2019年12月31日火曜日

2019年感謝でした!

今年も感謝でした。
新年礼拝は熊本の大江教会のみで行われます。
2020年もどうぞよろしくお願いします。

2019年12月30日月曜日

「何のために片づけ?」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「何のために片づけ?」
マルコ 11:13 葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。
広島ではお好み焼きをよく食べます。広島の人たちはお好み焼きが大好きで、いたるところにお店があります。美味しい店の特徴は、鉄板の種類とその厚みにあるようです。20ミリ以上というのがいいとか、銅板がいいとか、いろいろありますが。先日のお店は鉄板を大切にされており、焼くたびに鉄板を綺麗に磨き整えておられました。いつもピカピカです。お店のご主人に「なぜ?たびたび磨くのですか?」と聞いてみました。すると、意外な答えでした。「今日最後の片づけのために」でした。火を落とすときのためだと言われたのです。
イエス様はベタニアの街で、1本のいちじくの木を呪われました。しかし、この話は私には釈然としないものがあります。イエス様は、いちじくの実がなる季節ではないときに、「実がなっていないか」と思われたのです。それがなっていなかったために呪われ?(聖書では言葉を言われただけですが)たのです。いちじくの木は枯れてしまいました。神様に求められたときにすぐに応えることができる「準備」をしておかねばという話なのだと思います。しかしそれだけではなさそうな気がします。
鞆の浦・仙酔島というところで宣教会議が行われました。なぜ?なにのためにここなのかと思いました。ここは離島になっているからです。午後10時になると船がなくなってしまいます。家に帰れない、何もない所での会議でした。しかし、「何のために生きているのか気づかせてくれる島」というコンセプトで、新しくオープンした民間委託の国民宿舎でした。しかも、目の前は海。ですから自然を感じていただくために、部屋にはテレビがありません。料理は最高。温泉も最高というところです。私たちは朝から晩まで、模造紙を広げてとことん話し合うことができました。島から出られないし、遊ぶ場所もない。雨が降っているので外へは出られず。こんなもってこいの環境でした。しかも、波の音がすばらしく感動しました。なんと寝るときにたえず波の音が聞こえてくるのです。こんなにリラックスして眠れたのは久しぶりでした。
私たちの実は何だろうか。信仰の実は何だろう。何のために信仰の実をつけるのか。と考えていますと、いつ神様から求められてもさっと差し出せるためだと気がつきました。いつ天に召されたとしても、さっと信仰何のための実をさしだせる生き方をしていきたいと願います。

2019年12月29日日曜日

気ままな休日・教会のポットラック

教会の特別な祝日には
よくポットラックがあります。
いわゆる持ち寄りパーティです。
これがすごいんです。
次回はいつかな~

2019年12月28日土曜日

2019年最終礼拝


2019年の最終礼拝です。
説教:吉谷正典牧師(引退教師)

聖書朗読 

@第1日課: イザヤ   63:7-9  〈旧約1164頁〉

@第2日課: ガラテヤ 4:4-7  〈新約  347頁〉

@本日福音: マタイ  2:13-23 〈新約    2頁〉

2019年12月27日金曜日

礼拝堂が素敵になりました。

ステンドアートシールが窓に!
とてもさわやかな礼拝堂に!
いいですね~

2019年12月26日木曜日

「神様は親です」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様は親です」

 マカオに旅行にいきました。ザビエルと日本人キリシタン関係の遺跡めぐりがおもな日程でした。しかし、半日もすれば用事は終わってしまうほどに小さな国がマカオです。そこで、ちょっと足を伸ばして中国の広東省中山県までいってきました。そこで物価の違いに驚いてしまいました。4人が中華料理のコースをたべて、全部で80元(ドル)でした。1香港ドル=15円です。つまり1200円なのです。洋服も20元だせば、かなりいいものが買えます。食べ物はもっと安いのです。最近ではマカオの人たちが毎日夕食を中国へ食べに来るのだそうです。マカオでもコーヒー1杯3~5ドル。しかし、それは時給の値段と一緒なのだそうです。

