2018年8月31日金曜日

アメリカ・ノースカロライナから

鹿児島教会にノースカロライナのタラント牧師が
礼拝奉仕に来てくださいました。

2018年8月30日木曜日

「つらい係」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「つらい係」
 
 長女・華美が、2年生になってはじめての通知表を持って帰ってきました。それを見ながら、人間を評価するのは難しいなあといつも思います。これがすべてではないことを知っているのですが、これがすべての基準となることが恐ろしいと思うのです。
 
 さて、つらつらと眺めていますと、先生からの評価が書いてありました。そこには、「宿題係として、みんなの宿題の調査をよくできました」とありました。それを読んで、私はなるほどと思ったのです。なぜなら、華美が1回も忘れずに宿題をしていたのはこのためかとわかったのです。あれほど毎日宿題にこだわったのもそうかと思いました。調査する係が宿題を忘れるわけにはいかなかったのでしょう。
 
 しかし、つらい係だなあとも同情しました。そして、このような係がいるのかなあとも思いました。同じ友達のことを調査する。しかも、忘れた人を報告しなければならないなんて、つらかっただろうなと思ったのです。
 
 たとえつらい係であっても、正直にこなさなければならないことは、たくさんあります。それは信仰の世界にあっても同じことです。しかし、それはキリストの十字架の上に立つからこそできるものです。いろいろな経験をして大きくなっていくのでしょうが、十字架のゆるしの視点は大切にしておきたいものです。

2018年8月29日水曜日

「つながる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「つながる」

ヨハネ  15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。

ある時、他教派の牧師が訪ねてくださり、びっくりするようなニュースを教えてくれました。そのニュースとは「先生の書かれた『神様のクレヨン』を古本屋で見つけましたよ」というものです。本当にびっくりしました。

 古本屋に出回るようになったのか、と感慨深いものがあります。見に行きたいという衝動もありますし、いったい値段はいくらかなと心配でもあります。たかが1冊の本ですが、私にとっては子どものようなものです。いまそれぞれの本はどのようになっているのでしょうか。家の中のどんなところに置かれているのでしょうか。そして、その本を通してどんな人生が送られているのでしょうか。そのように考えると祈らずにはおれません。なにかつながっているという感じがあるのです。

 今日のみ言葉は、イエス様が十字架の出来事前に語られた決別説教のみ言葉です。ぶどうの木と枝のたとえ話から、十字架という緊迫した出来事の中で何が大切かを教えておられます。イエス様は、木に枝が結びつくように、イエス様と弟子たちの関係で重要なことは「つながる」ことだと言われました。木はイエス様で、枝は弟子たち・私たちを意味しています。そのつながりの中に神様の命も知ることができます。

 東日本大震災救援活動報告を全国各地の集会に呼ばれておこなっています。九州では、多くの方が参加してくださいます。緊急救援からの1年間をとくにはなしております。私たちの緊急救援は各教会・女性会で、わかめプロジェクトにはじまりました。雑巾、おすそ分け、思い出写真洗いと活動が広がりました。被災地とつながった活動ができたという感想をいただきました。講演後の質問の多くは「これからは何をしたらいいでしょうか。どんな支援が必要でしょうか」というものです。全国の皆さんが被災地の方々とつながっていたいという気持ちを感じました。「まず、祈ってください」と答えました。ルーテル教会としての課題は、救援活動がどのようにつながっていくかだと思います。そのために秋刀魚やあぶり焼きいわしがやってきます。

 イエス様は「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と言われました。つながっていることの確かさを教えられたのです。被災地の方々と私たちがつながっているということは、私たちをとおして、被災地の方々もイエス様につながっていることになります。そのつながりの中心に祈りがあります。祈りでつながり、み言葉でつながり、忘れないでつながっていくことが大切だと考えています。

2018年8月28日火曜日

「メイクベターとメイクニュー」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「メイクベターとメイクニュー」
 
 先週広島で、ある企業のパーティに出席する機会があたえられました。初めての経験でしたので、ワクワクいたしました。しかし、始まってみると、入り口にて会長さんと社長さんが立って挨拶されただけで、あとはプログラムなしという不思議なものでした。想像していたのは、挨拶があって乾杯があってスピーチがあってというものでしたから、何にもなくただ食べて自由に解散するというパーティが新しく感じたのです。
 
