2016年11月30日水曜日

編集も楽しい

クレヨン牧師のミニエッセイ

「編集も楽しい」
 
 地区聖書日課を読んでいますと、学ぶことがいっぱいあります。この牧師はこのように聖書を読んでおられるのか、この信徒の生き方はここに原点があるのだなとか。生活の場から聖書をみる視点というものを感じます。
 
 さて、逆に編集とは難しいなという思いもあります。筆者の書かれた文章にどれだけ手を入れてよいのやら、失敗も多いものです。必ず筆者に確かめることにしています。もちろん、差別表現、不快語などは訂正させていただきますが、この文章をこうすればもっと分かり易いのにと思うことが度々あるのです。
 
 最近の失敗は、執筆者へのお願いに、「簡単平易な文章を・・小学生から読んでいます」とお願いしておきながら忘れてしまったのです。それは、わざわざひらがなで書いてあるのに、漢字にしてしまったのです。その漢字は小学生では習わないものでした。
 
 誰が読んでもわかる言葉で・・・それは神様の御言葉なのですね。

2016年11月29日火曜日

単でなく

阿久根ルター君の朝のみ言葉

エフェソ 2:20 そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。

あるビジネス関係の本を読んでいました。すると面白いことに目がとまりました。それは船の話でした。船を作っている部品はすべて単体では海に沈んでしまうが、船として組み立てられると海に浮くというものでした。確かに、スクリューや舵、窓、煙突など船を構成している部品は、ただそれだけでは沈んでしまうのです。船というコンセプトがあって、そこに向かって組み立てられるから海に浮くのです。このことは何を意味しているのだろと思いました。

パウロは、「キリストにおいて一つとなる」ことを教えます。本日の箇所では、教会という交わりについて、建物のイメージからのべています。教会の交わりには「かなめ石」としてのキリストがおられます。この「キリストにおいて」が繰り返されていることによって、キリストとの結び付きが交わりを支え、成長する基になるというのです。すべてはキリストが中心です。私たちの教会も、一人一人が単体であるならば決して宣教できるものではありません。「御言葉を一人でも多くの人に宣べ伝える」という教会の船にならねば沈んでしまうと思います。宣教する船である教会にはイエス・キリストという「かなめ石」があるのです。人をみず、キリストをみることによって教会は一致できると思います。そしてすべてをキリストのみ言葉から見ることができれば一致できるし、大きな力となります。その時に神様の御心による宣教が始まります。

パウロは、キリストがすべての「かなめ石」であるといいます。ここに私たちの基準があります。人間の言動に左右されない、確かなみ心がここにあります。聖書を読むことは、すべての基本であると改めて教えられました。私たちはキリストを中心にして教会の宣教をしていきましょう。一人一人の賜物をもちよって、キリストの体となり一つになりましょう。

2016年11月28日月曜日

少しのばして・恵

クレヨン牧師のミニエッセイ
「少しのばして・恵」
 
 依頼を受けて、下関教会の結婚式奉仕に行ってまいりました。場所が変わればハプニングがあるもので、式が始まって結婚指輪が聖卓にないことに気がつきました。すぐに信徒のかたに合図を送り、探していただきました。そうこうしているうちに、説教壇にメモが届けられました。そこには「指輪はまだ披露宴会場にあります。すぐに来ます。少し説教をのばしてください」と書かれてありました。
 
 突然のことなので、いつもは十分で終わる説教を二十分かけてゆっくり話しました。もう冷や汗がでました。しかし、自分が話したものをその場で確認しながら、自分でも聞くという作業に恵まれました。
 
 そこで、聞いた自分が語る御言葉は「人生にはいろいろなことがあります。苦しいこと、悲しいことにぶつかります。突然起こってくる災難もあります。しかし、神様はきっと導いてくださり、それを乗り越える力を与えてくださるのです。それを信じてください」でした。そう語り終えたとき指輪が届きました。神様に感謝。

2016年11月27日日曜日

きままま日曜日

きままな日曜日

 社会全体になにか重い空気を感じるのは私だけでしょうか?新しい年になって、すでに3件のバラバラ殺人事件のニュースがあり、小学生の自殺もありました。飲酒運転のニュース、教師によるセクハラ、企業、政治家による汚職のニュースも毎日のように流れます。重い空気は社会だけでなく、確実に教会へも押し迫っています。教会はそのただ中にあって、「こんなときどうする?」と、神様から問われているようです。

 牧師たちの中にも明らかな現象がでてきました。精神的に落ち込むだけでなく、それに耐えられなくなって職務を続けることができないことが起こっています。なにかおかしいと思うのです。深夜の祈りで「自分はどうしてこんな状態だろう」と考え落ち込むことがあります。「何をやっているのか」と情けなくなることも多いです。それでも祈りの中にいると、イエス様のみ言葉をいただき、もう一度やってみようと勇気を与えられます。

