2018年2月28日水曜日

「光を迎える」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「光を迎える」

 ヨハネ 1:4-5 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。

中国の昔話です。「年をとった王が、溜息をついていった。『わしはもう七十才になってしまった。まだこれからでも学問をし、本を読みたいとは思うが、こう遅くなってはどうにもならぬ』。するとお付きの学者が『遅くなっても、日が暮れたら、明りをつければいいのでは』と返答する。王は『何を申すか、からかわないで欲しい。わしが遅くなったと言ったのは、一日のことではなく、一生のことだ』。すると学者はゆっくりと、『なんで王をからかいましょうぞ。人間の一生、少年時代に学問するのは、朝のようなもので、太陽は次第に光りをましてきます。壮年時代は、つまり昼どき、太陽は明るく輝きます。さて老年は、太陽がもう沈み、あかりの力を借りなければなりませんが、しかし、なにもなくて、真っ暗のなかを手探りするよりはずっとましではありませんか』と」。光があることが私たちを導くのです。

 ヨハネによる福音書には、馬小屋でうまれるクリスマスの物語はありません。むしろ哲学的な表現でキリストの誕生を書きしるしています。ナザレのイエスこそ神様の言が受肉した人物であり、神様を知るには、このイエスを知ること以外にないと言います。その大切なテーマとして「言」「命」「光」があります。

クリスマスの時期にくるのが冬至です。冬至は、二十四節気の第22番目です。旧暦で11月の内にあります。現在広まっている定気法では太陽黄経が270度のときでだいたい1222日ごろです。ある年は、この季節としては珍しい皆既月食があり、多くの人が赤に色を変える月の姿を見ることができました。冬至に皆既月食となるのはほぼ4世紀ぶりとのことだそうです。実はクリスマスは、2~4世紀ごろ古代ローマで冬至の日に祝っていた「太陽神の誕生祭」「農耕神の収穫祭」がキリストの誕生と結びつけられたと考えられています。冬至の日は、昼間が一番短くなります。つまり暗闇が一番長い日なのです。この世の光としてキリストが来られた。それによって、この世の闇は消え去り、神様の光が輝きはじめるという意味がありました。

イエス・キリストの誕生は、この世に救いの光をもたらします。明日からは暗闇は少しずつ短くなっていきます。私たちの中にキリストを迎えるということは、この光が自分たちに与えられることを意味します。クリスマスはキリストの光をお迎えすることです。暗闇の中にあってもこのキリストの光が私たちをしっかり導いてくださいます。

2018年2月27日火曜日

「なぜ騙されるの」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「なぜ騙されるの」
 
 ある本に「大鼻の蔵人得業」という話が紹介されてありました。『宇治拾遺物語』からのものです。
 
 奈良に一人の僧がおりました。彼は鼻が大きかったので「大鼻の蔵人得業」と呼ばれていました。この僧は若いころ、ちょっとしたいたずらをしたのです。それは猿沢の池に、「某月某日、この池より竜登らんずるなり」と書いた立て札を立てました。もちろんウソです。案の定、人々はそれに引っ掛かりました。
 
 「おい竜が登るそうだね」「そうらしい。ぜひともみたいものだ」という噂を聞くたびに、自分がやったいたずらに人々がだまされたと、僧はよろこんでいました。ところが、噂は噂を呼び、ますます騒ぎはひどくなってきたのです。そして立て札に記された日になると大和、河内、和泉、摂津の国の人達までやってきて、猿沢の池は道も通れぬほど人で一杯になりました。
 
 はじめは僧も平気な顔をしていましたが、だんだんそわそわしてきました。愚かな群衆が引っ掛かったと思っていたのですが、(ひょっとしたら、何かあるかもしれない)と思い始めたのです。そしてそのうちに(これは、何かあるに違いない)となり、慌てて猿沢の池に向かったのです。池の回りは群衆でごったがえしています。そこで僧は寺の大門の上に登って、池をじっと見つめていました。もちろん、竜がいつ登るかを期待して。しかし、竜は時間になっても登りません。そのうちに日が暮れてしまいました。という話です。
 
