2019年4月30日火曜日

「ちょっとうれしいが大切」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ちょっとうれしいが大切」
 
 書店でビジネス書を立ち読みしました。「あなたのお客さんになりたい」という本の扉に次のように書いてありました。
 
 「いままでのサービス業は、『お得』ということがサービスでした。やがてそれは『便利』に変わりました。これがスーパーからコンビニへの移行です。これからは何か。それが『ちょっとうれしい』です。あなたがお店へ行ってあの店はよかったと覚えているのは、ちょっとうれしかったからです」。
 
 礼拝もまたサービスといいます。神様の福音は変わらないのですが、教会が人々に与えてきた恵み、人々が受け取る平安は、時代によって変わってきたのだと思います。キリスト教ブームといわれた時代がありました。その時は教会が人々のニーズにあっていたのでしょう。ところが、教会はそのときから変化したかといえば、その当時のままかもしれません。伝道の不振というより、時代をつかめないのではないでしょうか。
 
 これからの時代は「ちょっとうれしい」だとすれば(それが何年続くかわかりませんが)、それは感動を与えられるかということです。おおきなな感動ではなく、ちょっとした感動を与えられるかということです。
 
 いよいよフォローアップ委員会が始動します。またロビーでの喫茶コーナーが始まります。すべては「教会と出会えてちょっとうれしい」のためです。そこから信仰生活を初めて下さる方々が増えればと思います。

2019年4月29日月曜日

「神のみ言葉は隠れない」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「神のみ言葉は隠れない」

マルコ 421 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。

P.F.ドラッカーの本に、ギリシャ時代のことが書かれてありました。フェイディアスという彫刻家がいました。かれはパルテノン神殿の彫刻を任された長でした。無事にその仕事を完成させアテネの会計官に請求書をだしました。すると、アテネの会計官は支払いを拒んだのです。「誰にも見えない彫刻の背中の部分まで彫って、請求してくるとはなにごとだ」というのです。するとフェイディアスは次のように答えたのです。「そんなことはない。神々が見ている」と。

今日はイエス様の有名なたとえの一つです。神様の目には、隠されているもので表にでてこないものはないということでしょう。灯は神様の言葉と同じ意味を持っていますので、み言葉はかならず表にでてくるというたとえでもあります。私たちの信仰生活で、神様の目から隠れることもできないし、隠すことのできないのがあります。それはみ言葉です。このみ言葉に照らされながら私たちは生きています。そして、このみ言葉こそが我が足の灯です。だからこそ隠れることも、隠されることもありません。

シンガポールという国はとても小さい島です。しかし、ありとあらゆる民族が集まった国でもあります。マレーシア系、インドネシア系、アラブ系、タイ系、中国系、ヨーロッパ系、などなど。歴史のある貿易港だったことがわかります。ですから、ありとあらゆる食べ物があります。シンガポールに行くだけで世界グルメになれるほどです。また、シンガポールはとても奇麗な国です。なんと塵ひとつ落ちていないのです。道路は整備され、地下鉄は駅まで全冷房。しかも駅はピカピカ。日本が奇麗だと思っていた私は驚いてしまいました。日本よりも美しいのです。それもそのはず、モラルに対する罰金が高いのです。バス・地下鉄の中でタバコを吸ったら、S$1000の罰金です。日本円にすれば七万円の罰金です。麻薬などを国の中に持ち込んだ場合、その場で死刑です。ですから、「ここで・・すれば罰金S$1000」という看板の多いこと多いこと。しかし、シンガポールを歩きながら、寒々しくもありました。奇麗すぎるものですから。一緒にいた牧師がポツンと言われました。「ここまで奇麗だということは、隠れたところで抑圧されている人々がいるってことかも」と。汚くてよいとは思いませんが、なにが汚いというかは大きな問題です。

イエス様は「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。」と教えられました。私たちが奉仕をするときの心構えとは何でしょうか。結果を出すこと、成果をあげること。もちろんそうです。しかし一番大切なことは「神様がみてよしとされる」ことを自分に求めることです。私たちが託されている働きは、神様から任せられた働きであることを考えながら今週もすごしましょう。神様は見ておられる。そして私たちの中に働くみ言葉は隠されたままにはおかれないのです

2019年4月28日日曜日

気ままな休日・モールオブアメリカのポテト

ハンバーガについてくるポテト!
チリとチーズのトッピングを頼んでみました。
なかなかの味でした。でも普通のフレンチフライがいいかも!

