2018年3月30日金曜日

聖金曜日

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「聖金曜日・苦しみを知って」

ヨハネ 1930 成し遂げられた

ルカ 2346 父よ、私の霊を御手にゆだねます。

十字架上の7つのみ言葉の第6,7は「成し遂げられた」「私の霊を御手にゆだねます」というものです

 イエス様の命の最後の表現は「息を引き取られた」とあります。私たちもよくこの言葉を聞きます。しかしこれは興味深い言葉です。「引き取られた」ということですから、誰かが「引き取って」くださったのです。聖書では「息」は「霊」を表現することもありますから、イエスの霊を、父なる神様が引き取られたのです。ここに素晴らしい応答を見ることができます。イエス様は「委ねます」と言われ、神様はそれを「引き取られた」。ここに十字架の大きな意味があり、このことはすべて神様のみ心であったのです。

 昨日まで、春の全国ティーンズキャンプが阿蘇で行われていました。今回はイエス様の生涯を生ぶがテーマでした。2日目の夜のプログラムでは「パッション」をみて、十字架の苦しみを体験する企画を考えました。茨の冠に触れたり、十字架の横木を担いだり。また十字架の木に釘打ちをしました。このプログラムは1時間半ありましたが、すべて沈黙のままで行われたのです。真剣に十字架に向き合う姿をみることができました。最終のまとめの日に感想を言う時間がありましたが、中高生の中から「イエス様の十字架の苦しみに少しふれることができ、遠い存在だったイエス様を身近にかんじることができた」という言葉を聞きました。十字架の死の苦しみを心に刻むことで、イエス・キリストが近い存在になった。神様の一方的な愛を受け取る瞬間があったのだと思います。

 十字架野上での最後言葉「委ねます」「引き取られた」の中に、イエス様の従順と神様の愛をみることができます。私たちは最後にはすべてを神様に委ねなければなりません。救いが完成した聖金曜日、あの十字架の出来事は何であったかを思い、すべてを神様に委ねていく生き方をしていきたいものです。

2018年3月29日木曜日

聖木曜日

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「聖木曜日・神の沈黙」

マタイ 2746 わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。

ヨハネ 1928 渇く

十字架上の7つのみ言葉の第4,5は「なぜわたしをお見捨てになったのですか」「渇く」というものです。

イエス様の最後には絶望的な叫びがあります。これは詩篇22篇2節の言葉です。イエス様は死という絶望の中で、神様への最後の疑問をなげかけます。「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。これに対する神様の答えはなかったのです。十字架の前で徹底的に弱くなられたイエス様の姿を人々はここで心に刻んでいます。

「訴える相手の沈黙ほど怖いものはない」。ある問題解決にあたられた行政書士の言葉です。反応がない怖さ、何も答えてくれない恐怖。それをはかることはできません。何を考え、何をしようとしているかわからない怖さです。実は「見捨てられているのかも」という怖さもあります。沈黙ほど相手に与える恐怖はないのです。しかしその人は、沈黙の中に存在するのです。この存在が怖いのです。そこに誰もいなかったら、怖がることはありません。そこに存在するものがあるのです。

神様は沈黙しておられます。しかし、そこにおられます。それが十字架の出来事です。十字架のそばにいた百人隊長がこの出来事の中で「本当に、この人は神の子だった」と呟いています。徹底的な弱さと沈黙の中での十字架の死。これが私たちの罪の赦しのためでした。これを完成させるための神様の沈黙。沈黙してもなおそこにおられる神様。その一点に人間に対する深い愛を見ます。今日、私たちはイエス様の叫びの中に何をみるのでしょうか。神の子に出会うことができるでしょうか。

2018年3月28日水曜日

聖水曜日

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「聖水曜日・託す」

ヨハネ 1926 婦人、よご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です。

十字架上の7つのみ言葉の第3は「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」というものです。

十字架の出来事の時、そばには3人のマリアがいました。その一人が母マリアです。イエス様は母マリアに、これからは弟子を子としなさいと言われました。そして弟子には、マリアのことを弟子の母として委ねられました。最後まで母と弟子たちを愛された姿を示されたのです。母というのは教会の比喩であるとも言われています。しかし、最後まで「愛」を示されました。

