2018年4月30日月曜日

「教える人は聞かない?」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「教える人は聞かない?」

 マルコ 4:24 「何を聞いているかに注意しなさい」

キリスト教は聞く宗教だといわれます。神様のみ言葉を聞く宗教です。「イスラエルよ聞け」という言葉が何回も聖書にでてきますし、「聞く耳のあるものは聞くがよい」とイエスは言われました。主のみ言葉を聞いて理解することは、以外と大変な事ですし、じつは私たちの中の準備が一番大切と思われます。

 イエス様は、人々の聞く力に応じてたくさんの「たとえ話」をされました。聞く人が何を求めているかを知っておられ、小さなことにまで、イエスさまの目が注がれているのかと感動することがあります。本日のみ言葉は「ともし火」と「秤」のたとえを語られたあとの言葉です。生活の中で使用している、ごくあたりまえの道具をつかった話です。「灯を持ってくるのは、燭台の上に置くため」。その通りですが、ここから何を聞きとるかが大切なことです。

 最近、気がついたことの一つに「教える人は聞かない?」ということがあります。教える人というのは、学校の先生、教会の牧師などはあたりまえの行為です。しかし、親という立場も子どもに教えるという存在になりまし、バイトの先輩や兄弟姉妹でもそのような立場になります。ただ、気がついたことは「教える」ということから物事を始めると「聞くことができない」状況に陥るのではと感じたのです。「わたしの話を黙って聞きなさい」というものです。そこにいる人が何を考え、何を求めているかを聞いて(受けとめ)、それから教えることが本来の姿のように思えたのです。

 イエス様は「何を聞いているかに注意しなさい」と言われました。教える者も「何を聞いているか」から発想し、教えるのではなく伝えるという立場にたつことが大切かなと思います。

2018年4月29日日曜日

2018年4月28日土曜日

若竹寮募金開始

タイ山岳民教育支援・フィンチャノンさん大学進学支援。
始まりました!ぜひお願いします。

2018年4月27日金曜日

きままな休日・人吉の餃子

知る人ぞ知る!熊本人吉「茶びん」の餃子。
ニラの風味がたっぷり。芸能人も沢山来ている店ですよね。
中華料理の店ですから、本格中華がいいすよ!

2018年4月26日木曜日

共感能力不足

クレヨン牧師のミニエッセイ

「共感能力不足」
 
 「妻が離婚を決意するとき」というコラムを読みました。そこには次ぎのようなことが書かれてありました。
 
 「妻が高熱を出して寝込んだ。出勤前、夫がやさしく言った。『いいよ、いいよ、寝ていなさい。夕食は外で食べてくるから・・・』。これを聞いて、妻は密かに決意した。『治ったら、すぐリコンする』と。」
 
 さて、どうして妻は離婚を決意したかわかりますか。私は妻がどうして離婚を決意したのか、理解するまでにたくさんの時間を必要としました。私にとっては、外食をしてくるという夫の方が、なんて優しいのかと思ったからです。しかし、女性の方ならばすぐ妻の気持ちがわかるのだそうです。あなたはどうですか。つまり、なぜ離婚を決意したかといえば、「寝ている妻の食事はどうなるのでしょうか」ということです。自分のことしか考えられない夫など離婚した方がましだということなのです。この話を聞いてある人は、「共感能力不足」と表現しています。相手の気持ちをくみ取れない、相手の状況を考えられないということでしょうか。
 
 主イエスは「共感能力不足」になられることはありません。いつだって、私たちのかたわらにおられるからです。私たちもまた、家族や同僚、友人のかたわらにいかにして立つかが問われます。そっと立つだけでいいのですが。

2018年4月25日水曜日

「自分のいいとこ20」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「自分のいいとこ20」

 ヤコブ  2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。

「自分のいいところ探し」ということを教えて頂きました。まず自分のいいところを20個書き出す。私もやってみましたが、これは難しいですね。7個位はでてきますが・・。次に家族の誰かをきめてまた20個書き出す。これも大変。次に共に働く仲間のいいところを20個。これも書けません。しかし書けない原因のもとは、自分の20個がでてこないことにあります。自分に「いいところ」を探すことができなければ、人に「いいところ」を探すことはできません。