2019年4月27日土曜日

明日は礼拝です

大江教会TV中継礼拝
説教者:立野泰博牧師
一度中継礼拝を体験してみませんか?

2019年4月26日金曜日

姉妹教会からの訪問

大江教会の姉妹教会である
LA復活教会から訪問団がこられます。
11日阿久根教会を見学予定です。

2019年4月25日木曜日

「遊びに複雑な感じ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「遊びに複雑な感じ」
 
 公園で遊んでいる子供をめっきりみなくなりました。それもそのはず、最近では「子どもたちだけで公園へ行ってはいけません」という指導がなされているからです。公園で自由に遊ぶことができないとは、なんと悲しい時代になったのでしょうか。「最近、学校のまわりには異常者がいます」とプリントがきました。親でさえ普段の日に、おちおち学校の校庭をのぞくことなんてできないのです。
 
 子どもたちの遊びも変わってきました。ほとんどの子供がテレビの前に座っているといいます。ということで、先生が昔の遊びを教えることになったのだそうでう。「じんとり」「ゴムとび」「たかいおに」「うまとび」「だるまさん」などなど。その中に「こおりおに」といものがありました。鬼にタッチされたらこおりのように固まっていなければならないというものです。しかし、鬼でない子にタッチしてもらったらまた自由になるという遊びです。私もよくやりました。
 
 さて、愛美のクラスでもこの「こおりおに」をやってみたのだそうです。はじめは楽しくやっていたのですが、突然ある男の子が泣き出したそうです。先生もわけがわからず、なぜ泣いているのと聞いたのだそうです。すると、その子は「だれも助けにきてくれない」というのです。鬼にタッチされてこおりになっているのだけれど、だれも自分に気がついてくれないというのです。
 
 なんだか、複雑な気持ちです。牧師館から小学校をながめながら、そこには深いものがあるかもしれないと思いました。もしかすると、自分のことしか考えられない子供ばっかりかもしれないし、遊びに楽しさがわかってないのかもしれない。
 
 神様が日常の生活の中で、何を教えてくださるのかを知りたいものです。
 

2019年4月24日水曜日

「法則を習慣へ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「法則を習慣へ」

1コリ 14:33 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。

「聖書を読むことを習慣とする」。これはいつも考えてきたことですが、大抵は三日坊主に終わっていました。習慣にするには意識を持つことが大切だと思います。だらだらと読めば習慣になるかと言えばなりません。時間をきめ、計画的にやってはじめて習慣となります。良いことも、悪いことも習慣となった時には、そのこと自体が影響力をもってくると思います。

 パウロはコリントの教会信徒に「集会の秩序」について語っています。集会のなかで、預言、異言、教え、啓示、それにともなう解釈などが秩序なく行われていたようです。そうならないように教会の「秩序」を教えています。それはすべて教会を建てるためにものであると理解するようにというのです。神様は無秩序の神ではないという言葉が印象的です。

 これだけは毎日やっていることは何かと考えてみました。それが習慣だと思いますが、数えてみるとたくさんあります。意識的に繰り返しているものがあります。そいて、ついてしまったものもあります。よい習慣は意識的につけたもの、悪い習慣はついてしまったものです。「習慣は紙の折り目のようなもの。一度ついたら中々とれない」という言葉を教えていただきました。この「紙の折り目」という表現は素晴らしいです。よく言い当てていると思います。両端をきちんと揃えて、意識的に折ったものの折り目は美しいです。折り紙などの美しさもそこにあるように思います。しかしいい加減に折ったもの、また仕方なく折られたものの折り目からは美しいという感じは受けません。問題は、一度ついてしまった折り目を元に戻すことは困難だということです。むしろ無理に近いことです。強制的にアイロンでもかけないといけません。そう思うと、意識的につけた習慣は人から見て美しいものがたくさんあります。たとえば挨拶、礼儀など。しかし、そうでないものは、いがいと見たくないものが多いようです。

 パウロは「神は無秩序の神ではなく」といいます。世の中には多くの法則があります。しかし、すべては神様の導きの中にある法則です。しかもその法則は神様の御心を伝えるための法則だと思います、何を持って成功とするか。そのミッション系の高校は、神様と共に働く者となることが成功と考えているではないかと思います。

