2019年7月30日火曜日

「どうせまた殴るんだろう」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「どうせまた殴るんだろう」
 
 一言の重みを感じることがあります。それが何気ない一言でも、自分にとっては忘れられない言葉として心に残ることがあります。しかし、その言葉も喜びをもたらしてくれるものと、生き方を反省させられるものとがあります。
 
 夏休みも終わりに近づいたある日のことでした。あまりにも子供たちがダラダラとしているので、「少しは勉強したらどう」と言ってみました。すると、「だいたい親は勉強しかさせることがないのか」と反発されました。その一言にカチンときました。「もう一度、今の言葉をいってみろ」とばかりに子供に詰め寄ったのです。すると頭を抱えながら「どうせまた殴るんだろう」と一言。その言葉の重さにに一瞬たじろいでしまいました。
 
 「どうせまた殴るんだろう」。その言葉の背後にはいったい何が隠されているのでしょうか。結局は力で押さえつけてきたのかもしれない。「どうせまた・・」の中にある深い心の傷に打ちのめされた思いでした。「人格の未熟な親ほどよく子供を叱る」という言葉があります。まさしくそのとおりだと思います。未熟だからこそ奢り高ぶってはならないのです。
 
 やっぱり子育ても最後は祈りだと言えます。神様にお聞きするしかないのです。そういう意味では、私たち親子は恵まれていると思います。イエス様という共通の神様を知っているのですから。とは言うものの、毎日が懺悔の繰り返しに、イエス様もほとほとまいっておられるかもしれません。まあしかし、今年の夏の一言は強烈に懺悔を迫られる一言でした。感謝。