2019年1月31日木曜日

「自由という束縛」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「自由という束縛」
 
 大黒摩季という人のCDPOWER OF DREAM」を買いました。といってもそれは何なのという声が聞こえてきそうですが・・・。私はこの人の曲をきくとなんだか元気になるのです。そのCDの中に次のような歌詞を見つけました。
 
  道のない道を行けば いろんなことで迷う
 
  かたちのない愛を信じれば かたちが欲しくなる
 
  どうして あれもこれも 欲しくなるのだろう
 
  何も望まないあなたは とても奇麗だから
 
  風になれ この願い 夢を追いかけて
 
  心のむくままに 溢れる思いのまま
 
 この歌詞を読みながら、なぜか放浪の俳人・山頭火を思い出してしまいました。
 
風になって自由に飛び回るのは願いですが、彼の日記を読むとその苦しさが伝わってくるのです。自由というのは、また違った束縛のひとつかもしれません。
 
  さて、どちらへ行かう風がふく 山頭火
 
  風の明暗をたどる       山頭火
 
 私たちは、いろいろなしがらみから逃れて自由になりたいと考えます。しかし、本当に自由になったときは、独りになったときです。独りがどれだけ苦しいのかを知りません。私たちの人生は、つねに主イエスと二人です。実は神様と二人であることの自由を知らないのかもしれません。

2019年1月30日水曜日

「主の御旨のみが」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「主の御旨のみが」

箴言 19:21 人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。

夏の予定でパニックになったことがあります。なんでもOK,OKと引き受けてしまい、後で予定をみてでビックリ。なんとその年の8月は、教会にいる時間は5日しかなかったのです。たとえば、「ミッション系高校の修養会」の講師。それが終わって「インドネシアのバタック教会宣教九十年大会」でインドネシアへ。「名古屋地区伝道修養会」の講師として招かれ。それだけならまだしも、AVACO紙芝居の脚本の執筆、児童説教集「おはなしがいっぱい」の執筆、全国聖書日課執筆と締切がすべて8月でした。計画性のなさからこうなったのかと反省しました。

箴言19章も知恵の薦めが続きます。格言集ですから様々な角度からの教えが示されています。この章の冒頭では「唇の曲がった愚か者」という言葉があります。これは語る言葉が曲がっているということで、言葉の中に嘘があるということです。つまり言葉の中に嘘があるのは、誠実でないということです。神様に対して、隣人に対して誠実さをもって、人は生きて行くべきだと言うのです。

ある時「計画は計画であって、その通り実行されるかは別の問題」と言われました。それを聞いたときは「それじゃ計画しても意味がない」と思いました。またある人からは「無計画という計画もある」と聞いたことがあります。それは不誠実だろうと感じました。完璧な計画を作った所で、それが実現するかどうかは誰にもわからないということは理解できます。すべての計画が狂うときや、うまくいかない時があります。そんな時に教えられることは「いまは神様のなさることをみていよう」ということです。

箴言は「人の心には多くの計らいがある」といいます。誰でも多くの計画をもっています。それは人生計画であったり、家族の生き方計画であったり。また金銭の計画、旅行の計画などもあります。もちろん教会も計画をもっています。そこで箴言があえて教えているのは「主の御旨のみが実現する」ということです。自分勝手な計画をいくら立てても実現はしません。それが主の御旨にかなっているかどうかです。どうすれば主の御旨がわかるか。祈りつつ神様のなさることを見ているしかないかもしれません。しかし、主の御旨にかなうことは必ず実現するのです。

2019年1月29日火曜日

「私はわたし」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「私はわたし」
 
 やっと子供達の夏休みが終わります。これで毎日の「やること捜し」から解放されるのです。子供達にとっては、夏休みの宿題まとめに全力を注いでいます。
 
 さて、長女の机の上に1冊の本をみつけました。きっと読書感想文用の本を読んでいるのでしょう。ちょっとのぞいてみることにしました。その本とは神沢利子さく「くまの子ウーフ」です。なかなか感動しました。
 
 くまの子ウーフは、ある朝ごはんをたべながら考えました。たまごを割るといつもきみとしろみがでてくる。たまごはきみとしろみでできてるけれど、自分は何でできているのか。いろいろと聞いていくうちに、ちょおと意地悪なキツネにであいます。キツネはめんどりが卵を生み、そこから鳥が生まれるといい、自分のからだからでてくるものでできてるといいます。だからウーフはおしっこでできているというのです。しかし、自分からは、血もでるし、涙もでるし、痛いとおもうし、嬉しいと思う。おしっこはそんなこと考えない。とあれこれ考えるのです。そして、ドアにぶつかって「痛い」というのは自分だと発見するのです。そこからウーフはわかったのです。「ぼくはぼくでできている。ウーフはウーフでできているんだよ」と。
 
