2020年2月29日土曜日

明日は礼拝


説教者:吉谷正典牧師(引退教師)
どうぞお越しください!
聖書朗読 
@第1日課: 創世記   2:15-17 〈旧約  3頁〉
@第2日課: ローマ   5:12-19 〈新約280頁〉
@本日福音: マタイ   4: 1-11 〈新約  4頁〉

2020年2月28日金曜日

聖書科授業にお坊さん

立野牧師は九州学院(ミッション系)で聖書を教えています。
が、そこに臨床宗教師仲間のお坊さんを読んで授業です。
曹洞宗のお坊さんはすご~いです。

2020年2月27日木曜日

「いじめはないの」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「いじめはないの」

 もう昔、ある年のこと「今年の9月『モーニング娘。』に、後藤真希という14歳の少女が新しく加入しました」と書いたところで、この文章をどれだけの方が理解できるかなと考えてしまいました。たぶん、教会に集うほとんどの方が「それ何のこと」と思われることでしょう。つまりこれは芸能ネタなのです。どうでもいいことかもしれません。ただそれでは話しが続きませんので説明します。いわゆる若い7人の女性歌手グループに、新しくメンバーが加入し、それが14歳の少女だったのです。

 さて、本題はここからです。この新しくなった『モーニング娘。』が、いろんな番組に出演したときのこと、どの司会者も同じ質問をしたのです。「新しく加わって、いじめはありませんでしたか」と。どの番組でも同じ。いまでも同じ質問もするのです。他に聞くことはないのかなとも思いますが、本当はテレビを観ている私たちも含め多くの人たちが実は「いじめ」を期待していると思えたのです。本来「いじめ」はあってはならないのだけれど、「いじめ」があったほうが面白いなあと心の奥底で思っている自分がここにいることに気がついたのです。この不思議な心模様を誰かが操っている。ワイドショーなどの作り方もそうかなとゾッとしました。

 人間の心というのは、いつも素晴らしいことだけを考えているのではありません。むしろ、罪深いことを考えているほうが多いのかもしれません。そのようなときに、主の十字架は悔い改めを私たちに迫るものとして現れます。その罪深さを気付かせてくれるのです。主イエスの十字架を通して判断せねばならないことがなんと多いことでしょうか。毎日流れてくるニュースを聞きながら、ふとそのようなことを思いました。主イエスはいつもそばにいて、導いてくださることを信じつつ。

2020年2月26日水曜日

「チームとして」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「チームとして」
ルカ3:5 山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎみる。
あるスポーツのコーチから聞いた話です。「個人技が優れている選手が多いチームが勝つとは限らない。一時は勝利するかもしれないが、勝ち続けることはできない。チームには調和が大切。個人技が優れている選手も、そうでない選手も自分の役割を知り、全体が一つの目標に向かう時に強いのですよ」と。
洗礼者ヨハネが用いたイザヤ書の預言です。イエス様がこられると、平均化される?という意味のように聞こえてきます。でこぼこは平に。曲がったものはまっすぐに。神様は私たちと世界を平等にみてくださるという意味でしょうか。しかし私たちには能力の違いや個性があるのですが。
島根県六日市は7月が蛍の季節です。若い頃、六日市礼拝のお手伝いをさせていただきました。牧師になって10年を過ごした礼拝に、そこの人々の変わらない信仰に癒されるひとときでした。そして蛍。毎年楽しみにしていたこと。家族全員で見に行ったこと。幻想的な雰囲気の中で神様の恵みを感じたことを思い出します。蛍というのは不思議なものを感じさせてくれます。蛍はばらばらに光ることはありません。かならず同じリズムで光るのです。目が暗闇になれるまでその全体はわかりません。静かにじっと待っているとその数が増してきて、いつのまにか山中が蛍になっていくのです。
先ほどの洗礼者ヨハネの言葉を読んでみました。私たちは神様から賜物を頂いています。それを用いて生きていく役割を与えられています。その役割を知って、この教会のチームで働くときにすばらしい働きができるともいます。個人技にすぐれている人も、そうでない人も、役割をきちんと踏まえ調和をたもちつつ今日も神様から与えられた働きに励みましょう。

