2018年7月31日火曜日

「頑張らないほうがよい」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「頑張らないほうがよい」
 
 六日市からの帰り道は、黙想の時でもあります。といっても「あーでもない、こーでもな」と考えているだけですが。それでも、その一時が私にとっては、貴重な時なのです。
 
 先週のことでした。車に乗り込むと、一匹の虫がフロントガラスにくっついていました。そこで、車を走らせればすぐに逃げるだろうと思い、動かしはじめたのです。ところが、一生懸命にへばりついて逃げません。スピードをあげるといいかなと、そうしても逃げません。それでは遅くしたらと、そうしても逃げないのです。その忍耐力に感心してしまいました。
 
 それからが黙想です。はたしてその忍耐とは何か。むかってくる強風に飛ばされないように必死に耐えている姿に感動をしながら見ていました。はたして、自分にはそれだけの忍耐力があるだろうか。はたして、神様の御言葉に耐える力があるだろうかと、いろいろと黙想していたのです。
 
 すると、ふと「そんなに頑張らなくても、力を抜けば楽になるのに。そしてまた自由に空を飛べるのに」と思ったのです。そうだなと思います。頑張ることは、いい時をあれば、頑張らないほうがいい時もあるのです。うなずいてフロントガラスをみれば、もう虫は飛んでいませんでした。
 
 神様の前だからこそ、力を抜いておまかせできるのです。感謝。

2018年7月30日月曜日

「それはただの石かも」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

それはただの石かも

ルカ  12:54 あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、「にわか雨になる」と言う。実際そのとおりになる。

 ある教会のバザーに、黒い丸いものが出品されました。しかし、それが何であるか誰もわかりませんでした。みんなで、こうじゃないか、ああじゃないかと意見をのべていました。ある人は置物だといい、ある人は何かの蓋でないかと。すると一人の子供がやってきて、その黒いものを取り上げ、「黒い石だ」といったのです。あるがままにみていると、まさしくそれは石でした。ただし何に使うかはいまでもわかりません。バザーって何が出てくるかわからいものです。

 イエス様は群衆にむかって一つの問いかけをされました。群衆は、イエス様のみ言葉を聞き、奇跡の業を見てきました。それがあるということは、神様の国が到来しているということです。しかし、それを群衆は見分けることができませんでした。自然現象は見分けることができるのにと言われたのです。「実際そのとおりになる」という言葉から、「なぜ」という問いかけが浮かび上がってきます。わたしたちは見分ける目を持たねばならないのですが、それが一番難しいといえます。イエス様のみ言葉を基準にしなければできないことです。

道元が宗の国に留学して、如浄から禅を学んで帰ってきました。京都深草に興聖寺を建て修行に励んでいると、近所の人が集まってきます。その人たちは、「和尚さんは宗の国で大変よいことを学んで来られたそうですが、私たちにもその奥義を知らせてください」と頼みました。すると道元は「只眼横鼻直なるを知るのみ」と答えたそうです。分かり易くいえば、「いや別に新しいことはない。ただ眼は横に並んでおり、鼻は縦についているということだけだよ」と。ようするに「あるがまま」ということでしょうか。でもこの「あるがまま」ほど難しいものはありません。よく「あるがままにみる」という言葉を聞きます。たしかに「あるがまま」にみることは大切なことですが、これがとても難しいものです。ある本には以下のように書いてあります。「人は誰しも、自分は客観的だと考え、自分こそ世界をあるがままに見ていると思っている。そして、ほとんどの場合、他人は枝葉末節に埋もれており、自分だけは大所高所から状況を把握していると思いこんでいる」。自分だけの味方で「あるがまま」ということでは客観性に乏しく、それは本当の「あるがまま」ではないということです。

 イエス様は、人は自然現象のしるしを見分けることができるのに「今の時を見分けることを知らないのか」と言われました。あるがままにみてきたことの知恵を集めると、確かな情報が得ることができます。しかし、その知恵をつかって時を見分けるためには、信仰の目が必要となります。キリスト者は信仰によって「あるがまま」に見ることができます。それが時を見分けることになるのです。

2018年7月29日日曜日

夏期聖書学校・阿蘇

九州教区の夏期聖書学校です。
涼しい阿蘇で聖書を学びませんか?

