2018年10月31日水曜日

「無一物」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「無一物」

2コリ 6:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

先輩の牧師がラジオ番組に出演された時のことでした。その番組は、ある宗教がスポンサ-で、どうしても牧師と紹介できないとディレクタ-は困っていたそうです。録音の日になり、三人のゲストが揃い番組は始まりました。最初は司会者がゲストの紹介をします。さて牧師と言わずに何と紹介したのでしょう。「本日のゲストは、岡山大学の〇〇教授、ノ-トルダム女子大の〇〇教授、そして日頃ボランティアにがんばっておられる方です」。私たちはそれぞれ肩書きを持っています。また、肩書きで人を見たりもします。しかし、肩書きは肩書きでしかないのです。その人の全てではないということです。肩書きのないところで、自分は自分をどう紹介するでしょうか。

コリント2の手紙の6章でパウロは、コリントの人々へ語ってきたことを一度まとめています。結論としては「心を開くように」と勧めています。それが警告の言葉であったとしても、心を狭くせずに受け止めなさいというのです。パウロの言葉の背後には、パウロが持っている福音があります。何ももっていないパウロがもっているキリストのみ言葉によって「心を開くように」と言うのです。

千利休が陶工・長次郎に造らせた抹茶碗に「無一物(むいちぶつ)」というものがあります。松平不昧公(17511818)所持で知られる赤楽茶碗の名碗です。この茶碗になぜ「無一物」と名前がついたのか私にはわかりません。無一物とは、好き嫌いとか損得、良し悪し、などといった二見にとらわれた概念がないことです。囚われない心というのかもしれません。この茶碗をみていると、その存在のみでいいのだという気になってきます。どう受け取るかはあなた次第。そうするとこの茶碗には無限の解釈ができるということです。心を開いてみるときに受け取る無一物があるのでしょう。

パウロは「無一物のようで、すべてのものを所有しています」といいます。何も持っていないようですべてを持っているというのです。パウロにとってキリストの福音を持っているということは、すべてを持っているということと同じことなのです。私たちが人生の中で持たねばならないものは多くはありません。いや一つです。それがイエス・キリストなのです。

2018年10月30日火曜日

「母の存在」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「母の存在」
 
 もうすぐ師走という季節ですが、本当に「牧師走」といいたくなるほど走り回っています。教区の仕事だけでなく、全国伝道セミナー、全国中高生キャンプ、などの責任を引き受けていますと会議がかさなってしまいます。それぞれに有意義な時でもありますが、先週だけでも、熊本へ、東京へと師走でした。
 
 さて、熊本へは仕事ということもありますが、実家へは帰る楽しみもあります。普通、実家へ帰るときは家族と一緒ですが、今回は会議のついでに寄りましたので一人でした。考えてみれば母と二人きりになることは久しぶりでした。もしかすると物心ついてから初めてかもしれません。多少のとまどいさえ感じました。
 
 ところが、二人で食事して話していると自然と眠たくなったのです。母の存在と、その声を聞いていると安心しきってしまったようです。気が付けば2時間ほど眠っていました。起きたときの爽快感がいまでもわすれられません。心のそこから平安に満たされたのだと思います。
 
 母マリアに抱かれた主イエスの気持ちは、どんなだったでしょうか。聖書には何も書かれてありません。しかし、きっと平安に満たされていたに違いありません。私たちは母の存在の大切さを知っています。そこに平安があることも知っています。

2018年10月29日月曜日

「み言葉の命を」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「み言葉の命を」

ペトロの手紙1 1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。

私たちは毎日何から始めているでしょうか。自分のことを考えてみると、やっぱり祈りからでしょうか。そしておもむろに洗顔でしょうか。つまり、毎日の習慣などは忘れているようなものです。忘れてもできるからリズムよく動けるのかもしれません。礼拝も生活習慣だと言われます。「今日こそ行くぞ」も必要ですが、自然とそこに座っているというのが本当の礼拝といえます。生活のリズムとしての礼拝ができれば、負担になることから解放されそうです。しかし、人間はすぐにリズムを壊してしまうものです。

ペトロは手紙の中で「聖なる生活をしよう」と呼びかけています。私たちを不順な生活から召しだして下さった神様にならって、その生活面で聖なる者となることを求められています。それができるのは、召しだされた者が、新たに生まれたものだからというのです。しかも神様の言葉という朽ちない種から生まれた信仰者だからこそ聖なる生活をしようと言われています。み言葉の種は生きており、新たに生まれさす力をもっているのです。