 こんな時だからこそ、聖書をしっかり読むことが大切です。旧約聖書には、いま社会で起こっていることのすべてが書いてあります。殺人、汚職、いじめ、不倫、暴力・・・。すべて聖書の中にでてきます。その中で、人間はどのように生きてきたか、神様はどのように導かれたか。御子イエスは、なぜ私たちのところに来てくださったかを再確認するのです。
 深夜の祈りの中でいただく勇気は、み言葉が支えてくださる勇気です。どんなことがあっても、となりにはイエス様がいてくださるという勇気です。

2016年11月25日金曜日

希望がある

阿久根ルター君の朝のみことば

ペトロ  1:3 神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、

 

末盛千枝子著「人生に大切なことはすべて絵本から教わった」の中に次のような文を見つけました。「私が基本的に絵本や子どもの本で重要だと思っているのは、絶対的に、ハッピーエンド、あるいは完全なハッピーエンドではないにしても、きちんと希望がある、ということです」。童話や絵本を書く中で大切なことは、「きちんと希望がある」ことです。それは子どもたちの心に残るからです。心に希望があれば、いつか試練の時がやってきても、最後にはよい方向にむかうという確信になると思います。これからも絵本や童話を書く上で一番大切なことを教えられました。

ペトロの手紙は、様々な迫害を受けている信仰者を慰め、信仰に固く立つように薦めるため書かれました。今日の箇所は、苦難の中にある信仰者の在り方にたいする勧告が中心になっています。試練の中にあっても神様は生き生きとした希望を与えてくださると教えています。その根拠になっているのがイエス様の復活の出来事です。死からの復活こそ私たちの希望であると教えています。

カトリックの黙想集「実る人生」に次のような文を見つけました。「外面の静けさと内面のあらしといった対照的な状態がよくあるものです。重要なのは、どこにいるか、ではなく、なにを考えているか、ということです」復活の朝、その知らせを婦人たちから聞いたペトロは走って墓を見に出かけています。ペトロにとってこの出来事は内面のあらしではなかったかと思います。十字架の上で死んだ主イエスがそこにおられないのです。外面上は静かな時間が過ぎています。人々は主イエスの十字架の出来事に打ちのめされていたのですから。ペトロは空っぽの墓をのぞいたとあります。そこには亜麻布しかありませんでした。このとき何をペトロは考えていたのでしょうか。大切なことは、この出来事を前にして何を考えることができるかということです。

復活は私たちに喜びをもたらします。私たちもまた同じように復活させてくださる希望を与えてくださったのです。これが、救いの完成なのです。

ペトロは「神は・・生き生きとした希望を与える」と教えています。その希望はイエス・キリストの復活によって与えられるものです。私たちに与えられる生き生きとした希望は、イエス様の十字架と復活によって与えられ、それが私たちを導いてくださるのです。死者の中からの復活によって与えられた生き生きとした希望があるように祈ります。

2016年11月24日木曜日

祈りの礼拝堂をもっている

クレヨン牧師のミニエッセイ
「祈りの礼拝堂を持っている」
 
 祈りの礼拝堂を持っている教会は、どんなに恵まれているのか。これがある教会に訪問しての感想でした。ある教会では建築構造の事情によって、会員の葬儀ができない教会もあると聞きます。
 
 私たちには、この素晴らしい礼拝堂が与えられています。これは大変な恵です。そのことに気づかされるのは、他教会を訪問すればよくわかります。今年は人数も増え、心から祈りたくなる礼拝堂になりました。このような礼拝堂を持っている教会は多くはありません。私たちの教会は本当に教会らしい教会なのです。
 
 どうか、この礼拝堂を大切にしてください。祈りで満たしてください。そして、この礼拝堂から一週間を初めて下さい。教会の礼拝堂は信仰を与えられる場であり、福音を受け取る場でもあります。そこから出て、そこへ帰ってくる場でもあります。元気がでないとき、礼拝堂で祈ってください。そこでは聖霊の力によって回復される何かと出会うはずです。

2016年11月23日水曜日

休日クレヨン・やっぱ芋

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 休日にはちょっと楽しいブログをどうぞ!





  やっぱり秋になってきてるのか!それでも気温は30℃をこえています。あれ〜〜
   西原村にいったら安納芋とシルクスイート発見。早速焼き芋にしてみました。甘くて美味しかったです!
   これから楽しみです。秋の味覚はいっぱいありますよ。復興に向かう熊本です。

2016年11月22日火曜日

死を招く渇き

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「死を招く渇き」

 ヨハネ 4:14 わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。

 イスラエルで砂漠を旅していた時のことです。ガイドの方がよく「つねに水を飲んでください」と何度も言っておられました。砂漠ですから喉は渇きます。しかしバス移動のためトイレの問題があり、とくにお年寄りは水を飲まないのです。するとやっぱり脱水症状になり、大変な状態になります。実は砂漠では自分が意識してないうちに体から水分が出て行ってしまうといいます。干物状態になるのです。ですからたえず水を補給しておかねば脱水状態になるのです。意識しない渇きというのがあることにはじめて気がつかされました。

