2019年6月30日日曜日

きままな休日・阿蘇馬玉おにぎり


さすが阿蘇!我が故郷は雄大です。さらにお昼ごはんはこれ!
この馬玉おにぎり好きなんです。このまま温泉へ!

2019年6月29日土曜日

明日は礼拝


説教者:中村朝美牧師(宮崎教会)
お待ちしています!

2019年6月28日金曜日

鹿児島教会・youthCaféがテレビに



やっぱりきました!鹿児島教会とyouth cafeがテレビで紹介されました。現地の責任者からの報告をいただきました!いいなぁーこれから楽しみです。
>こんにちは。
ルーテルが地元テレビ局の生放送で流れておりました。
SNS 等では評判良いみたいです。

2019年6月27日木曜日

「なおプラス1」


クレヨン牧師のミニエッセイ

「なおプラス1」
 
 小さな書物でも、いざ出版するとさまざまな反応が帰ってきます。その反応に驚いたり、喜んだり、反省したりです。一番困惑するのは、それをもとに講演依頼がきたときです。「何を話すか」テーマがあればいいのですが、「神様のクレヨン」を話してくださいと言われると、何を話して良いのか考え込んでしまいます。
 
 ある本の中で「よい卓話、五つの条件」というものを読みました。卓話と説教とを置き換えることはできませんが、宣教にはつながるかなと思って読みました。
 
 1、聞き手が楽しいか。
 
 2、聞き手に新鮮な情報か。
 
 3、聞き手が納得するか。
 
 4、聞き手が感動するか。
 
 5、聞き手が行動を起こすか。
 
 どうでしょうか。4番まではなんとかできますが、一番難しいのは5番です。その講演によって、聞き手が行動するには前4つの条件を満たし、なおプラス1が必要なのだと思います。
 
 主イエスのお話しはどうだったかなと思います。この5つの条件をすべて満たしていることがすぐわかります。やっぱり、神の言葉は違います。
 
 講演に呼ばれるたびに5つの条件をまず考えますが、やっぱり生かされている証しをすることが5つの条件を満たすことを教えられます。

2019年6月26日水曜日

「もうちょっと」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「もうちょっと」

マルコ 12:34 あなたは、神の国から遠くない

 福音漫画というものがあります。聖書のみ言葉を面白く漫画にしてあるものです。その中に「もうちょっと」という漫画があります。一人の男が「ここに宝がある」という神様の言葉を信じて土を掘り始めます。なかなか宝は出てきません。何回もやめようと思いましたが、それでも宝を見つけようとします。ところが自分の背丈まで掘ったとき、神様に文句を言いながら掘ることをやめてしまいます。漫画の次のコマは、あと5センチ下に宝があるという絵がかいてあります。とても真実をついている漫画だと思いました。神様の恵みまで「もうちょっと」でやめていることが多いかもしれません。「もうちょっと」は自分で考えることなのです。神様から示されているみ言葉・福音は目の前にある。しかしそれを生きるためには「もうちょっと」を考えねばなりません。

イエス様は、律法学者から「あらゆる掟のなかで、どれが第一でしょうか」と聞かれます。イエス様のみ言葉をまとめると「神を愛し、隣人を愛する」こととなります。こんなに単純なことですが、これが最高に難しいものです。律法学者も「そのとおりです」と適切な答えをするのですが、そのあとに「あなたは、神の国から遠くない」と言われたのです。近いけれど入ってないということでしょうか。救われるのに「もうちょい」なんです。イエス様はそれを律法学者に問いかけられました。

 はじめての漁船の運転、ジェットボートの運転でした。漁船の舵をとりながら、海の風の心地よさにすっかり満足してしまいました。しまし、船をまっすぐに走らせることは大変むずかしいことです。すぐによろよろとしてしまいます。その日の風にもよるし、潮の流れ、波の状態を見極めなければならないからです。また、島を回りながら走るときには、島との距離をつねにみながら走らせなければなりません。また、どこに海面下に岩があるかわからないのです。つねに自分の位置、まわりの状態、自然環境を知って置かねばならないのでしょう。私たちの人生の歩みも、自分がどこにいるのかを探しながらの旅かもしれません。それがはっきりしている人生は楽なのですが、そう簡単にはいきません。はっきりしているというよりは、つねに迷ってばかりいるのです。なぜなら、きちんとした人生の基準や距離感を持たないからです。