宮戸島にある月浜の被災地に行ったときのことです。。その集落は津波によってほとんどの家が全壊していました。やっと重機がはいり、整理が始まった頃かもしれません。全壊した家の前にたち祈っていますと、ふと足元に花を見つけました。よくみるとジャガイモの花でした。ちょうどそこは家の台所があった場所のようでした。家にあったジャガイモが津波で全壊した家の下から芽をだし、花を咲かせたのです。もうすぐ実もなることでしょう。神様が与えられた命はこんなに力強いのです。芽を出すだけでなく、明日へと命をつなぐ実を結ばせるのです。生きた命の尊さと力を教えられました。

ペトロは「神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」と教えてくださいました。私たちは、神様の生きた御言葉によって新しく生まれたものです。私たちの中には神様の命が宿っています。この命が「死んでも生きる」命です。私たちに与えられた御言葉を見つけ出すとき、私たちはおのずと聖なる生活に招かれていることがわかります。

2018年10月27日土曜日

明日は礼拝

説教者:立野泰博牧師(大江教会)
宗教改革記念礼拝です。
TV中継礼拝です。

2018年10月26日金曜日

コンサートへどうぞ



オーボエ 成龍(サイ セイリュウ)

広島市出身。
16
才よりオーボエを始める。桐朋学園大学 音楽学部 アンサンブルディプロマ修了。

第1回龍山オーボエ・ファゴットコンクールで奨励賞を受賞。フリーランスプレーヤーとして

在京オーケストラや広島交響楽団、ミュージカルの客演の他、東京佼成ウィンドオーケストラで

客演主席奏者として活動。現在、ヤヒャン木管五重奏、木管アンサンブル舞風、

Trio d’anches de Ouestメンバー。この他オーケストラをはじめソロやアンサンブルなどで

活動の場を拡げるほか後進の指導にも力を注ぐ。

これまでにオーボエを鈴木清三、宮本文昭、蠣崎耕三、茂木大輔の各氏に師事。

アンサンブルを中川良平、鈴木良昭、カールライスター、浅野高瑛、宮本文昭の各氏に師事。

 



ピアノ 吉田 仁美(よしだひとみ)

エリザベト音楽大学宗教学科オルガンを卒業。同大学大学院を修了。

廣澤嗣人氏に師事した後、東ドイツでW.シェーテリッヒのもとで研鑽を積む。

第3回日本オルガンコンクール第2位。全国各地でリサイタルをおこなっている。

現在、エリザベト音楽大学講師、広島サンプラザオルガニスト、
日本福音ルーテル広島教会

オルガニスト、日本オルガニスト協会西日本支部長、
ヒロシマ・ミュージック・プロジェクト運営委員。

 

2018年10月25日木曜日

「聖霊の導きで」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「聖霊の導きで」
 
 教会で結婚式を挙げられた方や家族から、お手紙やお土産をいただくことが多くなりました。それだけ、教会との関係が密になってきたということでしょうか。教会でのひとときに、暖かいものを感じておられるみたいです。
 
 先週も、新婚旅行から帰ってきたばかりのお二人が教会を尋ねてくださいました。新婚旅行の話や、結婚式の話などで楽しいひとときを過ごしました。その話の中で、「私たちは結婚式で《信仰》に出会ったように思います」と言われました。くわしく聞いてみますと、「式が始まる前は、あんなにニコニコして優しい牧師さんが、いざ結婚式が始まると別人かと思うほど威光につつまれて、厳かでした。そのお姿に宗教というか、信仰をみました」ということなのです。
 
 式の前も、式の最中も牧師は同じです。しかし、そこに聖霊の力が降りそそぐのだなと思います。きっと、結婚式に出席されたお二人の中にも聖霊が働いておられたのでしょう。後で聞いたところ、お嫁さんのお父さんはクリスチャンだったのです。しかし、教会を離れて30年と御手紙をくださいました。お嫁さんを始め家族は結婚式で初めてそのことを知ったそうです。娘さんが教会で式を挙げることになり、自分はクリスチャンだと告白されたそうです。
 
 主イエスが導いてくださったのでしょう。これからのお二人の上にも、お父さん家族の上にも聖霊は豊かに働くことでしょう。

2018年10月24日水曜日

「先に」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「先に」

  マタイ  14:22 イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。

   NTTが毎年、「おいで、おいで、心にとまるいい話」という募集をしています。去年の作品のなかに、九才の女の子が「『おはよう』おばあさん」というのを書いていました。その話は、「『おはよう』、朝一番に聞こえてくる声です。まだねむい目をこすりながら起きていくと『おはよう』とおばあさんの声。わたしが『おはよう』と言うまで、何度でもいいます。だから、毎日、わたしとおばあさんとで、どちらが先に『おはよう』と言うか、きょうそうしています」というものです。最後のほうには、「家中あいさつをしていると、誰もがにこにこ顔になって、わたしのまあるい顔がますますまあるくなってきます」で終っています。どちらが「先に」というところに微笑ましさを感じます。
  