 さて、本当にただ食べて話しているだけなのかを観察してみると、ほとんどが名刺交換であるとわかりました。つまりは「新しい出会いの場を設定」してあることに気が付きました。このようなパーティでお客さんが喜ぶのは何かということから考えだされたものだったのでしょう。
 
 お客さんが帰られたあとの、社員だけの打ち上げパーティにも出てみました。するとそこでは、挨拶、訓示、乾杯、など予定通りの進行でした。訓示の中で会長さんが次のようにいわれました。
 
 「初めてパーティにかかわった人は《メイクベター》、すでに経験している人は《メイクニュー》をお願いしたい」と言われました。お客さんに次ぎにはもっと喜んでいただけるものと、新しい感覚で喜ばれるものを作り出せということでした。教会の宣教にかけているものを見た思いです。

2018年8月27日月曜日

「清楚感」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「清楚感」

マタイ 2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

秋になりました。小学生の句集「ちいさな一茶たち」には次のような句があります。

  かあさんいない落葉がとんでいくばかり

 この気持ちは、痛いほどわかります。学校から帰っても誰もいない家。本当は学校であったことを一番に話したいのに。その寂しい気持ちを、落葉が飛んでいく音に心を合わせたのでしょうか。私も鍵っ子だったので共感してしまいました。もうひとつ。

秋の空やわらなそうな雲の城

 青い空を眺めていると、心が清々しくなってきます。

 秋はとても清楚な気持ちになります。これはどこからくるのでしょうか。きっと神様が造ってくださった自然が秋の「清楚」なものを持っており、夏の激しさからの安心を与えてくれているのかもしれません。私たちはこの清楚の中にある清潔感が好きなのかもしれません。

 クリスマスの時、東の方から3名の占星術の学者たちが星に導かれてベツレヘムにやってきました。救い主の誕生を知らせる星をみて御子を拝みにやってきたのです。ベツレヘムまでくると、星がある場所の上で止まりました。学者たちは大喜びで、星が泊った家に入ってみると、幼子と母アリアがそこにいたのです。そこに漂っている清楚な雰囲気が伝わってきます。

 あるホテルの支配人が、若いころに指導を受けたことを話してくださいました。ホテルは「清潔である」だけではいけない。大切なことは「清潔感を感じていただけるか」だと。「清潔」と「清潔感」とは、同じようで全く違うことです。清潔であるには清掃を徹底させればいいのですが、それだけでは清潔のままです。そこにお客さんの気持ちを考え、心をこめて清掃する時に「清潔感」が生まれるというのです。清潔感とはそこに係る人の問題なのです。どれだけ心がそこに込められているかなのでしょう。

 「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」。この一文の中に、クリスマスの祝福を感じます。この世に誕生した救いイエスさまの誕生が全世界に知らされる時、その最も中心には母と子の姿があるのです。この出来事のなかに、神様の清らかさ清楚を感じます。

2018年8月26日日曜日

気ままな休日・アメリカンなステーキ

アメリカLAに行ってきました。
「あなたのためのステーキだ」と焼いてくださいました。
超アメリカンなステーキ!最高でした!

2018年8月25日土曜日

明日は礼拝です

明日の礼拝
説教:立野泰博牧師(大江教会)
どなたでも 待ちしています。

2018年8月24日金曜日

2018年8月23日木曜日

「言葉はいろいろあるけれど」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「言葉はいろいろあるけれど」
 
 香港・澳門の旅から無事に帰ってきました。とても体力を使う旅で、体重がなんと2キロも減ってしまいました。それだけ動いた?のでなく、いま澳門の気候は、なんと気温30℃湿度90%でした。一日中がスチームサウナのような気候なのです。
 
 さて、今回の恵はなんといっても「女子パウロ会」のシスターたちと出会ったことでしょう。4人のシスターがアパートの1室を修道院にして生活しておられました。それぞれ、ブラジル、ポルトガル、アメリカ、日本の方々です。その明るいこと、共通語はスペイン語だそうです。中華料理のテーブルを囲みまながら宣教について、生活について、政治について(中国へ返還後のこと)、などなどそれはもう言葉が入り乱れておりました。英語で質問したら、スペイン語で答え、それに広東語がつづき、ポルトガル語が意見を述べる。それに日本語で質問をすると、北京語が帰ってくる。ところが、それが自然にわかるのです。通訳してくださったこともあるのですが、それ以上に、「キリストにある一致」がそれを理解させてくださることがよくわかりました。
 