天に召された小泉潤牧師のから「自分を支えた遺言」の話をきいたことがあります。先生のお父さんは牧師で、戦後すぐの時代、食べる物がなく栄養失調で天に召されていかれたそうです。その父の病床での最後の言葉を教えてくださったのです。それは「私はまもなく天に召される。いいか、お母さんを最後まで世話をすること。兄弟仲良くすること」だったそうです。最後に長男である先生を布団のわきによび、母と兄弟を委ねられたのです。先生はその約束だけは最後まで、どんなことがあっても守らねばならないと誓ったそうです。そしてそれをされたのです。またもう一つ遺言の話もされました。慈愛園の施設長だった志垣先生は小泉先生を最後の病床に呼ばれ「潤、このままではルーテル教会は潰れるバイ。伝道に本気になる仲間をあつめよ」と言われたそうです。だから本気になって伝道する仲間を集めてきたと言われました。この二つは私に遺された小泉先生の遺言だと思っています。

イエス様は「婦人、よご覧なさい。あなたの子です。見なさい。あなたの母です」と言われました。どんな思いで、母に弟子を託され、弟子に母を託されたか。それは愛を示すためでした。その愛を私たちも受けています。十字架の上で、愛するという使命を委ねられた教会に私たちは招かれているのです。

2018年3月27日火曜日

聖火曜日

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「聖火曜日・終わりからみる死」

ルカ 2343 はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる。

十字架上の7つのみ言葉の第2は「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」というものです。

イエス様が十字架におかかりになったとき、左右に一人ずつ犯罪人の十字架が立っていました。この2人はとても対象的です。左にいた犯罪人は最後までわめいていました。しかもイエス様にむかって「神の子なら自分自身と我々を救ってみろ」というのです。自分のやったことを認められずにいたのです。ところが、もう1人は悔い改めました。十字架での死を目前にして、自分の罪を認め、悔い改め、イエス様に「あなたがみ国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったのです。イエス様はこの人に「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われました。明日でもなく、いつかでもなく、「今日」です。そのような約束をしていただけたのは彼だけでした。

文章の書き方を習うとき、字と記号をまず習います。それは「、」と「。」です。私たちの人生が文章だとしたら、「死んだ」というあとは「。」でしょうか。キリスト教では「。」ではありません。「、」です。次の命が約束されているからです。それをイエスは復活をとおして教えてくださいました。私たちは聖書から、終わりから見る視点を教えられます。神様のもとで新しい命が与えられることがゴールです。そこからみたら死は終わりではないのです。だから死の中に希望を見ることができます。

「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」。このみ言葉の恵みを受け取るために、私たちは自分の罪を悔い改めなければなりません。私たちの罪のために十字架で死を迎えるイエス様を見るとき、自分の罪に気づかされ、悔い改めに導かれます。十字架のイエス様がどんな方であるかがわかるからです。

2018年3月25日日曜日

聖月曜日

阿久根ルター君の朝のみ言葉

聖月曜日

ルカ 2334 父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。

 今週は受難週・聖週と呼ばれています。昨日の棕櫚主日(受難)から1週間後の復活祭(イースター)まで、私たちはイエス・キリストの十字架を覚え、悔い改める時を過ごします。私たちの教会でも今年は「十字架上で語られた7つのみ言葉」を聞いてまいります。

 十字架上の7つのみ言葉の第1は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」というとりなしの祈りでした。最後まで罪あるものを赦し、祈られる姿をみます。人間は「自分が何をしているのかわからない」というみ言葉に心をうたれます。

 娘が幼稚園の時でした。習い事でケンカになったことがあります。それは、妹が新しい習い事をはじめたことからおきました。姉は妹が自分のやってないことをするのがゆるせなかったのです。それで自分もやりたいといいだしました。そうやって妹がやることを全部自分もやると言い出したのです。ところがどうでしょう。あれもこれもやったら自分の遊ぶ時間が無くなったことにきがついたようでした。そこで「わたしは2つだけでいいよ」と言ってきたのです。やっと自分がなにをしているかがわかったのでしょう。そんな娘の姿を見ながら、自分も同じだと反省しました。

 イエス様は「自分が何をしているか知らない」罪人のために祈られます。御自分を十字架に引き渡した者のために執り成しと赦しを祈られるのです。今週は十字架の前に立ち、自分がしていることを点検する週でもあります。

礼拝は今日です!