2019年4月23日火曜日

「30代で3種類」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「30代で3種類」
 
 いよいよ「神様のクレヨン・」のパソコン入力がすみ、印刷屋さんへ届けてきました。これからまだ校正の作業が残っていますが、5月2日が出版の日と決まりました。これで、牧師になって10年分の雑文が2冊の本としてまとめられることになりました。実は、広島の週報に書いていますものは「神様のクレヨン・」ということになります。
 
 毎週800字位を目安に、毎週書いてきました。よくも毎週書いてきたなと思います。書くことがなくて困った時もありました。書くことが多すぎてカットしたこともありました。約200の雑文を再び読んでみると、これは一つの歴史なのだと思います。しかし、まあパソコンあればこそなので、これも時代が産んだご迷惑かもしれません。
 
 牧師になって30歳になったとき、30代で3種類の本を出版したいと祈りました。一つはエッセイ集。教会にはじめて来られたかたにも分かる本。二つめは説教集。中学生にもわかる説教集をだしたいというもの。この二つは祈りが聞かれて、「神様のクレヨン」「神様の色鉛筆」となって自費出版させていただきました。クレヨンは・になりましたがこれは予定外でした。
 
 さて三つめは聖書日課です。タイトルは「神様の道具箱」と決まっていますが、あと3年以内に出版せねばなりません。すでに250日分はあるのですが・・・。
 
 30代で3種類を。どうも3が好きなのです。お祈りください。そしてお楽しみに。それにしても祈るということは、責任もついてくるということですね。

2019年4月22日月曜日

「祈り・願い・お願い」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「祈り・願い・お願い」

 フィリピ 4:6 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

山口県萩にある松蔭神社にいったことがあります。吉田松陰がご神体でしょうか。とにかく吉田松陰の魂を沈めるためのものだと理解しています。そこに多くの方がやってきて願いごとをされます。絵馬にはたくさんの言葉が書いてありました。そのほとんどは「学業成就」「大学合格」でしたが。中に「恋愛成就」「長生きできますように」「家内安全」「結婚したい」というのがあり、笑ってしまいました。吉田松陰の人生、哲学、生き様を考えると、もし彼が神様であるなら願うことは違うだろうなあ~と。もちろん皆さんは神様とおもっておられるから何でも聞いてくださると考えているのでしょうが。祈りと願いの内容が違うのだろうと。

 パウロはフィリピの信徒を励まして祈りと願いを教えています。しかし、この言葉の前に「主はすぐ近くにおられます」と告げます。イエス様がすぐ近くにおられるのだ。だから心配せず、思い煩わず、近くにおられるイエス様に語りかけることを教えるのです。ただ、「何事につけ」の「何」を神様に祈り、願い、打ち明けるかはその人の信仰によることであり、その人がそのまま現れるところです。

北原白秋の詩を読んでいましたら、次のような詩に出会いました。

  落葉焚けばおもしろ、

  櫟(くぬぎ)の葉はふすふす。

  萱(かや)の葉はちょろちょろ、

  松の葉はぱちぱち。

 なんという心の余裕でしょうか。ふつう焚き火をするときなど、騒ぎ回って静かな心でその音を楽しむなんてことはありません。よっぽど静かな心で焚き火を見つめていないとわからない音の違いがあるのです。

 教会から出ていろいろなことに忙しくしていると、何か大切なことを忘れてしまうことがあります。忙しい中にいるときは、その時のことしか考えられず、一番いい時を過ごしていると思います。しかし、神様がなぜそこに自分を遣わされたのかを忘れてしまうのです。どんな状況にあっても感謝していたいと思います。

 パウロは「感謝をこめて」といいます。まず感謝があり、それから神様と対話するのです。あれがほしい、これをしてほしいと自分のことばかりが祈りと願いではなく、神様の御心を聞くことが祈りと願いではないかと思います。

2019年4月21日日曜日

きままな休日・九州学院(大盛堂)のどら焼き

九州学院特製のどら焼き
母校からいただきました。
これがまたうまいのです。大盛堂さんのどら焼き

2019年4月20日土曜日

2019年4月19日金曜日

阿久根教会に集う

阿久根教会の礼拝風景です。
恵み豊かな礼拝に来てみませんか?