 聖書の言葉に「自分を愛するように、隣人を愛せよ」があります。これを読むとき、「隣人を愛せよ」はわかるのですが、「自分を愛する」ことが、自己愛やわがままにつながらないかな?と考えてしまいます。しかし、自分を本当に愛せない人は、神様の愛もわからず、隣人をどうやって愛していいかもわからないのかもしれません。

 有る兄弟が「遺言」をのこしておられました。そこには、「亡くなったときはすぐに教会へ連絡すること。葬儀はキリスト教式でやること。質素におこなうこと」と書かれてありました。しかし、実はこれだけではありません。本当の遺言は最後に書いてありました。「骨は妻のもとの一緒にして納骨するように」。奥様を先に天に送られ本当に心を痛めておられました。生前に奥様が描かれた油絵のすべてを額に入れ、お部屋の中に飾っておられました。それだけでなく、遺骨をいつも腰のウエストポーチに入れておられました。いつも共にあるのだということ、いつも共に礼拝しているのだという信仰だったのでしょう。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神からでるもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているのです」を思い出しました。

 「隣人を自分のように愛しなさい」。これは、神様がどれだけ自分のことを愛してくださっているか、その御心の大きさを知ることです。神様が愛してくださっている私自身を、自分も愛することが必要です。その愛を自分だけのものとせず、隣人へと向けていきましょう。

2018年4月24日火曜日

否定語を使わずに

クレヨン牧師のミニエッセイ

「否定語を使わずに」
 
 「ひと言のちがい」という本に次ぎのような話がありました。
 
 「JRの駅のトイレに入った。用をたす。その目の前に貼り紙があった。《汚さないでください》といった注意書きではなかった。それでいて、何となくきれいに使いたくなる貼り紙だった。その内容は・・・。《きれいに使って頂いてありがとうございました》」。
 
 さて、私たちのまわりには《否定語》を使うことが多々あります。自分のことを反省してみると、子供にたいしてなんと否定語が多いことかと、がっかりします。注意や禁止を告げる言葉も、言い方によっては人を傷つけづにすむものです。「京都の人は否定語を使わずに断るのがうまい」と作家・渡辺淳一さんは言います。どのようにうまいかといえば、男性がデートに誘う。相手方がその気がなければ次のようにやわらかく断る。「おおきに、ほんまごいっしょでけたらよろしおすな」。こういうふうに言われると傷つくほうも少ないように思えます。
 
 さて、主イエスの言葉はどうでしょうか。主イエスによる否定語ということを考えてみますと、あまりピンときません。むしろどんな御言葉にも励まされているように思えます。たとえいけないという言葉でも、それが私たちのことを考えた深い言葉であるならば、人は前向きに受け取ることができるのです。主イエスの御言葉はどんな言葉でも感謝して受け取ることができるのです。

2018年4月23日月曜日

「骨髄まで響く」


阿久根ルター君の朝のみ言葉

「骨髄まで響く」

 マルコ 1:11 あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者

進学か就職かについて悩んでいる学生からの相談を受けました。自分の思いや、やりたいことを親がわかってくれない。そんな親は親として認められないと。それを聞きながらスリランカの言葉を思い出しました。「子どもに対する親の気持ちは骨髄まで響く。でも子どもはそれを知らない」というものです。親が分かってくれない、親として認めないではなく、きちんと親の気持ちを受け止める努力はしたのかと聞いてみました。子にたいする親の気持ちは骨髄まで響いている。それをわかった上で、自分の考えを相談したらと話しました。

 イエス様の公生涯は洗礼を受けることから始まります。マルコによる福音書では、人が洗礼を受けるのがごく自然なように、イエス様も「ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」としか書いてありません。マルコは、人としてあたりまえの出来事であるようにサラッと記しています。ただ重要なことは、そこで神様の言葉「あなたは私の愛する子」があることです。イエス様は「神様の子」であることの宣言が、私たちの信仰にとって一番大切であり、はじめに示されたことなのです。