 イエス様は「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。遠くはないがそこまできていないと言われました。このもうちょっとの距離が大切なのです。それを超えるものはなにでしょうか。それは信仰しかありません。イエス様を信じ、すべてを委ねるしかないのです。それは私たちの生活でも同じです。「もうちょっと」とは何かをいつも考えながら、今日も一日を生きていきましょう。

2019年6月25日火曜日

「イエスと直面する」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「イエスと直面する」
 
 6月号の「波」(新潮社)に、「日本の悪・宗教・文学」と題して、文芸評論家と哲学者の対談が記載されていました。その中で、オウムにつけ込まれた現代の宗教的空白の話しがのっていました。日本の仏教学・宗教学というのは、学問としては大変レベルが高いのだけど、現実認識に問題があって虚を突かれた。オウムにつけこまれた現代の宗教的空白が問題だといってます。
 
 対談の中で次のような会話がありました。「本当に大切な問題にぶつかったとき、人はしどろもどろになる。むしろ今の若者たちは、しどろもどろになれないようなパターン化された中で生かされている。さっきの細胞を切るという話しはすごいですね。人は電子顕微鏡を見ていても、生命とか身体とかの手応えをもちうるんだから」「本当は宗教家がそういうものをキャッチしなきゃいけないわけですね。カルチャーセンターでも、年取っている女性たちは一生懸命文学を読んでますけれど、その結果に求めているものは宗教なんだな。それを痛感します。・・・今こそ神の問題に直面しなくちゃいけないと思っています。」
 
 最後のまとめは・・・「あなたの本は、もういちど原点に帰れ、自分がなぜ生きているのか、生きるということは何か、自分とは何か、ちゃんと考えろといっているんだから」と書いてありました。
 
 主イエスと直面する。そこに本当の信仰が与えられるのです。しかし、直面するにはどうしたらいいのか。それが問題なのだと考え込んでしまいました。

2019年6月24日月曜日

「わかってもらう言葉」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「わかってもらう言葉」

 1コリント 14:9 あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう。空に向かって語ることになるからです。

 教会に相談にかられる方が少しずつ多くなってきました。人生相談や家庭問題。恋愛問題や金銭問題もあります。教会も牧師も解決を持っているわけではありません。ただ話をよく聞いていると「一体何が言いたいのか」と考え込むことがあります。人は明確な言葉を使って相談するのが苦手のようです。自分の中でぐるぐる回るばかりで、何を伝えたいのかがはっきりしないのです。そこがはっきりすれば、教会が持っているイエス様のみ言葉で答えることができるのですが。

 使徒パウロは「異言」というものについての注意を与えています。異言とは聖霊降臨のときの「ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:4)というところに起源があります。しかし、「霊が語らせるままに」とありますから、ただの外国語というわけではないようです。パウロも異言を霊的な言葉としてうけとっており、語ることを禁じるより、それを解釈する人が必要と忠告しています。つまり、何を語っているかわかることが大切です。パウロは「空に向かって語る」という面白い表現をしています。人には届かず、空に消えていく言葉のむなしさを忠告しています

 聖書日課を作成したことがあります。信徒の方々の書かれたものを編集していると、大変勉強になります。与えられた聖書箇所を黙想し、まとめあげ、しかもそれを読む人へ伝わるように編集していく。さて、3月分位を編集していると、たくさんのことに気がつきます。読んでみてスッ~と心に入ってくる文章。何度読んでも引っかかりのある文章。書き手と読み手に決定的な溝がある文章(これは、書き手の中ではつながっているのだが、読み手には唐突なもの)。聖書の解説のみに終始している文章。日課には関係なく証しになっている文章。私はこれらの文章と付き合いながら、自分の語ってきたこと、書いてきたものはどうだったかと考えています。しかし、その中でこれはという文章に出会うこともあります。その文章はどんなものかと言えば、読んでわかる文章ではなく、聞いてわかる文章です。

