2018年6月25日月曜日

「身でわかる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「身でわかる」

ルカ 6:44 木は、それぞれ結ぶ実によってわかる

 ネット朝日に、次のような記事がありました。名古屋市交通局は、市バスの男性運転士が、同市でバスを運行中に、乗客を置いたままバスを乗り捨てたと発表した。バスには乗客8人がいたが、25分後に代行バスに乗り換えるなどした。交通局によると、運転士は、地下鉄高畑駅のバス停を出発する予定だったが、発車直前に乗客から病院への行き方を尋ねられ、発車が1~2分遅れた。車内の別の客から「早く行け」などと遅れをとがめられ、運転士は憤慨、一つ目のバス停を約400メートル過ぎた所で突然停車し、バスを乗り捨てた。運転士は約1時間後に歩いて営業所に戻ったという。運転士は交通局の調べに、「注意され、怒ってしまった。バスを放置してしまい、大変無責任なことをした」と反省しているという。こんな記事でした。これを読んでみて、何かおかしいなと感じました。何がおかしいのか。それは運転士さんだけが無責任なのではないと思います。彼は親切に病院の行き方を教えていたのでしょう。その状況がわかっていながら「早く行け」といった乗客の言葉にもおかしさを感じるのです。どちらにも心の余裕が必要と思いました。

ルカ福音書でも有名な「平地の説教」の中にある、み言葉です。「木は、それぞれ結ぶ実によってわかる」といわれているように、神様から与えられた賜物によって、どんな実をつけるかが大切です。しかし、実をつけるのは私たち自身です。人はその人の実しか結ぶことができないのです。良い人に良い実が。ただ、考えておかないといけないことは、なにを持って「良い」とするかです。

道元禅師の言葉に「霧の中を行けば、覚えず衣湿る」というのがあります。霧の中を歩いていると知らない内に衣服が湿ってきて重くなるということです。濡れるともなく濡れるということでしょうか。人間の生き方も同じで、知らず知らずに、ということが多いと言われているみたいです。ところが、少し考えを変えてみました。人生は知らず知らずのうちに身に付くものがあるというのなら、美しいもの、楽しいもの、感動するものの中をたえず歩こう。知らず知らずのうちにそれらを持つことになる。生きるのが苦しいとか、仕事が大変だと思ってばかりだと背中が重くなってくる。しかし、これも神様から与えられたものとして、神様と共に歩むならば人生は神様の恵みに湿ることができる。恵みに湿るというか、恵みにしっぽりと包まれることになるのだと。

 イエス様は「木は、それぞれ結ぶ実によってわかる」と言われています。最終的にはいまそこに現れていることでその人の根っこがわかるといわれました。イエス様がいわれる「良い実」とはその人が生きてきた選択による結果です。神様の御心に従った生き方を選択してきたかどうかが実に影響を及ぼします。仕事が出来るだけでなく、何のためにこの仕事をしているか、神様の御心に従っているかどうかを考えて、今日も生きていきましょう。

2018年6月24日日曜日

熊本地区講壇交換TV中継礼拝

本日は主日礼拝があります。
説教者:小泉 基牧師(健軍教会)
熊も地区講壇交換日
本日はTV中継礼拝です。

2018年6月22日金曜日

休日クレヨン・天草崎津「海月」の握りずし

天草崎津「海月」の握りずし
今年世界遺産になる予定の教会のそばになります。
これから観光客で一杯だろうな~
その前に食べておこう!

2018年6月21日木曜日

「信仰のセンターライン」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「信仰のセンターライン」
 
 六日市集会の行き帰りはとても楽しいひとときです。落語を聞いたり、音楽を聞いたり、説教を考えたり、伝道計画を練ったりしています。ところが、帰り道で大変なこともあります。それは、濃霧がでたときです。それでも1年に5回位でしょうか。その中でも、1㍍先が見えない霧にであうこともあります。先々週がそうでした。これにあうと、頼りになるのはガードレールとセンターラインだけです。スピードを落として、ゆっくりすすむのです。普段の倍以上に疲れます。このような濃霧の中で教えられるのは、いつもなら遠くまで見えるハイビームよりも、足元がよくみえるライトの方がよいということです。
 
