでしょう。それだけの信仰があるならば木が動くと言われています。

信仰とはいったい何でしょうか。ルター先生の言葉を借りれば、『「不信仰な私を赦してください」という祈りこそ信仰者の祈り」と言っておられます。私たちは、信仰があるのか、ないのか、多いのか、少ないのかとよく考えています。しかし、神様しか信仰があるかないかなど分からないことです。そう思うと、私などが「あの人には信仰がない、あの人の信仰は薄い」などと言えないのです。そんなことを言って自分を慰めるよりももっと信仰の徳を高める言葉を語りたいと思います。

本日の聖書では、からし種一粒の信仰の話の前後に、『赦し』と『奉仕』の話がでてきます。「信仰・信仰」と言ったり考えたりするよりも、『赦し』と『奉仕』でわかるものだよといわれているような気がします。

2017年11月21日火曜日

「人生の天然酵母」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「人生の天然酵母」
 
 宇部教会の松岡兄から、「手作りビール」をいただきました。その味たるや、まろやかで、とっても美味でした。この手作りビールについての苦労話を少しお聞きすることができました。
 
 この手作りビールの大変な所は、その温度管理・調節にあるそうです。なんでも室温二十五度から三十度を保たないと酵母が死んでしまうのだそうです。この温度を保つことがどんなに大変なことか、想像するだけで感謝していただけます。
 
 私もいま、天然酵母のパンを焼いています。酵母をつくるのに四十八時間かかります。それをパンにするまでに、今の季節では十二時間から十六時間を必要とします。酵母を死なせないように、絶えず見守っていくことが、ビールでもパンでも大切なのだと言えます。
 
 私たちの人生もまた、天然酵母(キリストの御言葉)が必要です。ちょっと目をはなしたら死んでしまいそうです。しかし、この御言葉酵母の素晴らしいところは、死んでもまた復活するとこにあります。御言葉酵母はたえずいただくことが大切です。復活させるには御言葉を読むことです。
 

2017年11月20日月曜日

「無一物」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「無一物」

2コリ 6:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

先輩の牧師がラジオ番組に出演された時のことでした。その番組は、ある宗教がスポンサ-で、どうしても牧師と紹介できないとディレクタ-は困っていたそうです。録音の日になり、三人のゲストが揃い番組は始まりました。最初は司会者がゲストの紹介をします。さて牧師と言わずに何と紹介したのでしょう。「本日のゲストは、岡山大学の〇〇教授、ノ-トルダム女子大の〇〇教授、そして日頃ボランティアにがんばっておられる方です」。私たちはそれぞれ肩書きを持っています。また、肩書きで人を見たりもします。しかし、肩書きは肩書きでしかないのです。その人の全てではないということです。肩書きのないところで、自分は自分をどう紹介するでしょうか。

コリント2の手紙の6章でパウロは、コリントの人々へ語ってきたことを一度まとめています。結論としては「心を開くように」と勧めています。それが警告の言葉であったとしても、心を狭くせずに受け止めなさいというのです。パウロの言葉の背後には、パウロが持っている福音があります。何ももっていないパウロがもっているキリストのみ言葉によって「心を開くように」と言うのです。

千利休が陶工・長次郎に造らせた抹茶碗に「無一物(むいちぶつ)」というものがあります。松平不昧公(17511818)所持で知られる赤楽茶碗の名碗です。この茶碗になぜ「無一物」と名前がついたのか私にはわかりません。無一物とは、好き嫌いとか損得、良し悪し、などといった二見にとらわれた概念がないことです。囚われない心というのかもしれません。この茶碗をみていると、その存在のみでいいのだという気になってきます。どう受け取るかはあなた次第。そうするとこの茶碗には無限の解釈ができるということです。心を開いてみるときに受け取る無一物があるのでしょう。

パウロは「無一物のようで、すべてのものを所有しています」といいます。何も持っていないようですべてを持っているというのです。パウロにとってキリストの福音を持っているということは、すべてを持っているということと同じことなのです。私たちが人生の中で持たねばならないものは多くはありません。いや一つです。それがイエス・キリストなのです。

2017年11月18日土曜日

きままな休日・食べ過ぎ~~~

ちょっと調子にのって食べ過ぎてしました。
カレーだけ、うどんだけにすればいいのですが。
このお店は両方おしいのですよね~

2017年11月17日金曜日

姉妹教会の成長!

鹿児島教会が成長していますよ!
ますます聖なる空間になりました。
阿久根教会も礼拝出席がつねに二桁になりました!
神様に感謝!

