2018年11月29日木曜日

「愛されてみたい」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「愛されてみたい」
 
 教会掲示板に礼拝案内を貼ってみました。いまは教会の礼拝案内だけですが、ゆくゆくは人の心を捉えるようなものを作り上げて行きたいと思っています。いつでもアイデア募集中です。
 
 先日のことでした。今週のポスターをみながら、会話してる声がきこえてきました。「おい、愛されると悲しくなるか。おれはとても嬉しくなるけどなあ」。するともう一人が「わかってないなあ。あんたのは、遊ばれているだけ。おれは悲しくなるのがわかるな あ。うん、本当に愛されたら涙がでるもんよ」。「そうかね。それくらい愛されてみたいもんだ」・・・と。
 
 この会話を聞きながら、「それくらい愛されてみたい」という言葉に、現代の人間のもつ寂しさみたいなものを感じたのです。悲しくなるほど愛されてみたいというのは、愛を実感したいというのとはちょっと違うのではないでしょうか。そのような愛に(出会いたい)ということかもしれません。主イエスの愛は、実感するだけのものではなく、出会うものです。そこから何かが始まるのです。「愛されてよかった」だけでなく、その愛から押し出される一歩を踏み出す勇気を与えられるのです。
 
教会の掲示板には来週の説教題が掲げられています。その題は「神秘的結合」はてこれを見てどんな会話が交わされるのかなと思います。

2018年11月28日水曜日

「まじめにコツコツ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「まじめにコツコツ」

箴言 7:2 戒めを守って、命を得よ。わたしの教えを瞳のように守れ。

「父や母が教えてくれたこと」というテーマの本があります。人はそれぞれの家庭で、その家にあった教えをうけて成長します。その家庭が大切にしている教えでもあります。どの教えも「もっともだ」と思います。そのなかでもよく聞く教えは「まじめにコツコツと」というものです。人のすることはすべて神様が見ておられる。だから誤魔化さずに、「まじめにコツコツと生きること」だという教えです。この誰もみてないようでも、神様は見ておられるという教えは大切なものです。

箴言の7章には父の諭の中に、若者が女性に誘惑される場面がでてきます。聖書には「わたしが家の窓から、格子を通して外を眺めていると浅はかな者らが見えたが、中に一人、意志の弱そうな若者がいるのに気づいた」とあります。誘惑を受ける若者は、浅はかな者だけでなく、意志の弱い者であると忠告しています。

ある少年と死の話をしたことがあります。その少年もまた小学生のときに突然お父さんを天に送らねばならなかった子でした。じつは私と同じような境遇の少年だったのです。「人はなぜ死ぬのだろうか、私のお父さんもなぜ死ななければならなかったのだろうか」と話していました。するとその少年は次のように教えてくれたのです。

 「牧師先生、お父さんは死んでないんだよ。だってみんな僕をみてお父さんにそっくりだという。顔形も言葉も話し方だって。そして少し猫背のところまで似てるっていうんだ。だからね、お父さんは死んでない。僕の中に生きている。僕をみればお父さんを見ることができるんだ」と。そして、「先生の中にもお父さんを見ることができるんだよ」と。イエス様も「私を見たものはすなわち父を見たのと同じである」と言われました。それはイエス様の中に父なる神が生きておられるからです。同じように、私たちの中に父、母がいます。そしてずっとさかのぼっていくとキリストまでいくことができます。実は、私たちの中にはキリストがいてくださり、私たちを見たものはキリストをみたことになるということなんです。

 箴言は、「わたしの教えを瞳のように守れ」といいます。瞳のようにとは、注意深く見つめることを意味し、目をそらさない、中心を見ぬくということでもあります。神様の教えをそのように守ることを教えています。み言葉から目をそらさずに、その教えをきちんと守っていくことこそ、まじめにコツコツと生きることなのです。その姿は自分の中に神様を見ることです。

2018年11月27日火曜日

「人生を構築させたゴミ?」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「人生を構築させたゴミ?」
 
 「よくもまあこんなにゴミがあるものだ」というのが、今回の引っ越しで経験したことです。どれだけ捨ててきたかといえば、ちょうど2トントラックに2台分でしょうか。これではゴミと生活していたようなものです。
 
