2020年3月31日火曜日

みなさん!ありがとう!

2016年から4年間にわたり、
阿久根教会の主任牧師として働いてきました。
神様のたくさんの祝福と恵みをいただきました。
この度、日本福音ルーテル広島教会に転勤となります。
皆様のご協力感謝します。
4月1日からは関満能牧師が主任牧師になります。
みなさんよろしくお願いします。
お世話になりました!神様と皆様に感謝します!

2020年3月30日月曜日

「舌を制御する」

阿久根ルター君の朝のみ言葉
「舌を制御する」
ヤコブ 3:5 どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。
読売ネットニュースで、山陽新幹線博多駅でおきた「男女のけんか」を読みました。新大阪行き「こだま750号」での出来事です。車内で男女がケンカをはじめたために出発が15分おくれ、計1300人に影響がでたというものでした。原因は60歳代と40歳代で内縁関係にあった2人が、駅弁を買うかどうかで口論となり、ケンカが相手を蹴るなどに発展したそうです。鉄道警察員3名が駆け付けて仲裁にはいったのですが、おさまらず15分遅れで出発。2人は新下関駅で下車したということでした。最初は些細な口ケンカが原因で、次第におおげさになったのでしょう。ただ、この2人の心の深い所にある何かを見る思いです。
ヤコブの手紙3章は「教会内の争いについて」がテーマです。初めの部分では、言い争いを生む「舌」が問題とされています。舌を制御できる人は、全身をも制御することができ、神様に完全に従うことが出来るとヤコブは教えています。ところが、舌を制御できないと大変なことになります。舌を制御できない問題は、その人の中心に何があるかだと思います。
三女の4歳の誕生日のときのことです。誕生パーティを盛大に行い?いざ誕生プレゼントになりました。お姉ちゃんたちはこの日のためにいろいろと考えたのでしょう。手作りのプレゼントを持ってきました。タオルでつくった「だんご3兄弟」、古くなったトレーナーをエプロンに作り替えたり、ぬいぐるみをリニューアルしたりと。いつもは喧嘩ばっかりしているのに、やっぱり仲良しなんだなと実感できました。たくさんの物が机に並びました。どれもこれも楽しいものばかりでしたが、三女が本当に喜んだのは、実は1枚の紙切れでした。その紙切れとはお姉ちゃんたち直筆による「表彰状」だったのです。「表彰状。あなたはぶじに4さいになりました。げんきでおたんじょうびをむかえたので、みんなでひょうしょうします。たての家のみんなより」
元気に誕生日を迎えたことを表彰されたとしたら、やっぱり嬉しいものです。いまではそんなに誕生日を特別な日だとは思わなくなりましたが、それでも無事に今年も誕生日を元気に迎える事ができたことは心から感謝すべきことだと言えます。
 ヤコブは「舌は小さな器官ですが、大言壮語する」と言います。舌を制御することの難しさを思います。また「父である主を讃美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」と言います。同じ舌から相反することがでてきます。問題となるのは、その人の中心に何をおいているかだと思います。せめて人を元気づける言葉を語りたいものです。

2020年3月29日日曜日

気ままな休日・送別会はウナギ

宇土教会の前に、老舗うな専が移転してきました。
食べたいな~と礼拝後にいつもつぶやきました。
すると送別会はうな専で!と。
美味しかった~~~~~~~感謝!

2020年3月28日土曜日

明日は3月最後の礼拝ですよ!


説教者:吉谷正典牧師(引退教師)


聖書朗読 
@第1日課: エゼキエル  37: 114  〈旧約1357頁〉
@第2日課: ローマ      8: 611  〈新約 284頁〉
@本日福音: ヨハネ      11:1727  〈新約 189頁〉

2020年3月27日金曜日

2020年3月26日木曜日

「音楽は祭の一つ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「音楽は祭の一つ」

 礼拝堂コンサートを通して、多くの出会いを与えられています。とくに音楽関係の方々との出会いは豊かなものいただいています。先週はその一つのグループの人たちとの交わりがありました。彼らは「空想民族音楽・SAYAN」の人たちでした。