2020年2月25日火曜日

「夢中句会」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「夢中句会」

 教会暦も新しくなりましたので、楽しい笑い話をおひとつ。

 先週の水曜日の夜、いま思い出しても笑ってしまうような「夢」を見ました。たまの楽しい夢だったので、心までウキウキしてしまいました。真夜中におきて、夢のおかしさにひとりでゲラゲラ笑ってしまうような夢でした。

 その夢とは・・・・鶴見句会に参加している夢なのです。特別吟行ということで、場所はオランダでの句会でした。いつもの句会のメンバーと教会員の皆さんで、わざわざオランダまでいったのです。そこで、「牧師は必ず1句だすこと」という宿題を与えられて、必死に句をつくっているという夢でした。とにかく、あれでもなくこれでもなく、なんとか1句ひねりだそうとしても、なかなかでてこない。しかし、それでも時間切れすれすれで・・・「できた!」と句をひねり出したのです。

  主の言葉 風車の下を ぞろぞろと

 思いっきり笑ってしまいました。なんだこれはという感じですが、夢の中でできた句なのでどうしようもできません。季語も意味もなくどんな気持ちがここに含まれているのでしょうか。

 この話しを聖研の時にしましたら、ある姉妹が「とても縁起のよい夢ですよ。教会に新しい風が吹いて、ぞろぞろと人がやってくるという、神様のお告げですよ」と言ってくださいました。そう言われてみると、嬉しくもあります。

 私たちは夜どんな夢を見るか、自分ではわかりません。それでも、苦しめられる夢よりも楽しい夢をみたいものです。せめて夢ぐらいはとも思います。ヨセフに告げられた夢は、この世界に平和をもたらしてくれたのですから。

2020年2月24日月曜日

「絶望から希望をみる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「絶望から希望をみる」
 ルカ 23:43 はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる
大学生の時フィリピンにいきました。スモーキーマウンテンというゴミの山のスラムにホームステイしました。しかし、そこのクリスチャンたちは決して希望を見失っていませんでした。『絶望までいってしまうと、もうそれ以下はないから、あとは希望しかみえないものだよ。絶望のなかでも希望を見ることができる。十字架の上でもキリストは罪人を救われたのだから』この言葉をフィリピンのクリスチャンから聞いてもう30年。そのとおりだと告白することができるようになりました。
 本日は、イエス様の十字架上での言葉です。ある意味では、絶体絶命のピンチの時でもあります。ゴルゴタの丘には3本の十字架が立てられました。一人は最後までイエス様を罵っています。イエス様をはじめ二人の強盗にとっては、死を直前にひかえた最後の時でもあります。ジタバタしてもはじまらないのです。
 ところがこの箇所はそのような暗い感じはありません。どこかに希望の光りがみえてくるのです。なぜなら、最後の最後で一人の強盗は信仰を告白して救われているからです。しかも、イエス様といっしょに楽園にいるとまでいわれています。確かに死ぬ。しかし、死んでも終りではなく、イエス様を信じているならば、今日、しかもイエス様とともに楽園にいると言われているのです。
カール・バルトの言葉に、「最後から一歩手前の真剣さで真剣に」というのがあります。この言葉は今年の私の目標です。最後までいってしまうと、神様になってしまいます。しょせん私たちは人間なのですから、神様にはなれません。しかし、だからといっていいかげんには生きていけません。最後から一歩手前というところが大切なのです。

2020年2月23日日曜日

きままな休日・コーエイの300円カレー

水前寺にコーエイという喫茶店があります。
もう30年も前から木曜日はカレーの日です。
いまは300円!この日はカレーしかありません。

2020年2月22日土曜日

明日はテレビ中継礼拝です。


大江教会とのテレビ中継礼拝 説教者:立野泰博牧師
聖書朗読 
@第1日課: 出エジプト 24:12-18    〈旧約 134頁〉
@第2日課: 2 ペトロ   1:16-21    〈新約 437頁〉
@本日福音: マタイ    17: 1-9     〈新約  32頁〉

2020年2月21日金曜日

大江教会ですが、、、

今年も主の十字架を偲ぶ季節となりました。
最初は「聖灰水曜日」の礼拝からです。
阿久根ではなく熊本の大江教会で行われます。
この日から教会の暦は受難です。

2020年2月20日木曜日

「115枚の立野牧師」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「115枚の立野牧師」

 クリスマスを迎えつつあるいま、なんだか嬉しいことが集まってきました。

 ひとつは、いよいよ紙芝居「せかいのはじまり」が最終段階まできたことです。何回も原稿をチェックし、絵を決め、印刷というところまできました。あとは出版日を待つだけです。楽しみです。