イエス様が湖の上を歩いたという奇跡物語です。これを合理的に解釈しようとする人たちは「イエス様は岸辺の浅瀬を歩いておられたのであって、弟子たちが嵐で動転していたため夜明けの薄明かりの中で見誤った」と解釈しています。また象徴的解釈としては、「沖へ漕ぎだす舟は教会を表し、イエスが不在の教会は夜の闇の中で逆風と波に悩まされる。そこへイエスは神として現れ、弟子たちを救助する」とあります。どちらにせよ、弟子たちを「強いて先に行かせた」というところが心に止まりました。
  
今年は台風が首都圏を直撃しました。心配はしていましたが、進路は変わらずに上陸し、日本列島を縦断しました。こんなとき事務局は、どのような対応をされたのかと思いました。そこで振り返ってみると、台風が来るたびに危機管理ということをまた学びました。いつどの時点で帰宅指示をだすか、なにを優先させるべきか。それらはすべて危機管理がどうであるかが問われることです。被災地でもこの危機管理ということを何度も聞きました。ある被災者は「先をみた早めの判断」ということ言われました。危険が近づいている時、先を考えて、早めに対処すること。なにもなければそれが一番よいことであると。管理職に求められる危機管理に「先をみて判断する能力」があると言えます。
  
イエス様は弟子たちを「強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせた」とあります。先をみておられたのでしょう。しかし、その「先」はただの逆風ということではなく、そこにおける信仰をみておられました。神様がなさることは「先先へ」と進んでいきます。あとで分かることが多いものですが、すべては神様の導きの中にあることを信じて歩むことが大切です。

2018年10月23日火曜日

「神様が決めてくださる」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様が決めてくださる」
 
 「牧師招聘書」が教区長より送られてきた時の思い出。
 
 「当教会の牧師として、先生を招聘致したく、牧師招聘書をお送り申し上げますと共に、今後の教会の宣教、牧会、教会管理等に対して、ご指導くださいますよう、宜しくご配慮くださいますようお願い致します。」 
 この教会から招聘書を頂くのは2通目となります。実は、9年前の10月に同じものを頂いたのでした。その時は神様の御心だったのでしょう、私は別の教会へと遣わされたのでした。この9年間に神様はいろいろなことをされました。そして、神様の御心が動いたのだと感じました。
 
 神様の導きは本当に不思議です。9年前ではなく、教会への道を与えられたのです。神様の御心に従うのが牧師ですし、神様の御心があれば、私たちはその上を歩かねばならないのです。
 
 とすると、この教会にも神様の御心によって、次なる計画がすでに立てられていることでしょう。どんな計画でしょうか、きっと恵みあふれるものだろうと思います。なぜなら、この教会が神様の御心にそって歩んでいるからです。次には必ず神様に導かれた牧師が就任します。ですから、後任人事について発言しようとは思いません。人間の判断はあくまでも人間のものだからです。祈りつつ待ちましょう。神様が決められます。

2018年10月22日月曜日

「宗教改革記念日を前に」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「宗教改革記念日を前に」

 ガラテヤ 5:1 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だからしっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。

ルーテル学院大学の特徴の一つは、いろいろな教会の信者が一緒に学んでいるということです。私の頃も、ローマ・カトリックをはじめ、基督教団、バプテスト、セブンスデー、聖公会、インマヌエル、アッセンブリー、アライアンスと、私のクラスだけでもこれらの方々がおられました。ですから、いろいろな教会の考え方の違いにとても参考となりました。さて、これらの教会の人たちが、昼の礼拝には一同に集まります。ともに讃美歌を歌い、聖書を読み、祈るのです。その中で私が印象深く学んだことは、礼拝堂への入り方でした。ルーテルの学生はそのままスーッと入っていきます。私もそうでした。しかし、ある学生は一礼をして、ある学生は一言祈って、ある学生は十字架をきって入っていくのです。その姿に「偶像礼拝だ」と批判する者もいました。私などは新鮮な驚きを感じたものです。