 神様は私を私として創造してくださったのです。かけがえのない存在として。今日で37歳になりました。かけがえのない私でありたいと願いつつ。

2019年1月28日月曜日

「口答え」



阿久根ルター君の朝のみ言葉

「口答え」

箴言 18:13 聞き従う前に口答えをする者、無知と恥は彼のため。

久し振りにデパ-トへいき、多くの人がごった返していました。このような時は迷子が多いとみえて、ある売り場の方が二才位の男の子に話しかけておられました。その会話を聞きながら、さまざまな事を連想しました。さてその会話ですが、売り子さんが「あなたの名前は?」と聞くと、子供はきまって「ウルトラマン」としか言いません。その子供は何を聞いても「ウルトラマン」としか言えなかったのです。困った売り子さんは、「お父さんの名前は?」と聞きました。でもやっぱり「ウルトラマン」なのです。それでは「お母さんの名前は?」と聞いたところすぐに答えました。「うるさい」。多分この子供はお母さんに、ガミガミと言われているのでしょうか。お母さんを一言でいうと「うるさい」に集約できるのは、さみしいことですが。

箴言18章は、神様から離反する者に対する忠告からはじまります。神様から離反するとは、自己中心的で周囲から離れて行く者のことです。自己中心的な者、利己的な者が人々の間に争いをもたらすと教えます。集団生活において、自己中心、利己的ということは、神様から離反を意味しています。そこから「口答え」ということが述べられているのです。

ネットで「口答え」を検索していたら次のような記事がありました。「不適切なクレーム対応にお客様がキレた」というものです。それは「野菜が生だ」とクレームを言う客に「いつもこうです」と返答したら、「この店の教育はなってない」と店長を呼びつけて強く叱ったと言う話です。この場合、賢い選択は「指摘のあった料理を作りなおす」ということで、「野菜が生だと」と言っている客は「もっと火を通したものが食べたい」と思っているのだと考える。そしてそれを提供する。ところが、この記事にネットで火がついて「ごね得ニッポン」「過剰サービスに慣れ過ぎ。その負担は自分らバイトにまわってくる」など釈然としない書き込みが多く寄せられたというのです。そちらも一理あるなと思ってしまいました。

箴言は「聞き従う前に口答えをする者」と言っています。まずはその人が何をいっているのか「聞くこと」が大切だと教えています。そして「従う」ということ。この「従う」を間違えてはいけないと思います。神様に従って聞くということが知恵なのです。その視点からみれば、箴言の言葉は神様に聞き従う前にと読めないでしょうか。

2019年1月27日日曜日

きままな休日・おやつのうどん

ふふふ!博多駅で牧のうどん!おやつに最高!新幹線予約時間までに、1時間もあったので。いくしかないでしょ!柔らかい麺と丸天が素晴らしいのです。満足!帰って鹿児島教会の総会資料を完成させます。これで3つ終わる。

2019年1月26日土曜日

明日は礼拝

説教者:吉谷正典牧師(引退教師)
皆さんぜひどうぞ!

2019年1月25日金曜日

阿久根教会総会

阿久根教会礼拝と総会!礼拝出席は倍の人数になりました!神様に感謝!
さらに今年は3倍を目指して。
午後は宣教について活発な議論をしました。

2019年1月24日木曜日

「嬉しい誓約」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「嬉しい誓約」
 
 結婚式の依頼件数がどんどん増えてきています。それだけ新しい方に出会えるチャンスを神様から頂いていることになります。これは牧師としてとても嬉しいことです。最低でも5回は会って話しをすることができます。もっと楽しいことは、一緒に結婚について話し合うことができることです。
 
 最近では、誓約の言葉を一緒に考えることにしています。ほとんどの方が、式文と同じ言葉を選ばれますが、中には自分たちで真剣に考える方もおられます。それにもとづいて牧師がまとめることはとても楽しいことです。
 
 9月に結婚式をされるお二人は次のような言葉を自分たちで考えられました。
 
 「この広い世界であなたに出会い、いまここに結ばれたことを感謝します。これから先、永遠に変わることなく、幸せな時も困難な時も、お互いを尊重し、励まし愛合いながら、喜びも苦しみも互いに分かち合い、深い愛情で結ばれたゆるぎない家庭を築くことを誓います」。
 