 それでも「日本人でよかった」と素直にはいえない現実があります。ここには老人ホームがひとつもないのです。中国人にとって子供の誇りは、いかに親に贅沢させるかなのです。親の老後がいかに幸せかがその子供の評価になっています。だから老人は一番大切にされ、子どもたちは必死になって親のために働くのです。そのかわり、自分の子供たちの教育にも真剣です。将来の自分たちの問題になるからです。このような家族関係がかなり道徳観へと影響しているみたいです。朝から老人たちが楽しそうに、飲茶してたり、公園でのんびりしていたり、どの老人も笑顔であることに驚いてしまいました。

 神様は私たちの親です。どのような気持ちで親なる神様をみているのかなあと考えてしまいました。そのような信仰にあこがれている自分も発見しました。

2019年12月25日水曜日

「何がわかるか」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「何がわかるか」
 フィリピ 4:6 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
 フランシスコ・ザビエルの言葉に「神もイエスも知らない人は、いったい何をしっているのだろう」というものがあります。自分が何を知っているかを考えるとき、本当に知らねばならないことを知っているのかと問いたくなります。たくさんの本を読んで知識があっても、その人が本当に知らねばならないのは、他にあるかもしれません。生命の神秘を探求するために顕微鏡をのぞいても、そこに神を発見できないならば真実を知っていることにはなりません。どんなに多くの知識があってどんな難問に応えることができても、イエス様の何を知っているでしょうか。それに答えられないとすれば、真実を知っていることにはなりません。だとすれば「何」をという問いは私たちにとって永遠の問かもしれません。
 パウロはフィリピの信徒を励まして祈りと願いを教えています。この言葉の前に「主はすぐ近くにおられます」と告げます。イエス様がすぐ近くにおられるのだ。だから心配せず、思い煩わず、近くにおられるイエス様に語りかけることを教えるのです。ただ、「何事につけ」の「何」を神様に祈り、願い、打ち明けるかはその人の信仰によることであり、その人がそのまま現れるところです。私たちが「何」を知り、それをどう求めているか。いつも考えています。
ある新興宗教の宣教師たちと対話を持っています。82万の信徒がおられるそうです。全世界には何人かはわかりませんが。キリスト教ではないと扱われてきました。どこがどう違うのかを知って話し合う機会が与えられたのです。しかし、やっぱり対話にはなりません。マニュアル通りの受け答えしかないからです。いくら質問してみても、マニュアルのような本で「それはここです。その問題はこれです」という具合です。わたしはこう信じています、という声が聞こえてこないもどかしさを感じます。それでもまた来ますといわれると、「マニュアル通りではないあなたの言葉を聞かせて」と思うのですがだめなのです。信仰にはマニュアルはないと思います。信仰にあるのは、「私はこのように信じさせていただいている」という自分の告白だけです。何を信じているか、どのような信仰を与えられているか、それが問題なのです。何を伝えているかは一番の問題です。
 パウロは「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」といいます。まず感謝があり、それから神様と対話するのです。あれがほしい、これをしてほしいと自分のことばかりが祈りと願いではなく、神様の御心を聞くことが祈りと願いです。神様に打ち明けたことに応えてくださるみ言葉を聞くこと。人生の中で祈りと願いは「何か」を考えて過ごしましょう。「何」がわかり、その「何」の中心を探していきたいと思います。

2019年12月24日火曜日

クリスマスおめでとうございます。

クリスマスおめでとうございます。
世界のすべてに神様の愛と平和を!
新しい年も神様の祝福を祈ります!