 空想民族音楽って何か?アフリカの民族楽器をつかった音楽で、「内なる自然との交感を求める打楽器と声。世界の先住民への敬愛と共感をこめて招きよせる祭の空間」なのだそうです。わかったようなわからないような。ようするにアフリカの打楽器をつかった演奏家たちです。しかし、その演奏は人の心に響くのでした。太鼓がしゃべるのです。もともとアフリカの太鼓は村々への情報伝達の一つだったといいます。この演奏家たちは老人ホームや障害者施設をまわって、その人たちの心のそこに眠っている魂を癒すことを目的としているというのです。

 最近「癒しの音楽」と言われます。しかし、そのほとんどが一方的に聞くことが求められます。バッハの音楽を誰かが演奏してそれを聞くといったころです。しかし、彼らの主張は癒しはそれだけではいけない、一緒に音楽を楽しみ参加する空間が人を癒すと言うのです。老人ホームで演奏していても、その音色で人々はいっしょになって踊り出す。寝たきりの方でも手を動かし始めるというのです。

 音楽は祭の一つだといわれます。祭には踊りがあり、歌があり、太鼓があり、そして大人も子供もいっしょに楽しんでいる。それが別々になってしまったのが現代かもしれません。そんな話しをききながら、それはすべて礼拝にあるのだと思いました。祭りには神様が中心におられるからこそ、人々の魂は癒されるのでしょう。

2020年3月25日水曜日

「結論から」

阿久根ルター君の朝のみ言葉
「結論から」
マタイ 5:3 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである
「会議での発言」というエッセイをよみました。会議で発言するときは「思いつき発言をやめる」ということが鉄則のようです。思いつき発言には、思いつき反論がでて、会議が子どもの言い合いになってしまうからです。会議での発言は、論理的に意見を述べることで議論が成立します。論理的発言とは何でしょうか。人は、「背景や経緯から話したい」という意識を持っています。これが議論をややこしくするそうです。結構言い訳がおおいからです。ということで一番大切なことは「結論からのべる」です。会話でも、英語を聞いていると先に結論がきこえてきます。日本語は最後まできかないと結論がわからない仕組みになっています。
イエス様が語られた山上の説教の始めの部分です。マタイによる福音書では、8つの祝福が語られます。その8つとも最初に「幸いである」が繰り返されます。イエス様の語りかけは、最初に「幸いである」「祝福がある」と言われるのです。この最初に「幸いである」と言われていることに注目したいと思います。
祈りについて次のような話しがあります。
 「ある幼子が夜寝る前に祈りました。『神様、明日は楽しい遠足です。どうか雨を降らさないでください』。同じ時間、となりの家である農夫が祈りました。『神様、明日こそ雨を降らせてください。このままでは作物が枯れてしまいます』。さて次の日、神様はどちらの祈りを聞かれたのでしょうか」この話しは「祈りとは何か」を学ぶためのたとえ話です。結論は祈りとはそのようなものではないということです。神様は祈りを聞いてくださいますが、それは神様の御心によってであって、祈ったからの結果ではないのです。晴れでも雨でもそれは神様の御心なのであって、そこには神様だけが知っておられる恵みがあるのです。雨のときは雨なりに、神様の恵みとは何かを知る時となるでしょう。
イエス様は、直訳すれば「幸いだ、心の貧しき者たち」と言われています。初めに結論「幸いだ」を言われているのです。神様が「幸いだ」と言って下さる。だから私たちはどんな状況にあっても「幸い」なのです。こうだから、ああだからではなく、まず結論をしっかり持つことが大切です。神様が「幸い」と言って私たちを祝福していてくださる。これが人生の結論だと思います。

2020年3月24日火曜日

「長女が学級委員長に」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「長女が学級委員長に」

 長女が「今日、学校でいやなことがあった」と、やや嬉しそうに帰ってきました。どんないやなことかと言えば、3学期の学級代表になったとのこと。私の時代でいえば「学級委員長」ということでしょうか。いやなことといいつつ、選ばれたことに喜びを感じている様子でした。

 そういえば、私もよく学級委員長というものをしました。よくというより毎年やっていたように思います。選ばれることと、責任をもって働くことに喜びを持っていたのかもしれません。しかし、いざやり始めるととても大変な仕事だったと思います。学級をまとめていくリーダーシップが要求されるからです。そのような中で教えられたことは、リーダーシップというのは「力・権威」ではなく「信頼」というこです。この「信頼を学ぶ」ことはとても大切なことです。