 1031日は「宗教改革記念日」です。私達の教会はルーテル教会で、ルターの信仰を受け継ぐ教会です。宗教改革は当時の16世紀のローマ・カトリック教会が正しい福音信仰に立ち戻ることを聖書に基づいて訴えたものです。神様がイエス・キリストの十字架と復活によってのみ、私たち人間の罪を赦し、人間はイエス・キリストにおいて示された神様の恵みに基づいて生かされていくことを強調しました。ここから、ルターの有名な言葉「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」 という、宗教改革の三大原理が生まれたのです。

 ルターは次のように言っています。「キリストはわたしたちを人間の義務から解放されたのではなく、永遠の怒りから解放してくださったのです。それはどこですか。それは良心においてです。それがわたしたちの自由の限界であって、それ以上に進むことはできません」。私たちにとって自由とはなんでしょうか。何にもとらわれない心といえるでしょうか。ルター-のことばのように、自由とは義務からの解放ではなく、良心における永遠の怒りからの解放といったほうが、わかりやすいかもしれません。罪からの解放。そのためにイエス様の十字架があるのです。

 私たちは「ねばならない」にとらわれてしまいます。しかし、問題なのは「ねばならない」という義務にとらわれて、神様からの自由を見失ってしまっているということです。私たちはキリストを信じる信仰によって、とらわれから解放されています。「ねばならない」から行いがあるのではなく、神様の愛と自由をいただいているから「そうせずにはおれない」が愛と奉仕の原点です。そこに神様からいただく自由があります。

2018年10月21日日曜日

気ままな休日・串木野「カフェさくら」のカレー

串木野にあるカフェさくらの野菜だけで作ったカレー!
健康的!小麦粉も使ってない!塩もほとんど使ってない!
糖尿病の方などを考えて作っあります。さくらもそのお店です。

2018年10月20日土曜日

明日は礼拝

説教者:小副川幸孝牧師(九州学院チャプレン)
TV中継礼拝です。

2018年10月18日木曜日

「最初の一歩」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「最初の一歩」
 
 いざ教会を離れることになってみると、この9年間の思いでが様々によみがえってきます。「よく9年ももったなあ」という感想です。いまだから告白できることがありますが、東京教会から移って来たときに荷物を運んだダンボール箱が昨年まで全部とってありました。いつでも移動できるように、また、いつ駄目になるかもわからないのでとってあったのです。
 
 いまこうして振り返ってみますと、神様の導きを感謝しています。決して楽しいことばかりではありませんでした。何度ため息をついたかわかりません。落ち込んだこともしばしばありました。そんなときにこそ、ここで働かれる神様を感じるときだったと言えます。
 
 牧師として召されての「最初の一歩」の10年でした。家族が一人一人増え、地域社会との交わりも与えられ、教会では神様の祝福を受けました。「神様なぜですか」と問う日々が与えられ、そのたびにまったく予想もできない答えをいただいてきました。
 
 これからまた、新しい10年が始まろうとしています。それは、この教会にとっても新しい10年となります。こんどはどんな10年でしょうか。しかし、神様は変わりません。神様の御心にそった教会である限り、感謝あふれる10年となることでしょう。

2018年10月17日水曜日

「ありがとうを返す」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「ありがとうを返す」

ヨハネ 3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

ある本の中の言葉です。「JRの駅のトイレに入った。用をたす。その目の前に貼り紙があった。《汚さないでください》といった注意書きではなかった。それでいて、何となくきれいに使いたくなる貼り紙だった。その内容は・・・。《きれいに使って頂いてありがとうございました》」。さて、私たちのまわりには《否定語》を使うことが多々あります。自分のことを反省してみると、子供にたいしてなんと否定語が多いことかと、がっかりします。注意や禁止を告げる言葉も、言い方によっては人を傷つけずにすむものです。本当に愛のある言葉は人を癒すのです。

 ヨハネ福音書の中で、最も有名な箇所です。たいてい好きな聖句のトップにこの聖句が上げられます。神様が、独り子であるイエス様を十字架の死に渡してまで、私たちを愛してくださったのです。私たちの罪を赦しあがなうためです。「たち」というより、これを読む人は「私」と置き換えます。こんな私のために、神様がそこまでしてくださったことに感謝するのです。

 会話の中でよく聴く言葉があります。「すみません」という言葉です。本来「ありがとう」と言うところで、「すいません」といいます。何も悪いことはしていないのに謝っているように聞こえます。しかし、ある仏教のお坊さんの解釈を思い出しました。「すいません」という言葉は、「私」はこれまで多くの人、出会い、物、大自然のおかげで今日まで生きてくることができた。しかしそれに対して何一つ恩返しができていない。つまり「すみません(申し訳ない)」という気持ちを表した言葉ですと。あなたからの恩になにも返せなくて「すみません」ということです。