 ところが、これは本当にゴミなのかなと考えてみました。確かにいまはいらないものになったかもしれないのいですが、ひとつひとつはすべて意味があるものです。人から見ればつまらない意味ですが、あの時あの場所で買ったものとか、あの人がくれたものとか・・・。そして、それは自分の人生を少なからず構築してしてきたものなのです。
 
 引っ越しの片づけがなかなかはかどりません。しかし、自分の人生を顧みていると思えばゆっくりやるのもいいかもしれません。司牧室にはたくさんの書籍が残されていました。森司牧から頂いたものですが、その一冊一冊に重みを感じています。森司牧の人生をほんの少し知ることができるような気がするのです。
 
 私たちには4つの福音書が残されています。いろいろな方向から見たイエス様でしょうか。しかし、どの方向からみたとしても、その存在の重さにはかわりありません。福音書を読むとき、私たちはイエスと出会います。
 
山積みにされた荷物の中に、何十冊という聖書をみつけました。こんなにイエスと出会っていたのだと感謝しました。

2018年11月26日月曜日

「神様と私の距離」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「神様と私の距離」

創世記  30:36 自分とヤコブとの間に歩いて三日かかるほどの距離をおいた。

「あの人とはちょっと距離をおいている」という表現があります。この距離の意味は何だろうと思います。しばらく会わないようにしよう。無視しよう。関係ないように振舞おう。たくさんの意味があります。また「ちょっと距離をおいてみたら」というアドバイスもあります。人間関係にはほどよい距離が必要かもしれません。しかし、この距離がうまく働けばいいですが、距離があるためにうまくいかないこともあります。

 旧約聖書の物語に、ヤコブと舅ラバンの話があります。ヤコブは兄エソウの怒りから逃れる旅を強いられやっと親戚の家に出会います。その地でラケルと出会います。しかし、その父親ラバンの巧妙な策略によってヤコブは騙されたり、不当な労働をしいられたりするのです。ついには、ヤコブとの距離を3日ほど置いたと言う話です。この3日の距離を置かねばならなかったほど、この関係は冷たいものだったのでしょう。

はじめての漁船の運転、ジェットボートの運転をした時のことです。漁船の舵をとりながら、海の風の心地よさにすっかり満足してしまいました。しまし、船をまっすぐに走らせることは大変むずかしいことです。すぐによろよろとしてしまいます。その日の風にもよるし、潮の流れ、波の状態を見極めなければならないからです。また、島を回りながら走るときには、島との距離をつねにみながら走らせなければなりません。また、どこに海面下に岩があるかわからないのです。つねに自分の位置、まわりの状態、自然環境を知って置かねばならないのでしょう。私たちの人生の歩みも、自分がどこにいるのかを探しながらの旅かもしれません。それがはっきりしている人生は楽なのですが、そう簡単にはいきません。つねに迷ってばかりいます。神様と私の距離を知らないからです。

 イエス様は、「神の国は、あなたがたのただ中にある」といわれました。これは中のことではなく、「間」という意味もあります。人と人との間にはイエス様がいてくださるのです。お互いがこのイエス様とつながって距離間を保つとき、平和がくるのではないかと思います。イエス様を間にはさんだ距離とはどれくらいでしょうか。しかし、その距離は間にあるイエス様を通るということで、「愛し合う」「赦し合う」「認め合う」というフィルターを通ることになります。

2018年11月25日日曜日

気ままな休日・ハンバーグ食べ放題

90分ハンバーグ食べ放題!
過酷な挑戦をしてまいりました。
さて何個食べたでしょう。実は13.5個でリタイヤ。
そのくらいが美味しく食べる限界でしょうか。ははは

2018年11月24日土曜日

明日は礼拝です!

説教者:立野泰博牧師(大江教会)
大江教会とのTV中継礼拝です。

2018年11月23日金曜日

オーボエコンサート無事終了


たくさんのご参加をいただき無事終了!
来年も企画しますので、ぜひどうぞ!