 ブラジルのシスターが、「パスターのところには難民はいますか」と聞かれました。「いません」と答えながら、ほんとにそうだろうかと考え込んでしまいました。いないのではなく、いないようにしているのかも・・・と。

2018年8月22日水曜日

「光を迎える」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「光を迎える」

 ヨハネ 1:4-5 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。

中国の昔話です。「年をとった王が、溜息をついていった。『わしはもう七十才になってしまった。まだこれからでも学問をし、本を読みたいとは思うが、こう遅くなってはどうにもならぬ』。するとお付きの学者が『遅くなっても、日が暮れたら、明りをつければいいのでは』と返答する。王は『何を申すか、からかわないで欲しい。わしが遅くなったと言ったのは、一日のことではなく、一生のことだ』。すると学者はゆっくりと、『なんで王をからかいましょうぞ。人間の一生、少年時代に学問するのは、朝のようなもので、太陽は次第に光りをましてきます。壮年時代は、つまり昼どき、太陽は明るく輝きます。さて老年は、太陽がもう沈み、あかりの力を借りなければなりませんが、しかし、なにもなくて、真っ暗のなかを手探りするよりはずっとましではありませんか』と」。光があることが私たちを導くのです。

 ヨハネによる福音書には、馬小屋でうまれるクリスマスの物語はありません。むしろ哲学的な表現でキリストの誕生を書きしるしています。ナザレのイエスこそ神様の言が受肉した人物であり、神様を知るには、このイエスを知ること以外にないと言います。その大切なテーマとして「言」「命」「光」があります。

クリスマスの時期にくるのが冬至です。冬至は、二十四節気の第22番目です。旧暦で11月の内にあります。現在広まっている定気法では太陽黄経が270度のときでだいたい1222日ごろです。ある年は、この季節としては珍しい皆既月食があり、多くの人が赤に色を変える月の姿を見ることができました。冬至に皆既月食となるのはほぼ4世紀ぶりとのことだそうです。実はクリスマスは、2~4世紀ごろ古代ローマで冬至の日に祝っていた「太陽神の誕生祭」「農耕神の収穫祭」がキリストの誕生と結びつけられたと考えられています。冬至の日は、昼間が一番短くなります。つまり暗闇が一番長い日なのです。この世の光としてキリストが来られた。それによって、この世の闇は消え去り、神様の光が輝きはじめるという意味がありました。

イエス・キリストの誕生は、この世に救いの光をもたらします。明日からは暗闇は少しずつ短くなっていきます。私たちの中にキリストを迎えるということは、この光が自分たちに与えられることを意味します。クリスマスはキリストの光をお迎えすることです。暗闇の中にあってもこのキリストの光が私たちをしっかり導いてくださいます。

2018年8月21日火曜日

「説教の中にある対話」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「説教の中にある対話」
 
 ビジネス能力研究会という所から「1分間能力開発」という本がでています。この手の本は、数をあげればキリがないほど出版されています。ということで、1冊くらい読んでみようと買ってみました。いくつか興味深いところもあり(といっても変なところにですが)、その中でも私にとって恵みだったのは、次ぎの文に出会ったことです。
 
 「一方的にしゃべる人の話を正確に理解するのは難しい」。おもわず「ん~」とうなってしまいました。なぜなら、説教というのは一方的に話すことだからです。それでは、説教は正確には伝わらないのでしょうか。もちろん、牧師によって様々ですが、分かりやすい説教と分かりにくい説教があります。後者の方は、15分~20分の話を一方的に聞くものにはいるのでしょう。
 
 しかし、分かりやすい説教といわれるものがあります。単に話が面白いとか、たとえが興味あるとかではなく、主の御言葉が素直に伝わってくる説教があるのです。それはどうしてかを考えてみました。結論として分かったことは、説教の中に対話があるかどうかです。たとえ一方的に聞く説教であったとしても、その中で御言葉と自分との対話がなされたとき、感謝して受け取る御言葉となるのです。ある神学者は「説教とは牧師と信徒の共同の黙想(メデテーション)である」といいました。対話があること。これは理解することの第一歩です。