 自分が神様だという人々は、これにひっかかるのですね。自分を神様といわないまでも、人間は自分を誤解していることが多いものですが。

2018年2月26日月曜日

「定められています」

阿久根ルター君の朝のみ言葉
 
「定められています」

ルカ 2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

大阪教会の機関紙に、ある信徒の方が「引き際にロマンを見た」という題で、昨年天に召された石橋幸男牧師語録を書いておられました。「信仰の業で最も偉大なことは、いかに多くの人に福音を伝えたかではなく、伝えねばおられない人間に変えられたかである」「『自分を愛するように隣人を愛せよ』古今東西地球上にただ一人の自分を愛し切らねば、人に愛を注ぐことはできない。神が自分をして、何を表現されようとしているのか、使命を模索し、高める努力をすべきである。他人から必要とされる人に変えられなければ、その人の信仰は空しい。泳げなくてどうして溺れるものを救うことができるだろうか」。信仰の心を定めることを教わったようです。

 イエス様を出産した母マリアは、律法の定めに従ってその子を主に捧げるためにエルサレムの神殿にやってきました。そこでシメオンに出会います。彼は「正しい人で信仰があつく」「聖霊が彼にとどまっていた」人でした。シメオンは母マリアに神様によって定められたイエス様の受難を予告し、母マリアもそれを目撃することになると預言しました。

 動物(ペット)と共に生きるというラジオ番組がありました。ペットロス症候群が話題になっており、日本人に多い現象だと言っていました。もともと日本人の感性では、食べる動物とペットを区別できず、その境界線を曖昧にしてしまうそうです。欧米の感性は「神様が食べる動物と、ペットを区別して創られた」と考えており、「この動物のすべてに死が与えられている」と考えるのだそうです。だから、死ぬという前提のもとに「いまどのように接するか、共に過ごすか」が大切だというのです。そこには十分に愛情をそそぐのだからペットロス症候群にはならないということでした。すべては信仰の問題なのかなと思います。

 イエス様の母マリアはすべてを心に留めていきていきます。神様の子どもであるイエス様に、我が子でありながら従っていく人生を歩むには「すべてを心に留める」しかなったのでしょう。シメオンの預言をとおして受難を知った母マリアでしたが、その預言ゆえに今をいきることができたのです。

2018年2月24日土曜日

九州の牧師たち

ルーテル教会九州地域教師会メンバー
この牧師たちで九州の宣教を担っています。
よろしくお願いします。

2018年2月23日金曜日

きままな休日・山江の栗ようかん

26904445_10211433099164627_6282807908422229940_n   九州自動車道の山江SAでみつけました。栗ようかん。
   ここは栗の産地ですので、栗です。栗が入っているのではなく栗の羊羹です。
   なかなか美味しいですよ。これを切らずにガブリついて食べました。
   なんという幸せかな~~~~

2018年2月22日木曜日

「神様の目は先をみる」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様の目は先をみる」
 
 帰省ラッシュというのに初めて出会いました。ところが、ちょうど方向が反対だったので、ラクラクとそのラッシュを眺めることができました。しかし、久留米あたりから、関門橋を過ぎてなお車の渋滞には驚きました。動いているように見えてノロノロの渋滞なのです。
 
 初めのうちは「これは大変だろうな」という思い。だんだん「かわいそうだな」になって、「トイレはどうするのだろう」と心配になりました。しかしなお車の列は続いている。「子供を乗せている車は大丈夫なのか」と祈りました。
 
 こんなとき、車にすべて無線がついていて、すれ違う車が、前の状況を伝えるようにすればいいのではと思いました。古賀サービスエリアに入るのに、15キロの列と分かれば近くのインターで降りてドライブインを探すでしょうに。また、子供連れならば、途中で降りて休んだほうがどれだけ楽しい旅行になるかしれません。
 
