2019年5月14日火曜日

「キリストの香り」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「キリストの香り」
 
  引き続き「井上井月」です。
 
 先週に記載しました句「松の花四十は老の美しき」から、いろいろとご意見を賜りました。一番多かった感想は「そういえば、四十歳は自分のこれまでを一応区切りをつけた歳だった。四十歳は人生のひとつの節目だ」というご意見でした。きっと心情も身体もひとつの節目を迎えるのかもしれません。そこに美しき老があるのかも。主イエスは十字架におかかりになった時、約三十三歳(聖書によれば)だったと書かれてあります。この年齢をどのようにとらえたらいいのでしょうか。すざまじい成熟としか考えられません。やっぱり神様の御子なんですね。
 
 さて、またペラペラと井月句集をながめていました。今回は次の句が目に止まりました。
 
    泥くさき子供の髪や雲の峰  井月
 
 そういえば、子どもたちから泥臭さがなくなってしまったように思います。毎日学校の帰りに川に入ったり、田圃で悪さをしたりしていたころがなつかしいものです。まだ私の時代にはそれが残っていましたが。それに川もまだ奇麗だったように思います。いまの子どもたちはどんな匂いがするのでしょうか。そう思いつつわが子を抱きしめてみると、学校の消毒液の匂いと、なんとなく電気製品の匂いがするのです。
 
 それでは私たちはどんな香りをはなっているのでしょうか。キリストの香りという言葉をパウロは述べています。私たちの生き方をとおして。このキリストの香りを残していけたらと思います。