2018年8月20日月曜日

「定められています」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「定められています」

ルカ 2:34 シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。

大阪教会の機関紙に、ある信徒の方が「引き際にロマンを見た」という題で、昨年天に召された石橋幸男牧師語録を書いておられました。「信仰の業で最も偉大なことは、いかに多くの人に福音を伝えたかではなく、伝えねばおられない人間に変えられたかである」「『自分を愛するように隣人を愛せよ』古今東西地球上にただ一人の自分を愛し切らねば、人に愛を注ぐことはできない。神が自分をして、何を表現されようとしているのか、使命を模索し、高める努力をすべきである。他人から必要とされる人に変えられなければ、その人の信仰は空しい。泳げなくてどうして溺れるものを救うことができるだろうか」。信仰の心を定めることを教わったようです。

 イエス様を出産した母マリアは、律法の定めに従ってその子を主に捧げるためにエルサレムの神殿にやってきました。そこでシメオンに出会います。彼は「正しい人で信仰があつく」「聖霊が彼にとどまっていた」人でした。シメオンは母マリアに神様によって定められたイエス様の受難を予告し、母マリアもそれを目撃することになると預言しました。

 動物(ペット)と共に生きるというラジオ番組がありました。ペットロス症候群が話題になっており、日本人に多い現象だと言っていました。もともと日本人の感性では、食べる動物とペットを区別できず、その境界線を曖昧にしてしまうそうです。欧米の感性は「神様が食べる動物と、ペットを区別して創られた」と考えており、「この動物のすべてに死が与えられている」と考えるのだそうです。だから、死ぬという前提のもとに「いまどのように接するか、共に過ごすか」が大切だというのです。そこには十分に愛情をそそぐのだからペットロス症候群にはならないということでした。すべては信仰の問題なのかなと思います。

 イエス様の母マリアはすべてを心に留めていきていきます。神様の子どもであるイエス様に、我が子でありながら従っていく人生を歩むには「すべてを心に留める」しかなったのでしょう。シメオンの預言をとおして受難を知った母マリアでしたが、その預言ゆえに今をいきることができたのです。

2018年8月19日日曜日

きままな休日・夏のぜんざい

夏にぜんざい!暑くない?
いやいあや、クーラーがしっかり効いて
さらにいいですよ。あんこ大好きです!

2018年8月18日土曜日

明日の礼拝

明日の礼拝説教者
立野泰博牧師(大江教会)
テレビ中継礼拝です。
夏の召天者記念の祈りがあります。

2018年8月17日金曜日

礼拝のお知らせ

熊本の大江教会ですが
19日はテレビ中継礼拝です。
26日は立野牧師が担当します。

2018年8月16日木曜日

「自然の恵みを受ける」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「自然の恵みを受ける」
 
 「自然の恵み」というと、食べ物だけのように聞こえます。しかし、本当の恵みとは、その自然そのものではないでしょうか。
 
 先週関西から、2人の牧師たちが遊びにきてくれました。徳山といえば食べるものもおいしいし、ちょっと行けば海と山のどちらにもいけます。いろいろと案内しながら、あらためて、自然に囲まれていることに気がつきました。あらためてというのもおかしいのですが、その中に暮らしていると、いつのまにかその恵みを忘れてしまいます。教会から見える森が、駐車場になってはじめて、森の存在を意識するというおかしなことがおこるのです。
 
 いま、六日市は「ホタル」の季節です。今年もまたホタルの乱舞を見ることができました。2人の牧師たちにホタルを案内したとき、「こんなに心が豊かになれたのは久しぶりだ」と言われました。自然の恵みとは食べ物だけでなく、心にもっとも深く与えられるものだと思います。
 
 私たちはなにげなく、この自然の中で生活をしています。しかし、その恵みに気がつくということは、神様に出会うということだと言えます。与えられている自然を破壊していくのが人間だとしたら、ますます神様から遠くなっていく罪人になるのでしょう。まだ、自然の恵みを受けることができる今だからこそ、その恵みに感謝し、神様の存在へと目を向けたいものです。
 

2018年8月15日水曜日

「約束を信じる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「約束を信じる」

ルカ 1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

この時期になると、サンタクロースはいるかということが話題になります。クリスマスの1日で世界中の子供たちにプレゼントを配るとしたら、1人の子供に要する時間は果てしなく瞬間にちかいという計算をした人もいます。つまり瞬間移動しているから人間の目には見えないというのです。私はサンタクロースがいるかいないかを議論してもしょうがないと思っています。目をつぶってサンタクロースを思い浮かべることができれば、それは存在するという教えの方がロマンチックでいいと思います。つまりその存在を信じる者だけに存在するものがあるのです。