 パウロは「どうして分かってもらえましょう」と言います。私たちは、「何を話しているか」を人に分かってもらわねばなりません。キリストのみ言葉をどうやったら分かりやすく伝えることができるでしょうか。それは自分の言葉の点検を必要とします。自分だけにわかる言葉をつかうのでなく、お互いに理解できる言葉、コミュニケーションを大切にしなければなりません。そのためには相手のことをまず考えることです。

2019年6月23日日曜日

きままな休日・アメリカンビーフ

たまには元気をいただかなきゃ!
ということでアメリカンビーフ
焼き方が難しい?いやシンプルに塩と胡椒のみ。

2019年6月22日土曜日

松岡牧師がやってくる

説教者:松岡俊一郎牧師(東京・大岡山教会)
歴代牧師による礼拝です。
ぜひいらしてください。

2019年6月21日金曜日

鹿児島大学生がいっぱい

鹿児島大の学生による
YouthCaféが鹿児島教会にオープンしました。
交流の場になるように!
ぜひいらしてください。

2019年6月20日木曜日

「表面では遊んで」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「表面では遊んで」
 
 今年になってから、お昼は自炊をしています。冷蔵庫内にあるもので何ができるか、というテーマを持ちつつ楽しくやっています。大抵10分でつくってテレビを観ながらの食事となります。
 
 先週はNHKの昼のトーク番組に、志村けんというコメディアンがでていました。志村けんといえば、小学生時代にはよくテレビでお世話になったものでした。とくに土曜日かくるのを楽しみにしていたくらいです。どうしてあんなに面白いのだろうといつも思っていました。
 
 さて、その彼が下積み時代の苦労話や、何をやってもお客さんに受けなかった時の話しをしていました。そして振り返ったときの感想として「がんばっていたから受けなかった」と言ってました。もっと正確に言えば「一生懸命頑張っているところを、お客さんに見せていたから」と言ってました。あるとき自分が自分で楽しいことをしたときにドッと受けた。そのときわかったことは、人には「彼は遊んでいる。自分が楽しんでいる」と見られなきゃいけないということだったそうです。もちろん、表面では遊んでいるように見せても、裏で一生懸命でなければならないと言ってました。
 
 キリスト者の生き方もそうかもしれません。表面では楽しそう、いつも喜んでいるようにみられても、内心では神様と常に向かい合っている自分がいるのです。頑張っているところを見せるのもいいですが、信仰の喜び、楽しさを見ていただきながら、真剣に神様と向かい合っている自分でいたいなあと思います。

2019年6月19日水曜日

「名前はその人自身」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「名前はその人自身」

ヨハネ 10:3 羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。

パレスチナ旅行のとき、羊飼いの人たちに会うチャンスがありました。彼らは2千年前と同じ方法で羊飼いをしているというのです。移動式のテントにすみ、羊と一緒に暮らしています。イエス様が言われたように羊に名前をつけているのです。だいたい100匹位を一人で世話します。その名前を全部覚えているのです。また羊の名前の付け方も、その羊の弱さを名前にしているといいます。右目が不自由ちゃんとか、左足が動かないちゃんとかです。その羊の弱さを全部知っているのです。

イエス様は「羊飼いと羊」のたとえで、神様と私たちの関係を話されました。イエス様は「よい羊飼い」であると言われました。その羊飼いは、門からやってきて、11匹の名前を呼んでつれだし、先頭にたって野原につれだすのです。この名前を呼んでというところに、神様と私たちの深い関係があります。神様は私たちの名前をよく知っておられます。その名前で招いてくださるのです。その名前は神様しかわからないものです。しかし、一人一人を大切にするがために、名前で呼んでくださいます。