 二つめは、谷の百合幼稚園の「母の会講演会」が無事に終わったことです。たくさんの「神様のクレヨン2」を配ることができました。お母さんたちから、「母の会聖研」と「土曜学校」をはじめてくださいとお願いされました。これもまた嬉しいことでした。なんとかして実現したいと考えています。

 三つめは、我が家にピアノがきたこと。娘たちのうち誰か一人はオルガニストにしてくださいと祈ってきました。次女・愛美に祈りがきかれ、キーボードで練習してきました。しかし、あるご家庭からピアノをいただけることになったのです。やっと本格的に練習できるようになりました。やっぱり祈りはきかれ、それと同時に道もつけてくださるのだと感謝しています。

 四つめは、115枚の絵をいただいたことです。これが一番嬉しいことでした。このたくさんの絵は「ぼくたち、わたしたちのたてのせんせい」という表紙がつけられています。実は、母の会講演会のときの飾りとして、谷の百合幼稚園の子どもたちが私の似顔絵を描いてくれたものです。115もの立野牧師の表情があり、1枚1枚ながめていると幸せな気分になります。子どもたちと私の間に、主イエスがいてくださり、このような素晴らしいつながりを与えて下さっていることに、心から感謝しています。みなさんのところにもクリスマスという嬉しいことが届きますように。

2020年2月19日水曜日

「神様に求めて」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「神様に求めて」

ルカ 12:22 イエスは弟子たちに言われた。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」。

「思い悩んだって、何もかわらない」とは、被災地のおばあちゃんの言葉です。家も財産も全てなくしたおばあちゃんですが、そのことを思い悩んでもしかたがない。悩むくらいなら新しいことを始めなきゃと言っておられました。そのとき私たちの支援方法も変えなきゃいけないと思ったのです。それまでは共に思い悩むことが支援だと考えていました。しかし本当の支援は、寄り添いながら新しい一歩を踏み出せるために背中をそっと押してあげることではないかと。思い悩むことに入り込むと、この一歩が出ないのです。思い悩みから抜け出す一歩を寄り添いつつ支えるのが支援なのです。イエス様の生き方も同じです。

イエス様は「愚かな金持ちのたとえ」で、貪欲に対する注意を教えられました。その後、このみ言葉を弟子たちに話されました。烏は何も働かず倉などもたないが、神様は養ってくださる。「思い悩むことはない」。これは、神様が私たちを養っておられる。これに気づき、神様に感謝し、「神様を求めなさい」ということです。まず神様を求めることで、思い悩むことはなくなると言われるのです。

イスラエルへいったおり、ガイドの方から「一度、本当の荒野へいきませんか」と誘われました。イスラエルには3種類の荒野があるそうです。1、人間も動物も生きていける荒野。2、動物ならかろうじて生きていける荒野。3、生きていくことを拒絶している、どんな生命でも生きていけない荒野。この3番目の荒野を本当の荒野というそうです。その本当の荒野へ行こうというわけです。さて、その本当の荒野には何があるか、静寂と闇しかないそうです。一晩そこにいると、恐怖と畏れしかなく、人間は涙を流すといいます。音もない光もない、生きているものは自分だけという世界。そこでは神様を求めざるをえないと教えてくれました。聖書は荒野の中の宗教だといいます。神様を求めるほかには何もない世界の中で書かれたといいます。静寂と闇こそが人間を神様へと向かわせるのかもしれません。

イエス様は「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」と教えられました。思い悩まない方法は、神様を求めることです。自分のことばかり考えているとそこから抜け出せないものです。しかし神様を求めるとき、すべては与えられていることに気がつきます。イエス様は「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」と教えられました。