2018年11月22日木曜日

「素足で聖地に立つ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「素足で聖地に立つ」
 
 イスラエルにいくことになりました。「何もこんな時期に行かなくても」と忠告もありました。それでも行きたいと思ったのは、主イエスの生きたその場所に立ってみたいからです。すでにイスラエルに行かれた方からは、「あまり夢を抱いていかないほうがいいよ」と言われました。聖所といえば、想像するだけで神様の存在が生き生きしている素晴らしいところに思えます。しかし、実際は違うとの感想をもたれる方が多いのだそうです。それでも一度は行きたくなる魅力があるといいます。
 
 さて、私の場合はといえば、とにかくガリラヤの地にこの素足で立ってみたいのです。素足でその地に立つだけでいいのです。というのも、初めて中国へ行き、あの大地に立ったとき、「この大地は、主イエスが立たれた地とつながっている」と感激したのです。そのときから実際その場所に立つのが夢でした。どんな空気を吸われたのか、どんな景色を見られたのか。そして、どんな言葉を伝えられたのか。そのすみっこにでも触れさせていただけたらいいのです。
 
 あまり夢を膨らませず、しかし、シラケもせず行って来ます。どんな報告ができるか楽しみです。主イエスの眼差しを感じることができるでしょうか。そして、その眼差しはこの日本のどこで感じることができるでしょうか。いろいろな課題を見つける旅にしたいものです。

2018年11月21日水曜日

「信頼性」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「信頼性」

使徒 9:26 サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた。

ある本で「想いが通じる5つの基礎」を読みました。最初の項は「自分のメディア力をあげる」と書かれてあります。これは、「何を言うか」より「誰が言うか」で違う時があるというのです。たとえば社会経済の動向を、スポーツ新聞で読むのと、日本経済新聞で読むのでは、同じことでも伝わり方が違うのです。経済の問題を考えるのに、どちらの新聞に信頼を置いているかということです。野球解説を読む場合は逆になります。ということは、話しが通じるためには、日頃からの人との関係の中で、自分というメディアの信頼性を高めていかねばなりません。この信頼性が根底にあるかないか。これが、話しが通じる基本です。礼拝でもおなじことです。信頼を受けてないところでいくら説教を語っても、それは通じないのです。

サウロというのはパウロがキリスト者を迫害していた時の名前です。かれはダマスコ途上で、復活されたイエス様に出会い「なぜ、わたしを迫害するのか」と問われます。そこで彼は回心をし、キリスト者となるのです。パウロはすぐに宣教を始めるのですが、誰も彼のことを弟子だとは信じなかったというのです。あまりのパウロがキリスト者を迫害していたから、そういった印象が人々に焼き付いていたのでしょう。これを払しょくするためにパウロは徹底的にキリストのみ言葉に仕えています。パウロは、ユダヤ人にもキリスト者にも信頼をしてもらうために試練をあえて受け入れているのです。

牧師会での出来事です。「みんな本音をだしあってケンカしよう」「はっきりいってケンカうってます」という言葉を聞きました。何のために牧師たちがケンカする必要があるのでしょうか。ケンカすることによって新しい関係がうまれ、お互いがよく知り合えると弁解していましたが、そうは思いません。お互いケンカしなければ仲良くなれない牧師たちってどんな存在なのか。考えてしまいました。ある若い牧師は「僕はケンカは嫌いです。牧師の中からケンカしましょう、ケンカうってますという言葉がでてきて寂しいです」と言いました。なぜ寂しく感じたのか考えてみました。やっぱり、神様の平安に反するからだと思います。意見の違いはあってもいいのです。しかし、そこには信頼というものがあるからです。お互いの人間を信頼するのではなく、私たちの間におられる主を信頼できるかだといえます。若い牧師たちに、「私たちは同じ主イエスに召されている」という信頼があるでしょうか。そこは語られなく、ケンカしましょうでは分裂を生むばかりだと感じました。

パウロはキリスト者を迫害していいました。「サウロはエルサレムに着き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」とある通りです。それゆえに初めは信じてもらえませんでした。しかし、その後のパウロの姿、その熱意、信仰によって人々は変えられていったのです。パウロはキリスト者として、弟子として受け入れられていきました。パウロのメディア力は信仰にあると言えます。

2018年11月20日火曜日

「神様助けて」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様助けて」
 
 私が「神様助けて」と叫ぶときはどんなときだと思いますか。それは、せっぱつまったとき、お手上げのとき、自分ではどうしようもなくなった時です。とはいっても、それまでの努力を積み重ねてきたかといえば、そうでもありません。
 