 さて、私たちと神様との関係においてはどうでしょうか。私たちの神様への信頼はもちろんのことです。それが信仰ということです。私のすべてを信頼しておまかせする。これが全き信仰といえます。しかし、もう一つの信頼を忘れてはいけません。それは、神様の私たちに対する信頼です。神様は私たちを信頼して命を与えてくださっています。ある人には信頼して子供を、ある人には仕事を・・といったように、すべてのことは神様からの信頼のうえに、私たちにまかせられていることなのです。

 学級代表をどのように務めていくか、それを通してなにを学んでいくか楽しみです。できれば、信頼されることの重さと喜びを学んでくれたらと祈っています。そうはいっても半分は安心しています。神様が娘を信頼してくださっているからです。

2020年3月23日月曜日

「涙の手紙」

阿久根ルター君の朝のみ言葉
「涙の手紙」
2コリ 2:4 わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました。あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほど抱いている愛を知ってもらうためでした
昨夜ラジオで「ラブレターの書き方」について話していました。今日がバレンタインデーということもあっての企画かもしれません。手紙というものをあまり書かなくなり、ほとんどがメールになってしまいました。手紙もメールも同じような物と思っていましたが、どうも違うようです。文書による連絡か、行間の思いを伝えるかということのようです。しかし、この行間の思いを伝えることは大変難しいものです。だから手紙を書くということが少なくなってきたのかもしれません。ラジオでは、率直に書かないようにして、しかし思いがわかるような文章を目指すとありました。手紙のなかに秘められた力は、人の思いの深さからくるのでしょう。
パウロは、コリントの信徒にむけて5通の手紙を送ったと思われます。その中に「涙の手紙」というものがあります。パウロはコリントに長期滞在の計画を再度たてていました。ところが、なにかの不祥事があってそれを中断し、エフェソに戻っていきました。不祥事が何であったかはわかりません。パウロは再度訪問をするかわりに「涙の手紙」を送ったのだと思われます。
「ポケットピカチュウ」と「てくてくエンジェル」という「万歩計(歩行計)」がありました。この万歩計がいままでのものと違うところは、全体がゲームになっていることです。キャラクターを育てたり、また歩けば歩くほど画面上のキャラクターと仲良しになれるというものです。反対に歩くことを少しでも減らしてしまうと、キャラクターは「努力しないあなたとは、おつきあいできません」なんていう置き手紙を置いて去っていってしまうのです。というわけで、てくてく歩いていました。毎日だいたい3千歩でしょうか。この万歩計をつけだしてやっと5千歩になりました。人間の健康には歩くということが一番いいと聞きます。そいうえば、主イエスも歩いておられます。その距離といえば想像を超えるくらい歩き回っておられるのです。しかし、ただ歩いておられたわけではありませんでした。御言葉をのべつつ歩いておられたのです。それが福音の置手紙となっています。
パウロはたくさんの手紙を書いています。パウロの手紙は現代の私たちに福音を証する手紙となっています。パウロを通して語られたキリストの福音がそこにあります。私たちの教会も、パウロの手紙の行間から、神様の福音を聞いてきました。今日からしばらく、パウロの手紙をとおして神様の福音聞いてまいりましょう。

2020年3月22日日曜日

きままな休日・大分のネギ

大分の友達からヘルプメール!
形等で出荷できないネギをもらってくださ~い!
もちろんです。甘くておいしいネギでした!
でもなんでこんなおいしいネギが出荷できないのだろう!!!

2020年3月21日土曜日

明日はTV中継礼拝です


説教者:立野泰博牧師(主任教師)
大江教会とのTV中継礼拝です!

聖書朗読 
@第1日課: サムエル上   16:1-13  〈旧約453頁〉
@第2日課: エフェソ     5:8-14   〈新約357頁〉
@本日福音: ヨハネ       9:35-41  〈新約186頁〉

2020年3月20日金曜日

2020年3月19日木曜日

「御言葉を音符に」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「御言葉を音符に」

 「The CD Club」という会に入っています。毎月の推薦CDがあり、好きなものを注文するシステムになっています。今回の推薦は「バッハ」でした。テーマは「癒し」です。「癒しが欲しい現代を潤す・バッハ」というわけです。