2019年4月18日木曜日

「何をしているのか」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「何をしているのか」
 
 次のような話を聞きました。
 
 ベットのセールスマンが、ある会社の会長の自宅に飛び込み訪問をしてきました。誰にでも面会に応じることを信条にしているので、会長は会っていきなり質問をしました。
 
 「きみは何を売っているのか」。
 「はあ、ベットです」。
  「だから、何を売っているのかと聞いているのだ」。
   セールスマンはしばらく考えて答えた。
 「安らかな眠りを売っています」。
  「きみ、それだよ」。
 と、会長はすかさず相手の手を握って激励したそうである。
 
 よく、ご職業は何ですかと聞かれます。やっぱり「牧師」と答えるのですが、それでは牧師とは何をしているのかを答えることは少ないものです。自分を振り返ったとき、一番わかりやすい答え方を考えてみました。
 
 「神様の喜びの訪れを伝えています」。「神様があなたを大切にしておられることを伝えています」。「救われた喜びを分かち合っています」。さあ、あなたはどう答えますか。

2019年4月17日水曜日

「時満ちて道がある」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「時満ちて道がある」

エフェソ  1:10 時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。

私とキリスト教の初めての出会いは、カトリック系の幼稚園に入園したことからでした。親がとくに意識したのではなく、近くにあった幼稚園に入れられたものと思います。しかし、その幼稚園との出会いが、いまを築いたと思われます。本当に楽しい幼稚園生活でした。しかも、年に1回ある健軍教会でのミサで、十字架に磔にされたイエス様との出会いが、牧師への道を決定づけたと言えます。それくらい衝撃的でした。その出会いが、時が満ちて高校の時に花開いたのです。

パウロは、キリストの「血によって贖われ、罪を赦された」ことを、神様の恵みによると言います。この恵みが隠されたものではなく、いまや公に公然と語られるようになったというのです。それは神様の時が満ちたからです。神様の時が満ちることで救いが完成され、すべてのものはキリストのもとに一つにまとめられると教えました。中心はキリストにあるというのです。神様の計画がそこにあるのです。

九州の山奥に過疎化のために若者が一人もいなくなった村があります。この村が若者に帰ってきてくれるために努力した話を聞きました。きっと涙ぐましい努力があったと想像しますが、その逆でたいへん楽しい努力だったそうです。まず、村のお年寄りは「楽しさ」をテーマとしました。とにかく楽しい村にしようとしたのです。いろいろな計画がもちあがり、何が一番楽しいかを考えました。結果的には自分たちが一番楽しいことがいいとなったのです。そこでみんなで梅の木を植えまして、梅製品を造り始めたのです。なんでそれが楽しいのかといえば、その梅製品の販売利益でみんなでハワイ旅行をしようときめたのです。そして、その旅行の楽しさや、梅造りの楽しさを新聞にして、村から出ていった若者に毎月送り届けたというのです。「いまこれが楽しい」「みんなでいったハワイ旅行は楽しかった」「村のこれがいま楽しい」などなど、楽しいことを企画してその楽しさを届けたのです。数年後その村がどうなったかおわかりでしょう。いまや若者とお年寄りのバランスのいい村となったのです。この話を聞いて、「これからの大江教会の宣教はこれだ」と直感しました。私の宣教方策はまず楽しさからです。楽しさのなかで福音を分かち合いたい。

私たちの人生で起こっている神様の出来事は、秘められた計画かもしれません。どのような出会いがあり、いつ信仰の種がまかれているかわかりません。しかし、いつか時が満ちるとき芽をだし、実を結ぶのです。パウロは「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」と教えています。私たちの人生は、キリストのもとにひとつにまとめられる計画の中で生きています。救いへの道がすでに私たちの前に用意されているのです。

2019年4月16日火曜日

「知っていてくださるお方」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「知っていてくださるお方」
 
 あるエッセイ集で次のような話をみつけました。よくあることなので共感してしまいました。
 
 「少女がバスの中で、途中から乗ってきたおばあさんに席をゆずろうとしました。腰を浮かせ、まさに声をかけようとした時、前の席の男性がすっと立ち上がり、先に席をゆずってしまったのです。気まずい思いで、少女は席に座っていました。しかし、バスを降りる時、おばあさんは席をゆずってくれた男性だけでなく、後ろの席の少女にも、『ありがとう』と頭をさげた。『席をゆずろうとしたことがわかっていたんだ』。おばあさんの一言に、少女は人を思いやる心を学んだ」
 