2019年12月23日月曜日

「祝福されたものを」

阿久根ルター君の朝のみ言葉
「祝福されたものを」
マルコ 6:43 パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
コンビニで大量のお弁当が捨てられるのを目撃しました。まだ食べられるものだと思いますが、会社のルールなのでしょう。娘のバイト先でも大量に残った食べ物を、バイトが持ち帰るのではなく廃棄処分となるとききました。いつもどうにかならないかと思います。食べ物を粗末にすると罰が当たると教えられてきました。捨てられる弁当を見るたびに、食物は神様が与えて下さる恵みなのにと思うのです。大量にある支援物資はこれからどうなるのでしょうか。
イエス様の奇跡に、有名な五千人の給食があります。イエス様は大勢の群衆をみて憐れみ、み言葉を語っておられました。時間もたち食事の時間になりましたが、その用意がありませんでした。そこでイエス様は、「五つのパンと二匹の魚で大勢の群衆に食べ物を与えなさい」と弟子たちに命令されたのです。その結果、五千人以上の人が食べて満腹し、残りは十二の籠にいっぱい残ったというのです。
先週もたくさんの支援物資が届きました。感謝です!「その日に届いた物資はその日の内に行き先を見つける!」その意気込みでネットワークをふるに用いています。コーヒーと喫茶セットは今日FBで支援願いがあったYMCAへ!避難所カフェのために早速旅立ち。アレルギーミルクは備蓄して必要な方の連絡待ち!どうぞお知らください!離乳食共々揃っています。車椅子必要な方、ルーテル教会救援に7台あります!これらの支援物資はみなさんの心がこもっています。気持ちが込められています。イエス様に押し出された愛がそこにあります。だから無駄にさせてはいけないのです。
イエス様が、五千人の群衆を五つのパンと二匹の魚で満腹されたとき残ったものがありました。しかしそれを人々はどうしたでしょうか。翌朝生ごみとして捨てたでしょうか。きっとイエス様が祝福された食物として持ちかえり、大切に食べたのでないかと思います。イエス様の手が触れ、祝福された食べ物だからです。そう考えるとすべての食べ物は神様が造られ、神様の手が触れています。無駄にしてないかと問われています。

2019年12月22日日曜日

きままな休日・和風冷食1000円

和風定食を食べに行きました。
これで1000円でした。やす~~~~
これで十分だとおもいました。和食はいいな~

2019年12月21日土曜日

明日はクリスマス礼拝です。

説教者:吉谷正典牧師(引退牧師)
クリスマス礼拝です。
ぜひ皆さんいらしてください。
 
@第1日課: イザヤ   52:7-10 〈旧約1148頁〉
@第2日課: ヘブライ 1:1- 9 〈新約  401頁〉
@本日福音: ヨハネ  1:1-14 〈新約  163頁〉
 

2019年12月20日金曜日

クリスマス礼拝は22日です。



クリスマス礼拝は22日(日)10:30~
クリスマスイブ礼拝(TV中継)24日(火)19:00~

2019年12月19日木曜日

「神様の種」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様の種」
 
 「教会の子ども達は幸せだな」と思うことがあります。それは、いつでも神様から与えられている種を確認できるからです。というのも、礼拝の中に子ども達が一緒にいると、知らず知らずにみことばを聞いているのです。
 
 讃美歌のときに皆さんはよく、子供とともに座っておられます。子育てを終えられた方もおられれば、まだ結婚しておられない方もいます。しかし、全員が一応に子ども達と一緒に讃美をしてくださっているのです。なにげないひとときですが、私には信仰の確認・継承に見えるのです。讃美歌を歌うということは、「私はこのことを信じていますよ」と優しく語りかけておられることと同じです。これこそが、子どもたちに与えられた「神様の種」を確認させているのです。「あなたには神様の種がまかれていますよ。私にも同じ種がまかれているように」という信仰の確認になっているのです。信仰の継承がおこなわれているのです。
 
 ある時の礼拝で、三女・聖美をだっこして讃美歌を歌う機会が与えられました。そのときの讃美歌は「聖フランチェスコの平和の祈り」でした。膝の上で静かに聞いている娘に向かって、一言一言をかみしめながら歌っていますと、とても感動し涙がでてきました。平和の祈りの中に「私をあなたの平和の道具として用いてください。(中略)わたしに望ませてください。慰められるよりも、慰めることを。理解されるよりも、理解することを。愛されるよりも、愛することを・・・」という言葉があります。この祈りを共に生きていくものになりたいと願いました。
 