2020年2月18日火曜日

「教会に本日休業の張り紙」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「教会に本日休業の張り紙」

 ある時期、教会の子どもたちは「ごっこ遊び」をするのが楽しかったようです。礼拝中に病院ごっこをしていたときがありました。たぶん誰かがお医者さんになって診察などをしていたのだと思います。そういえば私もよくそのような遊びをした経験があります。  さて、その遊びの名残なのでしょうが、月曜日に集会室の窓をあけようとしたところ、張り紙を見つけました。その張り紙には「本日休業」と大きく書かれてありました。思わず笑ってしまいましたが、よく考えてみるとなかなか意味深長だなと考えさせられました。  教会には休業があるでしょうか。人の命には休みがないように、教会にもまた休業はないといえます。しかし、この世の中にあって教会は「開店休業」のような状態にあるのではないかと考えてしまいました。主イエスの教会はいつでも開店しています。いわば24時間営業ですが、そこに来る人の数は年々減ってきているように思います。教会や信仰に必要性はわかっていても、わかりやすい安易な宗教の方が行きやすいのでしょう。地方教会の開店休業の問題は深刻になってきています。  それでも、主イエスの教会は、そのような「開店休業」状況の中にあっても、なおいつでも用意が整えられていなければなりません。どなたでも受け入れられる用意が必要だといえます。このような世の中だからこそ、いつでもキリストの用意はできていますと、福音を語り続ける使命を感じています。  いつでも準備ができています。あなたの場所は用意されています。これが主イエスのメッセージだと思います。

2020年2月17日月曜日

「準備はできているか」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「準備はできているか」
 ルカ 10:36 だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか
あるとき、神学校の礼拝で学生が説教をすることになりました。はじめての説教だったこともあり、徹夜して準備し礼拝に参加しました。ところが説教壇に立ったとたん緊張し、何も話せなくなったのです。沈黙は5分位つづいたとき、ある神学校の教授が説教壇に立ち、代わって説教したそうです。その話をきいて「さすが神学校の先生ですね、よくできましたね」と思いました。ところが先生は「神学校の教授だから当然のことです。いつでも準備はできていますよ」と。
 有名な「よきサマリア人のたとえ」です。イエス様が律法の専門家に「何をしたら永遠の生命をいただけるか」という問いかけからはじまる会話の中で言われた言葉です。隣人を愛すること、では「わたしの隣人とは誰ですか」という質問をしたのです。隣人がわかったら愛することもできますと言いたかったのでしょうが、イエス様は「だれが隣人になったか」と違う角度から問われたのです。その中で、サマリア人はいかなる状況においても、傷つき倒れている人の隣人になることができる準備がしてあったことがわかります。
「パウロ使徒言行の旅、トルコ・ギリシャ」を企画してキャンセルになったことがあります。 6月の旅行が決まったときはすでに5月になっていました。時間がなく準備ができないでいたのです。それから資料をあつめ、使徒言行録を読み始めました。トルコ・ギリシャの地図をみながら読んでいます。その距離は計り知れない大きさであることがわかりました。この宣教の大地にますます立ってみたいと準備する時間を与えられたのだと思ったのです。使徒言行録を読んでいると、「聖霊が行くことをゆるさなかった」「イエスの霊がそれをゆるさなかった」「そこで・・・へいった」という表現がでてきます。私たちは勝手に準備し計画を立てて行動してしまいます。しかしそれは神様の御心ではないということで聖霊に止められることもあります。そこではなくこっち、それではなくこれという導きもあるのでしょう。私たちはいま何を神様は求めておられるのか、祈りつつ見極めていかなければなりません。神様の御心は全てによいように働かれるのです。その働きを信じて歩んでいきたいと思います。
 いつでも準備ができている。チームに人が欠けたときも、その人が帰ってくるまですぐに代わってできる体制。これが目標でもあります。そのためには、まず心の準備をしましょう。共に働いている仲間ですから、補い合える心を備えることが、この働きを託されているものの任務の一つです。

2020年2月16日日曜日

気ままな休日・サラダステーキオムレツのパレード!

なんと健康的で、スタミナがあって、
さらにみんな大好きオムレツが一つの皿に。
なんという祝福なんだろう

2020年2月15日土曜日

阿久根講談交換礼拝


説教:中村朝美牧師(宮崎)
南九州講談交換礼拝です。
聖書朗読 
@第1日課: 申命記  30:15-20     〈旧約 329頁〉
@第2日課: 1コリント  3: 1- 9      〈新約 302頁〉
@本日福音: マタイ    5:21-37      〈新約   7頁〉