 そう考えながら、神様の目というのはこんなものかもしれないと思いました。その人の人生の先がすべて分かっている。この道を自分の考えだけで進めば、たまにはラッキーなこともあるかもしれないが、たいていは泥沼の渋滞に入り込んでしまうものです。その時、その時に祈りという無線で神様に聞くのが一番いい方法なのです。車の渋滞をながめながらそんな風に思いました。

2018年2月21日水曜日

「約束を信じる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「約束を信じる」

ルカ 1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

この時期になると、サンタクロースはいるかということが話題になります。クリスマスの1日で世界中の子供たちにプレゼントを配るとしたら、1人の子供に要する時間は果てしなく瞬間にちかいという計算をした人もいます。つまり瞬間移動しているから人間の目には見えないというのです。私はサンタクロースがいるかいないかを議論してもしょうがないと思っています。目をつぶってサンタクロースを思い浮かべることができれば、それは存在するという教えの方がロマンチックでいいと思います。つまりその存在を信じる者だけに存在するものがあるのです。

 イエス様の母マリアは、受胎告知を受けたあと親類のエリサベトを訪問します。神様のお告げによって身重になった2人がそこで出会いました。エリサベトはマリアの訪問を喜び「あなたは祝福された方です」と挨拶をしました。その時マリアのことを「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」と言いました。マリアの「お言葉どおり、この身になりますように」との言葉を受けてのことでした。

教会から30年も離れておられた信徒の葬儀をさせていただいたことがあります。生前にお会いすることはできませんでした。昭和33年に教会で、目が不自由だった石松量蔵牧師より洗礼を受け、神戸ルーテル聖書学校で学び、実家の仕事をされていました。その後何かの事情で教会から離れ、30年後に「葬儀は教会で」という本人の願いで、再び教会へ帰って来られました。ルーテルアワーで教会を知り、石松牧師から「信じる者、愛する者は幸せである」と説かれ、兄は少し意地悪な質問をされました。「あなたは目が見えないのに幸せなのですか」と。すると石松牧師は「私は目が見えないおかげで外見に惑わされる事がありません。私はお互いの心と心で相手を見る事ができます」と答えられたそうです。その言葉に深い感銘を受け、聖書を学び洗礼を受けられたというのです。葬儀のとき、兄の聖書をみせていただきました。赤線がびっしり引いてあり、兄をとらえた聖書の言葉がわりました。聖書には三つの言葉が記されてありました。「謙遜」「わたしたちは、すべてにまさって、神を恐れ、神を愛し、神に信頼しなければならない。ルター」そして、この一語につきると書かれていたものは「ときに患難は苛苦に見ゆるとも、そはあわれみにより、あたえられしものなり」と。

トマスは「その手足に釘跡をみるまでは決して信じない」といいました。しかし、ほんとは、信じたかったのです。ですから、釘跡を見ずに「わが神、わが主よ」と告白しました。すべては信じるための「信じない」だったのでしょう。 エリサベトはマリアの訪問を受け「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」といいました。神様は必ずみ言葉どおりに実現される方です。それを信じることが私たちに祝福をもたらします。必ず実現するから信じることもできます。信じる心を育てるには裏切らないことだと思います。

2018年2月20日火曜日

「夢をもつ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「夢をもつ」
 
 たまには、まったく違う世界に足を踏み入れてみるのもいいものです。といっても、それほど踏み入れたわけではありません。むしろしかたなくといった方がいいかもしれません。
 
 8月4日に、広島までミュージカルを観にいってきました。その名もズバリ「サマースペシャル・ミュージカル セーラームーンSs」です。普段ならば母親と行くのですが、あいにく三番目が生まれたばかりなので、私が引率となりました。ところが、一番楽しんだのは私だったかもしれません。なんとCDまで買ってしまいましたから。そのミュージカルを観ながら、どれだけの子供達がこのストーリーを理解しているのかなと疑問に思いました。小さい子供にはちょっと複雑だったかもしれません。一番大切なシーンで、ザワザワしていましたから。もちろん、お決まりの変身と戦いのシーンでは盛り上がってましたけれど。
 
