2018年1月18日木曜日

「思いやりとは」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「思いやりとは」
 
 久しぶりに東京で吉祥寺から三鷹・西野までバスに乗りました。この路線は神学校時代によく利用したものです。もっぱらパルコ・ブックセンターに行くためのもでした。今回懐かしさもあって、キョロキョロしていますと考えさせられる出来事に出会いました。
 
 ある停留所にバスが止まり、そこには数人のお年寄りが待っておられました。初めの方は半身に障害がありゆっくり乗ってこられました。次のお年寄りは元気そうでしたが、それでもゆっくり転ばないように乗ってこられました。出来事はこれからです。三番目のお年寄りが乗ってこられると、運転手さんが怒鳴ったのです。たぶん後ろに車がつかえていたのでしょう。「はやくして。料金は初めからわかっているんだから、用意しておいたらどうだ」と。するとそのお年寄りは言い返して「年寄りだからしかたないだろう」と言われたのです。
 
 私にはどちらも正論だと思いました。しかし、どちらもおかしいかなとも感じました。どちらにもいえることは「思いやりの欠如」ではないでしょうか。運転手さんもお年寄りも待たせていることは同じなのです。ちょっと思いやりの一言で変わると考えてしまいました。
 
 人々が共に生きていくことの難しさを教えられました。こんなとき主イエスだったどうされるかなと思いながら次の停留所で降りました。