 神様から私たちが頂いたものを数えることができません。(あまりにも多くて)イエス様の命までも頂いたのです。神様に何を返していけばいいのでしょうか。いや、返すことを神様は望んでおられないと思います。「ありがとう」と感謝して受け取ればいいのです。そして、頂いた恵みを隣人と分かち合い、「あなたも神様から愛された存在ですよ」と伝え、隣人に仕えることが「すみません」の言葉、それが本当の生き方だといえます。


2018年10月16日火曜日

「ラストワンコール」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ラストワンコール」
 
 携帯電話も、どんどん新しい製品がでています。形も大きさも小型化され、ますます便利になってきました。いつでも、どこでも、電話がかけられることの便利さを味わうとともに、マナーについても問われるようになりました。
 
 最近の一番新しい携帯電話の性能に「ラストワンコール」というのがあります。文字通り「最後にあと1回だけかけられる」という意味です。なぜこのような表示サービスができたのかといえば、携帯電話は充電式なのでいつ電池がなくなるかわからないのです。そこで、あと1回だけかけられる電池の要領がありますよと教えてくれるようになったのです。
 
 さて、この機能の説明書を読みながら、人生にもラストワンコールがあればどうなるかなと考えてみました。つまり「もし、死ぬ前にあと1回だけ電話できるとしたら誰にかけるだろうか」と考えてみたのです。それは家族でしょうか、友人でしょうか、はたまた恩師でしょうか。そう考えてみると自分がもっとも大切に思っている人へかけるかなと思います。しかし、大切なことはそこで何を話すかということかもしれません。
 
 もし、それが神様に通じるのであれば、間違いなく神様にかけます。そして、まず悔い改めをします。次に感謝でしょうか。そして、最後は祈りになるでしょう。

2018年10月15日月曜日

「たった一言で」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「たった一言で」

マタイ  8:8 百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。

お寺の前を通るとき、よく掲示板をみます。たいていは墨字で達筆にかかれてあります。あるとき旅行中に小さなお寺を見つけました。そこには大きな字で次のように書いてありました。「たった一言が、人の心を傷つける。たった一言が、人の心を温める」と。言葉というものには力があります。たった一言の力だと思います。その使い方によって、人を傷つけるし、癒すこともできるのです。この言葉の力をもっと考えていかないといけないのです。

イエス様のもとに「百人隊長」がやってきて懇願するという出来事です。たったこれだけでも凄いことです。百人隊長はユダヤ人を支配し、命令する立場にあります。またユダヤ人は百人隊長を異邦人として忌み嫌って近づこうとしないからです。そんな関係がある者が、出会うのです。そして、イエス様に百人隊長の方から部下の「いやし」を懇願したのです。その中に「ただ、ひと言」という言葉があります。

ある本でみつけた話です。「96年のことである。46日間漂流して奇跡的に助かった漁師がいる。沖縄の人である。当時67歳。軽い脱水状態だったが、生命には別状がなかった。取材記者に救出の模様を語っていた。しめくくりの言葉が凛として見事だった。『これからまた漁にでますか』二コリともせずに答えた。『わしは漁師だからね』と」。もうひとつ。「ある自転車愛好家がいる。といっても、並の愛好家ではない。南北アメリカ、欧州、アジア、アフリカ、オーストラリアの80ヶ国を走破した人である。走行距離は13万7千キロ。六年半かかったそうである。日本に無事帰ってきて、旅の感想を聞かれた。そのときのひとことが、私たちに勇気を与えてくれる。『自転車乗りは上り坂を目指すんです。坂道はきついが、頂上はかならずあるんです』と」。人生の中で見つけた一言はとても重い言葉です。

 百人隊長は、イエス様がどんな方で誰であるかを本当にしっていたかどうかわかりません。しかし、そのみ言葉の力は信じていました。言葉には力があります。

2018年10月14日日曜日

きままな休日・鹿児島のバラエティかつ

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鹿児島教会の礼拝がおわり、真っ先に開花亭に行ってきました。
久しぶりのカツ。今日はバラエティかつを食べました。
う~んいいすね~

2018年10月13日土曜日

2018年10月11日木曜日

「教える人は聞かない」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「教える人は聞かない?」

 マルコ 4:24 「何を聞いているかに注意しなさい」

キリスト教は聞く宗教だといわれます。神様のみ言葉を聞く宗教です。「イスラエルよ聞け」という言葉が何回も聖書にでてきますし、「聞く耳のあるものは聞くがよい」とイエスは言われました。主のみ言葉を聞いて理解することは、以外と大変な事ですし、じつは私たちの中の準備が一番大切と思われます。