2020年2月14日金曜日

阿久根の夕陽

鹿児島教会整備作業を終えて阿久根周りで帰ります。
道の駅で夕陽。神様からのプレゼントでした。

2020年2月13日木曜日

「石を拾う」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「石を拾う」

 祝日に予定がないというのは珍しいことなので、家族で野外に遊びにいくことにしました。どうせ行くならと、岡山にあるドイツの森にでかけました。ドイツの町並み、公園などを再現したテーマパークです。広い芝生があり、思いっきり遊んできました。少々疲れたので休んでいますと、聖美が一生懸命に石を拾っているのに気がつきました。別に何をするでもなく、拾っては捨て、捨てては拾っているのです。思わず山頭火の句を思い出しました。

 秋 う  山頭火

 私の大好きな句の一つです。禅の教えでは「捨てる」こと、「捨て去ること」を一つの目的としているのでしょうか。捨てることの意味を説いた言葉が多いことに気がつきます。しかし、人間捨てるばかりではバランスを欠いてしまうのではないでしょうか。それで思わず意味のない小石を無意識に拾っているということかもしれません。

 それでは、子どもたちはなぜ小石を拾うのでしょうか。たぶん、小石を拾って捨てることが面白いのだと思います。何回も何回も繰り返し拾ってはまた捨てる。そこに人生の意味があるわけでなく、ただそれが楽しい。もっといえば喜びなのでしょう。

 主イエスは私たちに、捨てることも、拾うことも赦してくださっています。ペトロが主イエスを捨て去っても赦しておられます。しかし、捨てたり拾ったりする人間を決して、主イエスは捨てられない。むしろ拾うのみに徹しておられるのが、十字架の意味だといえます。主イエスは拾ってくださる。その信頼が私たちを平安に導いてくれるのです。感謝。

2020年2月12日水曜日

「失敗して恵みを」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「失敗して恵みを」
 ローマ  11:12 彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。
 「失敗は成功のもと」という言葉があります。誰もが失敗を恐れています。できるなら成功だけの人生が一番です。しかし、失敗を失敗と受け取らない生き方もあります。それは失敗があったあら成功したという考え方です。実は「成功」というのはたくさんの「失敗」の上に成り立っています。それがわかれば、失敗は成功のもとにつながっていくのです。また失敗しても落ち込まないで済むのです。
パウロはユダヤ人の「つまずき」のことを「失敗」と表現しています。しかしそれでユダヤ人に救いがなくなったわけではありません。むしろその「失敗」が、異邦人に救いをもたらしたというのです。神様の御心によって異邦人に救いがもたらせたのは、「失敗」が益とされたからだと言っています。ユダヤ人たちがイエス様につまずいたことによって、救いは全世界にそしてユダヤ人以外に広がって行ったのです。一つのことが別の所では全く違う意味をもつものです。ユダヤ人の失敗も異邦人の救いとなったとパウロは言うのです。
 ある本で次のような話を読みました。「電車などで老人に席を譲ろうと思うが、一瞬のタイミングをはずして言い出せなくなった経験がある。その時、眠ったふりをしたり、あるいは『隣の席の若いやつはなぜ立たないのだ』と自分を正当化させた経験がある。席を譲るという、この一瞬のタイミングをはずしたばっかりに起こること。この一瞬のタイミングのことを、仏教では頓知という」と。この一瞬のタイミングがとても難しいと思います。このタイミングが頓知とは一体どういうことでしょうか。頓知といえば一休さんですが、そういえばタイミングとポイントがしっかり押さえられています。頓知とは日頃から訓練してはじめて身につくものだと言えます。
私たちの人生、このタイミングを捕まえるのが大変です。今と思ったときにはもうすでにタイミングがずれていることが多くあります。あせってしまってタイミングの前に失敗します。それを逃さないための方法は一つしかありません。いつも準備しておくことです。信仰とはいつ呼ばれても「はい」と、いえることだと思います。
 パウロは、「彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」と言っています。ユダヤ人の失敗が異邦人の救いになればどんなに素晴らしいかといっています。これはユダヤ人の失敗を中傷しているのではありません。神様の御心によって異邦人に救いがもたらされたと言うのです。ユダヤ人が何を失敗し、どのような罪を犯したかをはっきり知ることで、神様の救いの業を確認したというのです。失敗はマイナスのことではなく、神様の御心によって与えられる恵みであるともいえます。

2020年2月11日火曜日

「共通の違い」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「共通の違い」

 結婚式などで教会にこられる方の多くが、「カトリックとプロテスタントとはどう違うのですか」という質問をされます。いままでは、違いについて説明してきました。しかし最近では、違いを説明するよりも「共通の部分」を説明した方がいいなあと思っています。すると、皆さんが関心ある部分ではほとんど一緒ということがわかるからです。「カトリックとプロテスタントとはどう違うのですか」という質問に関しては、「同じキリストの教会です」と答えたときに安心されるからです。