広島教会の最長老の姉妹が満百歳を迎えられたときのことです。一口に百歳といっても、私にとっては遙かかなたの数字に思えます。この百年の年月には、たくさんの出来事が詰まっていることでしょう。いくつもの戦争があり、広島の原爆、その後の復興があり、現代社会の荒波の中で生きておられる。その一つ一つの場面がすべて、百年のひとこまです。楽しかったこと、苦しかったこと、喜び、悲しみ。どれをとってもすべてが姉妹の百年だと思います。それらすべてを物語っているのは、静かに歩むそのお姿そのものだと言えます。ある時訪問したときの言葉です。「いまでも、毎朝、子ども、孫、曾孫、玄孫の一人一人の名前を呼んでお祈りするんですよ。それが楽しみです」と教えてくださいました。百年の歳月を神様と共に生きてこられた姉妹の一生は、やはり祈りにあるのだと実感した時でした。

イエス様は「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言われました。名前をすべてその人の弱さもすべて覚えているのが羊飼いだと言われたのです。もし名前を呼び間違えたとしたら、羊は羊飼いのことを信用しなくなるでしょう。イエス様はよい羊飼いです。私たちの名前をすべてご存知です。それは名前だけの問題でなく、私のすべて、私自身を知っていてくださるということです。そこに安心があります。

2019年6月18日火曜日

「歩くことが」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「歩くことが」
 
 先週から、「ポケットピカチュウ」と「てくてくエンジェル」を腰につけて歩いています。それは何という方に・・・。実は簡単に言えば「万歩計(歩行計)」です。ところが、この万歩計がいままでのものと違うところは、全体がゲームになっていることです。キャラクターを育てたり、また歩けば歩くほど画面上のキャラクターと仲良しになれるというものです。反対に歩くことを少しでも減らしてしまうと、キャラクターは「努力しないあなたとは、おつきあいできません」なんていう置き手紙を置いて去っていってしまうのです。というわけで、てくてく歩いています。
 
 いま、毎日だいたい3千歩でしょうか。この万歩計をつけだしてやっと5千歩になりました。それでも、日曜日は7千歩、土曜日に結婚式があると8千歩でしょうか。一番ひどいときは1千5百歩という日がありました。もちろんこれは教区の会議が行われた日ですが。
 
 人間の健康には歩くということが一番いいと聞きます。そいうえば、主イエスも歩いておられます。その距離といえば想像を超えるくらい歩き回っておられるのです。しかし、ただ歩いておられたわけではありませんでした。御言葉をのべつつ歩いておられたのです。
 
 クロスウエーの森先生は、一歩あるいて一つの祈りと教えてくださいました。祈りつつ歩く。これは修行に近いものがありますが、それを実行できたら、毎日3千の祈りができるのですね。

2019年6月17日月曜日

「ゆるしたくない」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「ゆるしたくない」

マタイ  6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。

私たちの生活は、自分たちだけで生きているわけではありません。私という一人の人間が生きていくうえで、かなりのものが自分の知らないところで使われていくのだと思います。食べ物ひとつとってみても、私の存在のために毎日毎日その命を犠牲にしているものがあるのです。そのことを神様は赦しておられ、私たちのために配慮してくださっているのです。生きるということは、やっぱり感謝だと思います。

イエス様は祈りについて教えられました。イエス様にとって祈りは、神様とのごく自然な交わりでした。ですから祈りを宗教的儀式としては扱っておられません。「主の祈り」といわれるイエス様が教えられた祈りも、神様を「父よ」と呼びかけています。そのなかで赦しのことが祈られ、神様との関係において赦しが語られていることがわかります。

子どもたちが喧嘩をするとき最後の言葉は「絶対ゆるさない」というものです。この「絶対」という言葉に「ゆるさない」ではなく、「ゆるしたくない」という強い思いみます。人間は「ゆるさない」ではなく「ゆるしたくない」という存在なのでしょう。自分がゆるされていることは棚に上げて、人をゆるしたくないと言っている姿を神様はどう見ていらっしゃるでしょうか。微笑みながら、しかし真摯にみておられるように思います。