 席をゆずろうとして、なんとなくタイミングを失うことがあります。そんなときは、ちょっと眠ったふりをしてその場をやり過ごすときもあります。どちらも気まずいものです。ゆずらねばと思えば思うほど、それをできなかった自分に落ち込んでしまうのです。立っている方は、「なんて思いやりのない」と思っているかもしれないと考えると、いても立ってもいられないものです。
 
 そんなとき、このおばあさんのように声をかけられたらどんなに助かることでしょうか。このおばあさんの声は、神様の声と同じだと思います。「私は知っているよ」といつも語りかけてくださるのです。知っていてくださるお方を私たちは信じているのです。

2019年4月15日月曜日

「自分が変わらねば」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「自分が変わらねば」

ヤコブ 1:19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。

「自分が変わる」ということは難しいことです。最近の説教ではそのことをよく話していると教えていただきました。確かに新しい教会に赴任して、いままでと違うことに戸惑いを感じることもあります。そんなとき、それを受け止めるには自分が変わることを求められます。また同時に教会も変わることを求められます。ただし、教会には変わらないもの、変えてはいけないものもあります。それは「み言葉」「信仰」「神様の恵み」です。それをはっきりさせるために変えていく努力をしなければなりません。イエス様が大江教会に求めておられることは何かを常に考えています。

ヤコブは、神様の言葉を聞いて実践するというテーマを持っています。その時、自分中心をどのように乗り越えるべきかを語ります。最初に3つのことの実践するように勧めます。「聞くのに早く」「話すのに遅く」「怒るのに遅く」です。これを読んでみると、すべては相手に合わせなさいということでしょうか。自分が変わるということを求められているようです。ヤコブの時代にも教会内で様々なトラブルがあったようです。そこには生身の人間の集まりがありますから、言い争いや分裂などもあったことでしょう。しかし、神様が与えてくださった交わりはそれを乗り越えるために相手を思い、愛し合い、赦しあうという恵みを与えてくださっています。そのためには「わきまえる」ことが大切なのです。

教会からの手紙を書いてくださる姉妹が、牧師室でこんな素敵な話しをしてくれました。「牧師先生、毎回教会からの手紙を書かせて頂いていて気がついたことがあります。実は『受』けるとい字を書いていると、いつの間にか『愛』という字を書いてしまうのです。上の方は同じなのですが、いつも愛になってしまう。受けることは愛に変わるのですね」と。意味のある言葉だなと思いました。神様からの恵みを受けとめたときに、そこに愛が生まれる。その愛を必要としている人たちと共有するときに愛は働くのだと。そして人は変わっていくものです。

ヤコブは「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」と教えています。私たちは、自分のことを話したい。聞いてもらいたい。訴えたいと自分を中心に考えています。しかしヤコブは、「わきまえなさい」と教えます。自分を変えていくことが「わきまえる」ということです。私たちは職場でも関係の中で生かされています。何かうまくいかないことがあったとき、主にあって「自分が変わる」ことを考えてみる必要があります。変わることでうまくいくことがある。私たちの人生も、主によって変えられて今があるのです。

2019年4月14日日曜日

きままな休日・阿久根教会のお昼

阿久根教会では月に数回お昼ご飯がでます。
これが絶品なんです。美味しい!
しかも、懐かしいおふくろの味!
お煮しめなど最高です。味わってください。

2019年4月13日土曜日

明日はTV中継!十字架の道行礼拝です。

説教者:立野泰博牧師(大江教会)
TV中継による「十字架の道行」礼拝
ぜひお越しください。

2019年4月12日金曜日

さあ!復活祭りの礼拝です。

イエス様の復活をお祝いします。
礼拝後に召天者記念の祈りも行われます。
ぜひお越しください。

2019年4月11日木曜日

「きっと花咲く時がくる」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「きっと花咲く時がくる」
 
 「会館運営委員会」に出席のため、東京へいってまいりました。たくさんの荷物を持っていくものですから、森先生には「まだ出張慣れしてないなあ」と笑われてしまいました。何をそんなに持っているかといえば、ほとんどはノートパソコン機材です。それに加えあれもこれもと詰め込んで、みるみる大きくなるのでした。しかし、つい便利なものでこうなってしまうのです。
 