2018年7月28日土曜日

礼拝で待ってます

29日の礼拝
TV中継礼拝・大江教会
説教:Joseph Tallent牧師(アメリカ福音教会)
日本語翻訳付きです。

2018年7月27日金曜日

阿久根教会の成長

今年になって礼拝出席が増加しました。
もうすぐ平均20名に届きそうです。
今年2人の洗礼、2人の転入がありました。
神様のなさることは素晴らしいです。

2018年7月26日木曜日

「いちばん近くにいてね」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「いちばん近くにいてね」
 
 いまでも音楽番組をみるのは好きです。曲を聞いて楽しむのも好きですが、それ以上に歌詞に興味があるのです。音楽も「ことば」として聞いてきたので、その歌手が何を伝えたいのかを知ることが好きなのです。
 
 それでも最近は、ドキッとする歌詞がおおくなりました。いまトップ1のミスターチルドレンの「花」にはサブタイトルがついていて、「メメント・モリ」とあります。これは「死を想起せよ」といもので、中世の修道院の合言葉でもあります。それだけならまだしも、今回献堂された、広島教会正面のみかげ石に刻印されている言葉でもあるのです。
 
 そのような曲の中で、いま興味があるのは「大黒摩季」という人のものです。私をドキッとさせることの多い歌詞が多いのです。たとえば、「ずっと いつまでも このままでいれたらいいな 前の人 一緒にいすぎて 愛が生活に負けたから」というのがあります。これはどんな意味があるのかと考えこんでしまうのです。また、こんなのもあります。「無駄だと言われることも 寄り道したりすることも 別に自分が納得すれば それでいいんじゃないの」。つまり、その人のメッセージが含まれているのです。私が彼女の歌詞で一番好きなのは、「いちばん近くにいてね 束縛したくないの お互いの人生 今は大切にしたいから」です。一緒ではなく、いちばん近くにいるのがイエス様かもしれません。

2018年7月25日水曜日

「神のみ言葉は隠れない」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「神のみ言葉は隠れない」

マルコ 421 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。

P.F.ドラッカーの本に、ギリシャ時代のことが書かれてありました。フェイディアスという彫刻家がいました。かれはパルテノン神殿の彫刻を任された長でした。無事にその仕事を完成させアテネの会計官に請求書をだしました。すると、アテネの会計官は支払いを拒んだのです。「誰にも見えない彫刻の背中の部分まで彫って、請求してくるとはなにごとだ」というのです。するとフェイディアスは次のように答えたのです。「そんなことはない。神々が見ている」と。

今日はイエス様の有名なたとえの一つです。神様の目には、隠されているもので表にでてこないものはないということでしょう。灯は神様の言葉と同じ意味を持っていますので、み言葉はかならず表にでてくるというたとえでもあります。私たちの信仰生活で、神様の目から隠れることもできないし、隠すことのできないのがあります。それはみ言葉です。このみ言葉に照らされながら私たちは生きています。そして、このみ言葉こそが我が足の灯です。だからこそ隠れることも、隠されることもありません。

「サンタクロ-スがすねちゃった」という傑作絵本があります。子供達にとって、サンタクロ-スはクリスマスの楽しみです。この絵本では二人の大人が、「もうごぞんじですか、サンタクロ-スなんていないんですよ」といったことから始まります。そしてなんと次の日の新聞のトップニュ-スが「サンタクロ-スはいない」と書いたから大変です。それを読んだ世界中のサンタクロ-スがすねちゃった。世界サンタ会議まで開いて、今年は何も配らないということになってしまいました。残りはどうぞ絵本で読んでください。私はこの本が大好きです。なぜならこの本の最後にサンタクロ-スがこう言うのです。「目をつぶって見てごらん。サンタクロ-スの姿が見えてきたでしょう。見えるものはちゃんといるんだよね」。あなたはどうですか。目をつぶってみてイエス様が見えますか。見えるお方はいまあなたと共におられるのです。

イエス様は「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」と教えられました。私たちが奉仕をするときの心構えとは何でしょうか。結果を出すこと、成果をあげること。もちろんそうです。しかし一番大切なことは「神様がみてよしとされる」ことを自分に求めることです。私たちが託されている働きは、神様から任せられた働きであることを考えながら今週もすごしましょう。神様は見ておられる。そして私たちの中に働くみ言葉は隠されたままにはおかれないのです