「小さな親切の花束」という本で次ぎのような文章を見つけました。「小学校入学の時のこと、初日とあって小さな男の子が泣き出してしまいました。私はすぐにそばに行き「大丈夫?」と抱きしめてあげました。ところが先生は「席にもどりなさい」と強く注意したのです。子供心に「なんという先生だろう」と思いました。もし家で私が泣いていたら、必ず家族の誰かがそばにいて抱きしめてくれたからです。先生はその子をほっとくように言いましたが、わたしはやめませんでした。ある日学校から母に手紙がきました。「お子さんは礼儀知らずで反抗的で、もめごとを起こす問題児です」と。母は私をよび何があったかを聞いてくれました。そして母は先生に次のようにいいました。「うちの子は、まわりの人に思いやりをもって接するように教えていてそれは変えられません」と。そしてさらに「人の痛みを感じやすいこの子の性格に先生が慣れていただくしかありません」と。もう72年前の言葉ですが私の人生の支えとなっています。」

イエス様は自分が神様の子であること、神様の心に適う者であることを受けとめておられました。その骨髄にまで響く親の心をわかっておられます。その御心が十字架の死であっても、み心に添ってその道を歩まれたのです。神様は私たちも子としておられます。そのみ心は知ることを始めたいと思います。

2018年4月22日日曜日

2018年4月21日土曜日

2018年4月20日金曜日

気ままな休日・五家荘ごはん

平家の里・五家荘へ行ってきました。
山奥の落人の里。さすがに山にしかない料理でした。
猪汁、ヤマメ刺身、塩焼き、甘露煮。
どれも最高!

2018年4月19日木曜日

自然と求めるもの

クレヨン牧師のミニエッセイ

「自然と求めるもの」
 
 「いま食べたいものが、身体の栄養に不足しているもの」と、どこかで読みました。そこで振り返ってみますと、私の場合は野菜が食べたくてしかたありません。ということはビタミン不足かなと思います。
 
 さて、あれは中学生くらいのときでした。母親のつくる料理に、一日おきにくらいに「野菜炒め」が出て来ることがありました。「野菜炒め」が出ないときは、どっさりのキャベツの千切りがでました。私たち兄弟そろって不平を言ったことを思い出します。兄なんかはお皿をひっくり返したのではなかったでしょうか。とにかく母が作ってくれた料理に文句ばっかり言った時期があったのです。
 
 いまにして思えば、あの頃の母は仕事に忙しかったころでした。朝はやくから夜おそくまで立ちづくめで働いているときでした。たぶん、野菜が多かったのは、母の身体が自然と野菜を求めていたためだと言えます。それに気が付かなかったのです。母の身体をいたわってあげられなかったことが、恥ずかしく思います。
 
 自然と求めているものがあります。それは自分ではわからないものです。なんでこの人はこればっかり言うのだろうとか、この本ばっかり読んでいるとか。しかし、よくよく考えてみると、それがその人の求めているものだと言えます。私はどれだけ、主イエスのことを考え、御言葉を口に出しているだろうか。そこに求めているかどうか、自分を吟味している秋です。

2018年4月18日水曜日

深めていく愛


阿久根ルター君の朝のみ言葉

「深めていく愛」

ユダ  1:2 憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。

フランスの言葉に「愛はいつも、いっそう深まっていくか、だんだん冷えていくかのどちらかである」というのがあります。この愛は、恋愛のことか、結婚生活のことか。または、家族、友達のことをいっているのか。どちらにせよ「愛」を深める努力をしなければいけないことを教えているのでしょう。さもないと「だんだん冷えていく」のです。

 ユダの手紙の挨拶の言葉です。手紙を書くときはまず「挨拶」を書きます。使徒たちの手紙でも同じです。しかしその挨拶は季節のものではなく、自分は何者で、キリストとの関係はどうであるかを示し、さらに祝福を与えています。この祝福の中で「愛」がでてくるのはユダの手紙のみです。キリストの守られている人々に「憐れみと平和と愛」が「ますます豊かに与えられ」るように、というのです。