2017年11月16日木曜日

「ちょっと時間を」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ちょっと時間を」
 
 牧師という職業の恵みの一つに、いつでも家にいるということがあります。ところが、いつでもいるということは、かえって家族には不満なところもあるようです。その一つに、子供と遊ぶ時間をとらないということがあります。いつもいるわけですから、まとまってその時間をとる必要はないと思っていたのです。「お父さんは、ぜんぜん遊んでくれない」と不平を言われてはじめて、その時間をとってないことに気がついたのです。
 
 先日もいつものように長女が、「お父さん遊ぼう」と言ってきました。すかさず「仕事があるから」と私。「いつも遊んでくれない」との長女の言葉に、「お父さんには仕事がたくさんある。いつもいっしょにいられるだけ良いと思いなさい」と怒ってしまいました。ワープロを打ちつつ窓の外を眺めてると、長女が一人でままごとの道具をいっぱい持って公園にいくところでした。その後ろ姿がせつなくて涙がでてきました。そこで、たったわずかな時間じゃないか、いっしょに遊ぼうと決心したのです。
 
 二人でブランコに乗り、青空に足がとどきそうになるくらい、思いっきりこいでみました。そのときの清々しさに感動しました。そしてふと隣りの長女をみると、同じくらいブランコをこいでいました。そのリズムが一つになったとき、娘はこんなに成長したのかと、神様に感謝しました。青空と長女の笑顔、一生忘れられないものです。

2017年11月15日水曜日

「み言葉の命を」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「み言葉の命を」

ペトロの手紙1 1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

私たちは毎日何から始めているでしょうか。自分のことを考えてみると、やっぱり祈りからでしょうか。そしておもむろに洗顔でしょうか。つまり、毎日の習慣などは忘れているようなものです。忘れてもできるからリズムよく動けるのかもしれません。礼拝も生活習慣だと言われます。「今日こそ行くぞ」も必要ですが、自然とそこに座っているというのが本当の礼拝といえます。生活のリズムとしての礼拝ができれば、負担になることから解放されそうです。しかし、人間はすぐにリズムを壊してしまうものです。

ペトロは手紙の中で「聖なる生活をしよう」と呼びかけています。私たちを不順な生活から召しだして下さった神様にならって、その生活面で聖なる者となることを求められています。それができるのは、召しだされた者が、新たに生まれたものだからというのです。しかも神様の言葉という朽ちない種から生まれた信仰者だからこそ聖なる生活をしようと言われています。み言葉の種は生きており、新たに生まれさす力をもっているのです。

宮戸島にある月浜の被災地に行ったときのことです。。その集落は津波によってほとんどの家が全壊していました。やっと重機がはいり、整理が始まった頃かもしれません。全壊した家の前にたち祈っていますと、ふと足元に花を見つけました。よくみるとジャガイモの花でした。ちょうどそこは家の台所があった場所のようでした。家にあったジャガイモが津波で全壊した家の下から芽をだし、花を咲かせたのです。もうすぐ実もなることでしょう。神様が与えられた命はこんなに力強いのです。芽を出すだけでなく、明日へと命をつなぐ実を結ばせるのです。生きた命の尊さと力を教えられました。

ペトロは「神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」と教えてくださいました。私たちは、神様の生きた御言葉によって新しく生まれたものです。私たちの中には神様の命が宿っています。この命が「死んでも生きる」命です。私たちに与えられた御言葉を見つけ出すとき、私たちはおのずと聖なる生活に招かれていることがわかります。

2017年11月14日火曜日

「ファンに支えられて」

 

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ファンに支えられて」
 
 「第七回クリスマスフェスティバル」も奇跡的に終わりました。奇跡的というのは、前日まで本当に開催できるのか、開催していいのだろうかと思ったからです。もっといえば、当日十一時半がやってきてもどうなることかと心配された方もいらっしゃるでしょう。しかし、なにより無事に事故もなく終えられたことを感謝いたします。
 
 さて、今回のフェスティバルを通してわかったことは、それぞれの信者の方にファンがおられるということです。その方々が協力してくださったから開催できたということです。準備から献品。当日のお手伝いにいたるまで、この教会だけの方々ではできませんでした。ところが、ルーテル徳山教会の信者ではなくても、それぞれの信者につながる友達が笑顔でお手伝いくださったのです。これこそ、世の光としてのキリスト者の生き方があればこそと思いました。
 