 さて、その大きな荷物の中に帰りには素敵なものを詰めてきました。それは植物の種です。つばき、せんりょう、あけび、かりん、その他。なんとこれは市ヶ谷教会のまわりでとれたものだそうです。渡辺牧師が大切に育てておられました。しかし、もっと驚いたことは、これらの木は誰が植えたのでもなく、鳥が運んできた種が木になったということです。神様の命を誰かが受け継いでくれるのですね。しかも、その木が都会に潤いを与えているのです。
 
 ということで、さっそく私も牧師室のベランダにプランターを置いて、庭にしてみようかなと思いました。けっこう根気がいることだから、途中で投げ出してしまうかもしれません。まあみていてください。
 
 宣教の種蒔きも同じかもしれません。根気よく、あせらず、こがらずです。きっと花咲く時がくることを信じていたいものです。

2019年4月10日水曜日

「あこがれ」

阿久根ルター君の朝のみことば

「あこがれ」

コリント  7:11 神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。

ある幼稚園新聞の9月号のテーマは「あこがれ」でした。子どもたちにとって「あこがれ」を持つとはどんなことか。こんな人になりたいという「あこがれ」をもつことが、子どもたちの心の成長を促していくという事が書いてありました。私がチャプレンをしていた幼稚園の卒園文集には、いつも子どもたちが「何になりたいか」を書いて残してありました。幼稚園の先生、お花やさん、ケーキ屋さん、おまわりさん、サッカー選手などなど。みんな「あこがれ」をもっているのです。その中で印象的なことを書いた子どもがいました。彼は電信柱になりたいと書いていたのです。大笑いしながら理由を聞いてみると、暗い夜に明るいからとのこと。大きく解釈すれば、人の暗闇に光を灯す人にあこがれていたのかもしれません。そのあこがれを持ち続けてほしいと思いました。

 パウロによるコリントの信徒への手紙1,2をまとめると、少なくとも5通の手紙をコリントに書き送ったのではないかといわれています。その中に「涙の手紙」というものがあります。パウロが「涙ながらに」としるしている手紙です。その後「和解の手紙」が送られているのをみると、コリントの信徒の人々に悔い改めが起こったのでしょう。「神の御心に適った悲しみ」が悔い改めに導き、そのことによって「あこがれ」がもたらされたと書いています。新約聖書ではここだけにしかない言葉です。

 現代の子供たちに「いま、一番ほしいものは何か?」という質問をすると、どんな答えが返ってくるのでしょうか。一番多い答えは「お金」だそうです。ほかのどんなものより、お金にあこがれ、お金を手に入れたがっていると、ある本にかいてありました。土地とか一戸建ての家とかいう答えも多いそうです。あまりにも現実すぎていやになってしまいます。それでは自分に問うてみます。「一番ほしいものは?」。とっさに答えを思いつきませんでした。たしかにほしい物はたくさんありますが、一番といわれると答えようがありません。しかし、お金と土地ではないことだけはわかります。それでもこれだということができないくらい「幸せ」なのかもしれません。

神様は私たちが生きていくうえで、必要なものはすでに与えてくださっています。そのことに気がつかないで「あれもほしい。これもほしい」と願っている自分がいることもわかります。それがほんとうに必要なものであるか?と言われれば案外そうでないものが多いものです。だとすれば、いま神様から与えられている恵みを受け取り、感謝し、それを分かち合っていくことのほうが幸せなのです。「いま、一番ほしいもの」。それは神様の愛に気がつく信仰。そして感謝できる自分。そんなことにあこがれを持っています。

 パウロは、神の御心に適った悲しみが、あこがれをもたらしたと言っています。あこがれとは慕うという言葉と同じ意味です。神様の御心に適った悲しみによって悔い改めがおこり、それが神様を慕うあこがれとかえられていく。詩篇には「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」という言葉があります。ここに本当のあこがれをみるように思います。

2019年4月9日火曜日

「神様のアンテナ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様のアンテナ」
 
 日曜日の虹にはじまり、土曜日の雨で終わる一週間でした。自然はなにをプレゼントしてくれるのか、本当にドキドキさせられました。今日の礼拝出席は大変だったことと思います。
 
