2017年10月31日火曜日

「 星を眺める」

クレヨン牧師のミニエッセイ

星を眺める」
 
 すっかり寒くなってきました。いま六日市から益田への道では、六℃と表示があります。これからだんだん下がっていって、零℃になるのか時間の問題のようです。
 
 先日も益田から午前二時に帰ってきました。いつもは泊まってくるのですが、次の日にどうしても用事があったのです。深夜のドライブはなかなかスリルがあります。タヌキやキツネ、イタチにウサギと前を横切っていくのです。また、街灯ひとつない山中に一人でいると、闇に飲み込まれていくような錯覚をします。「あなたのみ言葉はわが足の灯」の聖句がよくわかります。つまり、車の前しか見ることができません。もしそこに灯がなかったらどんなに恐いことでしょうか。
 
 しかし、楽しいこともあります。疲れはてて車を止めると、そこには素晴らしい夜の空が広がっているのです。私は冬の星座が大好きです。しかも雄大なオリオン座をみるのが大好きです。いまオリオン座は夜の空に輝いています。
 
 きっと聖書時代の人たちもこの空をみたことでしょう。そして神様の存在を確認したことでしょう。夜空を眺めるとそこに神様を感じます。

2017年10月30日月曜日

「教える人は聞かない?」

阿久根ルターくんの朝のみ言葉

「教える人は聞かない?」

 マルコ 4:24 「何を聞いているかに注意しなさい」

キリスト教は聞く宗教だといわれます。神様のみ言葉を聞く宗教です。「イスラエルよ聞け」という言葉が何回も聖書にでてきますし、「聞く耳のあるものは聞くがよい」とイエスは言われました。主のみ言葉を聞いて理解することは、以外と大変な事ですし、じつは私たちの中の準備が一番大切と思われます。

 イエス様は、人々の聞く力に応じてたくさんの「たとえ話」をされました。聞く人が何を求めているかを知っておられ、小さなことにまで、イエスさまの目が注がれているのかと感動することがあります。本日のみ言葉は「ともし火」と「秤」のたとえを語られたあとの言葉です。生活の中で使用している、ごくあたりまえの道具をつかった話です。「灯を持ってくるのは、燭台の上に置くため」。その通りですが、ここから何を聞きとるかが大切なことです。

 最近、気がついたことの一つに「教える人は聞かない?」ということがあります。教える人というのは、学校の先生、教会の牧師などはあたりまえの行為です。しかし、親という立場も子どもに教えるという存在になりまし、バイトの先輩や兄弟姉妹でもそのような立場になります。ただ、気がついたことは「教える」ということから物事を始めると「聞くことができない」状況に陥るのではと感じたのです。「わたしの話を黙って聞きなさい」というものです。そこにいる人が何を考え、何を求めているかを聞いて(受けとめ)、それから教えることが本来の姿のように思えたのです。
 イエス様は「何を聞いているかに注意しなさい」と言われました。教える者も「何を聞いているか」から発想し、教えるのではなく伝えるという立場にたつことが大切かなと思います。

2017年10月28日土曜日

きままな休日・どんじゅう

熊本に「どんじゅう」という定食屋さんがあります。
このごはん!大盛りですですが、なnんとこれで700円
素晴らしい!食欲の秋ですね。

2017年10月26日木曜日

「自然の流れの中で」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「自然の流れの中で」
 
 禅の本に次のようなことが書かれてありました。
 
 あるとき仙涯和尚のもとに人がきて、「なにかめでたい言葉を書いてください」とたのみました。仙涯和尚はほいきたとばかりに筆をとり、スラスラと書き上げました。そこには「祖死父死子死孫死」と書かれてありました。さて、頼んだ人は「これはひどい言葉だ。こんな縁起の悪いものはない」と怒って帰ってしまいました。
 
 みなさんはどう思いますか。同じように縁起悪いと考えるでしょうか。仙涯和尚はそれを聞いて次のように諭したのです。「何が縁起が悪いものか。まず爺さんが死ぬ。次ぎに親父が死ぬ。次ぎに子どもが死んで、最後に孫が死ぬ。順序ただしく死んでいけば、家中に若死にするものはない。こんなにめでたいことはない」と。
 