 イエス様は、人々の聞く力に応じてたくさんの「たとえ話」をされました。聞く人が何を求めているかを知っておられ、小さなことにまで、イエスさまの目が注がれているのかと感動することがあります。本日のみ言葉は「ともし火」と「秤」のたとえを語られたあとの言葉です。生活の中で使用している、ごくあたりまえの道具をつかった話です。「灯を持ってくるのは、燭台の上に置くため」。その通りですが、ここから何を聞きとるかが大切なことです。

 最近、気がついたことの一つに「教える人は聞かない?」ということがあります。教える人というのは、学校の先生、教会の牧師などはあたりまえの行為です。しかし、親という立場も子どもに教えるという存在になりまし、バイトの先輩や兄弟姉妹でもそのような立場になります。ただ、気がついたことは「教える」ということから物事を始めると「聞くことができない」状況に陥るのではと感じたのです。「わたしの話を黙って聞きなさい」というものです。そこにいる人が何を考え、何を求めているかを聞いて(受けとめ)、それから教えることが本来の姿のように思えたのです。
 イエス様は「何を聞いているかに注意しなさい」と言われました。教える者も「何を聞いているか」から発想し、教えるのではなく伝えるという立場にたつことが大切かなと思います。

2018年10月10日水曜日

「自分のいいとこ20」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「自分のいいとこ20」

 ヤコブ  2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。

「自分のいいところ探し」ということを教えて頂きました。まず自分のいいところを20個書き出す。私もやってみましたが、これは難しいですね。7個位はでてきますが・・。次に家族の誰かをきめてまた20個書き出す。これも大変。次に共に働く仲間のいいところを20個。これも書けません。しかし書けない原因のもとは、自分の20個がでてこないことにあります。自分に「いいところ」を探すことができなければ、人に「いいところ」を探すことはできません。

 聖書の言葉に「自分を愛するように、隣人を愛せよ」があります。これを読むとき、「隣人を愛せよ」はわかるのですが、「自分を愛する」ことが、自己愛やわがままにつながらないかな?と考えてしまいます。しかし、自分を本当に愛せない人は、神様の愛もわからず、隣人をどうやって愛していいかもわからないのかもしれません。

 有る兄弟が「遺言」をのこしておられました。そこには、「亡くなったときはすぐに教会へ連絡すること。葬儀はキリスト教式でやること。質素におこなうこと」と書かれてありました。しかし、実はこれだけではありません。本当の遺言は最後に書いてありました。「骨は妻のもとの一緒にして納骨するように」。奥様を先に天に送られ本当に心を痛めておられました。生前に奥様が描かれた油絵のすべてを額に入れ、お部屋の中に飾っておられました。それだけでなく、遺骨をいつも腰のウエストポーチに入れておられました。いつも共にあるのだということ、いつも共に礼拝しているのだという信仰だったのでしょう。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神からでるもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているのです」を思い出しました。

 「隣人を自分のように愛しなさい」。これは、神様がどれだけ自分のことを愛してくださっているか、その御心の大きさを知ることです。神様が愛してくださっている私自身を、自分も愛することが必要です。その愛を自分だけのものとせず、隣人へと向けていきましょう。

2018年10月9日火曜日

「本物か偽物か」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「本物か偽物か」
 
 我が家には、マカオの友達からプレゼントされた骨董品がいくつかあります。ただ乱雑に並べてあるだけですが、それなりの姿に歴史を感じてしまいます。
 
 さて、その骨董品の中に《壷》と《皿》があります。友人の話によれば、二千年前の壷と漢時代の皿だそうですが、本当でしょうか。骨董品はわかりませんので、そう言われてそうだと考えていたほうが幸せです。しかし、最近この二つをしみじみ眺めてみますと、「もしかすると本当にそうかもしれない」と思えるのです。もし本当だったら大変だなと思いつつ、たぶん偽物だということで自分を納得させています。本物だったら大変なことになりますから。
 
 壷を手にもちながら、人間も同じようなものかもしれないと思いました。宝が与えられているのに気が付かないからです。与えられている神様からの賜物としての宝が、本物か偽物かの判断ができないのです。偽物という宝はないでしょうから、宝を偽物にしているのは私たちのです。
 
 与えられた宝《信仰》は、いつでも本物です。その宝を無にしてはいないでしょうか。せっかく与えられた宝の価値を見いださないで、捨ててはいないでしょうか。私たちは神様から最高の宝《信仰》をいただいています。その大きな価値に気づきたいと思います。そして、与えられていることに感謝し、ますますそれを本当の宝へと育てていきたいものです。