 キリストの種はたしかにまかれ、そして育てられていくのです。それは、私たちの交わりの中で、礼拝のなかで、そして信仰の中で。

2019年12月18日水曜日

「恐れの中に神を見る」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「恐れの中に神を見る」

マルコ  4:41  弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

牧師として、被災地でみ言葉を語ることの畏れを感じます。3月11日の東日本大震災の日、はそこに共にいなかった者として、何を語り、何を共にすればいいのか。神様はこの震災を通して何を語ろうとされているのか。神様はいま何をしようとされているか。問いの日々でした。しかし救援活動の中で「もし神がいるのなら助けにこい」「神はなんで大震災に沈黙しているか」「神なんていない」といった言葉を聞いたことはありません。むしろ私のほうが問うているのかもしれません。被災者の方々がおっしゃらないのはなぜだろう。そのことはもっと私自身が深めて考えることです。

イエス様と弟子たちは向こう岸に渡るため舟にのり湖に漕ぎ出しました。しかし途中で激しい突風がおこり舟は大波をかぶって沈みそうになりました。弟子たちはこの自然の猛威のなかでどうしてよいかわからなくなりました。自分の命が危ないと思ったのかもしれません。イエス様は眠っておられました。しかし、弟子たちの問いに、風と湖を叱りつけるという方法で自然をおさめられました。弟子たちが一番恐れたのはそのイエス様に対してでした。

今回の熊本地震でのキーワードがあるとすれば「車中泊」ではないかと思います。家にかえることができない。車の中でなら安全でいられる。それだけではないように思うのです。東日本大震災のときには「恐れ」がテーマでした。しかしこんかいは「不安」なのだと思います。死と向き合った「恐れ」と、余震がいつくるかわからない「不安」。これはどこでどうちがうのかと思うのです。炊き出しの数が減らない。この不安からの解放がいつできるのでしょうか。「恐れ」と「不安」。しかしイエス様は大丈夫だといわれます。「安心しなさい」と。

弟子たちは「いったい、この方はどなたなのだろう」と驚愕しています。彼らは荒れ狂う風や湖の中にイエス様を見たのです。恐れの中で、イエス様をみつけて安心したのです。いや、イエス様の御言葉をきいて安心したのです。目の前にある想定外の自然の脅威のなかで、神様をみたのです。

2019年12月17日火曜日

「神様と私の位置」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様と私の位置」
 
 何か新しい経験をすることは、楽しいことです。また、新しい発見によって、自分を見つめ直すこともできるものです。子どもたちの夏休みに入り、3人で鎌刈島へいってきました。無人島でのバーベキューや、県民の浜で遊んだり、海水温泉でのんびりしたり。夜は鯛飯やあなごの刺身を堪能しました。
 
  今回の新しい経験は、はじめての漁船の運転、ジェットボートの運転でした。漁船の舵をとりながら、海の風の心地よさにすっかり満足してしまいました。しまし、船をまっすぐに走らせることは大変むずかしいことです。すぐによろよろとしてしまいます。その日の風にもよるし、潮の流れ、波の状態を見極めなければならないからです。また、島を回りながら走るときには、島との距離をつねにみながら走らせなければなりません。また、どこに海面下に岩があるかわからないのです。つねに自分の位置、まわりの状態、自然環境を知って置かねばならないのでしょう。
 
  私たちの人生の歩みも、自分がどこにいるのかを探しながらの旅かもしれません。それがはっきりしている人生は楽なのですが、そう簡単にはいきません。はっきりしているというよりは、つねに迷ってばかりいるのです。なぜなら、きちんとした人生の基準を持たないからです。
 
  私たちには、神様の御言葉という基準があります。自分がどこにいるのか分からなくなったときには、聖書を読むと進むべき道を示してくださいます。また祈りによって、神様と私の位置もはっきりとわかります。人生行路は複雑な道を歩いて行かねばなりません。しかし、主の御言葉は私の足のともしびです。