 私たちはつくづく考えることの多い者です。そして言葉の多い者でもあります。神様からくださる恵みは、むしろ簡単なことなのだと教えられました。人が勝手に作ったものは、知識を刺激しても心は打ちません。「春に花が咲き、秋には葉が落ちていく」という自然のいとなみの方が心を打つのです。自然の流れの中にいるとき、神様の恵みをひしひしと感じます。新しい命を迎えるわが家も、自然の流れの中で感謝したいものです。

2017年10月25日水曜日

自分のいいとこ20

阿久根ルター君の朝のみ言葉

すみません!アップができてませんでした!
 
「自分のいいとこ20」

 ヤコブ  2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。

「自分のいいところ探し」ということを教えて頂きました。まず自分のいいところを20個書き出す。私もやってみましたが、これは難しいですね。7個位はでてきますが・・。次に家族の誰かをきめてまた20個書き出す。これも大変。次に共に働く仲間のいいところを20個。これも書けません。しかし書けない原因のもとは、自分の20個がでてこないことにあります。自分に「いいところ」を探すことができなければ、人に「いいところ」を探すことはできません。

 聖書の言葉に「自分を愛するように、隣人を愛せよ」があります。これを読むとき、「隣人を愛せよ」はわかるのですが、「自分を愛する」ことが、自己愛やわがままにつながらないかな?と考えてしまいます。しかし、自分を本当に愛せない人は、神様の愛もわからず、隣人をどうやって愛していいかもわからないのかもしれません。

 有る兄弟が「遺言」をのこしておられました。そこには、「亡くなったときはすぐに教会へ連絡すること。葬儀はキリスト教式でやること。質素におこなうこと」と書かれてありました。しかし、実はこれだけではありません。本当の遺言は最後に書いてありました。「骨は妻のもとの一緒にして納骨するように」。奥様を先に天に送られ本当に心を痛めておられました。生前に奥様が描かれた油絵のすべてを額に入れ、お部屋の中に飾っておられました。それだけでなく、遺骨をいつも腰のウエストポーチに入れておられました。いつも共にあるのだということ、いつも共に礼拝しているのだという信仰だったのでしょう。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神からでるもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているのです」を思い出しました。

 「隣人を自分のように愛しなさい」。これは、神様がどれだけ自分のことを愛してくださっているか、その御心の大きさを知ることです。神様が愛してくださっている私自身を、自分も愛することが必要です。その愛を自分だけのものとせず、隣人へと向けていきましょう。

2017年10月24日火曜日

アップの再開!

申し訳ありません。アップのし忘れです。
明日からまた再開しますよろしくお願いします。

2017年10月12日木曜日

「同じ言葉でも」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「同じ言葉でも」
 
 若手牧師研修会が、長野県の松本教会で行われました。この会は現職の牧師たちの自主グループで、神学校を八四年から八八年に卒業した十二名の牧師で構成されています。ということはもう若手ではないかもしれません。
 
 この研修会はとても楽しい会でもあります。また勉強するのが好きな会でもあります。今年のテーマは「原罪論の復興」でした。しかし、なにより夜の情報交換が楽しくてしかたありませんでした。その夜の語らいのなかで、ある牧師が恋愛時代の話しをしてくれました。
 
 「神学生だった自分は純粋で手も握ったことがなかった。あるとき公園のベンチに座っていたときに、何か言わなければいけないような気がしていたけど言うことがなかった。それでも思い切って『今一つだね(いま心が一つになっているね)』と言った。するとしばらくして彼女は、悲しい顔をしながら『私っていまひとつなの?』と言ったんだよね」と話しておられました。みんなで大笑いしました。
 
 同じ言葉でも、伝わり方が違うと大変なことになってしまうものです。自分はそう思っていなくても、間違って伝わっていくことがあります。さて、私たちは主イエスのみ言葉を正確に聞いているでしょうか。正確に聞き取るには何度も聞き返すことしかなさそうです。