 とっても嬉しい誓約の言葉だなと思います。むしろ祈りに近いかもしれません。このような結婚式を与えられる教会は幸せだと思います。
 

2019年1月23日水曜日

「水の一滴から」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「水の一滴から」

箴言 17:14 いさかいの始めは水の漏り始め。裁判沙汰にならぬうちにやめておくがよい。

花 八木重吉  花はなぜうつくしいか  ひとすじの気持で咲いているからだ

牧師館の横にある日々草が太陽にむかって咲いている姿をみて、「ひとすじ」の気持が伝わってきました。予定も先が見え、秋へとすすんでまいります。秋にはどんな花が、「ひとすじ」の気持で咲いてくれるか楽しみです。またそのような花をこの世に造ってくださった神様に感謝する時にしたいと思います。 神様が造られたものは、「ひとすじ」の時が美しいのです。ささやかな感謝から今日もスタートしたいと思います。

箴言の記述法には「比較の詞」が多くあります。2つを並べて比較させ、どちらを選ぶのかを提示しているようです。この「選び」とうのは、聖書のテーマでもあります。新約聖書の中にイエス様の有名な言葉があります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ1516)。選びとは神様の出来事でもあります。箴言では、神様の御心に従ってどちらを選ぶのかを問われているようです。

小学生の頃「川の源流を探る旅」に参加したことがあります。朝5時に河口である海に集まり、車や徒歩で川を遡っていくのです。大きかった川が少しずつ小さくなり、小川になっていくがとても不思議でした。最終的には山の奥にある、水が岩から滴り落ちるところまでいきました。その時に、先生が河口の写真をみせて「大きな川もこの一滴にはじまる」ということを教えてくださいました。いまでも鮮明に覚えている出来事の一つです。

箴言は「いさかいの始めは水の漏り始め」と教えています。この漏り始めも一滴からです。わずかなことが大きな事へと発展していきます。どとすると、始めの水漏りの一滴に心をくばることを教えているのです。先人たちの知恵というのは、歴史をとおして長く伝えられていくものだと思います。

2019年1月22日火曜日

「みんなでハワイへ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「みんなでハワイへ」
 
 九州の山奥に過疎化のために若者が一人もいなくなった村があります。この村が若者に帰ってきてくれるために努力した話を聞きました。きっと涙ぐましい努力があったと想像しますが、その逆でたいへん楽しい努力だったそうです。
 
 まず、村のお年寄りは「楽しさ」をテーマとしました。とにかく楽しい村にしようとしたのです。いろいろな計画がもちあがり、何が一番楽しいかを考えました。結果的には自分たちが一番楽しいことがいいとなったのです。そこでみんなで梅の木を植えまして、梅製品を造り始めたのです。なんでそれが楽しいのかといえば、その梅製品の販売利益でみんなでハワイ旅行をしようときめたのです。そして、その旅行の楽しさや、梅造りの楽しさを新聞にして、村から出ていった若者に毎月送り届けたというのです。
 
 「いまこれが楽しい」「みんなでいったハワイ旅行は楽しかった」「村のこれがいま楽しい」などなど、楽しいことを企画してその楽しさを届けたのです。数年後その村がどうなったかおわかりでしょう。いまや若者とお年寄りのバランスのいい村となったのです。
 
 この話を聞いて、「これからの教会の宣教はこれだ」と直感しました。私の宣教方策はまず楽しさからです。楽しさのなかで福音を分かち合いたい。

2019年1月21日月曜日

「定められています」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「定められています」

ルカ 2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

大阪教会の機関紙に、ある信徒の方が「引き際にロマンを見た」という題で、昨年天に召された石橋幸男牧師語録を書いておられました。「信仰の業で最も偉大なことは、いかに多くの人に福音を伝えたかではなく、伝えねばおられない人間に変えられたかである」「『自分を愛するように隣人を愛せよ』古今東西地球上にただ一人の自分を愛し切らねば、人に愛を注ぐことはできない。神が自分をして、何を表現されようとしているのか、使命を模索し、高める努力をすべきである。他人から必要とされる人に変えられなければ、その人の信仰は空しい。泳げなくてどうして溺れるものを救うことができるだろうか」。信仰の心を定めることを教わったようです。

 イエス様を出産した母マリアは、律法の定めに従ってその子を主に捧げるためにエルサレムの神殿にやってきました。そこでシメオンに出会います。彼は「正しい人で信仰があつく」「聖霊が彼にとどまっていた」人でした。シメオンは母マリアに神様によって定められたイエス様の受難を予告し、母マリアもそれを目撃することになると預言しました。