 コンサートやフィリピンコーナー、他教会の方々も一つになれました。反省すべきところは反省し、来年に備えたいと思います。

2017年11月13日月曜日

「先に」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「先に」

  マタイ  14:22 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。

   NTTが毎年、「おいで、おいで、心にとまるいい話」という募集をしています。去年の作品のなかに、九才の女の子が「『おはよう』おばあさん」というのを書いていました。その話は、「『おはよう』、朝一番に聞こえてくる声です。まだねむい目をこすりながら起きていくと『おはよう』とおばあさんの声。わたしが『おはよう』と言うまで、何度でもいいます。だから、毎日、わたしとおばあさんとで、どちらが先に『おはよう』と言うか、きょうそうしています」というものです。最後のほうには、「家中あいさつをしていると、誰もがにこにこ顔になって、わたしのまあるい顔がますますまあるくなってきます」で終っています。どちらが「先に」というところに微笑ましさを感じます。
  
イエス様が湖の上を歩いたという奇跡物語です。これを合理的に解釈しようとする人たちは「イエス様は岸辺の浅瀬を歩いておられたのであって、弟子たちが嵐で動転していたため夜明けの薄明かりの中で見誤った」と解釈しています。また象徴的解釈としては、「沖へ漕ぎだす舟は教会を表し、イエスが不在の教会は夜の闇の中で逆風と波に悩まされる。そこへイエスは神として現れ、弟子たちを救助する」とあります。どちらにせよ、弟子たちを「強いて先に行かせた」というところが心に止まりました。
  
今年は台風が首都圏を直撃しました。心配はしていましたが、進路は変わらずに上陸し、日本列島を縦断しました。こんなとき事務局は、どのような対応をされたのかと思いました。そこで振り返ってみると、台風が来るたびに危機管理ということをまた学びました。いつどの時点で帰宅指示をだすか、なにを優先させるべきか。それらはすべて危機管理がどうであるかが問われることです。被災地でもこの危機管理ということを何度も聞きました。ある被災者は「先をみた早めの判断」ということ言われました。危険が近づいている時、先を考えて、早めに対処すること。なにもなければそれが一番よいことであると。管理職に求められる危機管理に「先をみて判断する能力」があると言えます。
  
イエス様は弟子たちを「強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせた」とあります。先をみておられたのでしょう。しかし、その「先」はただの逆風ということではなく、そこにおける信仰をみておられました。神様がなさることは「先先へ」と進んでいきます。あとで分かることが多いものですが、すべては神様の導きの中にあることを信じて歩むことが大切です。

2017年11月11日土曜日

きままな休日・あずまそば

1玉、2玉、3玉同じ値段
でもやっぱ3玉はいけないですね。
そばだからと油断しちゃいけない!

2017年11月9日木曜日

「チームワーク」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「チームワーク」
 
 今年の一番の思い出は、「幼稚園大運動会」でした。ただ楽しいだけでなく、何か教えられる純粋な会でもありました。その中でもリレーはとても印象深いものがありました。
 
 娘の幼稚園では、最後の種目が年長クラス対抗リレーです。長女にとっては最初で最後の幼稚園リレーでした。まず半分のクラスごとに競争し各々の一位が決勝に出場することになっていました。
 
 さて、長女は最初のクラスです。そしてトップバッターだったのです。ところが、ここで問題がおこりました。実は華美は最後のカーブで転んでしまったのです。そのショックで泣きながらバトンを渡さざるをえませんでした。当然ビリでした。私は最後の運動会だから、このショックが長引かなければいいなと思っていました。ところが、なんといつのまにかクラスメートが挽回して、結局は一位でゴールしたのです。
 
 神様はここでチームワークということを教えてくれました。人は一人ではなく、かならず多くの人々の支えがあって生きている。そのことが子どものリレーから教えられたことでした。

2017年11月8日水曜日

「宗教改革記念日に」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「宗教改革記念日に」

 ガラテヤ 5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だからしっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。

ルーテル学院大学の特徴の一つは、いろいろな教会の信者が一緒に学んでいるということです。私の頃も、ローマ・カトリックをはじめ、基督教団、バプテスト、セブンスデー、聖公会、インマヌエル、アッセンブリー、アライアンスと、私のクラスだけでもこれらの方々がおられました。ですから、いろいろな教会の考え方の違いにとても参考となりました。さて、これらの教会の人たちが、昼の礼拝には一同に集まります。ともに讃美歌を歌い、聖書を読み、祈るのです。その中で私が印象深く学んだことは、礼拝堂への入り方でした。ルーテルの学生はそのままスーッと入っていきます。私もそうでした。しかし、ある学生は一礼をして、ある学生は一言祈って、ある学生は十字架をきって入っていくのです。その姿に「偶像礼拝だ」と批判する者もいました。私などは新鮮な驚きを感じたものです。