 さて、主人公のセーラームーンが、「夢をなくしてはだめ。夢をなくしたら人は生きていけない」と叫ぶシーンがありました。ポヤ~と観ていた私でも一瞬ハッとしました。「いま自分は夢があるだろうか。夢をなくしていないだろうか。現実の重さに夢を捨ててはいないだろうか」と乗り出してしまいました。子供たちにはセーラームーンが、私には神様が「夢を持つ」ことの大切さを教えてくれました。私の夢は「キリストの福音をあまねく宣べ伝えることです」。

2018年2月19日月曜日

「つながってここにいる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「つながってここにいる」

ヨハネ15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。

 ある会議の合間に、幼稚園の園長もしておられる牧師が教えてくださいました。「今日は幼稚園で一日を過ごしました。そこでお誕生日会があり、私はずっと一人の3歳児の手を握っていました。自閉症で多動なのだけど、手をつないでいるとおとなしくして会に参加できるのですよ」と。素敵な話だなと聞いていました。手をつないでいることで、子どもと牧師の間にどんなことがおこっているのでしょうか。「ここに一緒にいようね。ここにいてもいいよ。いることを確かめようね」という会話が聞こえてきました。 ここに共にいてつながっていようね。イエス様もここにおられるよというメッセージが手をつなぐことで伝わっているのだと思います。

ヨハネによる福音書には、「イエス様の決別説教」があります。十字架を目前にして弟子たちにどうしても言い残さなければならない遺言のような説教です。今日のみ言葉はその中でも有名なものです。イエス様は「わたしにつながっていなさい」と言われました。イエス様につながることが信仰の本質です。人につながるのではありません。そのあと「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」といわれています。何か成果を出せといわれているわけでなく、つながっていることで実を結ぶといわれたのです。ですからイエス様にまず「つながる」ことが大切です。「つながる」ことで実るものがあります。それはきっと素晴らしいものです。

 世の中には相乗効果といわれるものがあります。その相乗効果という話題で、アメリカでのドイツ車大流行の話をききました。新聞・ニュースでは日本車の売上が伸びているのは事実ですが、ここにきてドイツ車に人気が集まっているというのです。その理由は、新しいタイプのフォルクスワーゲンが発売されたのです。むかし「かぶと虫」と言われていたあの車です。このデザインがかわいいので、みんなが競ってドイツ車の販売店におしかけたのです。しかし、売り切れ。しかたなく他の車でも見て帰ろうか・・が、ほうドイツ車って良いじゃんとなり、他のドイツ車がどんどん売れているのだそうです。宣教の方法もこの相乗効果を考えました。教会へつながるということは、キリストにつながるということです。そのために教会の中にはいっていただけることを考えています。

 私たちはここに「いる」存在です。それは一人ではなく、ここで信仰の交わりをもつ方々と共に「いる」存在です。そしてイエス様とつながってここにいる存在です。そんな私たちですから、誰もかけてはなりません。イエス様につながっていることで一つに「いる」ことを思い、神様の業の実を結んでいきましょう。

2018年2月16日金曜日

休日クレヨン・母のポテトサラダ

26903809_10211361430932966_13903299863200630_n仮設で暮らしている母がポテサラをご馳走してくれました。
母のポテサラは母だけが出せる味。
いつも美味しいな~と思います。
まだまだ仮設生活は長引きそうです。
一日も早く家でポテサラが食べられますように。

2018年2月15日木曜日

「讃美歌の力」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「讃美歌の力」
 
 教会学校のキャンプも無事終わりました。レンタカーのバスのクーラーが故障していて、一時はどうなることかと思いましたが、なんとかそれも乗り越えられました。その後子供達に聞いてみると、クーラーのことはあまり思いでがなく、それ以上にキャンプが楽しかったようです。
 
 わが家の娘たちにとっても、初めての教会らしいキャンプでした。というのも、いままでのキャンプは遊び中心で、聖書や讃美歌を教わるチャンスがあまりなかったのです。それもそのはず、計画を立てていたのが、私や地区の牧師だったからです。おろそかにしていたわけではありませんが、スタッフが足りなかったのが原因かとおもわれます。
 
