2020年3月30日月曜日

「舌を制御する」

阿久根ルター君の朝のみ言葉
「舌を制御する」
ヤコブ 3:5 どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。
読売ネットニュースで、山陽新幹線博多駅でおきた「男女のけんか」を読みました。新大阪行き「こだま750号」での出来事です。車内で男女がケンカをはじめたために出発が15分おくれ、計1300人に影響がでたというものでした。原因は60歳代と40歳代で内縁関係にあった2人が、駅弁を買うかどうかで口論となり、ケンカが相手を蹴るなどに発展したそうです。鉄道警察員3名が駆け付けて仲裁にはいったのですが、おさまらず15分遅れで出発。2人は新下関駅で下車したということでした。最初は些細な口ケンカが原因で、次第におおげさになったのでしょう。ただ、この2人の心の深い所にある何かを見る思いです。
ヤコブの手紙3章は「教会内の争いについて」がテーマです。初めの部分では、言い争いを生む「舌」が問題とされています。舌を制御できる人は、全身をも制御することができ、神様に完全に従うことが出来るとヤコブは教えています。ところが、舌を制御できないと大変なことになります。舌を制御できない問題は、その人の中心に何があるかだと思います。
三女の4歳の誕生日のときのことです。誕生パーティを盛大に行い?いざ誕生プレゼントになりました。お姉ちゃんたちはこの日のためにいろいろと考えたのでしょう。手作りのプレゼントを持ってきました。タオルでつくった「だんご3兄弟」、古くなったトレーナーをエプロンに作り替えたり、ぬいぐるみをリニューアルしたりと。いつもは喧嘩ばっかりしているのに、やっぱり仲良しなんだなと実感できました。たくさんの物が机に並びました。どれもこれも楽しいものばかりでしたが、三女が本当に喜んだのは、実は1枚の紙切れでした。その紙切れとはお姉ちゃんたち直筆による「表彰状」だったのです。「表彰状。あなたはぶじに4さいになりました。げんきでおたんじょうびをむかえたので、みんなでひょうしょうします。たての家のみんなより」
元気に誕生日を迎えたことを表彰されたとしたら、やっぱり嬉しいものです。いまではそんなに誕生日を特別な日だとは思わなくなりましたが、それでも無事に今年も誕生日を元気に迎える事ができたことは心から感謝すべきことだと言えます。
 ヤコブは「舌は小さな器官ですが、大言壮語する」と言います。舌を制御することの難しさを思います。また「父である主を讃美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」と言います。同じ舌から相反することがでてきます。問題となるのは、その人の中心に何をおいているかだと思います。せめて人を元気づける言葉を語りたいものです。

2020年3月29日日曜日

気ままな休日・送別会はウナギ

宇土教会の前に、老舗うな専が移転してきました。
食べたいな~と礼拝後にいつもつぶやきました。
すると送別会はうな専で!と。
美味しかった~~~~~~~感謝!

2020年3月28日土曜日

明日は3月最後の礼拝ですよ!


説教者:吉谷正典牧師(引退教師)


聖書朗読 
@第1日課: エゼキエル  37: 114  〈旧約1357頁〉
@第2日課: ローマ      8: 611  〈新約 284頁〉
@本日福音: ヨハネ      11:1727  〈新約 189頁〉

2020年3月27日金曜日

2020年3月26日木曜日

「音楽は祭の一つ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「音楽は祭の一つ」

 礼拝堂コンサートを通して、多くの出会いを与えられています。とくに音楽関係の方々との出会いは豊かなものいただいています。先週はその一つのグループの人たちとの交わりがありました。彼らは「空想民族音楽・SAYAN」の人たちでした。

 空想民族音楽って何か?アフリカの民族楽器をつかった音楽で、「内なる自然との交感を求める打楽器と声。世界の先住民への敬愛と共感をこめて招きよせる祭の空間」なのだそうです。わかったようなわからないような。ようするにアフリカの打楽器をつかった演奏家たちです。しかし、その演奏は人の心に響くのでした。太鼓がしゃべるのです。もともとアフリカの太鼓は村々への情報伝達の一つだったといいます。この演奏家たちは老人ホームや障害者施設をまわって、その人たちの心のそこに眠っている魂を癒すことを目的としているというのです。