  そういえば、私の本棚にも最近このてのCDがたくさん並んでいます。「憩いの~」 「寛ぎの~」「癒しの~」というものです。具体的に「目覚めの~」「昼下がりの~」「ティータイムの~」「語らいの~」と分けたものがあります。きっと、こころの癒しを求めている人がいて、たくさん売れるのでしょう。やっぱり、クラシック、その中でもバロック、その中でもバッハということになるのでしょうね。

  確かにバッハの曲は聞くものの心を癒すといえます。私などは「ブランデンブルグ協奏曲」「無伴奏チェロ組曲」を聞くとなごやかになってきます。バッハという大作曲家のなかにある信仰が、人の心を癒すのではないでしょうか。

  ある方に教えていただいたことがあります。「バッハの曲は聖書の御言葉を音符になおしただけのものである」。つまりバッハの曲は聖書の御言葉を読むのと同じだというのです。そうだとすると、人の心を癒すのは当たり前のことなのですね。

  現代に生きる人々は「癒し」を求めていると言われますが、いつの時代でも人は癒しを求めています。そのことに気がつかないのです。本当は癒されたい自分がいるのに、我を張ったりしてその思いに達しないのです。主イエスに「癒されたい」とお願いした人々は、聖書ではみな癒されて新しい人生「神様と共に歩む人生」を与えられました。主イエスによって癒されることを信じた人々は、新しい人生において輝いて生きることができるのです。

2020年3月18日水曜日

「信じて行く」

阿久根ルター君の朝のみ言葉
「信じて行く」
 創世記 12:4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。
ナスティン・ホジャの話というのがあります。「ある日、ナスティン・ホジャが友達に大きな鍋をかりに行きました。数週間後、ホジャは鍋を友達に返しにいきました。しかし、その大きな鍋の中には小さな鍋が入ってました。友達は「私が貸したのは大きな鍋一つだけです。小さなものは私のではありません」と言いました。しかしホジャは「いいえこの小さな鍋もあなたのものです。大きな鍋を借りている間に鍋が子供を生んだのです」と答えました。友達は大喜びで2つの鍋を受け取りました。数日後またナジャは同じように大きな鍋を借りにいきました。友達は大喜びで鍋を貸してくれました。また子供が生まれるかもと期待していたのです。ところがナジャは何週間たっても鍋を返してくれません。とうとう数ヶ月が過ぎました。しびれをきらした友達はナジャのところへ怒鳴り込んでいきました。するとナジャは「あの大きな鍋は寿命がつきて死んでしまいました。だからもうこの世にはありません」と答えました。友達は「鍋が死ぬわけがないだろう」と怒鳴りました。しかしナジャは静かに言いました。「あなたは鍋に子供が生まれたことを信じているのに、どうして鍋が死ぬことを信じないのか。生のことのみをしんじて死のことを信じないのはおかしい」と答えました。信じるって何でしょうか。
パウロはローマの信徒への手紙の中で、「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」と書いています。「アブラハムの信仰が義と認められた」と繰り返されるように、大切なのは「信仰」であり、それを神様が「義」と認めてくださるということです。
大学の先輩に、「信行」という名前の方がおられました。お父様が牧師だったとのことで、「信じて行く」というところが名前の由来だろうと思っていました。ところが名前の由来はそれだけでなく、12月4日に生まれたからなのだそうです。つまり初めての子どもだったので、生まれた月日を創世記にあわせて名付けると決めておられたのだそうです。それでも、神様の導きはすごいと思いました。創世記の中心にピタリとあうようにされたのですから。
パウロはローマの信徒への手紙の中で、「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」と書いています。「アブラハムの信仰が義と認められた」と繰り返されるように、大切なのは「信仰」であり、それを神様が「義」と認めてくださるということです。
神様はアブラムに突然「示す土地へ行け」と言われました。アブラムは「主の言葉に従って旅立った」のです。この単純な出来事が、実は私たちにとって最大の出来事でもあるのです。神様の言葉を信じて歩むとき、大いなる祝福を得ると約束されているのです。私たちはいつも「信行」でありたいと願います。

2020年3月17日火曜日

立野牧師最終礼拝



立野泰博牧師の最終礼拝が行われました。
4年半の働きを感謝です。
大江教会、九州教区女性会の皆さんも参加!
30名を超える礼拝でした!感謝!
教会の外での記念撮影って献堂式いらいですかね!
神様の恵みがあふれていました。
4月より関満能牧師(水俣教会)が主任となります。
よろしくお願いします。