 イエス様の母マリアは、受胎告知を受けたあと親類のエリサベトを訪問します。神様のお告げによって身重になった2人がそこで出会いました。エリサベトはマリアの訪問を喜び「あなたは祝福された方です」と挨拶をしました。その時マリアのことを「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」と言いました。マリアの「お言葉どおり、この身になりますように」との言葉を受けてのことでした。

教会から30年も離れておられた信徒の葬儀をさせていただいたことがあります。生前にお会いすることはできませんでした。昭和33年に教会で、目が不自由だった石松量蔵牧師より洗礼を受け、神戸ルーテル聖書学校で学び、実家の仕事をされていました。その後何かの事情で教会から離れ、30年後に「葬儀は教会で」という本人の願いで、再び教会へ帰って来られました。ルーテルアワーで教会を知り、石松牧師から「信じる者、愛する者は幸せである」と説かれ、兄は少し意地悪な質問をされました。「あなたは目が見えないのに幸せなのですか」と。すると石松牧師は「私は目が見えないおかげで外見に惑わされる事がありません。私はお互いの心と心で相手を見る事ができます」と答えられたそうです。その言葉に深い感銘を受け、聖書を学び洗礼を受けられたというのです。葬儀のとき、兄の聖書をみせていただきました。赤線がびっしり引いてあり、兄をとらえた聖書の言葉がわりました。聖書には三つの言葉が記されてありました。「謙遜」「わたしたちは、すべてにまさって、神を恐れ、神を愛し、神に信頼しなければならない。ルター」そして、この一語につきると書かれていたものは「ときに患難は苛苦に見ゆるとも、そはあわれみにより、あたえられしものなり」と。

トマスは「その手足に釘跡をみるまでは決して信じない」といいました。しかし、ほんとは、信じたかったのです。ですから、釘跡を見ずに「わが神、わが主よ」と告白しました。すべては信じるための「信じない」だったのでしょう。 エリサベトはマリアの訪問を受け「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」といいました。神様は必ずみ言葉どおりに実現される方です。それを信じることが私たちに祝福をもたらします。必ず実現するから信じることもできます。信じる心を育てるには裏切らないことだと思います。

2018年8月14日火曜日

「大切なことは何か」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「大切なことは何か」
 
 教会への相談の内容が、「フリン」から「リコン」へと変わってきました。これは最近の傾向ですが、「もう一度やりなおしたい」から「はやく別れたい」へと変化したことによります。いったい社会はどうなっているのでしょうか。
 
 ある本でつぎのような話を目にしました。
 
 「ある日、若い女性が仕事を終え、家に帰ろうと車を運転していました。ことろが、ちょっとした不注意で、前の車に追突してしまったのでした。この車はまだ購入して3日目の新車だったのです。彼女は泣いてしまいました。この事故をどのように夫へ報告すればよいのか・・。 ぶつけられた人は彼女に同情しましたが、お互いの運転免許の番号と登録番号を書かなければなりません。そこで彼女は車検証をだそうと大きな封筒を開けました。すると中から一枚の紙が出て来ました。そこには大きな、男らしい字で次のように書いてありました。『もし、事故にあっても・・・僕が愛しているのは車ではなく、君だということを忘れないで』と書かれてありました」。
 
 大切なことは何かを見失ったとき、人は間違いを犯します。それが始めのうちはまだ修正可能ですが、最後には決定的な別れとなることもあります。始めの一歩である大切なことは、「相手を思いやる」ことです。主イエスの御言葉「隣人を愛しなさい」もまた同じではないでしょうか。

2018年8月13日月曜日

「つながってここにいる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「つながってここにいる」

ヨハネ15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。

 ある会議の合間に、幼稚園の園長もしておられる牧師が教えてくださいました。「今日は幼稚園で一日を過ごしました。そこでお誕生日会があり、私はずっと一人の3歳児の手を握っていました。自閉症で多動なのだけど、手をつないでいるとおとなしくして会に参加できるのですよ」と。素敵な話だなと聞いていました。手をつないでいることで、子どもと牧師の間にどんなことがおこっているのでしょうか。「ここに一緒にいようね。ここにいてもいいよ。いることを確かめようね」という会話が聞こえてきました。 ここに共にいてつながっていようね。イエス様もここにおられるよというメッセージが手をつなぐことで伝わっているのだと思います。