イエス様は、サマリアの町にあるヤコブの井戸の前で一人の女性と出会います。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないのですが、イエス様の方からこの女性に声をかけられたのです。しかも「水を飲ませてください」と。この言葉は、たんにイエス様の喉が渇いていたというだけでなく、この女性にとって「魂の渇き」に気がつくようにとの言葉でした。それはイエス様が言われた「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」というみ言葉につながっていくのです。この女性にとって渇きをそのままにしておくことは、死へとるながることだったのです。

 ある夏の日のことでした。友達に誘われて海釣りにでかけました。古い小舟を買ったとのことで、瀬戸内海の穏やかな海にでかけたのです。ところが途中でスクリューが故障し、難破船になったのです。他の船がそばにきたら助けてもらおうとか、はじめはよかったのですが「水」がないことに気がつきました。日差しはカンカン照り。船は通らず。喉は渇く。それから数時間が過ぎました。極限ちかくになってくると「渇きから死」を思い浮かべるようになったのです。人は渇きを実感したときに死を思うのです。たまたま、小舟が通りかかって助けてくださいましたが、陸にあがって、それはもうガブガブと「これでもか、これでもか」と水を飲みました。

 イエス様は「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われました。渇きは喉だけではありません。魂の渇きがあります。すべての渇きは死へとつながっていくのです。イエス様が与えてくださる「生きた水」は永遠につきることがありません。渇きを知った時にそれを潤す水はイエス様しか持っておられないのです。自分の魂の渇きに気づいたとき、そこにはイエス様が生きた水をもって迎えてくださっていることに感謝したいものです。

2016年11月19日土曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
静かに・・・」
 
 若手牧師の家族が来て下さり、六日市に蛍を見に行くことがたのs意味でした。一度でいいから蛍のクリスマスツリーを見て欲しかったのです。
 
 私は六日市集会が大好きでした。なぜなら、帰りに「寄り道」ができるからです。今の季節ですと、橋の上が絶好の場所です。清流のせせらぎ、かじかの鳴き声に、蛍の舞という贅沢なひとときを送ることができます。
 
 この贅沢を娘たちや牧師仲間の家族にもということで、みんなで六日市にでかけたのです。ところが、子供たちは「かじかってどれ~」「かじかの鳴き声ってどこ」「お~いかじか出てこい」と騒ぐしまつです。肝心のかじかも鳴くのをやめてしまいました。
 
 「神様はいったいどこだ。声なんか聞こえない。神様でてこい」と心の中で思っているうちは、きっと神様の声は聞こえないのでしょう。落ちついて静かに心をこめて聞くことが祈りのポイントかもしれません。

2016年11月18日金曜日

食い違い

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「食い違う」

ヨハネ 18:37  そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」

訪問の途中で昼食を食べました。初めての所で、何を食べるか悩みました。ふと見ると讃岐うどんの全国チェーン店があり、中国地方にいた時にとても美味しかったのでそこに決めました。一番シンプルな釜揚げうどんを注文し、一口食べて「うん?何か違う」と感じました。美味しかったのは事実ですが、何か根本のところで違うと思ったのです。きっと水の違いではないでしょうか。熊本の水は最高に美味しい水なので、この水がはたして讃岐うどんにあっているのか?材料は同じでも一番大切なところでの違いは、すべてに影響を及ぼすように思えました。水は生命の源であることを認識しました。

ピラトは、イエス様に死刑の判決をくだす前に3つの尋問をしています。「お前がユダヤ人の王なのか」。「いったい何をしたのか」。「それでは、やはり王なのか」です。ピラトはイエス様がなぜ民衆に訴えられているのかわかりませんでした。イエス様はどんな罪で訴えられているかを知ろうとします。しかし対話は噛み合いません。彼が期待した答えが得られないのです。イエス様は最後の質問に「それは、あなたが言っていること」と言われました。自分が何を質問しているのかわかっているのか、と言われたのです。なにか根本から違っていたのです。

ある本に「おいしいものを食べる」ことと、「おいしく食べる」ことは違うと書いてありました。なるほどと感心してしまいました。おいしいものをおいしく食べるのは簡単ですが、自分にとって苦手なものでもおいしく食べることは難しいものです。しかし、できないわけではありません。そこに「感謝」があれば、なんでもおいしくいただけるような気がします。毎月1回教会カフェの男の鉄板料理もちょっとそのような感じです。私もメンバーですから「おいしい」かどうかは判断しかねます。しかし、とっても「おいしく食べることができる」のではないでしょうか。教会のいいところは、「おいしく食べることができる」ということです。信仰を与えられている私たちは、試練がやってきてもそれを、神様の恵として受け取ることができるのです。私たちの人生「信仰によってどう受け取るか」が大切なポイントだと思います。