 実は、いろいろなところから原稿の依頼をうけます。そこにはちゃんと締切が書いてあって、原稿依頼のその日から始めれば余裕で書くことができます。そして、毎回のことですが、今回こそ早くやろうと思うのです。ところが、そうはいきません。まだまだと思っているうちに、そろそろと思う。さあこれからと思いつつ、だんだんあせってくる。明日からやろうと思うのが締切の1週間前となり、だんだん胃が痛くなるのが締切3日前。そしてついに「神様助けてください」となるわけです。こんなことをしながら、ついに原稿を書き上げるときは締切すぎとなります。
 
 とはいっても、なまけているわけではありません。実際の文章にしなくても、頭の中ではいろいろと考えています。そのことが頭から離れることはないのです。それをまとめあげる集中力の問題なのです。余裕があるときは集中力がでません。これが「神様助けて」と祈る時、抜群な集中力がでてくるのです。
 
 自分ではどうすることもできない状況で、神様にすべてを委ねる。すると神様の力が導いてくれるように思います。やっぱり言い訳かなと思いつつ。
 

2018年11月19日月曜日

「伝え、励む、時」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「伝え、励む、時」

2テモテ  4:2 御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。

小さい頃から鍵っ子で、家に一人でいることが多いものでした。何もすることがない時は、よくテレビのワイドショーを観ていました。その関係で、いまでも芸能ニュースには興味があります。恋愛関係や事件などではなく、その人の生き方と才能、隠れている努力とかを知ることが好きです。しかし、人気が出る人は何かしらもっておられる方が多いようです。その何かがわかればいいですが、でもその何かの背景になっている努力とか、運とか、いろいろとあると思います。きっと励んでいることがるのでしょう。

パウロは、若いテモテに愛情を注いでいます。それはキリストの宣教を共働する、同労者としての信頼でもあります。この若き弟子に対してまず「御言葉を宣べ伝えなさい」と励ましています。キリストの御言葉によって救われた私たちの、まずなすべきことは「キリストの御言葉を宣べ伝える」ことです。パウロがいうように、そのことを「折が良くても悪くても励む」ことです。伝えることは難しく大変なことです。しかし、キリストと共に働く仲間がいることで励まされるのです。

AKBはいまだに人気があり、普通の女の子がなぜ人を引き付ける魅力を持てるようになるのかと思います。影なる努力が凄いのだろうと思っています。最近、プロデューサーの一人が雑誌のインタビューで次のように言っていました。「人気が出るメンバーは、やるべきこと、できること、やりたいことを自覚して、それをバランスよくきちんと実践できている子だと思います」と。この3つを自覚することは大変なことです。しかしあえてそれをしているのだと感心します。私たちにとってこの3つは、宣教にいかせるように思えます。

パウロも3つのことを言っています。御言葉を「伝えること」「励むこと」「時」です。キリストの御言葉の恵みに生かされた私たちが、その喜びを伝えることはキリスト者の使命です。喜びからくる思いを伝えていくことが大切です。私たちの教会も「やるべきこと」、「できること」、「やりたいこと」をしっかり考えてみたいと思います。そこから御言葉を伝えることに努力していきたいと願っています。

2018年11月18日日曜日

きままな休日・収穫感謝


何といっても収穫感謝は七面鳥!
丸ごと焼いて食べてみます。うまくいくかな?

2018年11月17日土曜日

明日は礼拝です

オーボエの讃美月礼拝です。
説教者:立野泰博牧師(大江・阿久根教会)

2018年11月15日木曜日

「神聖さを感じる」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神聖さを感じる」
 
 あるご婦人が「牧師職の神聖さを感じました」と話してくださいました。というのも、ある主日の礼拝説教の時、牧師がせき込んでおられたので水を持っていったそうです。すると、水を差し出した手がしびれて、何かに打たれたようだったとのこと。それからどうやって自分の席に帰ったかわからないと言われました。その体験から「牧師職の神聖さを感じました」といわれたのです。
 
 同じように、先週のことでした。初めて平岡博兄の職場(光市民病院)に行きました。白衣姿の平岡兄をみたとき、医者としての神聖さを感じました。しかし、それは医者だからということではありません。小泉真兄を銀行にお訪ねしたときも、佐伯里英子姉の職場を訪問したときも、主婦の仕事をしている後ろ姿にも「神聖さ」を感じるのです。神様がその方に与えられた仕事をしている時、そこに神聖さを感じるのだと思います。
 