ヨハネによる福音書には、「イエス様の決別説教」があります。十字架を目前にして弟子たちにどうしても言い残さなければならない遺言のような説教です。今日のみ言葉はその中でも有名なものです。イエス様は「わたしにつながっていなさい」と言われました。イエス様につながることが信仰の本質です。人につながるのではありません。そのあと「わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」といわれています。何か成果を出せといわれているわけでなく、つながっていることで実を結ぶといわれたのです。ですからイエス様にまず「つながる」ことが大切です。「つながる」ことで実るものがあります。それはきっと素晴らしいものです。

 世の中には相乗効果といわれるものがあります。その相乗効果という話題で、アメリカでのドイツ車大流行の話をききました。新聞・ニュースでは日本車の売上が伸びているのは事実ですが、ここにきてドイツ車に人気が集まっているというのです。その理由は、新しいタイプのフォルクスワーゲンが発売されたのです。むかし「かぶと虫」と言われていたあの車です。このデザインがかわいいので、みんなが競ってドイツ車の販売店におしかけたのです。しかし、売り切れ。しかたなく他の車でも見て帰ろうか・・が、ほうドイツ車って良いじゃんとなり、他のドイツ車がどんどん売れているのだそうです。宣教の方法もこの相乗効果を考えました。教会へつながるということは、キリストにつながるということです。そのために教会の中にはいっていただけることを考えています。

 私たちはここに「いる」存在です。それは一人ではなく、ここで信仰の交わりをもつ方々と共に「いる」存在です。そしてイエス様とつながってここにいる存在です。そんな私たちですから、誰もかけてはなりません。イエス様につながっていることで一つに「いる」ことを思い、神様の業の実を結んでいきましょう。

2018年8月12日日曜日

気ままな休日・あずまそば

1玉、2玉、3玉みな同じ値段。
それでは3玉でしょ!いやいやそんなに食べれませんです。

2018年8月11日土曜日

明日の礼拝

明日の礼拝説教者
吉谷正典牧師(引退教師)
どうぞおいでください。

2018年8月9日木曜日

「ウソが真実を」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ウソが真実を」
 
 「ウソの研究」という本に、《ウソをつかなければ見えない真実もある》と題して、次のようなことが書いてありました。
 
 「グレース・ハルセンというアメリカの白人女性が、おもしろい実験をした。彼女は生粋の白人だが、薬品によって肌を黒く染め、黒人になりすましたのである。目的は人種差別についての社会的分析。彼女は持ち前の行動力と女性特有の細かい観察力とで、人種差別を身をもって体験しようとした」
 
 このような実験をしたのだそうです。この結果は、「ハンセンが黒人に身をついやしてからまず体験したのは、性的な恐怖であったという。つまり、白人男性が黒人女性に対して、いかに性的に横暴であるかということだった」。この実験の結果わかったことは、「人間は普段いかに平板な現実しか見つめていないことをあらためて思い起こさせてくれました。
 
 相手の立場に立つことの難しさを思います。私たちは、自分が属している社会的な集団のメガネを通してしか物事を見ることはできません。立場を変えてみれば。まったく違った世界がそこに開けているにもかかわらずです。
 
 主イエスが「隣人を愛せよ」と言われたとき、その人のおかれている状況までも理解せよと言われたのでしょう。しかし、その人の立場に立ってみると、自分の知らなかった恵みをも得ることがあるのです。

2018年8月8日水曜日

「共にいることの介入」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「共にいることの介入」

マタイ 1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

ある時、総会資料の牧師報告を読まれた一人の姉妹がすぐに電話をくださいました。「先生のお考えがあったら失礼ですが、イエス様の御言葉に間違いがあると思います」と。さっそく読んでみて冷や汗がでました。たしかに間違っていました。「悔い改めて、福音を信じない」と印刷されているではありませんか。自分では「悔い改めて福音を信じなさい」と書いたつもりでした。「さ」が入るのと、入らないのとでは全く意味が違います。最近こういったキーの打ち間違えの多さに自分でも困っています。この前は「教会総会」を「教会疎開」としてしまいました。一字の違い、一言の違いと簡単にすめばいいのですが、そうはいかないこともあります。「何が食べたいですか?」と言われたとき、「ラーメンでいいです」という返事と、「ラーメンがいいです」という返事ではかなり違います。「何でもいいです」というのが一番困りますが。 イエス様は「聖書の一点、一画もくずされることはない」と言われています。神様の御言葉はたった点のひとつでも大切な言葉です。おろそかにできません。そのような御言葉を私たちも頂いています。