イエス様にピラトは「王なのか」と聞いています。それに対してイエス様は「それは、あなたが言っていることです」と答えられました。王かどうか、それが問題なのはピラトであって、イエス様ではありません。イエス様は真理を証するために生まれたと言われました。王であるかどうかではなく、イエス様の存在の本質は何かをピアとは問わねばならないのです。この食い違いは十字架の後もこのまま聖書にしるされています。信仰の根っこにあるものを今日は問いつつ過ごしてまいりましょう。

2016年11月17日木曜日

気にしない

クレヨン牧師のミニエッセイ
「気を気にしてない」
 
 気功がブームのときがありました。牧師たちの中にも気功を研究しておられる方もいます。私もちょっと本を買ってきて読んでみました。すると、これは奥が深いということだけはわかりました。なにせ中国三千年の歴史から生まれてきたものですから。
 
 さて、その本によれば、私たちは様々な「気」に囲まれていることがわかります。「眠気」「気分」「元気」「殺気」「景気」「勇気」「気丈」「天気」「病気」「雰囲気」「活気」「気力」「英気」「鋭気」「精気」「生気」「邪気」「気体」「気合い」などなど。こんなに「気」に囲まれているのに、一向に気にしていないのです。
 
 いろいろな牧師が、「聖霊」と「気」は同じであるといっています。私はそう簡単に言えないような「気」がします。どちらにせよ、それらを私たちが感じなくなっていることが問題だと思います。聖霊を受ける。それは聖霊を感じることでもあるのです。なんだか「呑気」なものですね。

2016年11月15日火曜日

根拠なき自信

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「根拠なき自信」

マタイ  14:28 ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」

茂木さんの著書に「根拠なき自信」ということが書いてありました。そもそも自信というものは、何らかの成功体験から生まれると言われています。自信を持つには何らかの裏付けが必要だといわれています。しかし、何の成功体験もないままに、最初に自信をもっておくというのも大切なことだというのです。これを「根拠なき自信」というそうです。その自信はどこからくるのかと聞かれても、そんな根拠はどうでもよく、とにかく自分は自信があると考える。すると面白いことに、自信を持っている脳の状態になるというのです。つまり積極的な脳をつくりあげることが、不確実な時代には必要だというのです。

イエス様には、ガリラヤ湖で水の上を歩くという奇跡があります。弟子たちの乗った船は湖の上で、波と逆風に悩まされていました。弟子たちは船の中にイエス様がいてくださったらと思っていました。悩み苦しむ弟子たちの船に、水の上を歩いてイエス様が近づいてこられたのです。それをみたペトロは自分も水の上を歩けるとおもったのでしょうか。「水の上を歩いてそちらに行かせてください」とお願いしています。どうしてそのような言葉が言えたのか不思議です。

病院で看護補助のアルバイトをしていたときのことです。そのアルバイトは夜勤の手伝いというものでした。一つのフロアーを看護婦さんと2人でナースステーションにいるというものです。いまとなれば大変なアルバイでした。精神的にも肉体的にも疲れていたように思えます。週に2日の割合で病院に泊まり込むわけですが、夜の病棟の雰囲気が夜勤ペアによって毎回違うことに気がつきました。男性の看護士さんとペアを組むとき、またベテランの婦長さんとの夜勤。若い20代の看護士さんと組むとき。つまり組む相手によって病棟の雰囲気はまったく違うのです。いつも何か起こる夜もあれば、何も起こらずに静かな夜。そわそわした夜に、ピリピリした夜。長く続けていると、今日はどんな夜になるか想像できました。つまり、その夜に勤務する看護士さんによって病棟が変化するということです。何が起こっても受けとめられる方の時は静かでした。新人のかたで、まだ自信がないときには病棟にそれが伝わっていくのです。その方々の性格や仕草によっても違いました。そんなときに自分の存在はどうだろうかと考えてみたのです。

ペトロは水の上を歩いてイエス様のもとにいきました。歩けるという自信があったわけではありません。イエス様の命令なら水の上を歩くことができると信じたのです。これも根拠なき自信です。しかし、途中でおぼれそうになってしまいます。最後まで信じて歩くことができなかったからです。根拠なき自信でもイエス様によって信じさせてくださる信仰を疑ってはならないのです。

2016年11月14日月曜日

信仰けちんぼう

クレヨン牧師のミニエッセイ

信仰けちんぼう」
 
 イソップの物語に「けちんぼう」というのがあります。
 
 「けちんぼうの人が持ち物をすっかり金と取り替えて、その塊を手に入れました。そして、壁の下に埋めておいて、始終やってきてはながめていました。近所に住んでいる一人の職人が、けちんぼうが行ったり来たりしているのに目をつけて、本当のことを見抜き、けちんぼうが行ってしまってから、金の塊をとっていきました。けちんぼうがやってきてみると、そこがからっぽになっているので、髪をかきむしって泣いていました。こうしてけちんぼうがひどく悲しんでいるのをみて、そのわけを聞いた人がいいました。
 
