2017年2月16日木曜日

種をまく


阿久根ルター君の朝のみ言葉
 
マルコ 4:3 よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。

「教会の子ども達は幸せだな」と思うことがあります。それは、いつでも神様から与えられている種を確認できるからです。というのも、礼拝の中に子ども達が一緒にいると、知らず知らずにみことばを聞いているのです。

 讃美歌のときに皆さんはよく、子供とともに座っておられます。子育てを終えられた方もおられれば、まだ結婚しておられない方もいます。しかし、全員が一応に子ども達と一緒に讃美をしてくださっているのです。なにげないひとときですが、私には信仰の確認・継承に見えるのです。讃美歌を歌うということは、「私はこのことを信じていますよ」と優しく語りかけておられることと同じです。これこそが、子どもたちに与えられた「神様の種」を確認させているのです。「あなたには神様の種がまかれていますよ。私にも同じ種がまかれているように」という信仰の確認になっているのです。信仰の継承がおこなわれているのです。

 イエス様が語られたたとえ話のなかでも「種まき人」は有名です。種まき人が種を蒔いたところ、道ばた、土の薄い石地の上、茨の中、よい土地の上に落ちたというものです。良い土地に落ちた種は、芽を出し、成長し、実を結びます。他の所に落ちた種は実を結ばないという教えです。イエス様はこの種のことを「神の言葉」であると言われました。すべてのものに蒔かれている「神の言葉」は成長し、実を結ぶと教えておられます。

 地方の教会を訪問しました。徐々に人がいなくなり、すでに礼拝出席10名の教会になっていました。礼拝のあと食事をしながら、この教会はあとどれくらい存在していられるかという話になりました。もって10年という意見が多く、みな暗い雰囲気につつまれました。そのとき一人の青年が次のように言いました。「イエス様の種まきのたとえを読んでいるのですが、収穫は大切なことです。でも、種を蒔かずに長年刈り入れを続けてきたせいで、種を蒔く必要性を忘れてしまったのではないかと思います」と。種を蒔かなければ収穫はありません。蒔かないところから収穫をしようとしているのが今の教会かもしれません。

 イエス様は「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と言われました、この「よく聞きなさい」をいままで、種が落ちたところのことについて「よく聞きなさい」と言われたのだと聞いていました。しかし、「種蒔きに出て行った」という言葉についても言われたのかもしれません。教会の成長はやはりみ言葉の種を蒔くことからだと思います。