2017年10月11日水曜日

「骨髄まで響く」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「骨髄まで響く」

 マルコ 1:11 あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者

進学か就職かについて悩んでいる学生からの相談を受けました。自分の思いや、やりたいことを親がわかってくれない。そんな親は親として認められないと。それを聞きながらスリランカの言葉を思い出しました。「子どもに対する親の気持ちは骨髄まで響く。でも子どもはそれを知らない」というものです。親が分かってくれない、親として認めないではなく、きちんと親の気持ちを受け止める努力はしたのかと聞いてみました。子にたいする親の気持ちは骨髄まで響いている。それをわかった上で、自分の考えを相談したらと話しました。

 イエス様の公生涯は洗礼を受けることから始まります。マルコによる福音書では、人が洗礼を受けるのがごく自然なように、イエス様も「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」としか書いてありません。マルコは、人としてあたりまえの出来事であるようにサラッと記しています。ただ重要なことは、そこで神様の言葉「あなたは私の愛する子」があることです。イエス様は「神様の子」であることの宣言が、私たちの信仰にとって一番大切であり、はじめに示されたことなのです。

「小さな親切の花束」という本で次ぎのような文章を見つけました。「小学校入学の時のこと、初日とあって小さな男の子が泣き出してしまいました。私はすぐにそばに行き「大丈夫?」と抱きしめてあげました。ところが先生は「席にもどりなさい」と強く注意したのです。子供心に「なんという先生だろう」と思いました。もし家で私が泣いていたら、必ず家族の誰かがそばにいて抱きしめてくれたからです。先生はその子をほっとくように言いましたが、わたしはやめませんでした。ある日学校から母に手紙がきました。「お子さんは礼儀知らずで反抗的で、もめごとを起こす問題児です」と。母は私をよび何があったかを聞いてくれました。そして母は先生に次のようにいいました。「うちの子は、まわりの人に思いやりをもって接するように教えていてそれは変えられません」と。そしてさらに「人の痛みを感じやすいこの子の性格に先生が慣れていただくしかありません」と。もう72年前の言葉ですが私の人生の支えとなっています。」

イエス様は自分が神様の子であること、神様の心に適う者であることを受けとめておられました。その骨髄にまで響く親の心をわかっておられます。その御心が十字架の死であっても、み心に添ってその道を歩まれたのです。神様は私たちも子としておられます。そのみ心は知ることを始めたいと思います。

2017年10月10日火曜日

「偉大な書家の色紙?」

クレヨン牧師のミニエッセイ


「偉大な書家の色紙?」
 
 結婚式に来られた方が、礼拝堂の扉の前で話している声が聞こえてきました。その声をきいて吹き出してしまったのです。その方たちはこのように話していたのです。
 
 「この色紙は誰の作品だろうね。はなみという書家がいたっけ」と。
 
 みなさんはお分かりでしょう。献金箱が盗まれてから、その場所がさみしくなったので、娘に「イエスさまおまもりください」と書いてもらった色紙なのです。(拙著「神様の色鉛筆」の裏表紙)
 
 さて改めて見直してみると、下手な字なのだけれどそれなりの味があることに気がつきました。そして見ているうちに、なんとなくそれらしく見えてきて感心してしまいました。素朴さというか、飾り気がないないというか。
 
 なぜ純粋さが伝わってくるのでしょうか。きっとそれは、人に認められたいとか、上手に書きたいとか、そのような気持ちがないからだといえます。娘は好きで書いているのです。たったそれだけのことなのです。
 
 私たちはなぜ主イエスに従うのでしょうか。「イエス様が好きだから」。それだけでよいと思います。まずそこからです。私たちの主イエスを思う純粋さが人を主イエスへと導いていくのです。

2017年10月9日月曜日

「深めていく愛」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「深めていく愛」

ユダ  1:2 憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

フランスの言葉に「愛はいつも、いっそう深まっていくか、だんだん冷えていくかのどちらかである」というのがあります。この愛は、恋愛のことか、結婚生活のことか。または、家族、友達のことをいっているのか。どちらにせよ「愛」を深める努力をしなければいけないことを教えているのでしょう。さもないと「だんだん冷えていく」のです。