 『悲しみなさるな。石をひろってきて同じところへお埋めなさい。金が埋まっていると思えばいいでしょう。金があったときでも、あなたは使わずにいたのだから』使わなければ、どんないいものを持っていても、なんにもなりません」。
 
 「金」と「信仰」とを取り替えて読んでもドキッとします。

2016年11月13日日曜日

聖なる空間を保つ


神様のクレヨン

大江教会は「お坊さん牧師さん神主さんがいるカフェ」として知られてきました。よく電話がかかってきます。この度九州臨床宗教師会と熊本大学・大阪大学・東北大学が共催となって「熊本地震復興支援シンポジムム」を行う事になりました。テーマは「被災地における人々のケア~宗教者の役割とその連携の可能性~」という会です。宗教の公共性ということが徐々に広がってきたように思います。

 この会の準備のために大江教会カフェが用いられました。お坊さんや神主さんも落ち着くと言ってくださいます。また癒しの空間としてのカフェの役割がとても気に入っていただいています。宗教宗派を超えて集まる宗教スペースは、大江教会にのみあります。もしかすると時代の最先端を行っているのかもしれません。しかも、これからの宗教施設の在り方、用い方、さらには癒しの空間としての役割のモデルケースとなっているようてす。オンリーワンがまた一つ増えました。

 今回、宗教者平和会議の事務局の方が「この教会は24時間オープンと聞きました。危害や泥棒、イタズラはありませんか」と質問されました。実は24時間オープンにして5年になりますが一度もありません。その理由はよくわかっています。それはここが聖なる空間だからです。神社やお寺の本堂で危害を加える人はいません。「ばちがあたるから」です。そこには神様がおられて見ておられるからです。つまりそこが聖なる空間として認知されているからです。大江教会になにか危害があるとすれば、そこが聖なる空間となっていないと言う事だと考えてきました。
 ただ皆さんに覚えていてほしいことは、聖なる空間として保つことの難しさです。また見えない働きの大きさです。ひとつの教会を聖なる空間と保つのは、存在しているだけではないのです。この空間を守り保ってくださっている方がいるからです。

2016年11月11日金曜日

あこがれ

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「あこがれ」

コリント  7:11 神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。

テレビっ子だった私は、夏休みなると天国にいるような気持ちでした。なぜなら、朝から晩までずっとテレビを観ることができたからです。両親が共働きであったので、昼間はだれも家にいなかったのです。ということで、ニュースからワイドショーまでありとあらゆるものを見ていました。その中で、もしかした自分もテレビ出演する人間になれるかもと淡い夢をもっていました。あこがれというのでしょうか。懐かしい思い出です。

 パウロによるコリントの信徒への手紙1,2をまとめると、少なくとも5通の手紙をコリントに書き送ったのではないかといわれています。その中に「涙の手紙」というものがあります。パウロが「涙ながらに」としるしている手紙です。その後「和解の手紙」が送られているのをみると、コリントの信徒の人々に悔い改めが起こったのでしょう。「神の御心に適った悲しみ」が悔い改めに導き、そのことによって「あこがれ」がもたらされたと書いています。新約聖書ではここだけにしかない言葉です。

 ある幼稚園新聞の9月号のテーマは「あこがれ」でした。子どもたちにとって「あこがれ」を持つとはどんなことか。こんな人になりたいという「あこがれ」をもつことが、子どもたちの心の成長を促していくという事が書いてありました。私がチャプレンをしていた幼稚園の卒園文集には、いつも子どもたちが「何になりたいか」を書いて残してありました。幼稚園の先生、お花やさん、ケーキ屋さん、おまわりさん、サッカー選手などなど。みんな「あこがれ」をもっているのです。その中で印象的なことを書いた子どもがいました。彼は電信柱になりたいと書いていたのです。大笑いしながら理由を聞いてみると、暗い夜に明るいからとのこと。大きく解釈すれば、人の暗闇に光を灯す人にあこがれていたのかもしれません。そのあこがれを持ち続けてほしいと思いました。

 パウロは、神の御心に適った悲しみが、あこがれをもたらしたと言っています。あこがれとは慕うという言葉と同じ意味です。神様の御心に適った悲しみによって悔い改めがおこり、それが神様を慕うあこがれとかえられていく。詩篇には「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」という言葉があります。ここに本当のあこがれをみるように思います。

 