2018年7月24日火曜日

「その人に応じるサービス」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「その人に応じるサービス」
 
 礼拝のことを「サービス」といいます。いわゆるあの「サービス」と同じです。しかし誰が「サービス」を受けるのかといえば、それは私たちです。ということは、「サービス」してくださるのは神様ということになります。
 
 先週、今年西教区に来られた牧師の歓迎会があり、有馬温泉に行ってきました。日本三大温泉のひとつとあって、なかなかのものでした。しかし、もっと満足したのは、その旅館の「サービス」でした。いろいろとあるのですが、一番感動したのは、タオルです。実は私たちは4人部屋だったのです。当然タオルも4本ありました。そこまでなら普通のことです。しかしそこのサービスは、タオルの柄は一緒でも、色が4色用意されてあったのです。つまり、間違わないように色を変えてあったというわけです。本当のサービスとは、このようなものかなと思いました。お風呂のタオルひとつとっても、この旅館のサービスがわかるように、それはもういたれりつくせりだったのです。
 
 神様の「サービス」とはこのようなものだと言えます。なにからなにまで、用意してくださっている。しかし、その人に応じてすべて変えてあるのです。その人の状態によって、試練を用意してくださる。これもサービスです。同じように計り知れない恵みも用意してくださっている。このような神様が、羊飼いである主イエスなのです。今日の礼拝ではどんなサービスをいただきましたか。

2018年7月23日月曜日

「確実な一歩を」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「確実な一歩を」

詩編 17:5 あなたの道をたどり 一歩一歩、揺らぐことなく進みます。

禅の逸話に次のようなものがあります。ある高僧が弟子を連れて庭を歩いていました。風が吹いて落葉が一枚落ちてきました。その高僧は落葉を拾って袂(たもと)に入れました。弟子は「老僧、やめてください。落葉はのちほど、誰かに掃かせますから」とたしなめました。すると高僧は「馬鹿者!『のちほど』で庭が綺麗になるか。いま1枚拾えば、その分だけ庭が綺麗になったのだ」と弟子を叱りつけた。私たちは目の前に与えられている課題を「のちほど」「あとで」と考えることがあります。この考えを持つと、その仕事はできなくなってしまいます。目の前にあるものから、まず片付けていくことで仕事を完成することができます。この心がけが今の季節に大切なことです。

今日読みました詩篇は、裁判に臨む無実の人の祈りと理解されています。詩篇が書かれた時代は、夜の間に裁判が行われ、翌朝に判決が言い渡されていたようです。詩人は神様の正義が公平に行われるように祈っています。そして与えられた信仰によって、目の前の「一歩」を確実に進むことを望んでいます。神様にあって正しいとされる目の前の「一歩」を進むことを忘れてはいけないと訴えています。これも自分の心を神様の前で点検することでもあります。

「一歩一歩、ていねいに歩いたことがありますか」と聞かれたらどのように答えるでしょうか。一歩一歩をていねいに歩いていけば、必ず目的地につくはずです。「歩歩是道場」ということです。弘法大師の言葉にも「一歩三礼」というものがあります。つまり一歩一歩を参拝する気持ちで歩きなさいということだと思います。私たちはどうでしょうか。一歩一歩を大切にしているでしょうか。実際祈りつつ一歩を歩いてみると、なかなか大変です。一歩進んで祈り、一歩進んで祈る。大変ですがとても心が満ち足りてきます。絶えず祈るということは、一歩一歩をていねいに歩くことかもしれません。

教会の時は、まず悔い改める一歩を踏み出す時です。詩編の作者は「あなたの道をたどり 一歩一歩、揺らぐことなく進みます」と祈りました。私たちに与えられたこの時期の働きも、後回しにせず目の前のことから確実におわらせていくことです。今年も終わりに近づきました。今年の働きは今年の内に。御子の誕生をお迎えするためにも確実な一歩を今日歩みましょう。

2018年7月22日日曜日

2018年7月21日土曜日

2018年7月20日金曜日

洗礼式

阿久根教会で今年2人目の洗礼式が行われました。
南九州群の地区長である中村朝美牧師に司式をお願いしました。
阿久根教会を神様が祝福してくださっています。

2018年7月19日木曜日

「水仙の小径」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「水仙の小径」
 
 まさかこんなに、時間の余裕がなくなるほど仕事が多くなるとは思ってもみませんでした。毎週あちこちと出張旅行していると、春を感じる余裕さえないことに悲しさを覚えます。
 
