2018年3月29日木曜日

聖木曜日

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「聖木曜日・神の沈黙」

マタイ 2746 わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。

ヨハネ 1928 渇く

十字架上の7つのみ言葉の第4,5は「なぜわたしをお見捨てになったのですか」「渇く」というものです。

イエス様の最後には絶望的な叫びがあります。これは詩篇22篇2節の言葉です。イエス様は死という絶望の中で、神様への最後の疑問をなげかけます。「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。これに対する神様の答えはなかったのです。十字架の前で徹底的に弱くなられたイエス様の姿を人々はここで心に刻んでいます。

「訴える相手の沈黙ほど怖いものはない」。ある問題解決にあたられた行政書士の言葉です。反応がない怖さ、何も答えてくれない恐怖。それをはかることはできません。何を考え、何をしようとしているかわからない怖さです。実は「見捨てられているのかも」という怖さもあります。沈黙ほど相手に与える恐怖はないのです。しかしその人は、沈黙の中に存在するのです。この存在が怖いのです。そこに誰もいなかったら、怖がることはありません。そこに存在するものがあるのです。

神様は沈黙しておられます。しかし、そこにおられます。それが十字架の出来事です。十字架のそばにいた百人隊長がこの出来事の中で「本当に、この人は神の子だった」と呟いています。徹底的な弱さと沈黙の中での十字架の死。これが私たちの罪の赦しのためでした。これを完成させるための神様の沈黙。沈黙してもなおそこにおられる神様。その一点に人間に対する深い愛を見ます。今日、私たちはイエス様の叫びの中に何をみるのでしょうか。神の子に出会うことができるでしょうか。