 さて、先週はある方が悩みの相談にこられました。生きていくのがつらいという相談だったのです。そのなかで、「新幹線の中で、どうしてこんな悲しいのかと思って空を見上げたら虹がでてました。ちょうど福山あたりでした。その虹をみたとき神様が何かを語って下さると思い教会へきました」と言われました。実は丁度同じ時間に私たちも、その虹を見たのです。婦人会の途中でしたが、皆でながめたあの虹だったのです。神様はその虹を架け橋にして、痛み苦しんでおられる方を教会へ導いてくださったのです。
 
 今日は雨でした。この雨をとおしてまた神様が奇跡を行われるかもしれません。どのような奇跡かはわかりませんが、なんとなく神様の御業に出会えるような気がするのです。
 
 神様はいろいろなところにアンテナをはっておら、導いてくださるのです。その導きに多くの方々が気づければいいなあと、降る雪をながめながらこれを書いています。

2019年4月8日月曜日

「最後に言う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「最後に言う」

エフェソ  6:10 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。

「メールのやり取りでは、本当に伝えたいことは追伸で書け」と教えられました。それは、一番伝えたいことや気の利いたひと言は最後の一文に入れるのが有効的であるというものです。普通のメールでも仕事のメールでも、最後に笑えるような余談が入っていたりするだけで、そのメールは好印象を与えるそうです。なぜなら、人はその内容に反応したくなるようにできているからです。本文と追伸(P.S)をうまく使い分け、相手に興味を持ってもらいたい内容は最後に入れる。すると印象が強くなって本当に伝えたいことが効果的にその人に伝わるそうです。

パウロは手紙の最後に、エフェソ教会の信徒たちを励ましています。キリストの体である信徒は、この世の中で教会の大切な部分として立ち続けてほしいという言葉でした。そのために信徒は、「神様に依り頼むこと」「その偉大な力を信じること」そして「神の武具で身を固める事」を薦めています。パウロは、それらの励ましを「最後の最後」にのべているのです。

香港の新空港は大きくて素晴らしいものです。中心部までも「機場快速」という列車が走っており、シートにはすべてテレビ付きという飛行機なみの列車でした。香港に行っていつも戸惑うのは、この列車・地下鉄などの切符の自動販売機です。まず行き先の画面のボタンに触れます。つぎに行きだけか、往復かに触れる。大人か子供か選択し、人数を決める。金額が表示されます。普通ならばそこでお金を入れて買います。ところが、それではお金ははいりません。金額の表示のあとにこれで決定するに触れないとお金は入っていかないのです。つまり、最後にもう一度、決定するかしないかを念を押してくるのです。たいていの旅行者はそのボタンに触れないのでお金が入っていかず戸惑って列車に乗り遅れるみたいです。私はお節介にも販売機の横で日本人に教えて感謝されました。最後に意志決定するかしないか、もう一度確認する。今までの自分の生き方を確認して先に進めと言われているみたいでした。
 パウロは「最後に言う」のあとで、励ましの言葉を伝えました。パウロが最後の最後に伝えた福音は、神様に依り頼みなさいということでした。神様には偉大な力がある。それを信じて生きて行くことは神様に依り頼むことです。神様に依り頼むとき、信仰の武具が与えられます。パウロが「最後に」伝えた福音にたって、今日も生きていきましょう。

2019年4月7日日曜日

きままな休日・熊本「福来亭」のお母さん水餃子

熊本水前寺駅そばに「福来亭」があります。
中国のコックさんご夫妻のお店です。
これがものすごく美味しい!さらに安い!
お母さんの手作り水餃子は絶品です!

2019年4月6日土曜日

2019年4月5日金曜日

木瓜の花

阿久根教会の木瓜の花が見頃です。
ほのぼのとしていいですね~

2019年4月4日木曜日

「キリストの最高の知恵」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「キリストの最高の知恵」
 
 ある本の中で、「母親の最高の知恵」という文章を読みました。
 
 「子どもが道ばたで転ぶ。アメリカの母親はどうするか。じっと見ている。助けに行かない。自分で立ち上がるのを待つ。独立心を植え付けさせためだ。
 
 日本の母親はとんで行く。助け起こす。『かわいそう、かわいそう』とほこりを払う。その瞬間は母子ともにハッピーだ。でも、将来を考えると暗い。
 
 最高の知恵を持っているのは、アフリカの母親だ。子どもが倒れる。どうするか。すばやく、自分も同じようにバタッと倒れる。子どもはびっくりする。『あ、お母さんも倒れたッ』母親は一人で立ち上がる。それを見て、子どもは自分で立ち上がることを学ぶ。これが母親の最高の知恵だろう。」
 