「神様似」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様似」

  ある雑誌に「カミさん川柳・最優秀賞」の発表がのっていました。

  いってらっしゃい閉まったドアにまわしげり(93年度)

  幸せは子供のほほのやわらかさ      (94年度)

  はえば立て立てば寝てろの親心      (94年度)

  「チッコない」いい張る足元ナイアガラ  (96年度)

  化粧すりゃ夫驚き子ども泣く       (97年度)

 と、なかなか初春から笑わせていただきました。その中でも次ぎの句には関心してしまったのです。

  「ママ似だね」どこが似てるの生まれたて (95年度)

 赤ちゃんが生まれると人はすぐに「ママ似」「パパ似」「誰々似」と決めつけたがります。しかし実際は生まれたての子供はみんな「猿似」といった方がよいのかもと、その本には書いてありました。しかし、いくらなんでも「猿似」とはいえないもどかしさもあります。ところが、人間はみんな「猿似」ではなく「神様似」なのだといえます。天地創造の紙芝居を製作しながら「神様に型どり、神様に似せて人を造ろう」と言われました。そうんなです。私たちは誰でも神様に似せて造られている存在なのです。神様の御言葉とともに御心もいただいている存在だといえます。

 だからこそ、次ぎの「カミさん川柳」が最優秀賞をいただくのだと思います。

  高熱のママのおっぱい吹いて飲み     (99年度)

 さすが、子育てということは大変なことです。そのように私たちも神様から見守られているのですね。感謝です。

2020年3月16日月曜日

「バイブル・手本」

阿久根ルター君の朝のみ言葉
「バイブル・手本」
テモテ  1:16 わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
電車の広告などで「~のバイブル」という表現をみます。「ダイエットのバイブル」「綺麗になるバイブル」「安心して生きるバイブル」などです。この「~バイブル」と言う表現をみるたびに、人々はこれをどのように受け取っているのか。理解しているのかと思います。ネット辞書では、バイブルとはまず「聖書」とかいてあります。そのあと「転じて、ある特定の分野において権威ある書物のこと」「常に傍らに置く事から転じて、座右の書や愛読書のこと」皮肉として「ある特定の分野において優れすぎて誰も実行できない最良の実践を記述した書物のこと」とありました。その他「各種マニュアル本やコンピュータゲームの攻略本の書題にバイブルが冠されることがある」そうです。聖書「バイブル」は、神様の言葉です。その基本からもう一度、言葉の意味を考えてみたいと思います。
 パウロは、若い弟子テモテに自分がうけた憐れみについて教えています。このパウロは、イエス様とその弟子たちを迫害していた者でした。パウロは「イエス様の限りない忍耐」を知ったといいます。ダマスコ途上で復活のイエス様と出会い、み言葉を受け、自分の生き方を根本から見直しました。そして自分がキリスト者の「手本となる」ことを決断したのです。その中心には福音(神様のみ言葉)がありました。
毎朝の日課として、まず起きるとすぐ教会の扉を開けにいきます。その後、礼拝堂にて記念日ノートを眺めます。今日の日はどんな日なのか、誰の記念日なのかを知り祈るためです。毎朝のことですが、この教会が果たしてきた役割の大きさを実感するときでもあります。教会の扉を開けておくと、いろいろなことに出会います。また、ある時は迷い込んでくるものもあります。先週の日曜日にはスズメが舞い込んでいたそうです。一度教会の玄関に入ってしまうと、出ることが難しいのでしょう。教会の扉を開けておくというのは、神様との出会いを体験することでもあります。毎日私の知らないうちに教会にきて祈る方がいます。神様はいつでもオープンだから、教会もいつでもオープンです。この神様が手本です。
 パウロは「人々の手本となる」と宣言しています。この宣言ができるのは、パウロの中に福音があるからです。その福音こそが神様の言葉です。私たちもいま与えられている働きを終えるとき、神様のみ言葉に支えられてきた恵みに感謝することができるように。新しく始まる体制には手本となるような仕事をしていきたいと願います。

2020年3月15日日曜日

きままな休日・美味しい顔ってどんな顔!

もう何度もコロッケのことはお知らせしました!
しかし、もう一回!
笑顔と共にコロッケを!美味しんです!
美味しい顔ってこんな顔!