 牧師を考える時、「召命」という言葉がでてきます。しかしそれは牧師に限ったことでなく、全ての職業に神様からの召命があるのです。その召命にそって働いている人間に、神様の力がやどっているのでしょう。そして、神様に用いられて働くそのことが宣教なのだと言えます。
 
 自分の与えられた働きを、祈りつつ行うこと。簡単なようでとても大変なことだといえます。いまの仕事が、神様から与えられたものだと信じている人はとても幸せだといえます。またそこに神聖さがあるのでしょう。

2018年11月14日水曜日

「受けるだけでなく」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「受けるだけでなく」

2コリ 8:7 あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。

広島のストリートにハギーというミュージシャンがいました。夢を追いかけていたに違いありませんが、33歳の若さで天に召されました。夢だけで生きていたら終わりということも知っている彼でした。夢を追いかけるためには、昼間は重労働し汗まみれに働いて、よるデパートの前で唄っていたのです。彼の歌で「自由詩人」というものがあります。繰り返しでてくる言葉は「奪うことは止めにして、与えて生きていこう」でした。イエスが言われた「受けるより与えるほうが幸いである」という言葉と重なりました。彼の中にもイエスが御言葉をまかれていたのですね。彼は長崎の五島列島出身でした。

この手紙の8章9章は、エルサレムの貧しい聖なる者たちへの募金を訴える趣意書のような内容です。パウロは「異邦人の使徒」であったが、エルサレムの聖なる者たちへの募金活動を、ガラテヤ、マケドニア、アカイアの各地方で行っていました。コリントの人々はパウロとの関係で、この募金を停止していたようです。そこで、もう一度再開するようにと呼びかけています。その中で、コリントの人々が豊かに受けている恵みをあげ、それゆえに奉仕することを促しています。

イスラエルに「死海」という湖があります。地球上で最も低い所にある湖で、海抜マイナス418メートルにあります。海水の塩分が3%に対して、死海は30%あります。当然ながら、生物の生息には不向きな環境であるため、湧水の発生する1ヶ所を除き、魚類の生息は確認されていない。死海という名称の由来もここにあります。この死海についてイスラエルの旅行ガイドは次のように説明しています。「死海はヨルダン・ガリラヤの何本かの川から命の水を受けているが、自分から外にだすことはない。受けるだけで与えることがなければすべては死んでしまう」と。神様からのたくさんの恵みを受けるだけで隣人に与えることがないならば、その人の信仰は死んでしまうということです。

パウロは「すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい」と言います。神様から受けたものを与えることによって、自分も豊かな者になるということです。イエス様の言葉として使徒言行録には「受けるよりも与える方が幸いである」と記されています。

2018年11月13日火曜日

「食べる楽しみ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「食べる楽しみ」
 
 先日、不思議な夢をみました。その夢とは、すべての食べ物の味がわからなくなったというものでした。夢の中で、いろいろなご馳走を食べているのですが、まったく味がしないのです。いくら食べても食べても味がしません。このまま味を感じなかったらどうしようかとあせっている夢でした。たぶんそのような病に苦しんでおられる方もおられることでしょう。
 
 さて、そのような夢をみたこともあって、「もし味がなにもわからなくなったら」と考えてみました。きっと人生が絶望的になるのではないでしょうか。私たちにとって食べることは、命を保つことでもあります。また、自分の身体にとって毒であるものを判断することができないということです。そしてもっというなら、これが一番大切なことと思いますが「楽しみ」を奪われることになります。美味しいものを味わう楽しみがなくなるのです。この「楽しみ」を奪われることが、絶望へと人を陥れるのです。
 
 私たちの教会は、毎週みんなで会食をします。これは、ただ空腹を満たすためではありません。同じ信仰をもつ仲間との会食は、そこに神様の祝福が満たされるということです。いろいろなことを話し合います。そこで力づけられ、励まされ、美味しい食事とともに豊かにされていくのです。主イエスを中心とした食事は、私たちを満たす幸福の味がするのです。

