2018年8月21日火曜日

「説教の中にある対話」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「説教の中にある対話」
 
 ビジネス能力研究会という所から「1分間能力開発」という本がでています。この手の本は、数をあげればキリがないほど出版されています。ということで、1冊くらい読んでみようと買ってみました。いくつか興味深いところもあり(といっても変なところにですが)、その中でも私にとって恵みだったのは、次ぎの文に出会ったことです。
 
 「一方的にしゃべる人の話を正確に理解するのは難しい」。おもわず「ん~」とうなってしまいました。なぜなら、説教というのは一方的に話すことだからです。それでは、説教は正確には伝わらないのでしょうか。もちろん、牧師によって様々ですが、分かりやすい説教と分かりにくい説教があります。後者の方は、15分~20分の話を一方的に聞くものにはいるのでしょう。
 
 しかし、分かりやすい説教といわれるものがあります。単に話が面白いとか、たとえが興味あるとかではなく、主の御言葉が素直に伝わってくる説教があるのです。それはどうしてかを考えてみました。結論として分かったことは、説教の中に対話があるかどうかです。たとえ一方的に聞く説教であったとしても、その中で御言葉と自分との対話がなされたとき、感謝して受け取る御言葉となるのです。ある神学者は「説教とは牧師と信徒の共同の黙想(メデテーション)である」といいました。対話があること。これは理解することの第一歩です。