 さて、今回のキャンプから帰ってくるなり、子供達は教えていただいた歌を何度も歌っています。その歌も、スタッフが作詞作曲したペトロの歌、トトロの替え歌でペトロ(これには笑ってしまいましたが)、十字架に向かう歌。それぞれに、なにか印象深かったのでしょう。
 
 私たちはいつも何げなく讃美歌を歌っていますが、だんだん歳をとるごとに口ずさみはじめるようです。教会立の老人ホームでは讃美歌がたえないといいます。歌に秘められた不思議な神様の力を感じます。そういえば、詩編も讃美歌でしたよね。

2018年2月14日水曜日

「共にいることの介入」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「共にいることの介入」

マタイ 1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

ある時、総会資料の牧師報告を読まれた一人の姉妹がすぐに電話をくださいました。「先生のお考えがあったら失礼ですが、イエス様の御言葉に間違いがあると思います」と。さっそく読んでみて冷や汗がでました。たしかに間違っていました。「悔い改めて、福音を信じない」と印刷されているではありませんか。自分では「悔い改めて福音を信じなさい」と書いたつもりでした。「さ」が入るのと、入らないのとでは全く意味が違います。最近こういったキーの打ち間違えの多さに自分でも困っています。この前は「教会総会」を「教会疎開」としてしまいました。一字の違い、一言の違いと簡単にすめばいいのですが、そうはいかないこともあります。「何が食べたいですか?」と言われたとき、「ラーメンでいいです」という返事と、「ラーメンがいいです」という返事ではかなり違います。「何でもいいです」というのが一番困りますが。 イエス様は「聖書の一点、一画もくずされることはない」と言われています。神様の御言葉はたった点のひとつでも大切な言葉です。おろそかにできません。そのような御言葉を私たちも頂いています。

本日与えられている聖書のみ言葉、イエス様の系図です。はじめて聖書を読む人の前に立ちはだかるのがこのマタイによる福音書「系図」です。新約聖書は「マタイによる福音書」からはじまるので、多くの人はここに戸惑いをもちます。ただし、この系図もよく読むと、興味深いことに出会います。女性がマリアを入れて4名だけ出てくるとか、バテシバの名前はなく、「ウリヤの妻」となっているとか。神様のまえに罪を悔改めた人々の系図でもあります。どこを切っても神様が共におられるという系図になっています。

その中でも、本日の箇所はかなり面白いところです。クリスマスの出来事が書いてあるのですが、どうみても系図としてはなりたっていないのです。イエス様の系図となっていますが、もともとこれはマリアの夫ヨセフの系図です。イエス様はおとめマリアから生まれますので、つながりはあいません。ところが、いつのまにかそこに神様が介入され、イエス様がこの系図に入ったことになっています。「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアから」を読むと、本当は「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このヨセフから」と書かねばならないところです。しかし、ここにクリスマスの出来事の意味が記されています。

クリスマスは、神様が人間の系図に「介入」された出来事です。私たちの救いのために、介入された出来事なのです。「ヨハネ3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神様の深い愛のゆえに、私たちの人生に介入される。共にいてくださるという介入なのです。今週もクリスマスの意味を考えながら、過ごしてまいりましょう。


2018年2月13日火曜日

「掃除魚」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「掃除魚」
 
 宇部のダイトウ製版の事務所には、働いておられる方の趣味で熱帯魚がたくさん飼われています。私などはグッピーしかわからないのですが、きっといろいろな種類が飼われているのでしょう。とても奇麗で、みんなオシャレなドレスを着ているみたいです。
 
 さて、そのような華やかな水槽のなかに、一見グロテスクなものがいます。どうもナマズの一種のようで、水槽のガラスに張り付いて、あっちこっち移動しているのです。どうして、このようなナマズをと聞きましたら、実は水槽の掃除をするのだそうです。つまりゴミ処理魚というわけです。そこでよくみていますと、水槽をあっちこっちしながら、苔をたべています。また、魚のフンや、その他ゴミといわれるものを食べています。話によると、この一匹で、水槽はとても奇麗なのだそうです。ところが、問題は成長も一番早いとのこと。
 