2018年3月24日土曜日

礼拝にたくさんの方々

阿久根教会の礼拝は
とてもたくさんの方がきてくださるように
なりました!
神様の恵みに感謝です。
ぜひあなたもどうぞ!

2018年3月22日木曜日

「またきてね」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「またきてね」
 
 出掛けることが多くなってきました。これは嬉しいことです。神様が御用のために使ってくださることだからです。
 
 さて、次女(1歳半)が言葉を少しずつ覚えてきました。その中で、これは誰にでもわかるという言葉があります。それは「またきてね」です。私が出掛けようとすると、どこからともなくやってきて「またきてね」と言われてしまいます。なんだかおかしいのですが、「またきてね」と言われると嬉しくもあります。
 
 礼拝堂の聖壇が広がり、ああこれが教会の中心なんだとわかるようになりました。この中心では聖餐式が行われ、聖徒の交わりがおこり、祝福を受けます。神様と私たちの間に出会いがあります。ここにくれば神様に全てを委ねることができます。その聖卓にはキリストがおられるのです。
 
 「わたしのもとにきなさい。休ませてあげよう」という主の御言葉を聞きます。そして同時に「またきてね」という御言葉も聞こえてくるのです。
 

2018年3月21日水曜日

「あなたが言っていること」


阿久根ルター君の朝のみ言葉

「あなたが言っていること」

マルコ 15:2 それは、あなたが言っていることです

子どものころ、親に言返すとよく次のように怒られました。「それはあなたが言っていること。それは通じない」と。 私たちは自分勝手な考えを人に押しつけようとします。子どものときは「だだをこねる」と言われました。自分の正しさを無理やり証明したいからではなかったか、自分の間違いを隠すためだったかもしれません。しかし、親は私のことを考えて客観的に見ていてくれたのだと思います。

イエス様は、死刑の判決(十字架)を受けられる前に裁判の場に立たれます。ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と質問します。それに対して「それは、あなたが言っていることです」と言われました。ピラトが言うまでもなく、イエス様は神様であり王なのです。ピラトの言葉に対して「どうぞお好きなように」といわれたのではないでしょうか。

「読むクスリ」という本があります。最近出された本に「女性が物を買う4つの条件」というのが書いてあり、楽しく読ませていただきました。みなさんはその4つの条件がわかりますか?4つとは以下のものです。

 1、みんな持っているから。

 2、誰も持っていないから。

 3、やせてみえるから。

 4、夫が「買うな」と言ったから。 

 どうでしょうか。ここに非常に面白い現象があります。それは1と2です。相反する気持ちをもっておられるということです。「みんなが持っている」というのは極めて日本人的な思考で、安心するということでしょう。しかし、反対に「誰も持っていない」というのは、それだけ稀少価値があるということで、ちょっと自慢できるということでしょうか。人間はいつもこの矛盾の中に生きているものだと言えます。それでは信仰はどうでしょうか。これもまた同じではないかと思います。「信じる」という思いと「信じられない」というこの2つが、同じ私の中にあるのです。つまり、信仰というものが矛盾しているように思えるのです。しかし、そうかなと考えてしまいます。これは矛盾しているのではなく、実は一つのことの裏表なのです。「信じる」から「信じられない」のです。つまり、信じるために疑うことをするのが私たちなのです。

 イエス様は私たちが、「あなたは神様です」と告白したから神様になったのではありません。むしろ神様だから私たちが告白することをゆるされたのです。そこのところを勘違いすると大変なことになります。 「あなたがいっていること」というイエス様のみ言葉を思い出し、自分の言葉を顧みるひと時をもちましょう。