 私たちが生きている時代は、先の見えない時代だと言われます。こんな時は、足元をきちんと見る必要があります。禅の言葉では「脚下照顧」です。ところが、足元をみれば、きちんとセンターラインがあり、それが道を教えてくれるのです。 私たちの人生は道だとすれば、センターラインとは何にあたるのでしょうか。それぞれの人によって違うでしょう。私たちキリスト者にとっては、「キリストの御言葉」でしかありません。ひとつひとつの白いラインが「キリストの御言葉」であるならば、その道は確かに神様へとつながった平安の道であるといえます。 濃霧に悩まされながらも教会の十字架の灯が見えたとき、守られていたことを実感できます。すべてのラインは主の十字架へとつながっているのです。

2018年6月20日水曜日

「聞くだけではなく」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「聞くだけではなく」

ヤコブ  1:22 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

若いカップルが喧嘩をしていました。どうもお互いの意志疎通ができずに言い合いをしているようでした。盗み聞きはいけないとおもいながら、自然と聞こえてくる声にどうしようもなく聞いてしまいました。実は男の子はとてもおしゃべりで、自分の意見だけをまくしたてていたのです。女の子も何か言いたいのだけど、黙っていました。その男の子がしゃべらせないのです。「何か言いたいことある?」「ないよね」「何か言ったら」「言わないなら僕が言う」とずっと話していたのです。相手の話を聞くことの難しさを思いました。聞き流す、聞くだけよりもっと悪い状況のように思えました。

聖書の中には「聞く」というみ言葉はたくさんでてきます。聞くこととはどんなことでしょうか。聞いたらそれによって何かが起こることを意味しているようです。ヤコブは「聞くことだけに終わるもの」になってはいけないと諭しています。聞いて理解し、そして行うことがもとめられています。その行いは「受け入れる」ということです。

北原白秋の詩を読んでいましたら、次のような詩に出会いました。

  落葉焚けばおもしろ、

  櫟(くぬぎ)の葉はふすふす。

  萱(かや)の葉はちょろちょろ、

  松の葉はぱちぱち。

 なんという心の余裕でしょうか。ふつう焚き火をするときなど、騒ぎ回って静かな心でその音を楽しむなんてことはありません。よっぽど静かな心で焚き火を見つめていないとわからない音の違いがあるのです。

ヤコブは「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と教えています。たいていの人は「聞くだけ」になります。しかし、しゃべり続ける人は「聞くことさえできない」人です。聞くことは相手を受け入れることです。それがなければやっぱり「聞くことさえできない人」になってしまいます。せめて聞くだけからはじめて、本当の聞くことを学んでいきたいと願います。それは受け入ることへとつながっていくからです。

2018年6月19日火曜日

「温泉以上に暖かい」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「温泉以上に暖かい」
 
 友人の結婚式で、熊本へ帰る機会が与えられました。やっぱり故郷というものはいいものだと感じました。今回もまた、ウイナスという温泉に行きました。といっても、私の生まれた村(長陽村)が建てたものなので、近くにあるのです。 さて、ある父子が脱衣場で話しているのを耳にしました。その会話を聞いていましたら、温泉以上に暖かいものを感じたのです。5歳くらいの子供がお父さんに聞いていました。
 
 「お父さん。お父さんと温泉に入ると、どぎゃんなっと。からだん大きくなっとね。それっとんきれいになっと。おしえちくれ」。 (訳:お父さんと温泉に入ると、どうなるの。からだが大きくなるの。それともきれいになるの。おしえてよ)
 
 するとお父さんが答えました。「お父さんと温泉にはいると、幸せになっと」。 (訳:お父さんと温泉に入れば、幸せになるんだよ)
 
 普段あまり会わない父子かもしれません。たまの休みに家族いっしょに温泉にきたのでしょうか。それにしても、親子で温泉に入れば幸せになれるとは、何とここちよい言葉だろうかと思いました。
 
 私たちは、隣にイエス様を感じたとき幸せになります。ということは、いつもいつも幸せを感じることができるのです。いつも共にいてくださるから