 水槽を眺めながら、表で働いているものもいれば、裏でいつも働いている者があり、共同して生きているのだと感じました。どちらが表でどちらが裏という考えも間違っていますよね。この両方が、その命では表です。そしてこの命を支えておられる神様がいらっしゃるのです。
 
 華美が初めての通知表をもらってきました。いいとこも、悪いとこも、判断しているのは人間です。神様の判断によれば、すべてが◎でしょう。

2018年2月12日月曜日

「旅は神様がすべて用意されている」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「旅は神様がすべて用意されている」

マタイ  10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。

クリスマスの出来事の中に「旅」というテーマがいくつか散りばめられています。一つは受胎告知を受けたマリアは親類のエリサベトを訪問する旅があります。また人口調査のためにベツレヘムへの旅。そしてエジプトへ逃避の旅です。この3つの旅の中にも「神様が共におられる」ということが繰り返し語られます。私たちの人生は旅にたとえられます。自分から進んでいく旅もありますが、人生の旅は困難な旅の方が多いかもしれません。そのようなときにこそ「神様が共におられる」ことを実感することが旅の目的かもしれないと思います。

イエス様は12弟子を選ばれたあと、彼らを宣教へと派遣されました。彼らを派遣するにあたり具体的な行動と忠告を与えておられます。基本的には、「宣教の旅には何も持って行くな」ということです。神様がすべて用意してくださっているということもあります。弟子たちは行く先々で人々を教え、病気をいやし、神様の平安があるようにと祈れと言われたのです。しかも送り出す方向も指示しておられます。

インドの笑い話に次のようなものがあります。

 旅人がサトウキビを積んだ牛車のおじさんに道を尋ねました。

 「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」

 「そうだな、三・四十分というところだな」

 「そうですか。ところで、すみませんが、わたしもこの牛車に乗せてもら えませんか」

 「いいとも。乗りなされ」

 それから四十分ほどして、旅人は尋ねました。

 「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」

 「そうだな、一時間くらいかな」

 旅人は怒りました。さっきは、三・四十分といったではないかと。すると 牛車のおじさんは言いました。

 「旅の人よ。この牛車は反対の方に進んでいるのですぞ」

 進んでいる方向を確かめなかった旅人が悪いのです。

イエス様は「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」と言われました。旅する時に持たなければならないものは多くはありません。目的と時間だけだと言えます。そして方向を見据えるということです。与えられた時間を神様のために用いること。それが宣教です。弟子たちは何も持ってないようで、信仰と時間と方向を持っています。

2018年2月10日土曜日

礼拝です!

阿久根教会の礼拝風景です。
最近はいつも15名を超えています。
感謝です。

2018年2月8日木曜日

「期待に」

クレヨン牧師のミニエッセイ

期待に」
 
 暑い日々が続いています。こんなときはさわやかな笑い話がないかなと考えていまして、一人で思わず思い出し笑いをしてしまいました。
 
 ある時、商工会議所のイベントに呼ばれたことがあります。私が呼ばれるのは大抵が変わった結婚式の司式なのですが。その結婚式は、お祭りの中でのものでした。さて、結婚式が無事終わりホッとしている時、代表の方が挨拶にこられました。そして、「これはほんのお礼です」とかなり分厚い封筒をくださったのです。わたしはとっさに「商工会議所はやっぱりすごいのだ」と関心してしまいました。いったいいくらくださったのか、はやく見たくてしかたありません。挨拶も早々に引き上げ、どこかでこれを見るところはないかと探していました。ゆうゆうよ歩きながら、心は「はやく、はやく」といっています。やっとのことでスーパーのトイレに入りました。期待に胸をふくらませて、中をのぞき込みました。すると、その商店街で使える、100円の商品券が30枚はいっていたのです。トイレの中で大笑いしました。いやいや商品券にではないですよ。自分自身がおかしくなったのです。その後この件について、よくよく考えてみました。きっと神様が、「おまえはお礼をもらうためにやったのか」「これでは不満なのか」「あなたはどこに立っているのだ」と問われていたことに気がつきました。それ以後、頂いた封筒は切らずに、愛する妻に渡しております。