 それでは違いはないのか。もちろん教理の部分で多少考え方が違います。とはいっても、そのことによって教会の存在が崩れさるようなものではありません。違いは違いと認めて、同じキリストの教会として、共に歩くことの方が大切だと考えています。いままでの教会の歴史は「ここが違う、あそこが違う」と違いを考えてきました。ところが、現代は違いは認めつつ同じ部分で一致していこうという流れがあります。同じキリストの教会にある兄弟姉妹なのですから、当然だといえます。

 本日、アウグスブルグでローマ・カトリック教会とルーテル教会は「義認の教義に関する共同宣言」に調印いたします。キリスト教の歴史にとっては、大きな出来事です。しかし、キリスト教の歴史では大きなことでも、私たちが現在生きている、この教会においては、あたりまえのことだと言えます。私たちが救われるのは、神さまから与えられる信仰によってだからです。そのことは、ゆるぎもないことです。今回の調印はルターの考えを認めたものというより、信仰による神の義と救いの確信を、ともに心に刻んだにすぎないと言えます。私たちキリスト者はキリストにあって兄弟姉妹です。どこの教会に属していても、共に歩むことができるのです。感謝。

2020年2月10日月曜日

「弱さは強さ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「弱さは強さ」
マタイ 5:39 わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
ブッダの教えに「先に傷つくのは自分」というものがあります。たとえ相手が悪人であっても、怒ったり攻撃したりすれば、自分もよけいな罪を犯して不幸になると。悪をなすのは相手であって、それに対して怒ると、自分もその怒りに汚染されるというのです。たとえば、怒りによって相手に汚物や炭火を投げようとすれば、先に汚れ、火傷をするのは相手ではなく自分である。相手が身をかわせば自分の手だけが汚れるというのです。
イエス様の教えで、最も知られたものの一つです。これは律法の中にある「目には目を、歯には歯を」という「同害報復」をとおして、加害者も被害者も同じ痛みを受けることを定めたものです。これに対しイエス様は、一切の復讐を放棄しなさいといわれました。それは悪への屈服でも単なる無抵抗でもありません。それができるためには、よほどの勇気が必要であり、弱い態度ではありません。イエス様の十字架も敗北(死)をもって勝利(復活)へと導かれたものでした。
私たちの人生「私は幸せ者」と最後に言えるということは、本当に感動的なことです。ある姉妹の人生最後の言葉は、天に召される2日前は「いろいろと感謝です」、1日前には「いろいろとありがとう」。そして臨終の床では家族の一人一人の名前をあげて感謝され、とくに障碍を持つお孫さんの優しさ、思いやりに深く感謝されたそうです。いよいよ苦しくなったときは、娘さんにしか聞き取れないくらいの言葉で「ありがとう」と言われたそうです。この言葉は娘さんだけにしか聞き取れないものでした。前夜式のときパウロが聞いた主のことばを引用させていただきました。「わたしの恵はあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」。この御言葉に感謝という応答をされたのがこの姉妹でした。
イエス様は「わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われました。律法を再解釈されたように思えますが、実は律法の本来の意味を教えてくださいます。神様の御心がどのようなものであるか。「目には目を、歯には歯を」という律法も、否定という形において本来あるべき姿を示されたものです。

2020年2月9日日曜日

気ままな休日・洋食亭のハンバーグオムライス

熊本松橋にある洋食亭。
いつも目にしていましたが
ついにお店にはいることができました。
う~ん!このオムライスは絶品ですよ。

2020年2月8日土曜日

明日は礼拝です。


説教者:吉谷正典牧師(引退教師)
どうぞよろしくお願いします。
聖書朗読 
@第1日課: イザヤ  58: 1-9a     〈旧約 1156頁〉
@第2日課: 1コリント  2: 1-12      〈新約  300頁〉
@本日福音: マタイ    5:13-20     〈新約    6頁〉

2020年2月7日金曜日

鹿児島教会にオルガン

鹿児島教会にオルガンが設置されました。
礼拝が豊かになっていきます。
ぜひ鹿児島市荒田のルーテル教会へ