イエス様は「もし人の過ちを赦すなら」と言われました。まず自分から赦すことをしなさいと教えられたのです。赦しがたい事柄でも、その中に働かれている十字架の愛を知り自分はどうなのかを考えることです。私の方から赦すことがないならば、神様も私をお赦しにはならないと思います。

2019年6月16日日曜日

きままな休日・鹿児島教会カフェの昼ごはん

オープンを記念してオープンサンド
すてきなカウンターができました。
これからが楽しみです。

2019年6月15日土曜日

2019年6月13日木曜日

「いいねが言えない」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「いいねが言えない」
 
 梅雨時ですので、なにか爽やかな笑いをと思っています。
 
 三女・聖美もだんだん大きくなり、元気に保育所へ通っています。最近ではお友達との会話も多くなってきたようです。先日のこと、なにか言い争っている声が聞こえてきました。よく聞いてみると、「私は、ハムスター飼っているんじゃー」とお友達。すると別の子が「私のうちはリス飼っているんじゃー」とのこと。するとまた別のお友達は「私のところは亀飼っているんじゃー」と。そこで聖美は悔しくてしかたありません。大きな声で言い返しました。「みーちゃんところはみーちゃん飼っとるんじゃー」と。
 
 なんとかして言い返してやろうとおもったのでしょうか。やっぱり人間は「そりゃいいねえ」の一言がでないものでしょうね。なぜか対抗意識をもっていて、人よりもいいもの、ちからのあるものを欲していくのかもしれません。
 
 ルーテルアワーから原稿依頼がきました。広島に住むキリスト者として、今回のインド・パキスタンの核実験をどう思うかというものでした。締切は一週間しかありません。それを英語に訳して、アジアタイムスとして各国に送るとのこと。これは大変だと思い、新聞を読み返しニュースをまとめてみたりしました。それでも、問題はなにか人間の根本にあるような気がしてなりません。神様は何と語っておられるかを今聞いているところです。
 

2019年6月12日水曜日

「ゆるしたくない」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「ゆるしたくない」

マタイ  6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。

私たちの生活は、自分たちだけで生きているわけではありません。私という一人の人間が生きていくうえで、かなりのものが自分の知らないところで使われていくのだと思います。食べ物ひとつとってみても、私の存在のために毎日毎日その命を犠牲にしているものがあるのです。そのことを神様は赦しておられ、私たちのために配慮してくださっているのです。生きるということは、やっぱり感謝だと思います。

イエス様は祈りについて教えられました。イエス様にとって祈りは、神様とのごく自然な交わりでした。ですから祈りを宗教的儀式としては扱っておられません。「主の祈り」といわれるイエス様が教えられた祈りも、神様を「父よ」と呼びかけています。そのなかで赦しのことが祈られ、神様との関係において赦しが語られていることがわかります。

子どもたちが喧嘩をするとき最後の言葉は「絶対ゆるさない」というものです。この「絶対」という言葉に「ゆるさない」ではなく、「ゆるしたくない」という強い思いみます。人間は「ゆるさない」ではなく「ゆるしたくない」という存在なのでしょう。自分がゆるされていることは棚に上げて、人をゆるしたくないと言っている姿を神様はどう見ていらっしゃるでしょうか。微笑みながら、しかし真摯にみておられるように思います。

イエス様は「もし人の過ちを赦すなら」と言われました。まず自分から赦すことをしなさいと教えられたのです。赦しがたい事柄でも、その中に働かれている十字架の愛を知り自分はどうなのかを考えることです。私の方から赦すことがないならば、神様も私をお赦しにはならないと思います。