 アフリカの生活の厳しさが、そのような知恵になるのでしょうか。子育ても時と場所と環境によって様々に変化していくものなのでしょう。
 
 さて、この文章を読みながら、それではキリストはどれだろうと考えていました。結論は「これ全部だ」と思います。キリストは私たちにとって、一番必要なことはご存知です。あるときは厳しく、ある時は優しく、本当に必要なときは私のために倒れてくださるのです。しかし、それは立ち上がることを教えてくださるためです。キリストと共にあるとき、人はきっと立ち上がることができるからです。

2019年4月3日水曜日

「壁のうちに平和を」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「壁のうちに平和を」

詩篇  122:7 あなたの城壁のうちに平和があるように。

被災地で救援活動していたころ、避難所にもよく出入りをさせていただきました。私たちがいったころは避難所生活も1ケ月を過ぎた頃でしたから、各家庭の場所が整理されプライバシーが守られていました。しかし、このプライバシーをどうやって作ったかといえば、隣りとの境界線に壁を作ることからだったそうです。実はこの壁が避難所生活のなかで大きな問題となったとも聞きました。壁が出来たばっかりに「共に」ということがなくなったのかもしれないと。プライバシーとは何か、それを守るとは何かを考えさせられました。

旧約聖書・詩篇にある「神殿にもうでる歌」です。内容は、エルサレムを称える歌です。エルサレム巡礼に出発するときの喜び。困難な巡礼の旅を終えてエルサレムに入城した喜び。巡礼者たちが平和を願うように促され、それに応えて歌うというものです。その中で、壁のうちに平和がと唱えています。

事務局にいたころ、毎朝掃除のおばちゃんと少しだけ話しをしました。ある日のテーマは謙虚になるということでした。おばちゃんはいまでも高校の校長先生の訓示を覚えているそうです。それは「自分がつくった壁から覗くと、人は壁の向こう側の人を見下すことになる。自分の後ろにはもっと高い壁があることを覚えておきなさい」という話だったそうです。おばちゃんは、その後ろの壁から見ておられるのが神様だと思うと言っていました。人はすぐ壁をつくってしまうけれど、壁の中で平安に生きるには、謙虚になることだと。そのように生きてきたら壁もなくなってまわりが平和にきたと。朝から考えさせられる言葉でした。

私たちは人との関係ですぐに壁をつくります。自分を壁の中において、そとを覗きながら生きています。そのとき、人を見降ろしていることに気がつきません。壁のうちにある自分に平和があるとき、壁はなくなり人を見降ろしたりしないですむのだと思います。そのためには、いつも見守ってくださっている神様に気がつくことが必要です。もともと自分の後ろに高い壁などなく、神様がともにいてくださるだけなのですが。

2019年4月2日火曜日

「分けると増える」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「分けると増える」
 
 イスラエルに行ったとき、パンの奇跡の教会がありました。皆さんもよくご存知の「五千人の給食」の奇跡がおこった場所に立っているとか。ガリラヤ湖畔ののどかな場所だったなと思い出します。しかし、どうやったら五千人が「満腹」になるのだろうかと考えてながらそこを後にしました。聖書のは「食べたすべてのこのは満腹した」とあります。この満腹という言葉がひっかかっていたのです。
 
 ところが先週、ある一冊の料理本の中に書かれてあった言葉に「これだ」というものを見つけだしたのです。それは・・・「たとえばユズでも、たくさんあれば一人一箇ずつユズ釜としてご馳走すればよい。たった一箇を何十人、何百人となれば、皮をミジン切りにして、ふろふき大根の味噌の上に色どりと香りとしてそえれば、皆で同じようにちょうだいできる」。
 
 主イエスはあのときパンを感謝して裂き、弟子達にわたして配らせたとありました。つまり、分けられたのです。一人一箇ではなく分けられた。たった一箇でも、分ければ増えるのです。主イエスの恵は分けられるとき増えていくのです。そして、それが「満腹」つまり「満たされる」ことへとつながっていくのだと思います。
 
 私たちに主イエスから頂いている恵も、多くの方々と分け合うときのこそ満たされていくのではないでしょうか。しかも、みな同じように。