 動物(ペット)と共に生きるというラジオ番組がありました。ペットロス症候群が話題になっており、日本人に多い現象だと言っていました。もともと日本人の感性では、食べる動物とペットを区別できず、その境界線を曖昧にしてしまうそうです。欧米の感性は「神様が食べる動物と、ペットを区別して創られた」と考えており、「この動物のすべてに死が与えられている」と考えるのだそうです。だから、死ぬという前提のもとに「いまどのように接するか、共に過ごすか」が大切だというのです。そこには十分に愛情をそそぐのだからペットロス症候群にはならないということでした。すべては信仰の問題なのかなと思います。

 イエス様の母マリアはすべてを心に留めていきていきます。神様の子どもであるイエス様に、我が子でありながら従っていく人生を歩むには「すべてを心に留める」しかなったのでしょう。シメオンの預言をとおして受難を知った母マリアでしたが、その預言ゆえに今をいきることができたのです。

2019年1月17日木曜日

「はじめっから無理」

クレヨン牧師のミニエッセイ
「はじめっから無理」
 
 学校が夏休みなので、幸か不幸か子供達が毎日家にいます。だんだん飽きてきたのか、毎日プログラム(やること)を造ってやるのに大変です。「テレビでも見てなさい」とは言いたくなくても、自然とそうなっています。しかしワイドショーを見るよりは、ディズニィーのビデオを見ているのが現状です。がしかし、大人の方がそのビデオを楽しんでしまいます。
 
 さて、昨日は「白雪姫」をみていました。「鏡よ、鏡。この世で一番美しいのは誰か」と一人の女性が質問をする。当然「あなたです」と答えが返ってくると思っていたが、「それは白雪姫です」と答える。それで怒った彼女は、先妻の子である白雪姫を殺すことにしたという物語です。この物語をみているとどうしても疑問を持たざるをえません。それは、白雪姫と継母の美しさを比較しようとすること自体が、土台無理な話だと思うのです。白雪姫は13歳位。継母は中年女性なのです。二人の美しさの次元は初めから違うのです。それぞれに美しさがる。この鏡は回答不可能ですと答えればいいのに・・・(それでは物語にならないのですが)。
 
 私たちはどうも比較することが大好きみたいです。あの人と私はどっちが幸せか、いやどっちが不幸かと。隣りの芝生は・・・と。しかし、神さまの前ではそのような比較はしなくていいのです。私には私なりに、となりにはとなりなりに接してくださるのが、主イエスだと言えます。キリストと出会っているいまで充分。

2019年1月16日水曜日

「慇懃無礼と応答」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「慇懃無礼と応答」

箴言 15:1 柔らかな応答は憤りを静め、傷つける言葉は怒りをあおる。

「慇懃無礼」という言葉があります。表面の態度は丁寧だが、心の中では相手を見下し馬鹿にしていること。またはそういう行為と国語辞典にはかいてありました。ただこの言葉の本当の意味は何かを考えています。大企業などがクレーマーに対して謝罪を行う場合、行き過ぎてこのような状態に陥りやすいので注意が必要と言われます。また、個人の間ではプライドが高く尊大で自意識過剰な人間が、丁寧な口調や文体で他人に対し議論や謝罪を行う場合に、このような態度?が見られる場合があるとも。意図的に行うものと、無意識に行うものがおり、判断に苦しむ行為であるというのが正解のようです。人間関係によって、無礼になったり丁寧になったりするのでしょう。この言葉は関係の上になりたっているものです。

箴言15章はひきつづき生活の知恵、格言がかかれてあります。その中でも特徴的なことは3節です。「どこにも主の目は注がれ、善人をも悪人をも見ておられる」と教えています。人間はつねに神様との関係の中で生きているというのです。神様との関係のなかで、人と人の関係もまた与えられています。

私たちの脳は、右脳と左脳とでは働きが違うといわれています。いわば分業をしているとか。左の大脳半球は言語脳といわれ、言葉を話したり、読み、書き、計算、分析などの担当です。これに対して右の大脳半球は感性脳といわれ、音楽や美術を鑑賞したり、直感のような感性の担当です。たとえば、ある同じ音楽を二人に聞かせる。一人は作曲家、一人はただの音楽好き。聞かせながら脳の断層写真をとると、作曲家は左脳に多く血液がながれ、ただの音楽好きは右脳に多くの血液が流れるのだそうです。曲を分析する作曲家とただ演奏に浸っている音楽好きの違いなのでしょう。信仰はどちらの担当でしょうか。実は右脳なのだそうです。つまり、悩み悲しみを理解するこころの優しさという感性が、信じることへの道を開いていくのでしょう。やっぱり信仰とは分析ではないのです。それを越えたところの感性に神様が働きかけてくださるのです。知的なところよりも大切なもの、そこに信仰の働きがある。その深いものを各自が与えられているのです。