2016年11月10日木曜日

またきてね

クレヨン牧師のミニエッセイ

「またきてね」
 
 出掛けることが多くなってきました。これは嬉しいことです。神様が御用のために使ってくださることだからです。
 
 さて、娘(1歳半)が言葉を少しずつ覚えてきたときのことです。その中で、これは誰にでもわかるという言葉があります。それは「またきてね」です。私が出掛けようとすると、どこからともなくやってきて「またきてね」と言われてしまいます。なんだかおかしいのですが、「またきてね」と言われると嬉しくもあります。
 
 礼拝堂の聖壇が広がり、ああこれが教会の中心なんだとわかるようになりました。この中心では聖餐式が行われ、聖徒の交わりがおこり、祝福を受けます。神様と私たちの間に出会いがあります。ここにくれば神様に全てを委ねることができます。その聖卓にはキリストがおられるのです。
 
 「わたしのもとにきなさい。休ませてあげよう」という主の御言葉を聞きます。そして同時に「またきてね」という御言葉も聞こえてくるのです。
 

2016年11月9日水曜日

自分が変わらねば

阿久根ルター君のあさのみ言葉

「自分が変わらねば」

ヤコブ 1:19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。

「自分が変わる」ということは難しいことです。最近の説教ではそのことをよく話していると教えていただきました。確かに新しい教会に赴任して、いままでと違うことに戸惑いを感じることもあります。そんなとき、それを受け止めるには自分が変わることを求められます。また同時に教会も変わることを求められます。ただし、教会には変わらないもの、変えてはいけないものもあります。それは「み言葉」「信仰」「神様の恵み」です。それをはっきりさせるために変えていく努力をしなければなりません。イエス様が大江教会に求めておられることは何かを常に考えています。

ヤコブは、神様の言葉を聞いて実践するというテーマを持っています。その時、自分中心をどのように乗り越えるべきかを語ります。最初に3つのことの実践するように勧めます。「聞くのに早く」「話すのに遅く」「怒るのに遅く」です。これを読んでみると、すべては相手に合わせなさいということでしょうか。自分が変わるということを求められているようです。ヤコブの時代にも教会内で様々なトラブルがあったようです。そこには生身の人間の集まりがありますから、言い争いや分裂などもあったことでしょう。しかし、神様が与えてくださった交わりはそれを乗り越えるために相手を思い、愛し合い、赦しあうという恵みを与えてくださっています。そのためには「わきまえる」ことが大切なのです。

ある本の中に「クレーム解決のカギは『時』『場所』『人』を変えること」と書いてありました。スピーディに解決しようとしたら、むしろスローな対応を心がけましょうというのです。その場の電話だけで無理やりに解決しないことだと書いてありました。いま解決できそうになければ日を変える。店頭でクレームを言われていたら応接室へ案内する。担当者レベルでだめなら上司で対応する。このように「変える」ことで、解決策がみえてくるものです。クレームそれ自体も、今後さらに成長するためのラッキー情報という風に受け取っていければ変わるかもしれません。ただし、そのように受け取るにはかなりの努力が必要です。

ヤコブは「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」と教えています。私たちは、自分のことを話したい。聞いてもらいたい。訴えたいと自分を中心に考えています。しかしヤコブは、「わきまえなさい」と教えます。自分を変えていくことが「わきまえる」ということです。私たちは職場でも関係の中で生かされています。何かうまくいかないことがあったとき、主にあって「自分が変わる」ことを考えてみる必要があります。変わることでうまくいくことがある。私たちの人生も、主によって変えられて今があるのです。

2016年11月8日火曜日

神さまが近づいて来られる

クレヨン牧師のミニエッセイ
神様が近づいてこられる」
 
 徳山教会の念願「聖壇拡張」でした。祈りに支えられて、こんなにはやく実現するとは思いませんでした。徳山に遣わされて5年目ことでした、ひとつひとつ願いが聞き届けられました。そしてついに礼拝のたびごとに思っていた、「この聖壇があと1m広ければ」の思いが神様に聞き届けられたのでした。
 
 お配りしてきた「げつようび」にも書きましたが、なぜ聖壇を広げたいのかといえば、この教会の中心をそこにおきたいからです。ルターは教会を考えるとき、教会の核心となるところは「聖徒の交わり」であるといいました。そこでは「福音の説教が行われ、聖礼典がおこなわれる」と。教会はいつもここから出発しないとならないし、ここへ帰ってくるのです。そして、私たちは聖餐においてその力を得るのです。
 
 私たちの教会の中心はどこか。それは聖卓を囲みキリストを中心とする、聖徒の交わりでありたいと思います。聖壇の拡張は、神様の方から近づいてきてくださることなのです。阿久根教会も毎週の聖餐式がおこなわれています。これも念願のことでした。

2016年11月7日月曜日

朝のみ言葉161107


 
マタイ 6:34 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。

「慢」ということばは、仏教では煩悩を表わすそうです。我慢もそのひとつ。それは、自分という存在が永遠不滅のものだと錯覚している煩悩なのです。自分中心に考えることは、どの宗教にとっても問題があります。その自分中心とはいったい何でしょうか。それは自分が神様になることではないです。私たちは中心をどこに据えるか、自分に据えるか、イエス様に据えるか。常に考えながら生きていたいと思います。自分中心で生きていくと、思い悩むことが多くなります。