ふと本棚に目を向けると一冊の本がありました。「神がふれてくださった」というものです。その中につぎのような話しがかいてありました。「かって私は、歌手であり俳優でもあるメリー・マーティンが幕の上がるまえに舞台のそでに立ち、観衆の方に向かって両腕を差し伸べ、『あなた方を愛します、あなた方を愛します、あなた方を愛します』と繰り返したという話を読んだことがあります。彼女はそれから合図によって舞台に上がり、愛する人々のためにすっかりリラックスして演じたり、歌ったりすることができたというのです。それは愛の行為だったからです」

 私たちは愛を深めることをしているでしょうか。どうすれば深まっていくでしょうか。愛の反対は「無関心」とは、マザー・テレサの言葉です。お互い大切な存在として関心をもち、深まっていくキリストの愛を感じていたいものです。

2018年4月17日火曜日

「少しのばして・恵」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「少しのばして・恵」
 
 依頼を受けて、下関教会の結婚式奉仕に行ってまいりました。場所が変わればハプニングがあるもので、式が始まって結婚指輪が聖卓にないことに気がつきました。すぐに信徒のかたに合図を送り、探していただきました。そうこうしているうちに、説教壇にメモが届けられました。そこには「指輪はまだ披露宴会場にあります。すぐに来ます。少し説教をのばしてください」と書かれてありました。
 
 突然のことなので、いつもは十分で終わる説教を二十分かけてゆっくり話しました。もう冷や汗がでました。しかし、自分が話したものをその場で確認しながら、自分でも聞くという作業に恵まれました。
 
 そこで、聞いた自分が語る御言葉は「人生にはいろいろなことがあります。苦しいこと、悲しいことにぶつかります。突然起こってくる災難もあります。しかし、神様はきっと導いてくださり、それを乗り越える力を与えてくださるのです。それを信じてください」でした。そう語り終えたとき指輪が届きました。神様に感謝。

2018年4月16日月曜日

「手伝わせてほしい」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「手伝わせてほしい」

 マルコ 10:45 人の子は仕えられるためでなく仕えるために

子どもたちが小さかった時のことです。私をのぞく家族がクリーニング屋さんに行きました。お店のおばちゃんが「今日は一番偉い人はどうしたの?」と聞きました。すると娘たちは一斉に家内を指さして、「ここにいるよ」と言ったそうです。それから30分は笑わせてもらったとお店のおばちゃんにあとで感謝されました。

イエス様の弟子達は「誰が一番偉いか」ということを、イエス様が十字架に渡される前の晩に議論していました。権力争いだったのでしょうか。王様としての栄光の時自分がどのような位置にいるか、心配だったのでしょうか。しかし、結果は全く違うことになりました。イエス様はそのとき「偉くなりたいものは、仕えるものになりなさい」と諭されたのです。私たちの中で一番偉いのは神様です。なぜなら、こんな私たちに、徹底的に仕えてくださるからです。しかも十字架までもお受けになって仕えてくださいます。その姿の前に私たちは、悔い改めと感謝をするのです。誰が自分に仕えてくださっているか。誰が自分のことを愛し、支えているかを私たちは知っています。だからこそ一番偉いのは神様だと告白できます。

「母からの教え」というエッセイに、ある企業の管理職の方が次のように書いていました。あるとき、母親が五右衛門風呂の準備をしていた。水道がまだ整備されてないころで、水汲みから沸かすまでは重労働。みかねて母に「手伝ってやろうか」と声をかけた。すると母から「いらん!」と怒られたそうです。手伝ってもらいたいけれど「やろうか」ではしてほしくない。それは大きなお世話だ。お前が「手伝わせてほしい」といったらどれだけうれしいか。と諭してくれたそうです。

 「仕えるものになる」ことは心の持ち方が大事です。「やろうか」はどうみても上から目線の言葉です。上からでなく、共に生きるものとしての立場から、上も下もなく共にということから始めたいと思います。教会の作業の中でも「させてほしい」を実現していきましょう。

2018年4月13日金曜日

きままな休日・タイの朝ごはん

タイの朝ごはん
こどもたちが作ってくれました。
チキンライスと肉かな?
ナンプラー味でした。

2018年4月12日木曜日

「祈りの礼拝堂を持っている」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「祈りの礼拝堂を持っている」
 
 祈りの礼拝堂を持っている教会は、どんなに恵まれているのか。これがある教会に訪問しての感想でした。ある教会では建築構造の事情によって、会員の葬儀ができない教会もあると聞きます。
 