2019年12月16日月曜日

「天罰ではない」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「天罰ではない」

ゼファニヤ 118 主の憤りの日に地上はくまなく主の熱情の火に焼き尽くされる。主は恐るべき破滅を地上に住むすべての者に臨ませられる。

災害が起こるたびに、いろいろな宗教が天罰だと言いだします。私にも日本のこれまでの罪に対する天罰がくだったというメールが数通きました。そのメールは続けて、だから悔い改めて神様を信じるチャンスをいただいたというのです。教会にとっても宣教のチャンスだと。本当にそうかなと思います。日本に住むすべてのものが共に祈りつつ、この災害をどう乗り越えていくかです。天罰かどうかの問題ではなく、いま神様は私たちに何を求めておられるのかを聞き、それを実行していくことが大切だと思います

ゼファニヤは、主の憤りの日には、地上のすべては主の熱情の火に焼きつくされることを告げます。主の熱情は人間への愛と期待のゆえに、それに対する裏切りと背信に対して、焼きつくす怒りをもって報いると預言しています。なぜ主の情熱があるのでしょうか。それは人間がどういきるべきか、どのみ言葉に立つべきかの期待の故だと言えます。

今回も避難所でカフェデモンクが行われています。宣教を目的とせず、傾聴する喫茶です。傾聴するだけでなく、その心に寄り添うことを求められます。しかし、いろいろな宗教団体が入り込んでおり、宣教しようとしています。いまこそ天罰がくだったのだから悔い改めなさいと。しかしそれは寄り添いではありません。いま必要なのは、神様を信じなさいではなく、神様はともにおられると伝える事です。それが神様のみ言葉に従った奉仕だといえます。。

ゼファニヤは「主の憤りの日に地上はくまなく主の熱情の火に焼き尽くされる」と預言しました。もし神様の声に聞き従わないならば、ということです。私たちは人生における様々なことから自分の罪を見させられます。そのときに悔い改め神様に従う決心をするのです。神様は今回の震災を通して何を語っておられるでしょうか。具体的になにをせよ言われているでしょうか。神様のみ言葉から答えを聞きとり、それを実行していきましょう。

2019年12月15日日曜日

2019年12月14日土曜日

明日はTV中継礼拝です。


説教者:立野泰博牧師(主任)TV中継礼拝
 
聖書朗読 

@第1日課: イザヤ    7:10-14  〈旧約1071頁〉

@第2日課: ローマ    1 :1-  7 〈新約  273頁〉

@本日福音: マタイ     1:18-23 〈新約    1頁〉




2019年12月13日金曜日

今年も鶴がやってきた

今年も元気に鶴がやってきました。
ちょっと見学に行ってきました。
家族で過ごしている様子です。
やっぱり飛び方がすてきですね。

2019年12月12日木曜日

「世界で一番小さいもの」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「世界で一番小さいもの」
 
 これだけは必ず読むという「マンガ」があります。コミックにすると、もう六三巻にもなるものです。牧師がマンガと言われそうですが、私などは何でも読んでみようという性格なので、結構マンガも楽しんで読みます。たまにはいいものです。
 
 さてそのマンガに、なぞなぞが書いてありました。
 
 「目が三つで歯が二本あるの、なあんだ」。答えは下駄。「一日中ゆげ出して口をとんがらせて怒っているもの、なあんだ」。答えは親ではなく、やかん。「明るくなればなるほど、小さくなるもの、なあんだ」。答えはローソク。
 
 なぞなぞなんて、とてもなつかしいものでした。ところがそのマンガの中には、なぞなぞがもうひとつ書いてありました。最後のなぞなぞです。「世界で一番小さいものなあんだ」。みなさんならどのように答えますか。
 
 世界で一番小さなものといえば、細胞とか粒子とか・・・。いろいろと真面目に考えてしまいますが、これはなぞなぞなのです。真面目に考えて答える人は、もう少し頭と心をやわらかにした方がよいかもしれません。私なども細胞とか粒子などと考えている位ですから、もっと余裕をもたなければならないかも。それでは、蚊の目玉、のみのうんち、針の穴なんてのはどうでしょうか。
 