 そんな生活の中で、ふと足を止めてみたくなる小道を発見しました。その小道は柳井から田布施へむかう道の途中にあります。昔はたんぼの畦道だったのでしょうが、いまは小さな舗装道路になっています。その小道はたんぼの間を一直線に山へむかっているのです。それだけなら足を止めたくはないのですが、なんとその小道は道の両側に花が咲いているのです。たぶん水仙の花だと思うのですが、片方には白い水仙が一直線に咲いています。もう片方には黄色の水仙がこれまた一直線に咲いているのです。山に向かう約500㍍ほどでしょうか、それはもう水仙の滑走路のようにただひたすら真っすぐに咲いているのです。なんとすてきな小道なのかと、つい車からおりて歩いてみました。とてもすてきな気分になり春を満喫したのです。
 

2018年7月18日水曜日

「悔改めは本気で」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「悔改めは本気で」

マタイ 3:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」

ある行動生理学者が待つということについて書いていました。人間が待ち合わせをする場合、待っている方は、相手が来るであろう方向にいつも向いている。しかも期待をもって身を傾けながら待っていると。自分の経験を考えてみても、こっちから来るとわかる方に向いています。そう思いながら待ち合わせ場所を眺めていると、全員違った方向を向いていることに気が付きます。これは方向を見定めているからです。待ち人が来る方向と期待の表れなのです。だとすると待つ季節であるアドベントにどのようにイエス様をまてばよいのでしょうか。

聖書には、イエス様の宣教開始の前に、バプテスマのヨハネが登場してきます。彼はヨルダン川流域で特殊な宣教活動を始めていました。その特徴は「悔改め」でした。この活動はユダヤ全土に大きな影響を及ぼしていたのです。もしかしたらヨハネこそ来たるべきメシア(救い主)ではないかと。しかし、ヨハネ自身は「私はメシアでなく、主の道を整える者」だと言ったのです。マタイによる福音書もイザヤ書の預言をとおして語られた「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」との成就がここにあると記しています。ヨハネの主張は悔改めイエス様を待てということでした。

坂村真民さんの詩に「本気」というものがあります。

 本気になると

 世界が変わってくる

 自分が変わってくる

 変わってこなかったら

 まだ本気になってない証拠だ

 本気な恋

 本気な仕事

 ああ

 人間一度

 こいつを

 つかまんことには

 悔い改めとは本気になって方向を変えることだと思います。

 聖書は「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」とバプテスマのヨハネの登場を示唆しています。待ち合わせでは、すっぽかされることもあります。しかし、クリスマスは必ずやってきます。み子イエスはこの世にやってこられるのです。その確実な来臨のためにどうやって待つかです。バプテスマのヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と言っています。自分の心の道を整え、真っ直ぐにイエス様のみ言葉にむかうことです。

2018年7月17日火曜日

「すきです・ぎりです」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「すきです・ぎりです」
 
 いま、一番苦手としている歯医者に通っています。どうしてもあの音が好きになれないのです。でもしかたありません。こうなるまでほっといた自分に責任があるのですから。最近では、歯医者さんの待合所で、気分をリラックスさせるために「バロック」が流れています。それでも私などは、自分の順番が回ってくるのが近づいてくると、肩がこってくるのがわかります。痛くはないとわかっていてもです。これってきっと条件反射かもしれません。
 
 昨日もまた同じように緊張をほぐそうと雑誌を読んでいました。その雑誌には緊張をほぐしてくれるような笑い話がかいてありました。ある幼稚園での出来事です。その幼稚園のクラスには男の子は4人しかいませんでした。そのクラスに通う娘がバレンタインにチョコをあげることになりました。しかし、娘さんはその中の2人の男の子にしかあげないといいます。お母さんはクラスの平和を守るために、4人にあげるように説得しました。娘さんは絶対反対しましたが、クラスの平和のためにお母さんに説得されたのです。当日、4人の男の子は大喜びでした。しかし、チョコの中には娘さんが手紙を入れておいたというのです。2人には「すきです」と。そしてあと2人には「ぎりです」と。
 
