2019年9月12日木曜日

「声に人格がある」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「声に人格がある」
 
 「声」について、そのむかし電話交換手だった方の話をきいたことがあります。その話とは「私たちは声だけで仕事をしているのですが、その声を聞いてなんとなく温かく尊敬できそうな人だなと思っている人に直接お会いしてみると、やはりよいお人柄なんですね。反対に、声を聞いただけでイライラしたり、なんとなくあつかましくていやな感じを受けていた人は、直接会ってみてもやはりそういう方なんですね。声を出すことが恐ろしくなることがあります」というものでした。
 
 声にその人が現れる。声に、声を出す人の全人格がにじみでてくる。確かにそうだなと思い当たることが多いものです。毎日いろいろな電話を受けてみるとよくわかります。もっといえば、結婚式を依頼される声を聞いても、その方たちが教会での結婚式をどのように考えているのか、本当にわかるのです。そう考えると、私の声はどうなのかと悩みました。その日の精神状態によってコロコロ変わっているのではないかなと心配になります。
 
 いったいどのような「声」が、私たちにはここちよく聞こえてくるのでしょうか。きっと、濁りのない、駆け引きのない、温かく美しい声があると思います。さて、マリアに受胎告知をした天使の声はどうでしょうか。いやいや、バプテスマのヨハネの声は。ザアカイの声は。ユダの声は。ペテロやパウロはなどと考えて楽しんでいますが、わたしにとっては素直な声が一番心地よい声だといえます。その声はやっぱり主イエスの声でしょうか。「わたしに従いなさい」という素直な声が一番すきです。
 
 「牧師先生の声を聞くと元気がでてきます」という言葉を頂きました。最近ではなによりのプレゼントでした。感謝。