2018年3月20日火曜日

「奇跡は身近に」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「奇跡は身近に」
 
 神様の奇跡というのは、何か遠い出来事のように思います。しかし、案外身近なところで起こっているものだと実感することができました。
 
 教会・礼拝堂の聖壇が狭いとは、常々感じていることでした。このことのために祈りっていたのです。なにせ、拡張費用は40万かかることがわかっていましたので、祈るしかなかったのです。すると驚くべきことに、5月、6月に結婚式が7組も与えられたのです。一つの結婚式につき、教会へは5万の献金があります。すると全部で35万となります。驚きました。
 
 しかも実を言いますと、「神様、ここには5万円あります」と祈ってきたのです。多く与えられるのでなく、少なくでもなくです。神様の御心が聖壇の拡張をよしとしてくださったのです。神様は祈りを聞いて下さったのです。ぜひこのことを感謝したいと思います。この徳山教会・皆さんを神様は本当に大切に思っておられるのがよくわかりました。それにどうやって応えていくのかが課題です。祈りましょう。そして神様の御心を聞き取ってまいりましょう。かならず神様の御心はしめされるはずです。

2018年3月19日月曜日

「夢中になって」

 
阿久根ルター君の朝のみ言葉

「夢中になって」

ルカ  19:48 民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

「何かに夢中になると免疫力があがる」という話をきいたことがあります。ある研究者がその実験をしたそうです。日頃からプロ野球でひいきのチームをもって夢中になって応援する人を、各チームから10名ずつ選び、試合を観戦して試合後に採血検査をする。これを繰り返し調査したそうです。するとチームの勝ち負けに関係なく、夢中になって応援したファンの免疫力が増しているという結果がでたそうです。つまり、夢中になることで人は免疫力がアップするというのです。

イエス様はエルサレムに入城されたあと、神殿の境内で民衆に教えておられます。この神殿では「宮清め」商人たちを境内から追い出すという厳しいイエス様をみることができます。祭司長や律法学者、民の指導者たちはイエス様を殺してしまおうと計画しています。しかしできませんでした。なぜか?それは「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたから」でした。聖書の中で「夢中」とい言葉が使われているのは、ここしかありません。私たちは「夢中になって」イエス様のみ言葉をきいているでしょうか。

ある雑誌に、ラオスでドングリを食べた話が書いてありました。山奥の村にでかけていったとき、夕食に単に茹でたドングリがでたそうです。特に美味しい訳でもなかったけれど、いつのまにかなくなっていたという話です。その作家は続けて書いていました。「もともと人間の食とは、そこにあるものを食べるということ」だと。「そこにあるものを食べる」。それを料理して美味しく食べるのは文化です。しかし、そこにないものを高いお金を出して取り寄せて食べるということは、本来の「食」の在り方だろうかというものでした。たしかに、食についての疑問はたくさんあります。美味しいと思う部分のみを食べ、それ以外は捨ててしまう。賞味期限に惑わされる。本来の食べるということから間違った方向を歩んでいるのかもしれません。そこにある物とは、神様がその人に与えた物ということです。神様は、その人にあった物を与えられる。そのままいただくことの難しさを感じます。神様の愛を素直に受けることで、私が生かされるはずなのに素直に受けられないでいる。本当に何が大切かを考えなければなりません。

民衆が「夢中」になってイエス様のみ言葉聞いている。このイエス様の言葉には力がありますから、夢中になって聞いた民衆が救われるのは当然のことです。命の免疫力をアップしたいなら、イエス様のみ言葉に「夢中」になることです

2018年3月16日金曜日

気ままな休日・黒糖饅頭

これはデコポン饅頭と黒糖饅頭
いや~~~どちらも大好きです。
昔は黒糖饅頭ばかり食べてました。
そう饅頭大好き牧師です。

2018年3月15日木曜日

「神様はどこに」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様はどこに」
 
 神様がどのように働かれるのか、その経緯は人間にはわかりません。あれは失敗したとか、あの方の悩みを解決できなかったと思うことの方が多いものです。しかし、どんなに人間が失敗したと思っていても、そこには神様の御心が働いているものです。
 