 なんだか大人びているようで、その純粋さに打たれるようで複雑な笑いがありました。神様からのものはすべて「愛していますよ」との手紙つきですけどね。

2018年7月16日月曜日

悔改めて待つ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「悔改めて待つ」

マタイ 3:3 荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」

教会の暦は、アドベント(待降節)真っ最中です。教会の典礼色も「紫」となり、悔い改めと主の苦しみを覚える季節になりました。この季節に求められていることは「キリストの来臨を待つ」ということです。この待つということには2つの意味があります。「誰を」待つか「どうやって」待つかです。

聖書には、イエス様の宣教開始の前に、バプテスマのヨハネが登場してきます。彼はヨルダン川流域で特殊な宣教活動を始めていました。その特徴は「悔改め」でした。この活動はユダヤ全土に大きな影響を及ぼしていたのです。もしかしたらヨハネこそ来たるべきメシア(救い主)ではないかと。しかし、ヨハネ自身は「私はメシアでなく、主の道を整える者」だと言ったのです。マタイによる福音書もイザヤ書の預言をとおして語られた「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」との成就がここにあると記しています。ヨハネの主張は悔改めイエス様を待てということでした。

ある行動生理学者が待つということについて書いていました。人間が待ち合わせをする場合、待っている方は、相手が来るであろう方向にいつも向いている。しかも期待をもって身を傾けながら待っていると。自分の経験を考えてみても、こっちから来るとわかる方に向いています。そう思いながら待ち合わせ場所を眺めていると、全員違った方向を向いていることに気が付きます。これは方向を見定めているからです。待ち人が来る方向と期待の表れなのです。だとすると待つ季節であるアドベントにどのようにイエス様をまてばよいのでしょうか。

聖書は「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」とバプテスマのヨハネの登場を示唆しています。待ち合わせでは、すっぽかされることもあります。しかし、クリスマスは必ずやってきます。み子イエスはこの世にやってこられるのです。その確実な来臨のためにどうやって待つかです。バプテスマのヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」と言っています。自分の心の道を整え、真っ直ぐにイエス様のみ言葉にむかうことです。

2018年7月14日土曜日

2018年7月13日金曜日

2018年7月12日木曜日

「神様には休みがない」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様には休みがない」
 
 先週2泊3日で熊本へ帰ってきました。最近では留守番電話のためか、少し安心して休暇を楽しむことができるようになりました。いままでは、なにか気になっていつも心配だったのです。
 
 ところが、最近では留守番電話の恐怖におののいています。というのも、いったい何件の留守番電話が録音されているか聞くのが怖いのです。先週でいけば、月曜日21件、火曜日17件、水曜日午後2時までですでに14件が入っていました。これに携帯電話への数を入れれば、60件あまりになります。ほとんどは、メッセージなしですが、中には重要な用件もありこれが心配の種なのです。
 
 携帯電話を持つようになって、留守番電話のメッセージを「用件を録音くださるか、携帯でんわ◎◎◎◎◎におかけなおしください」としました。こうなると、こんどは携帯電話をいつも持ってないと不安になります。牧師稼業において電話恐怖症から解放されるには、海外旅行しかないようですね。
 
 この点から考えても、神様はすごいと思います。人々の祈りには終わりがなく、休みがないのですから。そしてその一つ一つに真剣にかかわってくださると思えば、やっぱり神様でないとできないことです。
 

2018年7月11日水曜日

「座ってみて」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「座ってみて」

ルカ 1428 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

海外の教会オフィスに招かれて何回かいったことがあります。おもに仕事の話が多く、オフィスに着いたらすぐに話を始めようとします。しかし、いつも「まずお茶でもどうぞ」と飲み物をすすめられます。いや、まず仕事の話をして、それからお茶にしませんかと言いたくなります。どうも私たちは「まずお茶でもどうぞ」という言葉がでてきません。形式的にはお茶は出しますが、その時にはすでに仕事の話がはじまっています。「まずお茶でも」ということは。まず落ち着きましょうということなのでしょう。

本日の聖書をみてみましょう。テーマは、「捨てる」ということと「腰を据える」ということです。しかし、どちらも同じことを言っています。後半部分のたとえは、「腰を据える」ことが中心であるといえます。しかしこれは座るという意味です。ここのところを誤解するとこのたとえがわからなくなります。つまり、「考える」ではなく「座る」こと自体が求められているのです。私たちはイエス様の十字架によってしか救われない。しかしなお、この世の事に執着し、ああでもない、こうでもないと考えてしまう。しかし、イエス様のみとしたときにすべては与えられるということです。