2018年11月12日月曜日

「種から育つ」


阿久根ルター君の朝のみ言葉
 
「種から育つ」

1ペトロ 1:23  あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

ある牧師さんから秋だというのでプレゼントされたものがあります。それは植物の種です。つばき、せんりょう、あけび、かりん、その他。なんとこれは東京の教会のベランダでとれたものだそうです。それらの木を大切に育てておられました。しかし、もっと驚いたことは、これらの木は誰が植えたのでもなく、鳥が運んできた種が木になったということです。神様の命を誰かが受け継いでくれるのですね。しかも、その木が都会に潤いを与えているのです。宣教の種蒔きも同じかもしれません。根気よく、あせらず、こがらず。きっと花咲く時がくることを信じていたいものです。

ペトロの名がついた手紙は2つあります。本日の箇所は「聖なる生活をしよう」という表題がついています。「いつでも心を引き締め」「身を慎んで」と。しかも「生活のすべての面で聖なる者となるように」と教えます。そのような生活がいまの私にできるかどうか。ペトロはできるという確信のもとに教えられています。それは「朽ちない種」「神の生きた言葉によって」私たちの「いま」があるからです。

ある幼稚園を訪問しました。園長先生の交代とともに、教育方針の改革をおこなったことを知っていました。その改革とは、園庭を自然に戻したのです。もともと森の中にあった土地を開墾して広場をつくったのですが、その運動場に再び木を植えて森にし、森の中の幼稚園にされたのです。子どもたちが森の中で遊んでいる様子が新鮮でした。その園長先生から不思議な話をききました。種から植えて育てた木と、植林した木では育ち方や力強さがちがう。種から育った木は「育つ力があり元気」、植林した木は「順応するために力をつかうから育ちが悪い」と。種から育つことの意味を教えられました。

ペトロも「種」を問題としています。この「種」は朽ちないもので「神の変わることのない生きた言葉」によると言うのです。私たちにはこの「種」が与えられています。この種に力があることを受けとめでいきてまいりましょう。

2018年11月8日木曜日

「一礼をする」

クレヨン牧師のミニエッセイ


「一礼をする」

 ルーテル神学大学(現ルーテル学院大学)の特徴の一つは、いろいろな教会の信者が一緒に学んでいるということです。カトリックをはじめ、基督教団、バプテスト、セブンスデー、聖公会、インマヌエル、アッセンブリー、アライアンスと、私のクラスだけでもこれらの方々がおられました。ですから、いろいろな教会の考え方の違いにとても参考となりました。

 さて、これらの教会の人たちが、昼の礼拝には一同に集まります。ともに讃美歌を歌い、聖書を読み、祈るのです。しかし、その祈り方はまちまちでした。それでも、主にあってひとつという喜びを感じたものです。

 その中で私が印象深く学んだことは、礼拝堂への入り方でした。ルーテルの学生はそのままスーッと入っていきます。私もそうでした。しかし、ある学生は一礼をして、ある学生は一言祈って、ある学生は十字架をきって入っていくのです。その姿に「偶像礼拝だ」と批判する者もいました。私などは新鮮な驚きを感じたものです。

 その事を思い出しながら、数年前より礼拝堂への出入りに一礼することにしました。何事も習慣になると恐ろしいものですが、最近トイレに入るときも一礼している自分に気がつきました。おもわず苦笑いでしたが、これも神様の前に生きる姿勢の告白ではないかとあらためて感じました。確かトイレに一礼は禅にもあったような。

2018年11月7日水曜日

「今日何を行う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「今日何を行う」

1コリント 15:10 神の恵みによって今日のわたしがあるのです。

伝道セミナーに参加して、一番の収穫は私自身の宣教に対する「悔い改め」でした。宣教・伝道は牧師がするものという考えがあります。また計画やプランも伝道のプロである牧師が立てるものだという考えがあります。私もそのように考えてきました。しかし、「教会の宣教ビジョンは、信徒に与えられる」ということをいつも学びました。この教会をどのような教会にしたいかというビジョンは、神様からこの教会の信徒に与えられるのです。30人位の家庭的な教会でよい、というビジョンならそうなります。100人礼拝を目指すというビジョンなら、そのために何をするのかを出し合うことが必要です。牧師はその案をいかに実現できるかを祈り求めていく存在なのです。先の夢にむかって今があることを考えてみたいと思います。