2018年2月7日水曜日

「みえている案内人」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「みえている案内人」

マタイ  23:24 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。

大型タンカーの船長だった人から聞いた話です。大型タンカーは航行中にすぐに止まれない。完全に停止するまでには3時間以上かかる。港に入っていくとき、これを計算しなければならない。また湾に入ったときには必ず水先案内人が必要となる。この案内人は3時間先にどうなるかを計算しながら状況を把握し、さらにすべての舟の位置をチェックしている。大きな流れは止められないこと、止めるためには前もっての準備と知識を必要とする。案内人には、すべての命がかかっているのだからと。

イエス様は、律法学者とファリサイ派の「偽善」に対して激しく非難しておられます。長い言葉からなる批判ですが、大きくは3つに分けられます。1、ユダヤ教指導者の偽善への批判。2、7項目の不幸の宣言。3、キリスト教迫害の実態。本日の言葉はその「不幸」とされた1つです。ぶよは小さくても律法では汚れた動物とされています。これがぶどう酒に入らないように注意深く濾過しているのに、大きくてラクダ(これも汚れた動物)を呑み込ませている。そんなことをする案内人は不幸だと言われるのです。案内しなければならない人がその道がみえていない。これでは案内はできません。イエス様は案内人の条件として「見えている」をあげられています。この「見えている」は人生において最も大切なことだと言えます。

山道を通る道で大変な時があります。それは、濃霧がでたときです。その中でも、1㍍先が見えない霧にであうことがあります。これにあうと、頼りになるのはガードレールとセンターラインだけです。スピードを落として、ゆっくりすすむのです。普段の倍以上に疲れます。このような濃霧の中で教えられるのは、いつもなら遠くまで見えるハイビームよりも、足元がよくみえるライトの方がよいということです。私たちが生きている時代は、先の見えない時代だと言われます。こんな時は、足元をきちんと見る必要があります。禅の言葉では「脚下照顧」です。足元を見る時に見えてくるものもあります。その足元の灯りとしてのみ言葉があります。

イエス様は「ものの見えない案内人」という言葉で、真実の救いへと導くこと大切さを語られました。私たちにとっては、イエス様のみ言葉が、ものの見える案内人として与えられています。今日は何を語っておられるのか、どのように命への道を案内して下さるのかを注意深く聞きとっていきましょう。

 

2018年2月6日火曜日

「携帯電話神経症」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「携帯電話神経症」
 
 どうも最近ある病気になってしまいました。それは「携帯電話神経症」です。この病気の特徴は、電話から解放されないことによる神経症です。まあ勝手に私がつけた病名ではあるのですが。
 
 携帯電話を持つようになって、便利な面と不自由な面と両方あります。便利な面は、どこからでも電話できるし、どこにいても本人がつかまる。これは、いろいろなことが即決できるという便利さがあります。教会においては、常に信徒の皆さんに対応できるということです。
 
 さて不自由な面。これはどこにいても電話に出なければならないということです。たとえば、そこが運転中の車でも、電車・バスの中であっても、そしてトイレで用を足していてもです。またいつかかってくるかわかりませんから、電話を離せないのです。この電話を離せないということは、仕事から解放されないことを意味します。最近の失敗は、松岡牧師の携帯電話になにげなく「いま元気?」とかけたところ、松岡牧師は威厳のある声で「元気だけど、いま火葬場」と。これは困りました。また、よるカラオケで歌っている時に、悩みの相談などなど。これでは神経症になるわけです。電話を見るのが怖くなります。
 
 しかし、神様ってすごいとも感じます。祈りによっていつでも人の思い聞かれるのですから。神様は「祈り神経症」にはならないのです。

2018年2月5日月曜日

「それはただの石かも」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


それはただの石かも

ルカ  12:54 あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、「にわか雨になる」と言う。実際そのとおりになる。