箴言は「柔らかな応答は憤りを静め」と言っています。大切なことは「応答」ということです。言葉が慇懃無礼になるのは一方的だからです。「傷つける言葉は怒りをあおる」からもわかるように、そのような言葉は一方的なものなのです。イエス様は多くの人々と対話をされました。応答しておられます。言葉の中心に信仰をもって応答することが求められているのかもしれません。

2019年1月15日火曜日

「人間の故郷は土かも」

クレヨン牧師のミニエッセイ
 
「人間の故郷は土かも」
 
 「広島自由人倶楽部」の例会で、東広島在住の陶芸家ご夫妻の話しを聞く機会が与えられました。その話しの中で一番驚いたのは「最近では土にDNAがあって、それが人間につながっているという学説もある。キリスト教では神様が人間を土から創造されたといわれるが、キリスト教が正しいかもしれません」という内容でした。そう言われれば、土に触れることで安心するとか、子どもたちが粘土遊びが好きなこともわかります。
 
 陶芸は「1焼き、2土、3細工」だと言われました。その奥深さはわかりませんが、最近では若い人からお年寄りまで、陶芸教室に通ってこられるそうです。土に触れることで「いやし」が行われているのではと言われました。その話から先ほどのDNAの話しになったのですが、人間の故郷は土かもしれないと言われるわけです。
 
 もう一つ印象に残った話は、「作品にはその人の人生がそのまま出てくる。自分がさらけだされる。自分を深めていかないと、陶芸の作品も深まっていかないのです」という言葉でした。私たちが神さまの創造されたものであれば、その人生とともに深まる存在だと言えます。神さまの御心に生きる人生は、ますます深まりその人自身が神さまの証しとなっていくのでしょう。

2019年1月14日月曜日

「どのフレームで見るか」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「どのフレームで見るか」

箴言14:4 牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力。

うらをみせ おもてをみせて ちるもみじ    

 良寛晩年の良寛が死をまえに詠んだもの(正確にはひとのうた)であるといわれています。最も当時の良寛のこころを現わしているものだといえます。死をまえにして、自分の良いところも悪いところもさらけだして生きてきた、思い残すことはなにもないということです。私たちは良いところも悪いところも同様にもっています。しかしどうしても、良いところだけしかみなかったり、また悪いところは隠そうとしたり、気づかないようにしています。神様は私たちのどこを見ておられるのでしょうか。きっと両方だと思います。良いところも悪いところも、私たち自身のすべてを見てゆるし、しかもそんな私たち一人一人を大切に思っておられるのです。うらも、おもても、神様にとってみれば一人の愛すべき子供です。だからこそありのままで救われるのです。

箴言144節には農耕に関した格言がでてきます。旧約聖書では王国時代の初期の頃に、牛による農作業がその生産力をあげています。今日の格言は、そのような時代の中で作られています。自分たちの生活の中で、どこに自分の視点をおくかということです。どちらに視点をおいても根本の出来事はかわらないが、視点をかえることで受け取り方は正反対になってしまいます。

心理療法の中に「リフレーミング」というものがあります。枠組みをかえてみるということです。その中に海外に住む一人の婦人の話がありました。彼女は神経質で綺麗好きのため、部屋が汚れるのを極端に嫌っていました。とくに部屋のカーペットが汚れるのが、彼女にとって大変な苦痛でした。またそのことで彼女は精神を病む結果にもつながりました。ある時、医者から「リフレーミング」の話をききます。それはカーペットが汚れるのではなく、人がそれだけ多く歩いているから汚れると見方を変えることでした。人がそこに住んで交わりがあるということへと見方を変えさせられたのです。それは彼女にとって素晴らしい発見となり、その後元気を回復していったというのです。

箴言は「牛がいなければ飼い葉桶は清潔だが、豊作をもたらすのは牛の力」と教えています。ここでも見方を変えることを教えられます。このように考えると、人生における試練や苦しみも、実は神様に出会うためのものであると考えることができます。いま自分に起こっていることを神様の視点というフレームで見る時、いったいどのようにみえてくるのでしょうか。神様の視点は愛というフレームでみるということです。

2019年1月13日日曜日

きままな休日・ホテルの新年会席料理

 
ホテルである例会の新年会がありました。
料理はすべてお魚!肉はない!
それもいいですね!