 先週一人の婦人が教会にみえました。まったくお会いしたことのない方でした。その方は「今日は献金を持ってまいりました」と言われたのです。よくよく話をきいてみますと、「私は2年位前に、電話で悩みを聞いていただいたものです。あの時はありがとうございました」とのこと。私はすっかり忘れてしまっていて、いまでも思い出すことさえできません。
 
 1週間のうちに何人もの方々が相談の電話をしてこられます。いつも「神様が語ることを教えてください」と祈りながら電話にでます。しゃべり過ぎないこと、よく聞くことが基本です。答えられないものや、受け止められないものの方が多いのが現実です。しかしつねに「神様この方のかたわらにいてください」と祈ります。何もできないかもしれない。しかし、神様はきっと働いてくださっているという信仰があります。その信仰がなければ電話を受け取ることはできません。
 
 教会の修養会や会議に出ていると、神様が見えないことがあります。自分たちでなんとかしようと聞こえるのです。神様はどこにと探しています。

2018年3月14日水曜日

「良く計算して」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「良く計算して」

ルカ  14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

ルサレムに行くと幽霊ホテルといわれているものがあります。外国の資金で建てられた高級ホテルになる予定でした。しかし、完成はしたのですが一度もオープンせず、そのまま放置してあるのです。出資会社が倒産したわけでもありません。じつは、そのホテルはデザイン重視で総ガラス張りのホテルだったのです。中近東の砂漠地帯にエルサレムがあることを計算に入れずに建築した結果です。つまり、中で人がくつろぐような温度ではなく、砂漠以上に暑いホテルになってしまったのです。どうしてまず計算して考えなかったのでしょうか。

イエス様はエルサレムに向かう途中で、一緒についてきた群衆に弟子の条件を話されました。とても厳しい言葉がならんでいます。「もし~~でないならば、わたしの弟子ではありえない」と3度も言われました。最終的にはすべてを捨てて従うことを求められます。自分の人生においてよく考え、計算し、中途半端な決意は失敗すると、たとえをもって語られました。大切なことは、よく考えることです。

牧師会の最中にふと、「一日を大切にしているか」と考えていました。朝がきて夜がきての繰り返し。どれだけのものに感動し、心を動かされ、神様を讃美しているか。ただ単にボケ~っと日々を重ねてきたのではなかろうかと考えてみたのです。さっそく計算機を出して、いままで何日生きてきたかを計算してみました。いま54歳と半年なので、ザ~っと計算そても「19787日」となります。四十五歳の人では「一六五00日」で、七十歳では「二五五00日」です。ちなみに三歳の子では「一九0五日」ですが・・・。いったいこの日数のうち、どれだけを覚えているでしょうか。昨日のことすら思い出せない私ですから、ほとんどわからないかもしれません。一日を大切に生きようと思っても、なかなか大切にはできないものです。たぶん感動とか、感謝を忘れているのかもしれません。

イエス様は「まず腰をすえて」と言われます。客観的という意味にも取れますが、信仰にとって何が一番大切かを考えてみよと言われたのではないでしょうか。あなたの人生にとって何が大切でしょうか。

2018年3月13日火曜日

「あたえられた時間の中で」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「あたえられた時間の中で」
 
 アナトール・フランスの随想録「エピクロスの園」に、次ぎのような話があります。
 
 「ある精が一人の子供に一つの糸毬を与えていう。『この糸はお前の一生の日々の糸だ。これを取るがよい。時間がお前のために流れてほしいと思う時には、糸をひっぱるのだ。糸毬を早く操るか永くかかって操るかによって、お前の一生の日々は急速にも緩慢にも過ぎてゆくだろう。』子供はその糸毬を取った。そしてまず、大人になるために、それから愛する婚約者と結婚するために、それから子供たちが大きくなるのを見たり、職や利得や名誉を手にするために、そして最後に、悲しいかな、厄介な老年に止めを刺すために、糸を引っ張った。その結果は、子供は精の訪れを受けて以来、四か月と六日しか生きていなかったという」。
 