 ある教会のバザーに、黒い丸いものが出品されました。しかし、それが何であるか誰もわかりませんでした。みんなで、こうじゃないか、ああじゃないかと意見をのべていました。ある人は置物だといい、ある人は何かの蓋でないかと。すると一人の子供がやってきて、その黒いものを取り上げ、「黒い石だ」といったのです。あるがままにみていると、まさしくそれは石でした。ただし何に使うかはいまでもわかりません。バザーって何が出てくるかわからいものです。

 イエス様は群衆にむかって一つの問いかけをされました。群衆は、イエス様のみ言葉を聞き、奇跡の業を見てきました。それがあるということは、神様の国が到来しているということです。しかし、それを群衆は見分けることができませんでした。自然現象は見分けることができるのにと言われたのです。「実際そのとおりになる」という言葉から、「なぜ」という問いかけが浮かび上がってきます。わたしたちは見分ける目を持たねばならないのですが、それが一番難しいといえます。イエス様のみ言葉を基準にしなければできないことです。

道元が宗の国に留学して、如浄から禅を学んで帰ってきました。京都深草に興聖寺を建て修行に励んでいると、近所の人が集まってきます。その人たちは、「和尚さんは宗の国で大変よいことを学んで来られたそうですが、私たちにもその奥義を知らせてください」と頼みました。すると道元は「只眼横鼻直なるを知るのみ」と答えたそうです。分かり易くいえば、「いや別に新しいことはない。ただ眼は横に並んでおり、鼻は縦についているということだけだよ」と。ようするに「あるがまま」ということでしょうか。でもこの「あるがまま」ほど難しいものはありません。よく「あるがままにみる」という言葉を聞きます。たしかに「あるがまま」にみることは大切なことですが、これがとても難しいものです。ある本には以下のように書いてあります。「人は誰しも、自分は客観的だと考え、自分こそ世界をあるがままに見ていると思っている。そして、ほとんどの場合、他人は枝葉末節に埋もれており、自分だけは大所高所から状況を把握していると思いこんでいる」。自分だけの味方で「あるがまま」ということでは客観性に乏しく、それは本当の「あるがまま」ではないということです。

 イエス様は、人は自然現象のしるしを見分けることができるのに「今の時を見分けることを知らないのか」と言われました。あるがままにみてきたことの知恵を集めると、確かな情報が得ることができます。しかし、その知恵をつかって時を見分けるためには、信仰の目が必要となります。キリスト者は信仰によって「あるがまま」に見ることができます。それが時を見分けることになるのです。

2018年2月2日金曜日

きままな今日実・天ぷら盛り合わせ

いや~いつ食べてもてんぷらはOK
こんなに美味しいのがあるんだね~
といつも思います。

2018年2月1日木曜日

「約束って何」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「約束って何」
 
 「約束」ということほど、忘れ去られてしまうものはありません。約束を守るということに、いいかげんになっている自分をよく感じます。つまり、自分の都合で、コロコロといとも簡単に約束を破ってしまうのです。
 
 我が家では、毎晩寝る前に「お父さんによる創作童話」の会を開くことにしています。場所はフトン、聴衆は二人。内容はとりとめのない創作話です。あるときは聖書の話もするのですが・・・。
 
 さて先日のことでした。その日は朝から忙しく、やっとホッとしたのが夜になってからのことでした。それで、「今日はお父さんは疲れているから、お話しはなし」といったところ、それからが大変でした。「約束だったのに」「お父さんのウソつき」「いつも約束を破る」と泣き出してしまいました。これには私もカッときて「約束したけど、お父さんも疲れているのだ」「約束だって守れないこともある」などと言い訳する始末。後から自分の言葉を点検してみると恥ずかしい思いでした。「約束」とは何かを思い知らされる出来事でした。
 
 そのような中で、華美の言葉に嬉しくもなりました。その言葉は泣きながら「はなちゃんは、毎日、毎日、お父さんのお話しを楽しみにしているのに。お話しがあるから嬉しく眠れるのに」というのです。何げない話の中に、神様が与えてくださる絆があるのでしょう。