 ユダの手紙の挨拶の言葉です。手紙を書くときはまず「挨拶」を書きます。使徒たちの手紙でも同じです。しかしその挨拶は季節のものではなく、自分は何者で、キリストとの関係はどうであるかを示し、さらに祝福を与えています。この祝福の中で「愛」がでてくるのはユダの手紙のみです。キリストの守られている人々に「憐れみと平和と愛」が「ますます豊かに与えられ」るように、というのです。

ふと本棚に目を向けると一冊の本がありました。「神がふれてくださった」というものです。その中につぎのような話しがかいてありました。「かって私は、歌手であり俳優でもあるメリー・マーティンが幕の上がるまえに舞台のそでに立ち、観衆の方に向かって両腕を差し伸べ、『あなた方を愛します、あなた方を愛します、あなた方を愛します』と繰り返したという話を読んだことがあります。彼女はそれから合図によって舞台に上がり、愛する人々のためにすっかりリラックスして演じたり、歌ったりすることができたというのです。それは愛の行為だったからです」

 私たちは愛を深めることをしているでしょうか。どうすれば深まっていくでしょうか。愛の反対は「無関心」とは、マザー・テレサの言葉です。お互い大切な存在として関心をもち、深まっていくキリストの愛を感じていたいものです。

2017年10月5日木曜日

「らしくしろ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「らしくしろ」
 
 一休禅師の逸話に次のようなものがあります。
 
 「あるとき一休さんが、めずらしく説法をするといいだした。人々は大喜び、いったいどんな話が聞けるのか楽しみに集まってきた。みなが集まり固唾をのんでまっていた。すると一休さんがでてきて、たった一言『らしくしろ』といわれた」。
 
 さすが一休さんだと感心してしまいました。つまり「らしくしろ」には主語がないのです。自分で考えて「それらしく生きろ」といわれたのではないでしょうか。
 
 しかし、この「それらしく生きろ」ということは、簡単なことではありません。私たちは「それらしく生きる」ことができないから迷うのです。立野は立野らしく生きようとしても、人のことが気になったり、そのために自分を造りかえようとしたりするのです。それならば主語を変えればいいのです。つまり「キリスト者らしく」生きようとしたらどうでしょう。もっとつっこんで「キリストのように」生きるとしたらどうでしょうか。
 
 私たちはキリストの足跡を一歩一歩たどっていくしかないのです。それが、「キリストにあって君は君自身でいたまえ」ということでしょうか。
 

2017年10月4日水曜日

「手伝わせてほしい」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「手伝わせてほしい」

 マルコ 10:45 人の子は仕えられるためでなく仕えるために

子どもたちが小さかった時のことです。私をのぞく家族がクリーニング屋さんに行きました。お店のおばちゃんが「今日は一番偉い人はどうしたの?」と聞きました。すると娘たちは一斉に家内を指さして、「ここにいるよ」と言ったそうです。それから30分は笑わせてもらったとお店のおばちゃんにあとで感謝されました。

イエス様の弟子達は「誰が一番偉いか」ということを、イエス様が十字架に渡される前の晩に議論していました。権力争いだったのでしょうか。王様としての栄光の時自分がどのような位置にいるか、心配だったのでしょうか。しかし、結果は全く違うことになりました。イエス様はそのとき「偉くなりたいものは、仕えるものになりなさい」と諭されたのです。私たちの中で一番偉いのは神様です。なぜなら、こんな私たちに、徹底的に仕えてくださるからです。しかも十字架までもお受けになって仕えてくださいます。その姿の前に私たちは、悔い改めと感謝をするのです。誰が自分に仕えてくださっているか。誰が自分のことを愛し、支えているかを私たちは知っています。だからこそ一番偉いのは神様だと告白できます。