幼稚園生活は大変だなとおもいます。先生たちにとっては、とてもやりがいのある神様の仕事だと感じておられることでしょう。こどもたちのケンカの仲裁、生活の指導。いっしょに楽しんで、ある時はいっしょに悲しんで、またある時はいっしょに泥団子をつくる。先生たちの働きに、ただただ感謝してみています。私が幼稚園のチャプレンだったとき一番楽しんだことは、いっしょにお弁当をたべることです。これもまたどこへ座るかでいつも大騒ぎになります。お祈りの歌をうたって、お祈りして食べる。毎日のお弁当をいただくことによって、子供たちは愛をいただいているのです。座ったときにその愛は伝わっています。子供たちはいつも真剣に食べているのですから。青山俊董尼はある講演で次のようにいわれました。「ただ着せればよい、ただ食べさせればよいというものではありません。愛を着せ、愛を食べさせる。祈りを着せ、祈りを食べさせてやってください」と。あたりまえのことです。

答えがでないことで悩むより、神様によって与えられている答えを受け入れたいと思います。その答えは、「神様の御心のままに」です。どんなに悩んでも、神様の御心のままにしかならないのです。つまり、大切なことは神様の前に座ることです。神様にすべてまかせてしまうことです。座ってみてはじめてわかる愛があります。

2018年7月10日火曜日

「うそでうそは隠せない」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「うそでうそは隠せない」
 
 天声人語に、高校生が創作した格言が紹介してありました。その中で、「うそ」をめぐる傑作が書かれてありました。
 
 「うそでうそは隠せない」「うそをついている時ほど言葉が多い」「うそをつきすぎると自分もだませる」。これらの格言をひとつひとつ吟味してみると、今の世の中への痛烈な批判のように感じました。偉そうなことは言えませんが、某テレビ局の謝罪会見のニュースを見ながら、「うそ」で「うそ」を隠そうとする態度に、真実を伝えるメディアの根本が崩れ去ったような思いをいだきました。 私たちは「うそ」をつかないで生きていくことはできない。しかし、なるべくなら「うそ」をつかないように努力しながら生きているのではと思います。なにか苦しいことにぶつかると、つい自分に対して「うそ」をついてしまうものです。そして、真実からいかに遠ざかるかを考えるのです。本当はどうにもならないのに、逃げることによって自分が助かると思い込んでしまいます。その生き方そのものが「うそ」であるといえます。
 
 主イエスの十字架を見上げるとき、「うそ」がないことに気かつきます。神様の独り子としての十字架の苦しみの中に、「真実」をみるのです。主イエスを十字架につけた人々は「神の子ならおりてみよ」と自分たちのやったことを正当化しています。「うそ」とは罪人である自分の正当化なのです。
 

2018年7月9日月曜日

「聞くという奉仕」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「聞くという奉仕」

ルカ 1042 必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。

「相田みつおカレンダー」には次のような言葉があります。「親切という名のおせっかい そっとしておく おもいやり」。私たちは親切という名のもとに、おせっかいをしていることがたくさんあります。そして、そのおせっかいに人を巻き込んでしまうこともあるのです。

イエス様の過ごされた時代は、女性が男性を迎える習慣はありませんでした。つまり普通ではなかったことです。しかし、ここでイエス様は、男と女の差別や区別などなさいませんでした。同じ人間として接しておられます。ということは、当然なこととしてマルタとマリアをも差別なさるはずはありません。同じ目でみておられます。決してどちらか一方に思いを寄せてはおられないのです。人間の目からみれば、マルタはどのようにイエス様をもてなすかと働き、マリアはイエス様の足元に座っているのです。マルタから不平不満がでてきてもしかたありません。マルタの主張は、「マリアは私だけを後に残して、自分だけ主の言葉を聞いている。マリアも私を手伝って主のもてなしの用意をすべきだ」ということです。自分だけが働くことの不当を訴えているのです。しかし、イエス様を迎え入れたのはマリアではなくマルタなのです。