2020年3月14日土曜日

明日は礼拝です!熊本からも参加!


説教者:立野泰博牧師(主任教師)
立野牧師の最終礼拝となります。どなたでも!

聖書朗読 

@第1日課: 出エジプト  17: 1- 7    〈旧約122頁〉

@第2日課: ローマ      5: 1-11   〈新約279頁〉

@本日福音: ヨハネ      4:16-26   〈新約170頁〉

2020年3月12日木曜日

「宝くじ・もしかしたら」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「宝くじ・もしかしたら」

 懲りずに「年末ジャンボ宝くじ」を買いました。結局は当選日に「やっぱりなあ」と微笑むだけなのですが・・・。それでも、買うときは「今度こそ当選するかも」と思ってしまうのです。確立的に計算すると無理なのはわかっているのですが・・・。 しかし、「3億円当選したら、まず10分の1は献金して、あとはあれを買って、これを買って、最後は貯金して」と夢が膨らみます。私が好きなのは、この当選日までの間の楽しみがあるからです。当選しないことはわかっていても、「もしかしたら」という気持ちが楽しいのです。もちろん、当選が確実ならばもっと喜んでいるに違いありませんが。

 確実であるものは、そんなに多くはありません。しかし、それでも喜びとともに確実にやってくるものがあります。それがクリスマスです。み子イエス・キリストの誕生は喜びとともに与えられ、その喜びは祝福をもたらし、いつまでも絶えることがありません。こんな確実な喜びをいただいていることに感謝いたします。

 すべての人の上に、確実な喜びがありますように!

2020年3月11日水曜日

「自分を愛するのは」

 阿久根ルター君の朝のみ言葉

「自分を愛するのは」
 ガラテヤ 5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
次のような話があります。目の不自由な人が夜遅く友人の家から帰ろうとします。すると友人は灯りのついた提灯を渡します。その人は不思議に思い「目の不自由な私には提灯はいりません」といいました。すると、「あなたには提灯はいりませんが、あなたが持っていないと、目が見える人があなたに気がつかずぶつかって危険かもしれません」と教えてくれたという話です。
 イエス様の教えで基本的なものは「神様を愛する」「隣人を愛する」の2つです。ルカによる福音書では、律法学者の「何をしたら永遠の命を受け継げるか」との質問に、この2つを答えられました。ただ、新共同訳と口語訳(1955年)ではちょっと言葉が違います。口語訳では「自分を愛するように、隣人を愛せよ」とあります。この「自分を愛するように」にという言葉にちょっと戸惑いをかんじていました。ただ手紙の最後には「ご自愛ください」と書きますが。
 最近FMラジオを聞いています。先週はNHK/FMから永六輔さんの声がきこえてきました。何人かの方々との対談でした。その中で自分たちがやっていたテレビ番組と現在の番組の違いを話しておられ、心に残った言葉はつぎのようなものです。「バラエティ番組なのだけれど、昔の番組は『笑わせる番組』だった。いまのは『笑われる番組』になってしまった」と。この2つはとても違うなと思いました。「笑わせる番組」を作るのは大変なことでしょう。視聴者の感覚を捕らえ、構成し、よく考えて作らねばならないからです。一方「笑われる番組」を作るのはどうでしょうか。誰かタレントをつれてきて、笑われればいいのです。そう考えると、いまのバラエティ番組が何をやっているか少し理解できました。タレントに変なことをさせて笑いをとっている。親たちがみて下品なことでも笑われればいいのかな、と思ってしまいます。サーカスにいたピエロとも違うのです。ピエロは笑われているようで、じつは笑わせていたということに気がつきました。神は私たちを「愛する」お方であって、「愛される」ために何でもされる方ではないのです。愛されようとして、「人間の思いのまま」に動かれるお方ではないのです。ラジオからの一言でああでもない、こうでもないと考えてみました。「神様は愛するお方だ!」と知ったときさわやかな感じがしました。
 自分を愛することは自分のためではありません。隣人を愛するためです。自分を愛する愛し方を分かっている人は、隣人をどのように愛するべきかを知っているのです。「ご自愛ください」とは、あなたが病気になると、家族や共に生きる方々に迷惑がかかるからです。自己愛で自分勝手に生きて行きなさいという意味ではなのですね。