 若いころは、自分はどうなるのかと未来を見てみたくてしょうがありません。一方、老人になればいまの時を見たくないとの思いがでてきて、時よはやく進めと思います。しかし、時間は神様によって決められているのです。その日その日が神様が決められた時間であって、早くも遅くもすすみません。
 
 神様が時間を早くも遅くもなさらないのは、その時の自分をしっかり生きてみなさいとの励ましだといえます。病気の時にはそれを受け入れ、楽しい時には楽しみ、それぞれが与えられた時間の中で生きるしかないのです。
 

2018年3月12日月曜日

「人の知識をこえた愛を」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「人の知識をこえた愛を」

エフェソ 3:19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。

盤珪禅師の逸話にこのようなものがあります。

 「ある僧が盤珪禅師のところへまいり、次のように訴えます。『自分は生まれながら短気である。どうしたら、この短気がなおせるか』と問います。さて盤珪禅師は何と答えたでしょう。盤珪禅師いわく『さて、面白い人じゃ。その短気がいまあるか。あればここへだしてみなさい。なおしてあげよう。さあだして。さあだしてみよ』と」私たちは自分はこうだときめつけています。しかし、その人にとってそれは一部分であり、生まれながらそうなのではありません。自分はこうだというきめつけが、自分を縛っているということにあまり気がつきません。生まれながらの私は、神様の姿を刻まれた人としての私がいるだけです。どの視点でみるかで、かなり見え方がちがってくるのです。

 パウロは、エフェソの人々がキリストの愛にしっかり立ち、神様の愛を知る者になるように祈ります。これはパウロの執り成しの祈りでもあります。キリストの十字架の愛を知ることは、人の知識をはるかに超えたものであること。その愛か知り、広さ、永さ、高さ、深さを理解することも大切であると祈ります。

 LWFから救援アドバイザーのマタイさんと食事をしたことがあります。彼にはインドに3名の娘さんがおられるそうです。そのうち、双子の娘さんもおられると聞きました。インドでは娘さんが結婚するとき、娘さんの家族が持参金をたくさん持たせねばならないと教えていただきました。多額の持参金がないと結婚が破断になったり、実家に戻らされたりするとか。娘さんをもつと破産するなとか。しかし、もともとの理由は嫁いでいった先で生活に苦労しないためだそうです。親の娘への愛情がそこにあらわれているのです。どちらから考えるかでかなり違うはなしだと思いました。親心というのでしょうか、それがあるからいまも風習としてのこっているのでしょう。

 パウロは「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり」と言っています。神様の愛というのは人の知識をはるかに超えています。その愛を知ることが神様の豊かさにあずかることになると言っています。その豊かさにあずかったものは、すべてに満たされていくのです。まずは神様の人の知識を越えた愛をしることです。

2018年3月9日金曜日

きままな休日・阿久根教会のひるごはん

阿久根教会では毎週昼食を
礼拝後に用意してくださいます。
これがここでしか食べられないくらい美味しい
いつも楽しみです。

2018年3月8日木曜日

「信仰の抗菌剤とは」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「信仰の抗菌剤とは」
 
 出張続きで、ややバテ気味になっております。もっとパソコンが使えたら、家でできるようになるのにと思っています。しかし、パソコン通信も相手ができなければいけないと思うと、まだまだ出張が続きそうです。
 
 さて、出張の楽しみの一つに駅弁があります。最近では神戸の「肉めし」「すき焼き弁当」が美味しいなと思っています。これが大阪になると「3段重ね弁当」になるし、京都では「純和風弁当」(これは量が少ない)。この他、富山の「鱒ずし」。以外と「ぶりずし」もいける。東京は「うなぎ弁当」。あと「鯖姿ずし」に、「柿の葉ずし」「峠の釜めし」「あわびめし」「ねぎトロ弁当」「広島夫婦あなごめし」「かにちらし」「松本そば弁当」と話はつきません。
 