 実はマンガでは、このなぞなぞを小さな女の子が必死で考えるという筋です。考えながらいろいろな出来事にぶつかります。お友だちとのケンカ、いじめ、夫婦ケンカや商売上の争い。それを通してまた「世界で一番小さなものなあんだ」というなぞなぞを聞かれます。すると彼女は「それは、人と人とのもめること」と答えるのです。
 
 キリストの愛を通して私たちが学ぶことは、人と人は妥協して生きていくのではなく、調和して生きていくということです。キリストにある調和です。人と人のもめごとを神様は望んでおられない。そうですよね。

2019年12月11日水曜日

「苦しみは避けられないのなら」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「苦しみは避けられないのなら」

ヨハネ黙示録2:10 「あなたは受けようとしている苦難を決して恐れてはならない」

テレビで派遣社員の孤独死をみた。何が彼を死に導いたのかなと思いながらテレビを眺めていました。人生の最大の苦しみは無気力にさせられることかなと思います。孤独になって、誰にも相談できず、家族にも話せず、苦しみの中で餓死という現実。どうやったらそこから抜け出せるのか。

黙示録では「苦しみを恐れてはならない」とあります。そこに続くのが「死に至るまで忠実であれ」とあります。苦しみは避けられない。ならば苦しみを恐れず、死に至るまで苦しみに対しても真っ向から向かい合わねばならないと思います。

「大川小学校に母子の石碑が建てられた」というニュースを東北支援のときにみました。写真ではよく見えなかったのですが、母親が子供を抱き締めている像でした。子どもたち、教職員を含む84名の方々が流された場所で「命」ということを考えました。慰霊碑には「百日たったいまも、会いたくて、会いたくて、会いたくて・・・」という、子どもを天に送られたお母さんの手紙がありました。教会、学校、幼稚園、保育園、施設。今回、ルーテル教会が母体となっている関連施設は、すべて「命」を預かるところだということを深く教えられました。いまはネットワークが必要です。出来る限りのネットワークをもちいて「命」に向き合う時だと思います4

避けられない十字架の苦しみの前に、死に至るまで忠実であったイエスがそこにおられます。神様にあって苦しみ受けとめたとき、新しい命の冠が与えられると聖書はのべています。苦しみは避けられない。ならば苦しみを受け取る信仰の力を求めたい。

2019年12月10日火曜日

「聖書通読毎週5章」


クレヨン牧師のミニエッセイ

「聖書通読毎週5章」
 
 今回は野外礼拝ということで、「神様のクレヨン」を休ませて頂こうと甘い考えを起こしました。ところが、インターネットのホームページで公開しているので休めないことに気がつきました。この文章を楽しみにしておられる方々から励ましのメールをいただいており、心強い限りです。
 
 さて、10年近く「聖書通読」に努力しています。毎日5章が目標です。すると1年間で聖書1冊の通読ができます。最近では、旧約2章、使徒書1章、福音書1章にして何回も繰り返し読むことにしました。しかし、これはとても大変な作業です。リズムなんですが、何度「やめよう」と思ったことか。また、いつ読むかにもよります。寝る前に読むと、いつのまにか自然と眠っていることもあります。一番いいのは、朝の一仕事を終えて「ほっと」した瞬間ですね。BGMなんかあるともっといいです。
 
 聖書通読はとても苦しい?作業ですが、これはとても恵みがある作業でもあります。なれてくるとスラスラと上辺をすべるようによみますが、それでも「はっと」する御言葉にであうのです。今年から新共同訳に変えて口語訳を読んでいます。いま、コリント人への第2の手紙を読んでいます。そこでパウロは次のように言っています。
 
 「わたしたちはほかの人の地域ですでになされていることを誇ることはぜずに、あなたがたを越えたさきざきにまで、福音を宣べ伝えたい」
 
 このパウロの言葉にどれだけ励まされたことでしょうか。「あなたがたを越えたさきざきにまで」私たちの教会は福音を宣べ伝えたいのです。教会の門を大きく広げて、教会から出かけていって、福音を宣べ伝えたいのです。そこに神様の豊かな恵みが満ち溢れるのでしょう。ということは、「神様のクレヨン」を休もうなんてとんでもないことでした。神様の福音がすみずみにまで・・という願いをもって。