 私たちには、この素晴らしい礼拝堂が与えられています。これは大変な恵です。そのことに気づかされるのは、他教会を訪問すればよくわかります。今年「聖壇」を広げたことにより、心から祈りたくなる礼拝堂になりました。このような礼拝堂を持っている教会は多くはありません。私たちの教会は本当に教会らしい教会なのです。
 
 どうか、この礼拝堂を大切にしてください。祈りで満たしてください。そして、この礼拝堂から一週間を初めて下さい。教会の礼拝堂は信仰を与えられる場であり、福音を受け取る場でもあります。そこから出て、そこへ帰ってくる場でもあります。元気がでないとき、礼拝堂で祈ってください。そこでは聖霊の力によって回復される何かと出会うはずです。

2018年4月11日水曜日

「自分以外をみる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「自分以外をみる」

 フィリピ 2:4  めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

いろんな人と食事をしていると「自分流」ということを感じます。その人にとってはあたりまえのことでしょうが、とても不思議に見えることがあります。なんでも酢をかけて食べる人。カレーに醤油・ソースをドボドボかける人。とんかつに醤油をかける人。牛丼の肉よりも多く紅ショウガを入れる人・・・。自分にとってはあたりまえでも、人からみれば特殊というのがたくさんあります。このことが人に不快感をあたえなければいいのですが。共に生きていく、働くという場面においては「自分流」も少し見直していくことが大切かもしれません。

 パウロは「キリストを模範とせよ」というテーマで、自分のことだけでなく互いに思いを一つにと教えます。「同じ思い」「同じ愛」「心を合わせ」「思いを一つ」にと強調しています。そのために必要なことは「へりくだる」ことです。互いに相手を自分より優れた者と考えなさいと教えるのです。共に生きていくには、自分勝手に生きるのではなく「互いにへりくだる」ことが必要であり、それはキリストが模範として示してくださったことだと言うのです。

 「どうして牧師に祈ってもらわんの」という言葉を、あらためて深く受けとめました。そういえば、「このために牧師先生祈ってください」とお願いされたことはあまりありません。私たちは祈りをお願いするということはあまりないのでしょうか。「それぞれ祈り方が違う」「祈りとはそんなものではない」「祈ってもどうにもならない」という言葉をよく聞きます。しかし、私たちは追いつめられ、どうしようもない状態になったら、祈らずにはおれないのです。祈りの力を知らない。祈ることの素晴らしさに気がついてないと思います。祈ることはキリスト者の命です。そして自分のことだけでなく、教会のために祈ることは、教会の命です。牧師のために祈ることは宣教の命です。自分のことばかりでなく、自分以外を考えて生きていきたいと思います。

 パウロはキリストを模範にといいます。そのキリストは「へりくだった」のだと。この「へりくだり」の心を互いに持つことが、自分以外をみることにつながります。
 

2018年4月10日火曜日

「静かに・・・」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「静かに・・・」
 
 若手牧師の家族が来て下さり、楽しいときをすごしました。今年は六日市に蛍を見に行くことが目的で集まったのです。一度でいいから蛍のクリスマスツリーを見て欲しかったのです。
 
 私はこの季節の六日市が大好きです。なぜなら、帰りに「寄り道」ができるからです。今の季節ですと、橋の上が絶好の場所です。清流のせせらぎ、かじかの鳴き声に、蛍の舞という贅沢なひとときを送ることができます。
 
 この贅沢を娘たちや牧師仲間の家族にもということで、みんなで六日市にでかけたのです。ところが、子供たちは「かじかってどれ~」「かじかの鳴き声ってどこ」「お~いかじか出てこい」と騒ぐしまつです。肝心のかじかも鳴くのをやめてしまいました。
 
 「神様はいったいどこだ。声なんか聞こえない。神様でてこい」と心の中で思っているうちは、きっと神様の声は聞こえないのでしょう。落ちついて静かに心をこめて聞くことが祈りのポイントかもしれません。