2019年6月11日火曜日

「何かが違う」


 クレヨン牧師のミニエッセイ


「何かが違う」
 
 澤木興道老師の「禅を語る」という講演集があります。その本の冒頭に次のような話しが書いてありました。
 
 「スイスにはアルプスに登る山路が幾本かある。その途中の山小屋には鍵がない。寝具、食料、燃料まで完備しておる。これを使用する者は、備え付けの定価表によって、計上して銭袋に入れる。それに誤算はない。それが出来ぬ時は麓の郵便局で支部に送る。これで間違わない。しかるに、イタリア口よりの登山道ではまったく成り立たない。スイスもイタリアも、人というには変わりがないのに。日本でも、スイスの真似をしてみたら、銭箱ぐるみ引きちぎって逃げられたそうな。山も小屋も同じであるのに、どうして人間だけが違うのか」と。
 
 よく農村で「信用商売・お金はこの中へ」と書いて野菜と箱を見かけます。しかし、そこの管理者の方に出会うと「私は人間不信です」という声を聞きいたことがあります。いったいなんでそうなるのかなと思っていました。
 
 同じ人間でも何かが違うということでしょう。その「何か」が一番大切なことだといえます。今日はペンテコステです。弟子達は聖霊を受ける前も後も同じ人間です。しまし、「何か」が違うのです。その「何か」を私たちももっているのだと思います。しかし、その「何か」は神様のものであることだけは確かです。

2019年6月10日月曜日

「賢い僕となる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「賢い僕となる」


ルカ  12:42 主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。

「呼吸を合わせる」というカウンセリング療法があると聞きました。呼吸を合わせるとどうなるのだろうと思います。どうやったら呼吸を合わせることができるでしょうか。高校の授業で柔道で黙想の時に高級を合わせることを習った以外経験したことがありません。しかし、その数少ない経験の中に「呼吸を合わせる」と言うことの大切さを教わったように思います。ただとても難しかったという記憶がある程度です。禅の修行の中にも呼吸を合わせ、整えると言うことを教えてもらったこともあります。

イエス様は、おわりの時に備えて「常に目を覚まして待つ」ことを、「目を覚ましている僕」のたとえで教えられました。主人がいつ宴会から帰ってきてもいいように準備し、目を覚ましている僕は幸いであると言うのです。ユダヤの夜の時間は3分割されており、夜、真夜中、夜明けとなります。そのとき、時間通りに仕事をすることの幸い、そして主人がそれを知る幸いを語っています。

ある主婦のバスでの体験です。その主婦は毎日同じ時間に同じ場所からバスに乗ります。当然毎日同じ人と出合うことになります。彼女にとって一番印象の強い人は、4番目のバス停で乗って来る、盲導犬を連れた女の子でした。彼女と盲導犬は乗車すると、決まって扉のすぐそばの席に座ることが習慣でした。ですからいつも乗る人々は決してそこの席には座りませんでした。ある時、中年の男性が乗ってきました。その男性はその席に腰掛けました。主婦の心のなかは複雑でした。その席にはあと二つ目のバス停で盲人の女の子が乗って来る。その男性に言うべきか言わないでおくべきか迷いました。一つのバス停がすぎ、次ぎのバス停が近づいてきました。次ぎのバス停の少し前にきたときその男性はすっと立って違う席へ移動したのでした。バス停ではいつもどおり、盲導犬をつれた女の子が乗って来ました。そして手で座席に触れ、誰も座ってないことを確認してゆっくり腰掛けたのでした。誰もなにも言わないけれど、みんなの善意がこの席を暖めていたという話です。

イエス様は「時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人」と言っておられます。主人のことをよく考えて行動している僕の話です。自分のことばかりでなく、神様が何をされようとしておられるか。私達はなにをするべきなのか。神様に忠実な僕とは何かを考えて生活していきたいと願います。

2019年6月9日日曜日

きままな休日・ワコニア湖畔のイタリアン

リゾート地のイタリアンレストラン
とにかくリッチなピザでした。
美味しかったのは間違いないが。。。

2019年6月8日土曜日

2019年6月6日木曜日

「天国へのパスポート」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「天国へのパスポート」
 
 パスポートの更新のために、旅券センターに行きました。いまではこの手続きも便利になりました。パスポートも小さくなり、有効期限も5年と10年を選べるようになりました。これもまた便利になった一つでもあります。
 
