2017年1月6日金曜日

教会の適応力

阿久根ルター君の朝のみ言葉

1コリント 9:22 すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。

パウロの言葉で大好きなものがあります。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」というものです。この「どんなこと」の中に、どれだけ多くのことを入れることができるか、それが私たちの信仰の問題です。しかし、「福音に共にあずかる」という言葉にやる気を与えられます。その福音のために、自分はどんな風にでもなれるという奇跡が生まれます。

パウロは「すべての人に対してすべてのものになりました」と言っています。それは「何とかして何人かでも救うためです」というのです。神様から招かれている人々を、ひとりでも多くイエス様のもとに導きたいというのです。そのためにはパウロの方から近づいていくのです。すべてはひとりでも多く救われるためなのです。これもパウロが救われた確信によって、すべて人に対して自由だからです。また救われた確信は重荷や苦しみから自由でもあるのです。この自由があるからなんでもできるのです。

 ダーウィンの「種の起源」の中に「強いものが生き残るのでも、頭が良いものが生き残るのでもない。適応力のあるものが生き残る」という言葉があります。この言葉を読んで「適応力」ということにハッとしました。神様のすべての宣教の業に私は「適応力」があるだろうか。神様が進まれることに、自分という自我のために適応していないことがないか。どんなことがあっても、神様を信頼することによって適応しているか。

 パウロは「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」と言います。私たちの信仰生活は、教会という交わりの中にあります。その教会の交わりの中で適応しているだろうか。それだけでなく、教会から外へむかって宣教するとき、外の世界と適応しているだろうか。これからは「適応力」のある教会が生き残って、宣教していくのでしょう。その中で自分という信仰者はどうでしょうか。また阿久根教会は何に適応していくのでしょうか。神様から与えられた福音の適応力を考えて今日を過ごしてまいります。