2018年4月9日月曜日

「命の言葉」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「命の言葉」

フィリピ 2:16 命の言葉をしっかり保つでしょう

 「心にしみる名僧・名言逸話集」の前書きに、次のようなことが

書かれてありました。「人間が生まれたのには何か使命があるのだろう。使命とは、この自分の命を使うことであり、生命とはこの自己の命を生かすことだと気がついた」。この言葉の前にいま立ち止まっています。神様からいただいたこの命を使うとは、どのようなことでしょうか。また、この命を生かすにはどうしたらよいでしょうか。使命と生命。もし与えられた命を自分のためだけに使うとしたら・・・。そうありたくないと思います。神様と隣人のために私の与えられた命を使うとき、やっぱり私の命は生かされるのだと言えます。

 パウロは、「命の言葉をしっかり保つ」と言います。言葉には命があるのです。心の振動・命を伝えるのが言葉です。「ありがとう」の一言が人を生かすのは、その「ありがとう」に心が込められているときです。私たちはイエス様から「命の言葉」をいただいています。その「命の言葉」がどんなときでも励まし、慰めを与えてくれるのです。その「命の言葉」を大切にすることがキリスト者の努めだと言えます。使命も生命も、その中止には神様のみ言葉があります。

何世紀もの昔、イギリスである王様が驚くような実験をしたそうです。それは生まれたばかりの赤ちゃん10人に対して、一言も言葉をかけなかったら成長して何語を話すかという実験です。大変残酷な実験だと思います。言葉による触れ合いをさせなかったというのです。さて、皆さんにはこの実験結果がどうなったかわかりますか。実は、赤ちゃんは2歳にならないうちにみんな死んでしまったのです。

 パウロは、「命の言葉をしっかり保つ」と言います。私たちの人生は神様のみ言葉をしっかりと持つことによって生かされた人生となります。命の言葉を保つことによって使命が与えられます。今日は自分の言葉のひとつひとつに「命」を意識して過ごしてみたいと思います。

2018年4月5日木曜日

「気を気にしてない」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「気を気にしてない」
 
 なんでも気功がブームだそうです。牧師たちの中にも気功を研究しておられる方もいます。私もちょっと本を買ってきて読んでみました。すると、これは奥が深いということだけはわかりました。なにせ中国三千年の歴史から生まれてきたものですから。
 
 さて、その本によれば、私たちは様々な「気」に囲まれていることがわかります。「眠気」「気分」「元気」「殺気」「景気」「勇気」「気丈」「天気」「病気」「雰囲気」「活気」「気力」「英気」「鋭気」「精気」「生気」「邪気」「気体」「気合い」などなど。こんなに「気」に囲まれているのに、一向に気にしていないのです。
 
 いろいろな牧師が、「聖霊」と「気」は同じであるといっています。私はそう簡単に言えないような「気」がします。どちらにせよ、それらを私たちが感じなくなっていることが問題だと思います。聖霊を受ける。それは聖霊を感じることでもあるのです。なんだか「呑気」なものですね。

2018年4月4日水曜日

主が必要とされる

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「主が必要とされる」

マルコ 11:3 『なぜ、そんなことをするのか』『主がお入り用なのです』

心理学者のユングがある書物のなかで、「人間の幸福の条件」として五つのことをあげています。第一に「健康」、第二に「自分でほどよいと思う程度のお金」、第三に「美しいことを知る能力」、第四に「人間関係」。そして最後の一つは「朝起きたときにやらねばならぬ仕事があること」です。はじめの三つはいつも言われることですが、あとの二つは軽視されていることです。ほんのわずかの働きでも、何か必要とされている。それが私たちを本当の幸福に結びつけるのです。

奉仕が私たちを幸福にしてくれるのは、こんな私でも必要とされているからです。

イエス様がいよいよエルサレムへ入場される場面です。神の子として、王としての入場ですからさぞかし華やかだったかといえば、そうではありません。この入場に必要とされたのは「子ロバ」でした。旧約聖書の預言の成就ということもありますが、「主が必要とされる」ということに注目したいと思います。