 さて、旅券センターで面白い出来事にぶつかりました。あるお年寄りが初めてパスポートを作りにこられました。受付の方は親切で、「どうせつくられるなら10年のパスポートにされたらいかがですか」と聞かれました。すると、「私は80歳ですよ。あと10年も生きられると思うかね」と言われました。思わず笑ってしまいましたが、それもそうだなとも思いました。
 
 あとどれくらい生きていけるかと思うことがあります。しかしそのような時は、「この世では」あとどれくらいと考えるようにしています。わたしたちには神様のもとにある人生もあるからです。
 
 私たちキリスト者は神様のもとへいくための、パスポートを与えられています。これは更新など必要はありません。有効期限などないパスポートなのです。しかし、ついついこのパスポートがどこかに行ってしまうことがあります。せっかく持っているのに、タンスの隅っこにでもおいやったような時があります。天国へのパスポートの存在をしっかり考え、感謝し、つねにながめていたいものです。

2019年6月5日水曜日

「せわしく・・・」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「せわしく・・・」

ルカ  10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

 「私は○○だから・・・」という言葉を聞くことがあります。この「・・・」には何がはいるのかなと思います。きっと「私は○○だから、でも・・・」と言いたいのでしょう。わかってもらいたいのは「…」の部分です。しかしその大切な部分が聞いてもらえないもどかしさを感じます。「でも…」の部分を聞くためには、じっくり向かい合わなければならないからです。

ルカ福音書の中でも「マルタとマリア」姉妹の話は有名です。イエス様の接待に忙しい姉マルタとその足元で話を聞いているだけの妹マリア。ついに姉マルタはイエス様に訴えるのです。「わたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」と。妹マリヤのことを訴えているようですが、責任はイエス様にもあると言いたいのでしょうか。なぜ彼女からイエス様に対して、このような心にもない言葉がでてきたか。それは「せわしく」(聖書には忙しいという言葉はありません)立ち働いて、何かを見失っていたからでした。自分がしていることが神様から喜ばれると自分勝手に考えていたのでしょう。すべては「せわしく」心を乱していたのです。

 たま~に子どもたちと私だけの時がありました。その時は主夫になりました。主夫初日は朝早く起きて、娘たちのお弁当作りから始めました。作りながら洗濯、朝御飯の準備。子どもたちを起こしながら、登園の準備。まあ忙しいことといったらありません。それだけではありませんでした。様々な家事が待っていたのです。つくづく家庭を守ることの大変さを感じました。しかし、家の仕事はなんでもあるのだと思います。いそいそと働きながら、実はこれほど神様から祝福されている仕事もないと確信しました。家族が平安のうちに出かけて、また帰ってくる。その拠点を守るのですから。これこそイエス様に仕えることなのです。どんな仕事や役割も、すべてはイエス様に仕えるということがなければむなしいものになっていきます。しかし、この仕事はイエス様に仕えているのだと感じたとき、そこには神様の祝福があるのです。

イエス様は「せわしく」働いていたマルタに「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言われました。そして必要なことはただ一つ、目の前におられるイエス様のみ言葉きくことだと言われました。心が亡んでしまわないように、いま何をイエス様は求めておられるかを考えましょう。忙しそうに働くことではないと思います。

2019年6月4日火曜日

「宣教の視点をどこに」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「宣教の視点をどこに」
 
 オルガンコンサートも無事に終えることができました。広島教会のオルガンの素晴らしさを再確認できました。ほんとうにいろんな音がでるのだと思いました。作ってくださった CDを何回も聞いていると、ますますその素晴らしさに圧倒されるばかりです。礼拝でもご奉仕くださり、礼拝でのオルガンの弾き方などを直接学ぶことができました。これはほんとうに恵まれたことでした。
 