2019年12月9日月曜日

「受け入れてもらえなければ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「受け入れてもらえなければ」

 マタイ 1042 わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。

被災地で活動している多くの人々に出会います。「やっている」「やってあげている」という感じを受けることもあります。被災地に雨が降り活動が中止になると「せっかくここまできてやっているのに」と声を荒げてクレームを言ってくるボランティアもいます。なぜ雨の日は中止せざるをえないのかをちょっと考えてみるとわかるのですが。お金と時間をかけて東北へきているということもわかりますが。ただ、そのとき「受け入れて下さる方がいなければ」を考えてほしいなと思います。私たちは被災地の方々に受け入れてもらえなければ活動はできないのです。

 イエス様は弟子たちを宣教へ送り出すにあたり、多くの言葉を語られました。その最後に「受け入れる人の報い」を教えられました。弟子たちは宣教活動の中で、喜んで迎えられるばかりではない。むしろ迫害をうけることが多いかもしれない。しかし、必ず受け入れる人がいる。その人々は神様の報いを受けるといわれました。それが冷たい水1杯であったとしても。

 いつも大江教会で出会う海外からのゲスト、先週のサムも含め、いつも同じ言葉で感謝されます。それは「日本という国のお客さんへの接待は素晴らしい。とくに大江教会のおもてなしは最高だった」というものです。お世辞もあるかもしれませんが、それでもなお。「親切だ、親切だ」と感謝されました。この言葉がなによりの慰めでした。その言葉の背景には「受け入れてくださって感謝」という言葉を聞くからです。イエス様は「旅人をもてなしなさい」といわれました。もてなすということは、受け入れることだと思います。そして受け入れることは、イエス様を受け入れることでもあると言えます。神様が様々な出会いを用意してくださっています。

 イエス様は「冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と言われています。そこまでの関係を持つことができれば、互いに祝福をうけるということです。「してあげる」「してもらう」だけでなく、互いに復興へむかうことが「となりびと」の役割だと思います。

2019年12月8日日曜日

きままな休日・またまた赤牛の丸焼き

阿蘇YMCAキャンプ場で赤牛の丸焼き!
8キロありました。塩コショウ、ニンニクで
シンプルな味付けです。いや~食べて元気がでた~

2019年12月7日土曜日

2019年12月6日金曜日

クリスマスイブも礼拝へ

阿久根教会クリスマスイブ礼拝
12月24日(火)19:00~
キャンドルサービスです。

2019年12月5日木曜日

「相反する気持ち」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「相反する気持ち」
 
 「読むクスリ」という本があります。最近出された本に「女性が物を買う4つの条件」というのが書いてあり、楽しく読ませていただきました。みなさんはその4つの条件がわかりますか?4つとは以下のものです。
 
 1、みんな持っているから。
 
 2、誰も持っていないから。
 
 3、やせてみえるから。
 
 4、夫が「買うな」と言ったから。 
 
 どうでしょうか。ここに非常に面白い現象があります。それは1と2です。相反する気持ちをもっておられるということです。「みんなが持っている」というのは極めて日本人的な思考で、安心するということでしょう。しかし、反対に「誰も持っていない」というのは、それだけ稀少価値があるということで、ちょっと自慢できるということでしょうか。人間はいつもこの矛盾の中に生きているものだと言えます。
 
 それでは信仰はどうでしょうか。これもまた同じではないかと思います。「信じる」という思いと「信じられない」というこの2つが、同じ私の中にあるのです。つまり、信仰というものが矛盾しているように思えるのです。しかし、そうかなと考えてしまいます。これは矛盾しているのではなく、実は一つのことの裏表なのです。「信じる」から「信じられない」のです。つまり、信じるために疑うことをするのが私たちなのです。
 
 トマスは「その手足に釘跡をみるまでは決して信じない」といいました。しかし、ほんとは、信じたかったのです。ですから、釘跡を見ずに「わが神、わが主よ」と告白しました。すべては信じるための「信じない」だったのでしょう。