本日与えられている聖書のみ言葉、イエス様の系図です。はじめて聖書を読む人の前に立ちはだかるのがこのマタイによる福音書「系図」です。新約聖書は「マタイによる福音書」からはじまるので、多くの人はここに戸惑いをもちます。ただし、この系図もよく読むと、興味深いことに出会います。女性がマリアを入れて4名だけ出てくるとか、バテシバの名前はなく、「ウリヤの妻」となっているとか。神様のまえに罪を悔改めた人々の系図でもあります。どこを切っても神様が共におられるという系図になっています。

その中でも、本日の箇所はかなり面白いところです。クリスマスの出来事が書いてあるのですが、どうみても系図としてはなりたっていないのです。イエス様の系図となっていますが、もともとこれはマリアの夫ヨセフの系図です。イエス様はおとめマリアから生まれますので、つながりはあいません。ところが、いつのまにかそこに神様が介入され、イエス様がこの系図に入ったことになっています。「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアから」を読むと、本当は「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このヨセフから」と書かねばならないところです。しかし、ここにクリスマスの出来事の意味が記されています。

クリスマスは、神様が人間の系図に「介入」された出来事です。私たちの救いのために、介入された出来事なのです。「ヨハネ3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。神様の深い愛のゆえに、私たちの人生に介入される。共にいてくださるという介入なのです。今週もクリスマスの意味を考えながら、過ごしてまいりましょう。

2018年8月7日火曜日

「終末からみる視点」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「終末からみる視点」
 
 もうこれ以上は待てない。そんな状態になりましたので、草取りをしました。いつもながらのことですが、草取りをすると黙想の時間が与えられて感謝です。しかも、終わったあとの爽快な気分がたまらなく、ああ仕事をしたなという気分になります。ところが、次の日に筋肉痛になると、もっと体を動かさなくてはと反省してしまいます。
 
 さて、この草取りですが、始まるまえはちょっとイヤな気分です。なぜなら、「どうして自分が」とか、「暑いのに」とか、「雑草も生きているのだから殺生してはいけない」とか、いろいろ理由をつけてやめたくなります。しかし、いざやりだすとこれくらい静かな時間はないことに気がつき、たった一人の黙想の時間を感謝できます。ところでいつもなら、「今年あと何回、草取りをしなければならないのか」と考えますが、なぜかふと「あと何回、ここの草取りができるだろうか」と思いました。もしかすると、これが最後かもしれない。神様が今日にも天国に導かれたとしたらそうなります。そう考えたとき、この草取りがいとおしくなったのです。
 
 今から終末を待つ視点と、終末から今をみる視点は違います。終末からみる視点によって、今はいやだと思えることも、いとおしくなることがあります。あと何回礼拝に出席できるか。今の礼拝を大切にしたいものです。
 

2018年8月6日月曜日

「旅は神様がすべて用意されている」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「旅は神様がすべて用意されている」

マタイ  10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。

クリスマスの出来事の中に「旅」というテーマがいくつか散りばめられています。一つは受胎告知を受けたマリアは親類のエリサベトを訪問する旅があります。また人口調査のためにベツレヘムへの旅。そしてエジプトへ逃避の旅です。この3つの旅の中にも「神様が共におられる」ということが繰り返し語られます。私たちの人生は旅にたとえられます。自分から進んでいく旅もありますが、人生の旅は困難な旅の方が多いかもしれません。そのようなときにこそ「神様が共におられる」ことを実感することが旅の目的かもしれないと思います。

イエス様は12弟子を選ばれたあと、彼らを宣教へと派遣されました。彼らを派遣するにあたり具体的な行動と忠告を与えておられます。基本的には、「宣教の旅には何も持って行くな」ということです。神様がすべて用意してくださっているということもあります。弟子たちは行く先々で人々を教え、病気をいやし、神様の平安があるようにと祈れと言われたのです。しかも送り出す方向も指示しておられます。

インドの笑い話に次のようなものがあります。
  旅人がサトウキビを積んだ牛車のおじさんに道を尋ねました。

 「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」

 「そうだな、三・四十分というところだな」

 「そうですか。ところで、すみませんが、
  わたしもこの牛車に乗せてもらえませんか」

 「いいとも。乗りなされ」

 それから四十分ほどして、旅人は尋ねました。

 「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」

 「そうだな、一時間くらいかな」

 旅人は怒りました。さっきは、三・四十分といったではないかと。
 すると 牛車のおじさんは言いました。
 

 「旅の人よ。この牛車は反対の方に進んでいるのですぞ」

 進んでいる方向を確かめなかった旅人が悪いのです。

イエス様は「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」と言われました。旅する時に持たなければならないものは多くはありません。目的と時間だけだと言えます。そして方向を見据えるということです。与えられた時間を神様のために用いること。それが宣教です。弟子たちは何も持ってないようで、信仰と時間と方向を持っています。