 1031日は「宗教改革記念日」です。私達の教会はルーテル教会で、ルターの信仰を受け継ぐ教会です。宗教改革は当時の16世紀のローマ・カトリック教会が正しい福音信仰に立ち戻ることを聖書に基づいて訴えたものです。神様がイエス・キリストの十字架と復活によってのみ、私たち人間の罪を赦し、人間はイエス・キリストにおいて示された神様の恵みに基づいて生かされていくことを強調しました。ここから、ルターの有名な言葉「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」 という、宗教改革の三大原理が生まれたのです。

 ルターは次のように言っています。「キリストはわたしたちを人間の義務から解放されたのではなく、永遠の怒りから解放してくださったのです。それはどこですか。それは良心においてです。それがわたしたちの自由の限界であって、それ以上に進むことはできません」。私たちにとって自由とはなんでしょうか。何にもとらわれない心といえるでしょうか。ルター-のことばのように、自由とは義務からの解放ではなく、良心における永遠の怒りからの解放といったほうが、わかりやすいかもしれません。罪からの解放。そのためにイエス様の十字架があるのです。

 私たちは「ねばならない」にとらわれてしまいます。しかし、問題なのは「ねばならない」という義務にとらわれて、神様からの自由を見失ってしまっているということです。私たちはキリストを信じる信仰によって、とらわれから解放されています。「ねばならない」から行いがあるのではなく、神様の愛と自由をいただいているから「そうせずにはおれない」が愛と奉仕の原点です。そこに神様からいただく自由があります。

2017年11月7日火曜日

「伝道のカンフル剤を」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「伝道のカンフル剤を」
 
 九四年も終わりに近づいてきました。今年の徳山教会の総括をする時がやってきました。牧師としての感想は、カンフル剤を打たれたような一年だったなと思います。「伝道」について今一度考える年でした。
 
 新しい試みとして「宣教の家」「信徒宣教師」の設置をしましたが。初めは好調のように見えましたが、やっぱり行き詰まってしまいました。しかし、これがマイナスであったというわけではありません。いまでも徳山教会には召しをうけた信徒宣教師が必要だと思っています。とはいっても、一番大切なことは「共働」できるかどうかでしょう。これからも新しい道を模索していきたいと考えています。
 
 さて、今年一年を振り返ってみて、神様からせっかく伝道チャンスをいただいていても、それにどれだけ目を向けてきたかと反省しています。それは、「結婚式を挙げる方々への伝道」です。この方々には年一回のクリスマス案内しかコンタクトをとっていません。私たちはいまや二百組四百人の方々のリストを持っているのです。これらの方々は教会となんらかの形でつながっている人たちです。
 
 新しい年はここが伝道のターゲットです。そしてフォローアップが戦略です。きっと子育てや、家庭生活に悩んでおられる頃でしょう。その方々にどのように手助けできるか考えてみたいものです。
 
 私たちの中には、子育て経験者、医者、教育者、牧師がいます。与えられたタラントをもって仕えていく道を探ってまいりましょう。

2017年11月6日月曜日

「ありがとうを返す」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「ありがとうを返す」

ヨハネ 3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

ある本の中の言葉です。「JRの駅のトイレに入った。用をたす。その目の前に貼り紙があった。《汚さないでください》といった注意書きではなかった。それでいて、何となくきれいに使いたくなる貼り紙だった。その内容は・・・。《きれいに使って頂いてありがとうございました》」。さて、私たちのまわりには《否定語》を使うことが多々あります。自分のことを反省してみると、子供にたいしてなんと否定語が多いことかと、がっかりします。注意や禁止を告げる言葉も、言い方によっては人を傷つけずにすむものです。本当に愛のある言葉は人を癒すのです。

 ヨハネ福音書の中で、最も有名な箇所です。たいてい好きな聖句のトップにこの聖句が上げられます。神様が、独り子であるイエス様を十字架の死に渡してまで、私たちを愛してくださったのです。私たちの罪を赦しあがなうためです。「たち」というより、これを読む人は「私」と置き換えます。こんな私のために、神様がそこまでしてくださったことに感謝するのです。