本日の聖書のみ言葉は、イエス様が山上で説教された言葉のひとつです。この34節には「思い悩む」と言う言葉が2回でてきます。聖書で同じ言葉が2回でてくるときは強調を表します。6章の最後にこの節があることを考えると、神様への信頼によって思い悩むことから解放されなさいということでしょう。しかも、明日のことまでもと言われていますから、目の前にある今日を大切にしなさいということです。

「セレンディップの3人の王子」という話があります。この童話の王子様はしょっちゅう探し物をしています。だから人々からはおかしな人と思われている。でも、しょっちゅう探し物をするのは普通のことです。私たちもしょっちゅう探し物をしているのですから。しかし、この王子様が私たちと違うところはしょっちゅう探し物をしているが、探している物は見つけられない。そのかわり別の宝物を見つける。探しているものよりもっと貴重な物を見つけ出してくるという王子様なのです。つまりこの王子様は思いがけない発見をする能力をもっていたのです。自分が思い悩んでいること以上に、神様は守っていてくださることを知る。その発見があれば今日のことで生きていける発見をするのです。

イエス様は「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」と教えられました。今日をしっかり生きることが明日へつながります。まず今日の命を感謝し、神様を信頼することです。明日のことは明日自らが思い悩むことですから、それは神様におまかせすればよいのです。明日の問題とすればいいと言われます。与えられた今日のこと、いま目の前にある働き、招き、使命に素直にとりくんでまいりましょう。

2016年11月6日日曜日

牧師室から


 

 教会の「つながり」を考えています。教会はそこに集う方々のつながりを考えると、こんなに豊かな交わりはありません。しかし、それが生かされているかといえば、ほとんど生かされてないのが現実です。これからの教会は、この「つながり」を大切に考えてそれを生かしていくことが宣教になると思います。

 「つながり」といえば、最近あるネットショップで本を購入しました。ところがそのサイトではつい買いすぎてしまいます。サイトの一言が影響しています。「よく一緒に購入されている商品」「この商品を買った人はこんな商品も買っています」という言葉です。これを次々にみていくと欲しい本がたくさん出て来るのです。それらをまとめて買ってしまうのです。うまくできているなと思います。

 これを教会の宣教に生かせないかなと考えました。「礼拝に参加した人はこちらも参加しています」と。食事だったり、カフェでの行事だったり。そこでまた、「このようなプログラムに参加されています」という誘いがあったり。それには教会にどれだけのプログラムがあるかでしょう。これまでも、聖書を学ぶ会はありましたが、それ以上のプログラムを用意できていたか。ところが現在の教会は違います。多種多様のプログラムがあります。集会室をCaféとして開放し、礼拝堂が地域の方々に用いられています。先週は英会話ハロウィンパーティがあり、落語がありました。水彩画、フラワーアレンジ、ハーモニカ、ギター、コーラス。毎日違ったプログラムが教会で行われています。いまの教会なら「礼拝にでた人はこんなプログラムにも参加しています」と言えます。これが最終的はキリストとつながっていくことになると信じています。

2016年11月5日土曜日


阿久根ルター君の朝のみ言葉

ヨハネ  9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

カトリックの神父が書かれた黙想の本があり、そのなかに次のような一節があります。「神に愛されようとして、自分自身を変える必要は全くない」自分を変えるというのは、悪いことではありません。しかし、神様のまえでは変える必要はない。これはどういうことでしょうか。それを考えることが黙想の初めなのでしょう。いろいろと思いめぐらせてください。思いめぐらせていくうちに、私たちが勝手に抱いている神様は、なんと小さい神様だったかが分かってきます。

 私たちは神様を抱くのではなく、神様から抱かれているのです。私たちをそのまま愛してくださる。欠点は多いがそのままを大切にされるのです。こんなことは、神様しかできないことです。この私をそのまま抱いてくださることがおできになるのです。

イエス様は生まれつき目の見えない人を癒されました。このことで問題がおこりました。癒された日が安息日だったからです。イエス様に癒された人はファリサイ派の人たちから尋問をうけることになりました。その尋問は癒された人を苦しめていきます。最終的には罪あるモノとしかみなされず、追いこまれていきました。そんなときにイエス様に再会し、信仰の告白へと導かれました。イエス様は「あなたと話しているのが、その人だ」と、自分を神であると示されたのです。

ドストエフスキーの言葉に「誰かを愛するということは、神が意図したようにその人を見ること」というものがあります。たとえば家族の誰かを愛すると言う時、その人を一人の個人としてみて、自分との違いを認めることだということです。たいていは相手を見る時、「こうあるべきだ」という見方をします。自分の考えに押し込めようとするものです。しかし、それでは相手を人とみているのでは、モノとしてみているにすぎません。人を人とみることが、愛することの基本だといえます。