さて「いかに伝道するか」という講演会のお手伝いをしていると、帰りぎわに信徒の方から声をかけられることがあります。その中で多いのが「どうしてそんなに伝道しなければいけないのですか」という言葉です。はじめは、本気でおっしゃっているのだろうかと思いました。しかし、このように思っている人達が多いことに気がつきました。きっと、生活や仕事に忙しいのです。それに加えて伝道なんてとても出来ないと思っておられるのです。伝道はきついものだ、辛いものだ、時間がかかるものだ、お金がかかるものだ、という考えが多いのです。牧師からも同じことを聞きますから「どうしてそんなに伝道しなければ」となるのでしょう。そんなに数を増やさなくてもよいと。しかし、伝道は喜びの出来事を伝えることなのですが。

なぜ伝道するか。答えは「主が望んでおられるから」です。これが本当の答えになっているかどうか疑問です。主が望んでおられても、「わたしにはできません」と答えているかもしれません。それでも「主は望んでおられる」のです。この教会での働きも主が望んでおられる働きです。そこに思いを集中してまいります。

2018年4月3日火曜日

「信仰けちんぼう」

クレヨン牧師のミニエッセイ

信仰けちんぼう」
 
 イソップの物語に「けちんぼう」というのがあります。
 
 「けちんぼうの人が持ち物をすっかり金と取り替えて、その塊を手に入れました。そして、壁の下に埋めておいて、始終やってきてはながめていました。近所に住んでいる一人の職人が、けちんぼうが行ったり来たりしているのに目をつけて、本当のことを見抜き、けちんぼうが行ってしまってから、金の塊をとっていきました。けちんぼうがやってきてみると、そこがからっぽになっているので、髪をかきむしって泣いていました。こうしてけちんぼうがひどく悲しんでいるのをみて、そのわけを聞いた人がいいました。
 
 『悲しみなさるな。石をひろってきて同じところへお埋めなさい。金が埋まっていると思えばいいでしょう。金があったときでも、あなたは使わずにいたのだから』使わなければ、どんないいものを持っていても、なんにもなりません」。
 
 「金」と「信仰」とを取り替えて読んでもドキッとします。

2018年4月2日月曜日

「宣教は刈り入れ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「宣教は刈り入れ」

ヨハネ 4:38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。

教会の椅子をきちんと並べることが牧師の仕事」と、先輩の牧師に教えられました。その言葉を聞いて25年がたちます。まだ新卒だった私にはピンとこず、もっと大切なことがあると思っていました。牧師と召されて26年目を迎える頃になって、あの牧師の言葉がずっしり響いてくるのです。教会の椅子は礼拝が終ると乱れます。そのままにしてお茶を飲んでから並べればいいのですが、いつ誰がそこでお祈りされるかわかりません。神様にお祈りするとき椅子が乱れていたらどうでしょうか。初めて教会にきてそのとき椅子が乱れていたらどうでしょうか。そこに神聖さを感じるでしょうか。教会の椅子を並べることは、いつ誰が来られても神様と出会えるように配慮することだといえます。この配慮ができるか、宣教する教会とはそこに集う一人一人がそれをいつも考えていることです。

イエス様は『宣教は刈り入れである』。この視点は私を驚かせました。また、新しい宣教への夢を抱かせてくれました。 ある本のなかで、社会学者の方がこのことを指摘され、ピンと心にくるものがあったのです。 私たちは今まで教会の宣教を考える時、それは『種まき』だと考えてきました。ある意味ではそうやって自分達を慰めてきたのかもしれません。いつか芽がでるから、神様の計画のなかにあるからといっては御言葉の種を撒き続けることに主眼を置いてきたのです。

ところが、イエス様は宣教について『種まき』といわれたことはありません。ヨハネ福音書でも「あなたがたは自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。」といわれているとおりです。種は十分まかれている。刈り入れもせずに、まだ種まきだといって何もしていないのではないかと思うことがあります。

教会の宣教は、種まきではなく刈り入れである。いったい刈り入れとは何でしょうか。神様の業がここにもあそこにも刈り入れを待っている。ミッション系の幼稚園、学校に通った方々の数はどれくらいでしょうか。キリスト教に一度でも触れたひとはどれくらいいるでしょうか。刈り入れをまっているのに、そこに届くみ言葉を語っているか。教会の敷居は高くないか。誰を招き、誰と共に生きていくのか。もういちど宣教について考えてみたいものです。