「母からの教え」というエッセイに、ある企業の管理職の方が次のように書いていました。あるとき、母親が五右衛門風呂の準備をしていた。水道がまだ整備されてないころで、水汲みから沸かすまでは重労働。みかねて母に「手伝ってやろうか」と声をかけた。すると母から「いらん!」と怒られたそうです。手伝ってもらいたいけれど「やろうか」ではしてほしくない。それは大きなお世話だ。お前が「手伝わせてほしい」といったらどれだけうれしいか。と諭してくれたそうです。

 「仕えるものになる」ことは心の持ち方が大事です。「やろうか」はどうみても上から目線の言葉です。上からでなく、共に生きるものとしての立場から、上も下もなく共にということから始めたいと思います。教会の作業の中でも「させてほしい」を実現していきましょう。

2017年10月3日火曜日

「伝統の継承」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「伝統の継承」
 
 どんな小さな教会でも、伝統の継承というものがあります。伝統といえばおおげさですが、なにかしら伝わっているものがあるのです。
 
 八月に特別伝道で招かれた箱崎教会(ここは大きな教会ですが)では、バザーのうどんの作り方に伝統がありました。それは、特定された湯飲みで三杯の醤油をそそぎ、だしは鰹節と鯵ぶし、それに昆布はある一定の地域ものを使用し割合がこまかく指定してあるのだそうです。そして最後には真っ赤に焼いた火箸をだしにつっこみ一周させる。ただし、半周でジューといわなくなったら焼き方がたりない。かならず一周させることといった伝統が残っていました。
 
 なんとも微笑ましい限りです。その教会が守ってきた伝統は、受け継がれて新しい人々へと伝えられていくのです。そしてただ伝えられるだけでなく、信仰とともに伝えられていくのです。
 
 私たちの徳山教会は何を伝えていくのでしょうか。この教会はまだ若い教会です。これから伝統を築き上げていくことでしょう。なにが伝統として残っていくか楽しみですし、伝統を築き上げていく喜びがあります。
 
 信仰の継承。そんな堅苦しいことではありません。日々の信仰生活そのものが継承され、伝統となっていくのです。

2017年10月2日月曜日

「自分以外をみる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「自分以外をみる」

 フィリピ 2:4  めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

いろんな人と食事をしていると「自分流」ということを感じます。その人にとってはあたりまえのことでしょうが、とても不思議に見えることがあります。なんでも酢をかけて食べる人。カレーに醤油・ソースをドボドボかける人。とんかつに醤油をかける人。牛丼の肉よりも多く紅ショウガを入れる人・・・。自分にとってはあたりまえでも、人からみれば特殊というのがたくさんあります。このことが人に不快感をあたえなければいいのですが。共に生きていく、働くという場面においては「自分流」も少し見直していくことが大切かもしれません。

 パウロは「キリストを模範とせよ」というテーマで、自分のことだけでなく互いに思いを一つにと教えます。「同じ思い」「同じ愛」「心を合わせ」「思いを一つ」にと強調しています。そのために必要なことは「へりくだる」ことです。互いに相手を自分より優れた者と考えなさいと教えるのです。共に生きていくには、自分勝手に生きるのではなく「互いにへりくだる」ことが必要であり、それはキリストが模範として示してくださったことだと言うのです。

 「どうして牧師に祈ってもらわんの」という言葉を、あらためて深く受けとめました。そういえば、「このために牧師先生祈ってください」とお願いされたことはあまりありません。私たちは祈りをお願いするということはあまりないのでしょうか。「それぞれ祈り方が違う」「祈りとはそんなものではない」「祈ってもどうにもならない」という言葉をよく聞きます。しかし、私たちは追いつめられ、どうしようもない状態になったら、祈らずにはおれないのです。祈りの力を知らない。祈ることの素晴らしさに気がついてないと思います。祈ることはキリスト者の命です。そして自分のことだけでなく、教会のために祈ることは、教会の命です。牧師のために祈ることは宣教の命です。自分のことばかりでなく、自分以外を考えて生きていきたいと思います。

 パウロはキリストを模範にといいます。そのキリストは「へりくだった」のだと。この「へりくだり」の心を互いに持つことが、自分以外をみることにつながります。