 会話の中でよく聴く言葉があります。「すみません」という言葉です。本来「ありがとう」と言うところで、「すいません」といいます。何も悪いことはしていないのに謝っているように聞こえます。しかし、ある仏教のお坊さんの解釈を思い出しました。「すいません」という言葉は、「私」はこれまで多くの人、出会い、物、大自然のおかげで今日まで生きてくることができた。しかしそれに対して何一つ恩返しができていない。つまり「すみません(申し訳ない)」という気持ちを表した言葉ですと。あなたからの恩になにも返せなくて「すみません」ということです。

 神様から私たちが頂いたものを数えることができません。(あまりにも多くて)イエス様の命までも頂いたのです。神様に何を返していけばいいのでしょうか。いや、返すことを神様は望んでおられないと思います。「ありがとう」と感謝して受け取ればいいのです。そして、頂いた恵みを隣人と分かち合い、「あなたも神様から愛された存在ですよ」と伝え、隣人に仕えることが「すみません」の言葉、それが本当の生き方だといえます。

2017年11月4日土曜日

きままな休日・宇土ごはん

宇土教会の礼拝後のごはんです。
なんとなく田舎でいいでしょう。
だって紅白まんじゅうつきです。
しかもも甘酒饅頭

2017年11月2日木曜日

「紅葉の深呼吸」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「紅葉の深呼吸」
 
 東京からの出張のついでに、徳山教会へ訪ねてこられた方がありました。なんでも「神様のクレヨン」の舞台を見ておきたかったとのこと。嬉しいやら、気恥ずかしいやらです。
 
 いろいろと話しがはずみ、ひとこと次のように言われました。「神様のクレヨンを読んでいると、田園風景、大自然のなかにある教会だと思ってましたが、わりと都会にあるんですね」。たぶんこの方は柳井、防府、六日市、益田を宣教の舞台としている教会の地域が想像できなかったのではないでしょうか。
 
 今週はお昼の二時に益田から帰ってきました。いま、紅葉のまっさかりです。神様がお造りになった世界は見事です。ふと車を止めて深呼吸すると、心が紅葉に染まっていくみたいで感激します。
 
 だんだん自然に触れたいと思うようになりました。きっと頭でっかちの生活にどっぷりつかっているからでしょう。主イエスが「野の花を見よ、空の鳥を見よ」と言われたことが、新鮮に聞こえてきます。いま紅葉が見事です。せめて五分、紅葉の深呼吸をしたいものです。

2017年11月1日水曜日

「たった一言で」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「たった一言で」

マタイ  8:8 百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。

お寺の前を通るとき、よく掲示板をみます。たいていは墨字で達筆にかかれてあります。あるとき旅行中に小さなお寺を見つけました。そこには大きな字で次のように書いてありました。「たった一言が、人の心を傷つける。たった一言が、人の心を温める」と。言葉というものには力があります。たった一言の力だと思います。その使い方によって、人を傷つけるし、癒すこともできるのです。この言葉の力をもっと考えていかないといけないのです。

イエス様のもとに「百人隊長」がやってきて懇願するという出来事です。たったこれだけでも凄いことです。百人隊長はユダヤ人を支配し、命令する立場にあります。またユダヤ人は百人隊長を異邦人として忌み嫌って近づこうとしないからです。そんな関係がある者が、出会うのです。そして、イエス様に百人隊長の方から部下の「いやし」を懇願したのです。その中に「ただ、ひと言」という言葉があります。

ある本でみつけた話です。「96年のことである。46日間漂流して奇跡的に助かった漁師がいる。沖縄の人である。当時67歳。軽い脱水状態だったが、生命には別状がなかった。取材記者に救出の模様を語っていた。しめくくりの言葉が凛として見事だった。『これからまた漁にでますか』二コリともせずに答えた。『わしは漁師だからね』と」。もうひとつ。「ある自転車愛好家がいる。といっても、並の愛好家ではない。南北アメリカ、欧州、アジア、アフリカ、オーストラリアの80ヶ国を走破した人である。走行距離は13万7千キロ。六年半かかったそうである。日本に無事帰ってきて、旅の感想を聞かれた。そのときのひとことが、私たちに勇気を与えてくれる。『自転車乗りは上り坂を目指すんです。坂道はきついが、頂上はかならずあるんです』と」。人生の中で見つけた一言はとても重い言葉です。

 百人隊長は、イエス様がどんな方で誰であるかを本当にしっていたかどうかわかりません。しかし、そのみ言葉の力は信じていました。言葉には力があります。