イエス様は「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」と言われました。イエス様を見るとき、私たちは愛されていることを知ります。イエス様が私たちを人として見ておられることがわかるのです。だからこそ、この男もイエス様を人として見ることが出来ました。お互い人として見ることから愛するということがはじまっていきます。

2016年11月4日金曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
「奇跡は身近に」
 
 神様の奇跡というのは、何か遠い出来事のように思います。しかし、案外身近なところで起こっているものだと実感することができました。
 
 礼拝堂の聖壇が狭いとは、常々感じていることでした。このことのために祈りっていたのです。なにせ、拡張費用は40万かかることがわかっていましたので、祈るしかなかったのです。すると驚くべきことに、5月、6月に結婚式が7組も与えられたのです。一つの結婚式につき、教会へは5万の献金があります。すると全部で35万となります。驚きました。
 
 しかも実を言いますと、「神様、ここには5万円あります」と祈ってきたのです。多く与えられるのでなく、少なくでもなくです。神様の御心が聖壇の拡張をよしとしてくださったのです。神様は祈りを聞いて下さったのです。ぜひこのことを感謝したいと思います。この教会・皆さんを神様は本当に大切に思っておられるのがよくわかりました。それにどうやって応えていくのかが課題です。祈りましょう。そして神様の御心を聞き取ってまいりましょう。かならず神様の御心はしめされるはずです。

2016年11月2日水曜日

阿久根ルター君の朝のみ言葉

マルコ 15:2 それは、あなたが言っていることです

子どものころ、親に言返すとよく次のように怒られました。「それはあなたが言っていること。それは通じない」と。 私たちは自分勝手な考えを人に押しつけようとします。子どものときは「だだをこねる」と言われました。自分の正しさを無理やり証明したいからではなかったか、自分の間違いを隠すためだったかもしれません。しかし、親は私のことを考えて客観的に見ていてくれたのだと思います。

イエス様は、死刑の判決(十字架)を受けられる前に裁判の場に立たれます。ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と質問します。それに対して「それは、あなたが言っていることです」と言われました。ピラトが言うまでもなく、イエス様は神様であり王なのです。ピラトの言葉に対して「どうぞお好きなように」といわれたのではないでしょうか。

「読むクスリ」という本があります。最近出された本に「女性が物を買う4つの条件」というのが書いてあり、楽しく読ませていただきました。みなさんはその4つの条件がわかりますか?4つとは以下のものです。

 1、みんな持っているから。

 2、誰も持っていないから。

 3、やせてみえるから。

 4、夫が「買うな」と言ったから。 

 どうでしょうか。ここに非常に面白い現象があります。それは1と2です。相反する気持ちをもっておられるということです。「みんなが持っている」というのは極めて日本人的な思考で、安心するということでしょう。しかし、反対に「誰も持っていない」というのは、それだけ稀少価値があるということで、ちょっと自慢できるということでしょうか。人間はいつもこの矛盾の中に生きているものだと言えます。それでは信仰はどうでしょうか。これもまた同じではないかと思います。「信じる」という思いと「信じられない」というこの2つが、同じ私の中にあるのです。つまり、信仰というものが矛盾しているように思えるのです。しかし、そうかなと考えてしまいます。これは矛盾しているのではなく、実は一つのことの裏表なのです。「信じる」から「信じられない」のです。つまり、信じるために疑うことをするのが私たちなのです。

 イエス様は私たちが、「あなたは神様です」と告白したから神様になったのではありません。むしろ神様だから私たちが告白することをゆるされたのです。そこのところを勘違いすると大変なことになります。 「あなたがいっていること」というイエス様のみ言葉を思い出し、自分の言葉を顧みるひと時をもちましょう。

2016年11月1日火曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様はどこに」
 
 小さいとき、わが家の娘建ちは外に遊びにいって帰ってくると、まずお父さんを探します。ここまでは愛情溢れる家族にみえますが、その探し方がなんともいえないのです。なぜなら、娘たちはドアを開けるなり、「お父さん、お父さん」と叫びながら、一目さんに寝室に飛び込んでいくのです。それが何回見ていても同じなのです。これは何をかいわんやです。
 
 いつもどこにお父さんがいるかを知っている娘たちは幸せかもしれません。わが家の場合は恥ずかしい限りですが・・・。私たちも、神様はいったいどこにおられるのかと探すことがあります。見つからないといっては嘆いてみたり、怒ってみたりしています。
 
 神様がどこにおられるか知るには、一目さんに御言葉に行く必要があります。ルターは、「キリストについてまったく考えずに二日を過ごすとき、わたしの心はなえ、いきいきと働かなくなります」と言いました。神様は生きた御言葉の中におられます。