2019年12月4日水曜日

「となりびとに寄り添う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「となりびとに寄り添う」

ルカ 10:36 あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。

東日本大震災救援活動の時、キリスト教文書センターから毎月出版される「本のひろば」に依頼され、エッセイを執筆しました。表紙をめくるとすぐある「出会い・本・人」のところです。まさか自分がこの欄にエッセイを書くことになるとは思いませんでした。とても光栄に思います。今回は東日本大震災救援活動で感じたこと、出会ったみ言葉について書きました。その冒頭にも書きましたが、M・ルターが書いた「キリスト者の自由」の中の1節が、今回のルーテル教会救援の根底にあると考えています。それは「となりびとに対して、私も一人の小さなキリストになる」という言葉です。そのことを具体化することが「被災者に寄り添う」ということだと書きました。多くの方からメールや電話で感想をいただき、反響の大きさに驚きました。その時「寄り添う」とは新しい視点でした。

 イエス様の有名なたとえ話に「善いサマリア人」の話があります。強盗に襲われ、瀕死の状態にあるユダヤ人を、祭司・レビ人(ユダヤ人)は助けなかった。しかし、ユダヤ人と敵対していたサマリア人は「その人を見て憐れに思い」最後まで世話をしたという話です。このたとえ話は、イエス様が「隣人を愛しなさい」と教えられたことに対する、律法学者からの「隣人とは誰ですか」という質問に答えられたものです。

 今回のルーテル教会救援は「できたしこ」です。いま1ケ月たってこの言葉の意味を考えています。「できるだけ」という意味ですが、出来るだけはその人によってかなり違います。救援活動をしていると「できるだけ」は必死になって頑張ってやり続けるということになりかねないかなと思います。すべての活動が終わって「できたしこ」という名前がつけられればいいです。それには終わり、けじめをつけて活動することなのかなと思います。しかしイエスさまには「できたしこ」はないかなとも思います。とことん仕えて行かれるのですから。だとするとどこかで私たちにはできませんと告白する時も必要だと思います。

 イエス様は話の最後に「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と律法学者に質問されています。「誰が隣人か」ではなく「誰が隣人になったか」と言われたのです。傷つき倒れている方々の隣人になっていくこと。その具体的な奉仕が「寄り添い」であると今回の救援活動を通して教えられました。

 

2019年12月3日火曜日

「神様のもとへ行く信仰」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様のもとへ行く信仰」
 
 坂昌子姉が神様のもとへ帰天されました。まだ47歳という若さでした。その人生はまさに「太く短く」と表現するにふさわしいものでした。ひたすら仕事に走り続けられた生涯でした。家族の皆さんも誇りに思うと言われたほどに、休む間もなく一生懸命に生きてこられたのだと言えます。
 
 坂昌子姉の受洗は、神様の導きとしか言えないものでした。お母さまと娘さんの洗礼日の前日、「私も洗礼を受けたい」と言われました。教会としては「喜んで」お受けしました。親子三代で同じ主の道を歩む決心をされたのです。しかし、受洗してまもなく脳腫瘍がみつかり緊急手術を受けられました。お医者さんは「このまま帰れないか、植物人間になるか、よくて車椅子生活になります」と宣言されました。手術まで何人かの方々と祈り、聖水を注いでお祈りしました。すると、奇跡的に手術は無事に終わったのでした。
 
 それから1年、身辺の整理をされ、最後に教会に納骨されてあるお父さまのお写真をきちんとしたものにしたいと、訪ねてきてくださいました。そのとき「牧師先生、私の死はもうすぐです。でも、死んだらどこへいくかわかってます。神様のもとへ行くのだから安心しています」と言われたのが5月でした。
 
 最後まで気がかりだったのは、7月にあるお父さまの召天記念祭でした。昏睡状態になる前の日まで「ルーテルに行く、教会へ行く」と何度も言われたそうです。最後の安心の場所がどこか知っておられたのだと思います。
 
 私たちには死んでも帰る場所がある。そこにはみんな帰っていくのです。だからこそ再び会える希望があります。「私を信じるものは死んでも生きる」と主イエスは言われました。そこに大きな希望と平安があります。