 今回の出張では、神戸「肉めし」の中に不思議なものを見つけました。「ワサオーロ」という1枚の紙です。その紙には説明書きがあり、「私たちが日頃食べているワサビやカラシのあのツンとくる香りに強い抗菌力があることは古くから知られています。『ワサオーロ』はこの抗菌力を生かすべく開発した天然の抗菌剤です」ということ。つまりワサビの香りがする紙なのです。これで抗菌できればいうことなし。
 
 さて、私たちの信仰の抗菌剤は何でしょうか。これもまた紙です。しかし、ただの紙ではなく、神様の言葉が書かれている紙。すなわち聖書です。

2018年3月7日水曜日

「つながる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「つながる」

ヨハネ  15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。

ある時、他教派の牧師が訪ねてくださり、びっくりするようなニュースを教えてくれました。そのニュースとは「先生の書かれた『神様のクレヨン』を古本屋で見つけましたよ」というものです。本当にびっくりしました。

 古本屋に出回るようになったのか、と感慨深いものがあります。見に行きたいという衝動もありますし、いったい値段はいくらかなと心配でもあります。たかが1冊の本ですが、私にとっては子どものようなものです。いまそれぞれの本はどのようになっているのでしょうか。家の中のどんなところに置かれているのでしょうか。そして、その本を通してどんな人生が送られているのでしょうか。そのように考えると祈らずにはおれません。なにかつながっているという感じがあるのです。

 今日のみ言葉は、イエス様が十字架の出来事前に語られた決別説教のみ言葉です。ぶどうの木と枝のたとえ話から、十字架という緊迫した出来事の中で何が大切かを教えておられます。イエス様は、木に枝が結びつくように、イエス様と弟子たちの関係で重要なことは「つながる」ことだと言われました。木はイエス様で、枝は弟子たち・私たちを意味しています。そのつながりの中に神様の命も知ることができます。

 東日本大震災救援活動報告を全国各地の集会に呼ばれておこなっています。九州では、多くの方が参加してくださいます。緊急救援からの1年間をとくにはなしております。私たちの緊急救援は各教会・女性会で、わかめプロジェクトにはじまりました。雑巾、おすそ分け、思い出写真洗いと活動が広がりました。被災地とつながった活動ができたという感想をいただきました。講演後の質問の多くは「これからは何をしたらいいでしょうか。どんな支援が必要でしょうか」というものです。全国の皆さんが被災地の方々とつながっていたいという気持ちを感じました。「まず、祈ってください」と答えました。ルーテル教会としての課題は、救援活動がどのようにつながっていくかだと思います。そのために秋刀魚やあぶり焼きいわしがやってきます。

 イエス様は「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と言われました。つながっていることの確かさを教えられたのです。被災地の方々と私たちがつながっているということは、私たちをとおして、被災地の方々もイエス様につながっていることになります。そのつながりの中心に祈りがあります。祈りでつながり、み言葉でつながり、忘れないでつながっていくことが大切だと考えています。

2018年3月6日火曜日

「どちらでもないよ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「どちらでもないよ」
 
 私たちは現実の社会に生きて行く中で、つまらないことに悩むことが多いものです。いや、どうでもよいことに悩むことが多いかもしれません。こんな話しをききました。
 
 一人の子供がいました。彼はあるとき、大人から聞かれたのです。「おまえは、お父さんがすきか、お母さんがすきか」。このような問いは残酷な問いと思います。しかし、私たちはよくこの質問をします。でも、こんなことは子供には聞いてはいけないことなのです。その子供は困ってしまいました。
 
 ところが、彼はそこに一枚の煎餅を持っていたのです。彼はおもむろにその煎餅を二つに割ります。そしてその大人に問います。「おじさん、この煎餅のうち、どちらが好きですか」と。するとそのおじさんは答えます。「同じ煎餅じゃないか。どちらが好きだなんて、馬鹿なことを聞いてはいけないよ」。するとその子供はおじさんに言いました。「それと同じですよ。同じ親なんだもの、どちらが好きかだなんてそんな質問には答えられません」と。
 