 Hクウォーゼ音楽監督(ドイツ・ブラウンシュバイク大聖堂)は本当に気さくな方でした。歩きながらいろいろなことを教えて下さったのです。私が一番印象深く聞いたのは、教会での宣教のお話しでした。いかに教会へ人を呼び戻すかという話題でした。そのために監督は、子どものための音楽学校を作られたそうです。まず子どもから教会へ呼び戻そうという計画を立てられたそうです。子どもたちには、父母がいる、祖父祖母がいる、叔父叔母がいる。その人たちを呼び戻すことができると確信されたそうです。
 
 どこに宣教の視点を置くべきか、それは大変な課題だと思います。しかし、いま自分に何ができるかを考えて、宣教計画を立てることの大切を学んだようでした。いまそれがどのように実を結びつつあるのかをもう少し聞ければよかったのですが。
 
 さて、それでは私たちの教会はどこに視点を置くべきでしょうか。なにができるのでしょうか。すでに始まっている宣教の業をもう一度再点検して方向を定める時期にきているように感じます。みなさんのご意見を大歓迎いたします。

2019年6月3日月曜日

「イエス様を身近に」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「イエス様を身近に」

マタイ 28:20 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

これまで「ここにいてくれてありがとう」という言葉を何度か聞きました。私にとってこの言葉は、被災地だけでなく、パレスチナ、タイの津波、インドネシアのときも聞きました。苦しい状況の中にあって、何をしてよいかわからないことがあります。また、苦難や悲劇の中にある人達に何をすればいいのかわからないときもあります。そんなとき「ここにいてくれてありがとう」という言葉は、救援活動をする者にとって慰めです。なにもできないかもしれないが、共にいることはできる。まず共にいることが一番の救援活動なのだと思います。しかし、共にいるということほど難しいものはありません。自分も他者も理解し、受け入れていかねばならないからです。

マタイによる福音書では、イエス様と弟子たちとの別れの場所はガリラヤの山になっています。この山は「山上の説教」が語られた山を思い出させます。そこは、み言葉の福音が語られ、人々が救われ、癒された場所です。この最後の場面で、イエス様が遺された言葉は「弟子の派遣」でした。み言葉の宣教こそが派遣の中心なのです。そして、最後の最後の言葉は「共にいる」というみ言葉でした。これは、弟子たちのすべての働きの中に、イエス様は共にいてくださるということです。

徳山教会で始めた「指圧セミナー」を通して、いままで考えることがなかった「いやし」について多くのことを学びました。セミナーの中で「カルシュウム」と「酢」の大切さを再確認しました。最近この二つを充分とっていますので、心持ち自分に変化がおこってきたような気がします。なんと、イライラしたりカッとくることが少なくなってきたようです。落ちついて祈ることができるようになりました。しかし、いままでの性質をすぐ変えることはできません。ある日曜日の朝6時ごろのことでした。長女が耳が痛いといって私の枕に近づいてきたのです。前日の三時ごろ寝たものですから、その声がうるさくてたまりませんでした。あまりにもしつこく「痛い、痛い」というものですから、ついカッとなって怒鳴りました。「いまどうすることもできない。静かに寝てろ」と。しかし同時に「お父さんならこの痛みを受け取ってくれると、信頼して枕に近づいてきたのではないのかな」と言う声も聞こえてきました。私たちはどれだけ人の痛みと共にできるでしょうか。あの朝、どうして神様に痛みを取りのけてくださいと、娘と祈れなかったのか。心から悔い改めをしたのです。やはりキリストといつも共にいなければ、人の痛みを感じることはできないのではと思います。

イエス様は、天にあげられる時「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束してくださいました。どんなことが起こっても、どんな状況になろうとも、イエス様は共にいてくださると約束してくださったのです。だからこそ、どこにいてもイエス様に出会うことができます。どんな苦しい状況の中でもイエス様にも出会うのです。そこにおられるイエス様と出会うことで、私たちも癒されていくのです。

2019年6月2日日曜日

きままな休日・峰ポリスのカフェで

さすがアメリカですね~
ミネアポリスのカフェでオシャレなランチでした。
サラダが独特で、、、

2019年6月1日土曜日