パウロは神様の教会を迫害したにもかかわらず、その彼が使徒となったのは「復活の主」との出会いによります。その出会いが恵みであり、神様によって「今」があるというのです。過去でも未来でもなく、「今在る者」として他の弟子たちより多く働いたと言っています。

ある本の中で次のような1節を見つけました。「プランニングにおいて重要なことは、明日何かを行うかを考えることではない。明日のために今日何を行うかを考えることである」。仕事にしろ、人生にしろ、いろんな計画を立てながら生きています。多くは明日何をするかを考えています。しかし、目標が何であり、なぜ自分は生かされているかを知ることによって、その明日のために「今日」何をするかが大切なのです。

パウロは神様から大きな恵みを受け、罪赦された者となりました。その時、異邦人への福音宣教というプランを与えられました。そのプランの実現のために「今日」何を行うべきか、「今日」あるべき姿を示すのです。自分の明日のために「今日何を行う」べきであるかを考えながら過ごしていきましょう。

2018年11月6日火曜日

「身勝手な存在」


クレヨン牧師のミニエッセイ
 
「身勝手な存在」
 
 正月から「イソップ物語」を読んでいます。人間の奥底にひそむ「心」を掘り出されるみたいで興味津々です。その中に次ぎのような話を見つけました。
 
 「農夫の畑に、木が一本ありましたが、くだものがならず、やかましいスズメやセミの休み場になっていました。農夫はくだもののならない木だから切ってしまおうと思いました。そこでおのを持ってきて一度切りつけました。セミとスズメは、自分たちの休み場を切ってしまわないで、いままでどおりそこで歌をうたわせて下さいとたのみました。ところが農夫はそれにはかまわず、二度三度と切りつけました。ところが、その木はうつろになっていて、ミツバチのむれとハチミツが見つかりました。農夫はハチミツをなめて、おのを放りだして、その木を神木におまつりしてだいじにしました。人間というものは、生まれつき正しいことを大事にして敬うよりも、利益を求めるものです」。
 
 私たちは「身勝手な存在」かもしれません。自分を考え、利益に従って変わる弱い存在かもしれません。しかし、それでも神様は導いてくださるのです。このような「身勝手な存在」でしかない私にも、主イエスが共にいてくださるのです。そして、十字架によって「ゆるし」て下さるのです。私という人間は、救われている「身勝手な存在」なのです





2018年11月5日月曜日

「信仰というよりも」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「信仰というよりも」

ルカ 17:6 もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。

ある女子高生が、教会の修養会で話していました。「わたしはカタクリコです」と。皆さんには、どういう意味かわかりますか。私はまったくわかりませんでしたが、これは日本のキリスト者の重要な課題なのだと知らされました。しかも、それは信仰の継承の問題なのです。「わたしはカタクリコ」というのは、「わたしは、両親のうち片方だけがクリスチャンの子です」ということなんです。笑い転げながら、これは深刻な問題かもしれないと思いました。今の教会には「カタクリコ」はどのくらいいるのでしょうか。多分そうとうの数の「カタクリコ」がいると思います。その子供たちが自分の両親を見ていく時、どのように両親から精神的なものを受け取っていくのかなと考えてしまいます。そこに信仰を見出すでしょうか。

イエス様は「からし種一粒ほどの信仰があれば・・・」と言われています。ということは、人間にはたったそれだけの信仰もないということでしょう。それだけの信仰があるならば木が動くと言われています。

信仰とはいったい何でしょうか。ルター先生の言葉を借りれば、『「不信仰な私を赦してください」という祈りこそ信仰者の祈り」と言っておられます。私たちは、信仰があるのか、ないのか、多いのか、少ないのかとよく考えています。しかし、神様しか信仰があるかないかなど分からないことです。そう思うと、私などが「あの人には信仰がない、あの人の信仰は薄い」などと言えないのです。そんなことを言って自分を慰めるよりももっと信仰の徳を高める言葉を語りたいと思います。

本日の聖書では、からし種一粒の信仰の話の前後に、『赦し』と『奉仕』の話がでてきます。「信仰・信仰」と言ったり考えたりするよりも、『赦し』と『奉仕』でわかるものだよといわれているような気がします。