次女が一歳の時でした。家では「おせっかい娘」といわれるくらいに、人に何かをするのが好きでした。ある日のこと、朝六時にひょっこり一人で起きて、なにやらトコトコと歩いて寝室を出ていきました。黙って様子を伺っていると、台所の方でコソコソ音がしています。静かにしている時には、なにか悪い(親はそう思うのですが)ことをしているものです。暫く好きなようにさせていますと、またトコトコと歩いてもどってくる音が聞こえました。そして寝室に現われた姿を見て大笑いです。両手と口にアンパンをもっていたのでした。それからが大変です。みんなを起こして「食べろ」とばかりに口にもってくるのです。おなかが減っているのなら、自分一人で食べればいいのですが、みんなも同じ様におなかが減っていると思ったのでしょう。「おせっかい」もたまにはいいですが、度々では疲れてきます。
イエス様の前に立つ時の、思い悩みにならない奉仕。心を用いる奉仕はただ一つだけです。「主の足元に座って聞く」奉仕です。ここにマリアの奉仕があるのです。それは、マルタがどんなことをしてもマリアから取り去られない奉仕であり、イエス様の喜ばれる奉仕でもあります。イエス様は「必要なことはただ一つ」といわれました。それは、イエス様にとっても、マルタにとっても、マリアにとっても一つなのです。つまり御言葉を聞くことです。

2018年7月8日日曜日

きままな休日・サラたまちゃん

熊本芦北名物のサラたまちゃんです。
規格外だとこんなに安い。
辛みがなくそのまま食べれますよ!

2018年7月7日土曜日

2018年7月5日木曜日

「マナー欠如」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「マナー欠如」
 
 ある信徒の方から、教育部長あてに一冊の本が送られてきました。その本とは「ビジネスマナー・ポイント集」です。手紙には、「この本、役に立つよ。牧師はマナーと常識が大切です」と書かれていました。
 
 実は、牧師の常識のなさ、マナー欠如が深刻な問題なのです。はじめのころは、宗教家たるもの《非常識のなかの常識》こそ大切だと思っていました。神様のみことばを伝えることはそれ自体で非常識の中にあると思っていたのです。ところが、信徒の皆さんがおっしゃる《常識》とはレベルが違うことに気がついたのです。皆さんが問題にされる《常識》とは、人が生きる上でのマナーの欠如ということなのです。
 
 牧師補研修会で「あいさつ」「電話のかけかた」「言葉のかけかた」「みだしなみ」「お茶のだしかた」「言葉使い」「手紙の書き方」「依頼の仕方」など習わなければならないほどマナー欠如というわけです。どうしてなんでしょうか。 主イエスの言葉に「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」というものがあります。若くして教区常議員、伝道セミナー委員長など与えられて思うことは、そのような立場になったら仕えざるをえないということです。牧師とはどんな立場なのか、それを一人一人の牧師が考えはじめたときマナー集などいらなくなるのでは・・・。

2018年7月4日水曜日

「上に立つ御言葉の権威」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「上に立つ御言葉の権威」

ローマ13:1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。

 ニュースで「こんな上司はいやだ」というアンケートをしていました。それによると、1位・気分によって言うことが変わる。2位・責任をとらない。3位・自分の間違いを認めない。4位・接する相手によって態度が変わる。5位・飲み会ばかりする、とありました。上に立つ者の果たすべき役割の自覚を思います。

パウロは「上に立つ権威に従うべき」と言いました。この言葉はこれまでも間違って受け取られてきました。「上に立つ」ということの理解です。しかしここでパウロがいっていることは「上に立つ人」に従えとは言っていません。上に立つ人はその人の置かれた立場、役割、何によって立っているのか(これが権威です)を十分に自覚しなければなりません。教会でも役についている者は、神様の業を果たすために、神様によってこの役職をいただいています。

 街の清掃キャンペーン集会で代表が言われました。「ゴミを拾う人はゴミを捨てない。ゴミを拾わない人がゴミを捨てる」。とても納得して聞きました。この集会は、街からゴミをなくそうという運動集会でした。ゴミをなくすにはゴミを捨てる人が少なくなればいいのですから、「ゴミを捨てないようにしましょう」でいいのです。しかしあえて「ゴミを拾う人はゴミを捨てない。ゴミを拾わない人がゴミを捨てる」と言われたことに感銘をうけました。いままで何回も「ゴミを捨てるな」という言葉を聞いてきました。そのように実践もしてきました。しかし、捨てるなではなく「拾おう」というところに発送を転換させたのです。ゴミを拾う人は捨てないのであれば、拾う人を増やせばいいのです。また拾うという行為に、みな善いことをしているという実感と喜びも生まれてきます。「捨てるな」という否定よりも、「より積極的に拾いましょう」のほうがいいのです。言葉も伝え方次第で違うものです。人を動かすには権威をもって命令した方が早いかもしれません。そこには共感は生まれないし、言われたときだけということになります。イエス様の言葉は、権威ある新しい教えではあっても、命令ではありません。