2018年10月8日月曜日

「骨髄まで響く」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「骨髄まで響く」

 マルコ 1:11 あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者

進学か就職かについて悩んでいる学生からの相談を受けました。自分の思いや、やりたいことを親がわかってくれない。そんな親は親として認められないと。それを聞きながらスリランカの言葉を思い出しました。「子どもに対する親の気持ちは骨髄まで響く。でも子どもはそれを知らない」というものです。親が分かってくれない、親として認めないではなく、きちんと親の気持ちを受け止める努力はしたのかと聞いてみました。子にたいする親の気持ちは骨髄まで響いている。それをわかった上で、自分の考えを相談したらと話しました。

 イエス様の公生涯は洗礼を受けることから始まります。マルコによる福音書では、人が洗礼を受けるのがごく自然なように、イエス様も「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」としか書いてありません。マルコは、人としてあたりまえの出来事であるようにサラッと記しています。ただ重要なことは、そこで神様の言葉「あなたは私の愛する子」があることです。イエス様は「神様の子」であることの宣言が、私たちの信仰にとって一番大切であり、はじめに示されたことなのです。

「小さな親切の花束」という本で次ぎのような文章を見つけました。「小学校入学の時のこと、初日とあって小さな男の子が泣き出してしまいました。私はすぐにそばに行き「大丈夫?」と抱きしめてあげました。ところが先生は「席にもどりなさい」と強く注意したのです。子供心に「なんという先生だろう」と思いました。もし家で私が泣いていたら、必ず家族の誰かがそばにいて抱きしめてくれたからです。先生はその子をほっとくように言いましたが、わたしはやめませんでした。ある日学校から母に手紙がきました。「お子さんは礼儀知らずで反抗的で、もめごとを起こす問題児です」と。母は私をよび何があったかを聞いてくれました。そして母は先生に次のようにいいました。「うちの子は、まわりの人に思いやりをもって接するように教えていてそれは変えられません」と。そしてさらに「人の痛みを感じやすいこの子の性格に先生が慣れていただくしかありません」と。もう72年前の言葉ですが私の人生の支えとなっています。」

イエス様は自分が神様の子であること、神様の心に適う者であることを受けとめておられました。その骨髄にまで響く親の心をわかっておられます。その御心が十字架の死であっても、み心に添ってその道を歩まれたのです。神様は私たちも子としておられます。そのみ心は知ることを始めたいと思います。

2018年10月7日日曜日

きままな休日・LAのシカゴピザ


今年の8月にLAハンティングトンビーチに行ってきました。
   ホームスティ先のお父さんお母さんがシカゴピザの店に連れていいてくださいました。
   LAでたべるシカゴピザも最高にアメリカンでした。
鉄なべ餃子のような鉄なべピザ。ぜひまた次回も食べたいです。

2018年10月6日土曜日

2018年10月4日木曜日

「お父さんのパン」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「お父さんのパン」
 
 長女が、こんな嬉しい作文を書いてくれました。
   「お父さんのパン」
 
 お父さんは、いつも金よう日にやない教会にあるふれあいショップに出すパンをたく山やいています。そのときは、家じゅうがパンやさんのようにとてもいいにおいだらけになります。わたしたちの体もおんなじにおいになります。
 
 でもお父さんは、いつもいそがしいので夜つくっています。パン作りは、時間がかかります。わたしがねるころには、まだやっています。とてもおいしいパンなのでみんなが金よう日を楽しみにまっているのでやすめません。わたしの頭ぐらいの大きさの丸いパンです。ときどきたのまれてパン作りをおしえることもあります。わたしもお父さんのパンがすきです。でも休んだらいいとおもうこともあるけど、お父さんはがんばっています。すごいとおもいます。
 
 パンを焼くことを、つらいと思ったことはありません。むしろ、神様の不思議な業にいつも驚かされています。学費稼ぎが目的で始めたアルバイトでした。それが、いつのまにか人に喜ばれることになるとは。パンを焼くことで「一粒の麦」にかかわることができる。そのことに感謝しています。

2018年10月3日水曜日

「深めていく愛」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「深めていく愛」

ユダ  1:2 憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

フランスの言葉に「愛はいつも、いっそう深まっていくか、だんだん冷えていくかのどちらかである」というのがあります。この愛は、恋愛のことか、結婚生活のことか。または、家族、友達のことをいっているのか。どちらにせよ「愛」を深める努力をしなければいけないことを教えているのでしょう。さもないと「だんだん冷えていく」のです。