2019年1月12日土曜日

2019年1月10日木曜日

「神様も単身赴任」

クレヨン牧師のミニエッセイ
「神様も単身赴任」
 
 この時代には、いろいろな家庭環境があります。とくに単身赴任のお父さんがおられる家庭では、様々な状況が生まれているみたいです。先週、ある方から聞いた実際の家庭での話を少し紹介してみます。
 
 年に数回しか家に帰って来れないお父さんが、久しぶりに帰ってこられたときのことです。食事時のことでした。お母さんは、まず最初にお父さんからご飯をつぎました。すると子どもが「お母さん。どうしてお父さんが一番なの」と聞いたそうです。お母さんは「いつも私たちのためにがんばっているからよ」と答えました。しかし、子どもにとっては離れて生活しているので、お父さんがどんな仕事をしているか分からないからその答えでは納得しませんでした。本当にがんばっているかわからないというのです。そこで子どもなりに納得のいくように自分で考えました。そして大きな声でこう叫んだそうです。「わかった。お父さんはお客さんだからだ」。
 
 話しを聞きいて笑ってしまいましたが、あとからよく考えると深い問題を抱えているように思えました。神さまがどんなことをしてくださっているかを知らない私たちは、神さまを単身赴任にしてお客さんにしているかも・・・。
 
 それでも父である神さまは微笑んでおられることでしょうが。

3人の博士の捧げもの

先週は3人の博士の礼拝でした。
教会礼拝堂には3人の博士がイエス様に捧げた
黄金、乳香、没薬をささげて礼拝をしました。

2019年1月9日水曜日

「誰と共に歩くの」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「誰と共に歩くの」

箴言 13:20 知恵ある者と共に歩けば知恵を得、愚か者と交われば災いに遭う。

エクササイズ本の中でメトカーフという人が、「生身の人間であれバーチャルなものであれ、サポートしてくれる存在を持つことが成功の秘訣だ」と書いています。彼は、「自分自身の力だけで減量できる人は10人に1人だが、仲間のサポートがあれば10人に7人は減量できるようになる」と説明していました。初めからペースを上げることはせず、プロのトレーナーに頼り、ブログや電子メールで仲間に成果を報告するように勧めています。誰かが共に歩んでくれること、その人がどのように共に歩むかが大切なのでしょう。

箴言の13章は教育に関する格言です。「子は父の諭によって知恵を得る」という言葉から始まります。実はこの文には動詞がないので、翻訳には少し無理があります。あえて「父」を動詞の「愛する」に変更して、「賢い息子は諭を愛する」と翻訳している注解書もありました。父がどんな存在として共にあるか、それは子に知恵を与える者であることを示しているように思えます。

女子パウロ会の本に『動物の祈り』というものがあります。そのなかに「カメの祈り」もあります。「神様。どうかちょっとお待ちを。今まいります。私のお荷物は背負っていかねばなりません。別に好きこのんで背負ってるわけではないのですが・。いいえ、背中にのったこの家に不満なわけではありません。けっこう役に立つのですから。けれども主よ。おわかりくださるでしょうが年中運んで歩くとなるとなかなか重いものなのです。私に与えてくださったこの二重の束縛、甲羅と心の二重のかせゆえにあなたに対して心をとざすことがないようにいつも祈りつづけさせてください。ア-メン」私たちはこれが自分の祈りだというものを持っています。それは自分の弱さかもしれません。しかしそれを聞いてくださる神様も同時に持っているのです。

箴言は「知恵ある者と共に歩けば知恵を得る」と教えています。私たちは共に歩むときに、自分の心地よい人と歩むことを選びます。しかし、自分に心地よいだけではいけないのです。自分のことを本当に愛し、支え、時には忠告してくれる人と共に歩むことが必要です。イエス様が共に歩んで下さるということを考えてみたいと思います。

2019年1月8日火曜日

「楽しい役員会」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「楽しい役員会」
 
 教会役員会が先週おこなわれました。いつもなら教会事務処理がほとんどですが、今回はさしあたって議題がありませんでした。しかし、今回は議題がないことが神さまの導きだったと思います。なぜなら、ほとんどの時間をつかって「広島教会はこれからどうやって宣教していくか」を話し合ったのです。
 
 とはいっても大きなことを考えているわけではありません。どうやったら教会に新しい仲間を増やせるかということです。ここに教会があることを知っていただく、そこで主イエスに出会っていただくにはどうしたらよいか。そんなことを、あ~でもない、こ~でもないと話し合いました。
 