 パウロは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と教えています。上に立つ権威とは神様のみ言葉しかありません。そこに権威があり、そのみ言葉に従うのです。上に立つ人ばかりをみるとき、失望が多いものです。しかし、その人に語られているみ言葉が示されたとき、私たちはそのみ言葉の権威にしたがうのです。だとすると上に立つということは、イエス様のみ言葉を常にいただき、それをしめさなければなりません。

2018年7月3日火曜日

「るうてるネット」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「るうてるネット」
 
 先週は旅をする週でした。宇部へ泊まり、次ぎの日から静岡の藤枝へ、帰りに大阪へよって京都で泊まり帰ってきました。なんというハードなスケジュールだろうかと思いました。それぞれに仕事の内容な違うわけですから、我ながらいろいろな仕事に携わっているのだと関心してしまいました。
 
 こんなとき「るうてるネット」はとても便利です。いつでも手紙が送れますし、手紙だけでなくポスター、チラシなどカラーで届きます。それらを自由に使ってすぐにオリジナルのものができるというわけです。新聞の原稿なんかもこれがあればすぐに送れますし、新聞の作成なんかいとも簡単です。
 
 このネットを会議に利用できないものかと思います。ひとつの議題をネットでおくる。それにみんなが自分の意見をメールでおくる。それでなんとかならないでしょうか。大半の会議はこれでいけそうに思えます。
 
 これからますますパソコンが導入されることでしょうね。しかし、問題はそれをどう使うかです。一日中パソコンの前に座っているのを想像するといやになります。しかし、ちょくちょく会議のために旅行するのもいやです。すべてのことはほどほそがいいのですが。すべての会議が無駄とはいいませんが、知恵を働かせれば時間を有効に使うことができるような気がします。そしてあまった時間は余裕をもって祈りに専念するのです。ああ夢の夢かなあ。

2018年7月2日月曜日

「今日を生きること」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「今日を生きること」

マタイ 6:34 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。

「慢」ということばは、仏教では煩悩を表わすそうです。我慢もそのひとつ。それは、自分という存在が永遠不滅のものだと錯覚している煩悩なのです。自分中心に考えることは、どの宗教にとっても問題があります。その自分中心とはいったい何でしょうか。それは自分が神様になることではないです。私たちは中心をどこに据えるか、自分に据えるか、イエス様に据えるか。常に考えながら生きていたいと思います。自分中心で生きていくと、思い悩むことが多くなります。

本日の聖書のみ言葉は、イエス様が山上で説教された言葉のひとつです。この34節には「思い悩む」と言う言葉が2回でてきます。聖書で同じ言葉が2回でてくるときは強調を表します。6章の最後にこの節があることを考えると、神様への信頼によって思い悩むことから解放されなさいということでしょう。しかも、明日のことまでもと言われていますから、目の前にある今日を大切にしなさいということです。

「セレンディップの3人の王子」という話があります。この童話の王子様はしょっちゅう探し物をしています。だから人々からはおかしな人と思われている。でも、しょっちゅう探し物をするのは普通のことです。私たちもしょっちゅう探し物をしているのですから。しかし、この王子様が私たちと違うところはしょっちゅう探し物をしているが、探している物は見つけられない。そのかわり別の宝物を見つける。探しているものよりもっと貴重な物を見つけ出してくるという王子様なのです。つまりこの王子様は思いがけない発見をする能力をもっていたのです。自分が思い悩んでいること以上に、神様は守っていてくださることを知る。その発見があれば今日のことで生きていける発見をするのです。

イエス様は「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」と教えられました。今日をしっかり生きることが明日へつながります。まず今日の命を感謝し、神様を信頼することです。明日のことは明日自らが思い悩むことですから、それは神様におまかせすればよいのです。明日の問題とすればいいと言われます。与えられた今日のこと、いま目の前にある働き、招き、使命に素直にとりくんでまいりましょう。

2018年7月1日日曜日