 これはよくできた話しだと思います。まったくその通りです。私たちにとって一枚の煎餅を割った二枚のうちどちらが好きかなどどうでもよいことです。しかし、このどうでもよいことに悩んでいるのです。答えがでないことで悩むより、神様によって与えられている答えを受け入れたいと思います。

2018年3月5日月曜日

「清楚感」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「清楚感」

マタイ 2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

秋になりました。小学生の句集「ちいさな一茶たち」には次のような句があります。

  かあさんいない落葉がとんでいくばかり

 この気持ちは、痛いほどわかります。学校から帰っても誰もいない家。本当は学校であったことを一番に話したいのに。その寂しい気持ちを、落葉が飛んでいく音に心を合わせたのでしょうか。私も鍵っ子だったので共感してしまいました。もうひとつ。

秋の空やわらなそうな雲の城

 青い空を眺めていると、心が清々しくなってきます。

 秋はとても清楚な気持ちになります。これはどこからくるのでしょうか。きっと神様が造ってくださった自然が秋の「清楚」なものを持っており、夏の激しさからの安心を与えてくれているのかもしれません。私たちはこの清楚の中にある清潔感が好きなのかもしれません。

 クリスマスの時、東の方から3名の占星術の学者たちが星に導かれてベツレヘムにやってきました。救い主の誕生を知らせる星をみて御子を拝みにやってきたのです。ベツレヘムまでくると、星がある場所の上で止まりました。学者たちは大喜びで、星が泊った家に入ってみると、幼子と母アリアがそこにいたのです。そこに漂っている清楚な雰囲気が伝わってきます。

 あるホテルの支配人が、若いころに指導を受けたことを話してくださいました。ホテルは「清潔である」だけではいけない。大切なことは「清潔感を感じていただけるか」だと。「清潔」と「清潔感」とは、同じようで全く違うことです。清潔であるには清掃を徹底させればいいのですが、それだけでは清潔のままです。そこにお客さんの気持ちを考え、心をこめて清掃する時に「清潔感」が生まれるというのです。清潔感とはそこに係る人の問題なのです。どれだけ心がそこに込められているかなのでしょう。

 「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」。この一文の中に、クリスマスの祝福を感じます。この世に誕生した救いイエスさまの誕生が全世界に知らされる時、その最も中心には母と子の姿があるのです。この出来事のなかに、神様の清らかさ清楚を感じます。

2018年3月3日土曜日

2018年3月2日金曜日

きままな休日・デコポン饅頭

くまもと芦北道の駅「デコポンの里」
そこにデコポン饅頭はあります。
皮にも中の白あんにもデコポンが練りこんであります。
なんとなく爽やかですよ。

2018年3月1日木曜日

「余裕をもってね」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「余裕をもってね」
 
 やっと、子供達の夏休みが終わります。我が家では小学校に入学して初めての夏休みでした。この1ケ月半を振り返ってみると、やることを探す毎日だったように思えます。ヒマを持て余しているのがわかるのです。かといって、毎日プログラムを考えるのも至難の業でした。結局はテレビのお世話になるのです。
 
 さてそんな中、宿題以外の勉強をさせるのは戦いの日々でした。「なんでせんといかんの」「お父さんはいっこも遊んでくれん」「勉強しかさせることがなくて、意地悪でさせとる」とか言われると、こちらもカッーとなり、ついには爆発します。「なんでやるのか外で考えてこい」とばかりに玄関の外へほうり出すしまつ。(ああ情けなや)。しかし、子供っていうものは・・・と思ってしまうのです。
 
 外に放り出された華美は何をしたと思います?まず、握っていた鉛筆で牛乳箱に落書き(なんとスマイルマークを)。その後、時間を持て余したのか、プランターに水やり、ついでに車を2台とも洗車。このような姿をみて、親のほうが反省です。
 
 怒られてもなお余裕がある娘に、「お父さん、なにイライラしちょるん。マイペースでいいじゃん」と言われたみたいです。神様の前にどれだけ余裕をもって立てているか。