 最近「癒しの音楽」と言われます。しかし、そのほとんどが一方的に聞くことが求められます。バッハの音楽を誰かが演奏してそれを聞くといったころです。しかし、彼らの主張は癒しはそれだけではいけない、一緒に音楽を楽しみ参加する空間が人を癒すと言うのです。老人ホームで演奏していても、その音色で人々はいっしょになって踊り出す。寝たきりの方でも手を動かし始めるというのです。

 音楽は祭の一つだといわれます。祭には踊りがあり、歌があり、太鼓があり、そして大人も子供もいっしょに楽しんでいる。それが別々になってしまったのが現代かもしれません。そんな話しをききながら、それはすべて礼拝にあるのだと思いました。祭りには神様が中心におられるからこそ、人々の魂は癒されるのでしょう。

2020年3月25日水曜日

「結論から」

阿久根ルター君の朝のみ言葉
「結論から」
マタイ 5:3 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである
「会議での発言」というエッセイをよみました。会議で発言するときは「思いつき発言をやめる」ということが鉄則のようです。思いつき発言には、思いつき反論がでて、会議が子どもの言い合いになってしまうからです。会議での発言は、論理的に意見を述べることで議論が成立します。論理的発言とは何でしょうか。人は、「背景や経緯から話したい」という意識を持っています。これが議論をややこしくするそうです。結構言い訳がおおいからです。ということで一番大切なことは「結論からのべる」です。会話でも、英語を聞いていると先に結論がきこえてきます。日本語は最後まできかないと結論がわからない仕組みになっています。
イエス様が語られた山上の説教の始めの部分です。マタイによる福音書では、8つの祝福が語られます。その8つとも最初に「幸いである」が繰り返されます。イエス様の語りかけは、最初に「幸いである」「祝福がある」と言われるのです。この最初に「幸いである」と言われていることに注目したいと思います。
祈りについて次のような話しがあります。
 「ある幼子が夜寝る前に祈りました。『神様、明日は楽しい遠足です。どうか雨を降らさないでください』。同じ時間、となりの家である農夫が祈りました。『神様、明日こそ雨を降らせてください。このままでは作物が枯れてしまいます』。さて次の日、神様はどちらの祈りを聞かれたのでしょうか」この話しは「祈りとは何か」を学ぶためのたとえ話です。結論は祈りとはそのようなものではないということです。神様は祈りを聞いてくださいますが、それは神様の御心によってであって、祈ったからの結果ではないのです。晴れでも雨でもそれは神様の御心なのであって、そこには神様だけが知っておられる恵みがあるのです。雨のときは雨なりに、神様の恵みとは何かを知る時となるでしょう。
イエス様は、直訳すれば「幸いだ、心の貧しき者たち」と言われています。初めに結論「幸いだ」を言われているのです。神様が「幸いだ」と言って下さる。だから私たちはどんな状況にあっても「幸い」なのです。こうだから、ああだからではなく、まず結論をしっかり持つことが大切です。神様が「幸い」と言って私たちを祝福していてくださる。これが人生の結論だと思います。

2020年3月24日火曜日

「長女が学級委員長に」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「長女が学級委員長に」

 長女が「今日、学校でいやなことがあった」と、やや嬉しそうに帰ってきました。どんないやなことかと言えば、3学期の学級代表になったとのこと。私の時代でいえば「学級委員長」ということでしょうか。いやなことといいつつ、選ばれたことに喜びを感じている様子でした。

 そういえば、私もよく学級委員長というものをしました。よくというより毎年やっていたように思います。選ばれることと、責任をもって働くことに喜びを持っていたのかもしれません。しかし、いざやり始めるととても大変な仕事だったと思います。学級をまとめていくリーダーシップが要求されるからです。そのような中で教えられたことは、リーダーシップというのは「力・権威」ではなく「信頼」というこです。この「信頼を学ぶ」ことはとても大切なことです。

 さて、私たちと神様との関係においてはどうでしょうか。私たちの神様への信頼はもちろんのことです。それが信仰ということです。私のすべてを信頼しておまかせする。これが全き信仰といえます。しかし、もう一つの信頼を忘れてはいけません。それは、神様の私たちに対する信頼です。神様は私たちを信頼して命を与えてくださっています。ある人には信頼して子供を、ある人には仕事を・・といったように、すべてのことは神様からの信頼のうえに、私たちにまかせられていることなのです。

 学級代表をどのように務めていくか、それを通してなにを学んでいくか楽しみです。できれば、信頼されることの重さと喜びを学んでくれたらと祈っています。そうはいっても半分は安心しています。神様が娘を信頼してくださっているからです。