 全国のルーテル教会は、ますます力が弱くなってきています。なかなか信徒数が増えません。もしかすると減っているかもしれないのです。宣教方策というものも確かにあります。それを読んでしっている方は何人いるでしょうか。そんな時だから、私たちはどうするかが問題なのです。1人でも多くの方に「出会う」チャンスをつくること。その方々へのフォローアップをすること。それには何が・・・。と議論がつきませんでした。しかし、神さまから問われていることは大きなものですが、その話し合いは苦痛ではなく、楽しい会であったことは確かです。いろいろな智恵が必要です。広島教会から新しいルーテルの宣教をはじめませんか。

2019年1月7日月曜日

「木の根元に置かれた斧」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


木の根元に置かれた斧」

マタイ 310 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

新興宗教の特徴は「この世の終わりがすぐ来る」と叫ぶことです。終末思想からくるのでしょう。この世の終わりが来るということで恐怖心を与え、それから逃れるには自分たちの教団を信じるしかないというのです。これまでも多くの新興宗教ができました。しかし、大抵は詐欺のような宗教が多く、お金をだまし取られたという被害があります。洗脳というものもあります。恐怖をあおるときに「この世の終わり」を叫ぶことに騙されてはいけません。なぜならそれは神様が決められることで、人間にはわからないことだからです。

マタイによる福音書は、イエス様の宣教開始の前に洗礼者ヨハネの活動を記します。洗礼者ヨハネは、ヨルダン川の下流地域で独特な宣教活動をしていました。その活動は、彼の死後もヨハネ教団として独特な宗教性を持ってのこりました。洗礼者ヨハネの宣教の特徴は、「終末観」です。まさにすぐそこにこの世の終わりが来ているというかなり緊迫感をもったものでした。すでに斧が木の根元に置かれている。悔改めなければほろびるということでした。私たちキリスト者も、この緊迫感を人生の中に持っているかを問われています。神様の裁きはすぐそこにまできている。その裁きにたえられるような良い実をむすんでいるかということです。また洗礼者ヨハネは、自分の後に来る救い主についても語ります。悔改めのあとにくる福音について指示しておるのです。

ある時、パウロ使徒言行の旅を準備していまして、パウロをそこまで宣教へ駆り立てたものは何だったのかと考えていました。イエス様との出会いによって回心したパウロ、しかしそれだけではなかったことでしょう。何回も彼の宣教旅行、回心などを読んでいまして、ふとこれかもしれないと思えることにぶつかりました。それは、聖ステファノの殉教です。パウロ(当時はサウロ)は、ステファノの殺害に賛成しています。しかし、自らは石を投げず、彼を取り囲んで石を投げている者たちの洋服の番をしていたと聖書には書かれています。パウロの原点はここかもしれないと、ピンと思い当たったのです。殺害に賛成しながらも自らはあたかも傍観者のごとくに振る舞ってしまったパウロ。そのことが彼の心の痛みになっていたのではないかなと思います。最後まで自分に石を投げつける者たちのことを祈って召されたステファノ。その輝きの中で、イエス様にパウロはであったのではないかなと思います。そのことの悔い改めが、彼を救ったのでしょう。

洗礼者ヨハネは「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と忠告しています。斧は既に木の根元に置かれている。そのことを知ろうとも、見ようともしないならば、悔改めなどおこりません。悔改めがなければイエス様の十字架に出会うことはありません。良い実を結ぶには、まず悔改めることです。そしてイエス様と出会うことしかないのです。

2019年1月6日日曜日

きままな休日・2019年初グルメ

2019年1月1日!最初のグルメは「活あなご弁当」でした。
煮あなごではなく、焼あなご!これが香ばしくて本当に美味しい。
何個でも食べられそうです。今年もB級グルメを食べ歩きます。人生の楽しみですから!

2019年1月5日土曜日

明日は初礼拝!

説教者:吉谷正典牧師(引退教師)
どうぞお越しください!

2019年1月4日金曜日

2019年新年礼拝説教


2019年新年礼拝説教
 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
 
「思い悩んだからと言って」

ルカ 12:22 イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」。

 

利休七則に、心にのこる言葉があります。それは「花は野にあるように」です。何回よんでも深い言葉です。野に「あるがまま」ではなく、「あるように」というところに感銘をうけます。これは野に花が咲いている状態がいまここにあり、それを感じさせるように生けることです。つまり野に花がさいていることを再現しなさというのではありません。たった一輪の花でさえも、野に咲いているように表現できるならば「あるように」ができます。ただそのように生けるには、余計な「モノ」を取り除かねばなりません。