 

2018年8月4日土曜日

2018年8月3日金曜日

十字架が見える



鹿児島教会の樹木剪定を行いました。
阿久根教会からの奉仕活動です。感謝。
これで十字架がよく見える教会になりました。
鹿児島教会へもぜひどうぞ!

2018年8月2日木曜日

「十字架の影」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「十字架の影」
 
 東京郊外にある、カトリック教会を訪問する機会があたえられました。カトリック教会の聖堂にはいつも感心させられます。というのも、聖なる雰囲気を感じるように、いろいろなものが設定されていることに気づくからです。
 
 さて、そのカトリック教会も「木」を主体に統一された聖堂でした。なるほどだなと感心していますと、聖卓のスポットのスイッチがあるのに気づきました。そのスポットはシンボルである十字架に向けられていました。ちょっとつけてみようかなと、スイッチをいれてみました。すると、そこに映し出されたものに、思わず声が出るくらい感動したのでした。なんと、スポットに映し出されたのは、十字架の影だったのです。つまり、両方からスポットがあたるので、正面には3本の十字架(2本は影)が映し出されていたのです。まるであのゴルゴタの丘の再現がそこにあると思いました。
 
 主イエスが十字架におかかりになったとき、両方にも同じように十字架が立っていました。しかし、一人の者は死ぬまで主イエスを罵り続けていたのです。その姿が影となって私の前に現れてたのです。もしかした自分の姿ではないのかと。 主イエスを信じること。信じ抜くこと。従うこと。はたしてそれはどんなことなのでしょうか。もしかすると、たえず神様を罵っている自分がいるのではないか。そんな私にも、両手を広げた主イエスが輝いておられました。アーメン。

2018年8月1日水曜日

「みえている案内人」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「みえている案内人」

マタイ  23:24 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。

大型タンカーの船長だった人から聞いた話です。大型タンカーは航行中にすぐに止まれない。完全に停止するまでには3時間以上かかる。港に入っていくとき、これを計算しなければならない。また湾に入ったときには必ず水先案内人が必要となる。この案内人は3時間先にどうなるかを計算しながら状況を把握し、さらにすべての舟の位置をチェックしている。大きな流れは止められないこと、止めるためには前もっての準備と知識を必要とする。案内人には、すべての命がかかっているのだからと。

イエス様は、律法学者とファリサイ派の「偽善」に対して激しく非難しておられます。長い言葉からなる批判ですが、大きくは3つに分けられます。1、ユダヤ教指導者の偽善への批判。2、7項目の不幸の宣言。3、キリスト教迫害の実態。本日の言葉はその「不幸」とされた1つです。ぶよは小さくても律法では汚れた動物とされています。これがぶどう酒に入らないように注意深く濾過しているのに、大きくてラクダ(これも汚れた動物)を呑み込ませている。そんなことをする案内人は不幸だと言われるのです。案内しなければならない人がその道がみえていない。これでは案内はできません。イエス様は案内人の条件として「見えている」をあげられています。この「見えている」は人生において最も大切なことだと言えます。

山道を通る道で大変な時があります。それは、濃霧がでたときです。その中でも、1㍍先が見えない霧にであうことがあります。これにあうと、頼りになるのはガードレールとセンターラインだけです。スピードを落として、ゆっくりすすむのです。普段の倍以上に疲れます。このような濃霧の中で教えられるのは、いつもなら遠くまで見えるハイビームよりも、足元がよくみえるライトの方がよいということです。私たちが生きている時代は、先の見えない時代だと言われます。こんな時は、足元をきちんと見る必要があります。禅の言葉では「脚下照顧」です。足元を見る時に見えてくるものもあります。その足元の灯りとしてのみ言葉があります。

イエス様は「ものの見えない案内人」という言葉で、真実の救いへと導くこと大切さを語られました。私たちにとっては、イエス様のみ言葉が、ものの見える案内人として与えられています。今日は何を語っておられるのか、どのように命への道を案内して下さるのかを注意深く聞きとっていきましょう。