 ユダの手紙の挨拶の言葉です。手紙を書くときはまず「挨拶」を書きます。使徒たちの手紙でも同じです。しかしその挨拶は季節のものではなく、自分は何者で、キリストとの関係はどうであるかを示し、さらに祝福を与えています。この祝福の中で「愛」がでてくるのはユダの手紙のみです。キリストの守られている人々に「憐れみと平和と愛」が「ますます豊かに与えられ」るように、というのです。

ふと本棚に目を向けると一冊の本がありました。「神がふれてくださった」というものです。その中につぎのような話しがかいてありました。「かって私は、歌手であり俳優でもあるメリー・マーティンが幕の上がるまえに舞台のそでに立ち、観衆の方に向かって両腕を差し伸べ、『あなた方を愛します、あなた方を愛します、あなた方を愛します』と繰り返したという話を読んだことがあります。彼女はそれから合図によって舞台に上がり、愛する人々のためにすっかりリラックスして演じたり、歌ったりすることができたというのです。それは愛の行為だったからです」

 私たちは愛を深めることをしているでしょうか。どうすれば深まっていくでしょうか。愛の反対は「無関心」とは、マザー・テレサの言葉です。お互い大切な存在として関心をもち、深まっていくキリストの愛を感じていたいものです。

2018年10月2日火曜日

「足跡」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「足跡」
 
 毎週土曜日に礼拝堂の清掃をします。掃除機をかけるのですが、徳山教会の広さでは、約40分~50分かかります。楽しい時もありますし、つらい時もあります。しかし、私にとっては修道の時かもしれません。
 
 この礼拝堂の清掃も一人で9年もやってくると、いろいろな変化が分かります。というより、毎週のことなので微妙な変化にすぐ気がつくのです。それでも、いつのまにと感激することもあります。
 
 昨日のことでした。いつものように聖壇から始めますと、ある足跡に気がつきました。聖卓の後ろ、十字架の下にくっきりと足跡がついています。もちろん、いつも牧師が礼拝のときにそこに立つので跡が残っているのですが。自分の牧師としての働きの全てを凝縮されているように見えました。「ああ、ここに立っている。ここで御言葉を語っている。ここで、主イエスの祝福を受けている」ととても感激したのです。同じところに9年も立ち続けてきました。そしてその下には聖書が埋められています。牧師とは御言葉に立つ者のことだと改めて教えられました。
 
 ここには、これからどんな牧師が立つのだろうか。100年後にも同じところから神様の御言葉が語られていくことに感謝したいと思います。聖壇にある足跡は、きっと主イエスに支えられて残っていくのでしょう。

2018年10月1日月曜日

「手伝わせてほしい」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「手伝わせてほしい」

 マルコ 10:45 人の子は仕えられるためでなく仕えるために

子どもたちが小さかった時のことです。私をのぞく家族がクリーニング屋さんに行きました。お店のおばちゃんが「今日は一番偉い人はどうしたの?」と聞きました。すると娘たちは一斉に家内を指さして、「ここにいるよ」と言ったそうです。それから30分は笑わせてもらったとお店のおばちゃんにあとで感謝されました。

イエス様の弟子達は「誰が一番偉いか」ということを、イエス様が十字架に渡される前の晩に議論していました。権力争いだったのでしょうか。王様としての栄光の時自分がどのような位置にいるか、心配だったのでしょうか。しかし、結果は全く違うことになりました。イエス様はそのとき「偉くなりたいものは、仕えるものになりなさい」と諭されたのです。私たちの中で一番偉いのは神様です。なぜなら、こんな私たちに、徹底的に仕えてくださるからです。しかも十字架までもお受けになって仕えてくださいます。その姿の前に私たちは、悔い改めと感謝をするのです。誰が自分に仕えてくださっているか。誰が自分のことを愛し、支えているかを私たちは知っています。だからこそ一番偉いのは神様だと告白できます。

「母からの教え」というエッセイに、ある企業の管理職の方が次のように書いていました。あるとき、母親が五右衛門風呂の準備をしていた。水道がまだ整備されてないころで、水汲みから沸かすまでは重労働。みかねて母に「手伝ってやろうか」と声をかけた。すると母から「いらん!」と怒られたそうです。手伝ってもらいたいけれど「やろうか」ではしてほしくない。それは大きなお世話だ。お前が「手伝わせてほしい」といったらどれだけうれしいか。と諭してくれたそうです。

 「仕えるものになる」ことは心の持ち方が大事です。「やろうか」はどうみても上から目線の言葉です。上からでなく、共に生きるものとしての立場から、上も下もなく共にということから始めたいと思います。教会の作業の中でも「させてほしい」を実現していきましょう。