イエス様は群衆の一人に「愚かな金持ちのたとえ」を話されたあと、弟子たちに「思い悩むな」と言われました。弟子たちはすべて(所有物)を捨ててイエス様に従っています。その弟子たちは何も持っていなくても、神様がすべて養ってくださると言われるのです。命のこと、食べること、着ることで思い悩まなくても、神様はすべて配慮してくださるから「思い悩むな」と教えられたのです。

「セレンディップの3人の王子」という話があります。この童話の王子様はしょっちゅう探し物をしています。だから人々からはおかしな人と思われている。でも、しょっちゅう探し物をするのは普通のことです。私たちもしょっちゅう探し物をしているのですから。しかし、この王子様が私たちと違うところはしょっちゅう探し物をしているが、探している物は見つけられない。そのかわり別の宝物を見つける。探しているものよりもっと貴重な物を見つけ出してくるという王子様なのです。つまりこの王子様は思いがけない発見をする能力をもっていたのです。自分が思い悩んでいること以上に、神様は守っていてくださることを知る。その発見があれば今日のことで生きていける発見をするのです。

イエス様は「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」と教えられました。今日をしっかり生きることが明日へつながります。まず今日の命を感謝し、神様を信頼することです。明日のことは明日自らが思い悩むことですから、それは神様におまかせすればよいのです。明日の問題とすればいいと言われます。与えられた今日のこと、いま目の前にある働き、招き、使命に素直にとりくんでまいりましょう。

2019年1月3日木曜日

「神様を信じていると」

クレヨン牧師のミニエッセイ
「神様を信じていると」
 
 ある本の中に次のような話しを見つけました。
 
 子どもが絵を書いていた。
 
 先生がやってきて尋ねた。
 
 「面白い絵ね。なにを描いたの?先生に教えてくれる?」
 
 「神さまだよ」
 
 「そう。でも誰も神さまを見たことがないから、本当はどんな姿をしているかわ からないわね」
 
 「もうすぐわかるよ、せんせい。ぼくの絵はもうすぐできるからね」
 
 この話しを読んで少しばかり考えてみました。先生には見えない神さまが、子どもにはどうして見えるのだろうか。幼子の心の清らかさといってしまえばそれまでです。しかし、少なくともわが子をみていると、まあ清らかな部分もあるけれど、私たちと同じだと思ってしまいます。
 
 大切なのは、「神さまを信じているか」ではないでしょうか。疑って「見る」のと、はじめから信じて「見る」のとでは違います。そうはいっても、それぞれの終わりを迎える時は、また幼子のように信じきってしまうものですが。

2019年1月2日水曜日

「心の安定に大切なもの」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「心の安定に大切なもの」

マタイ 6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。

正月は近くの神社も賑わっていました。ニュースでは有名な神社も今年は人が多いということです。それだけ社会情勢が不安定なのだと解説していました。それを聞きながら、不安定なときだけでなく、安定しているときから神様と出会っていれば何もあたふたしなくてもいいのにと思います。しかし、それでも神様のことを考える時間が少しでも与えられていることは恵みです。物や人に中心をおいても人の心は安定しません。いつどうなってしまうかわからないからです。神様を中心においた時だけ、人の心は安定するのです。

イエス様の指摘は私たちの心に鋭いものがあります。人から認めてもらう、称賛をえることをあてにした行いは、それが善いことであっても所詮は地上に富を積み上げることにしかならないのです。なぜなら、そこに自分の心、自分の関心、自分のこだわりがあるからです。イエス様は、「本当の富とは、天に積むものだ」と言われます。心がそこにある本当の富、その富の価値とはいったい何かが問われます。私たちは何に価値をおいているのかということです。

「小さな幸せに気づく24の物語」中山和義著に書かれてあった話です。ある知的障がい児童施設での出来事です。社会にでても通用するようにお金の価値の勉強をしていました。1円から500円までの硬貨を順番にならべ、お金の価値を学ぶというものでした。一人の女の子に先生が「一番大切なお金はどれですか」と聞きました。すると笑いながら10円を指しました。先生は何回も「500円が一番大切よ」と教えましたが、女の子はいつも10円を指すのです。先生は困り果て「どうして10円が大事なの」と聞きました。すると女の子は「だって、この10円をあの公衆電話に入れたら、大好きなお父さんの声をきけるから」と答えました。この女の子にとって本当に価値があるのは、お金の額ではなくお父さんの声をきくことだったのです。

イエス様は「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と言われました。自分は何に価値を見出しているか、それは天にあるものかどうかを点検してみなければなりません。今年与えられている働きの中で、天に富を積む働きは何かを考えなら過ごしましょう。

2019年1月1日火曜日

2019年もよろしく!

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。