2017年2月28日火曜日

存在感

クレヨン牧師のミニエッセイ
「存在感」
 
 少し年上の牧師から、「そろそろ存在感のある牧師にならないと」という言葉をいただきました。「存在感」とはいったい何だろうかと考えています。また同じ時に「自分はこれだというモノを持っていないと」という言葉もいただきました。「これだ」というモノを持つ必要を考えています。
 
 きっとその牧師には、「存在感」があり、「これだ」というモノがあるのでしょう。しかし、自分が思っているほど人には伝わっていないということもあるのですが。
 
 さて主イエスには「存在感」があるでしょうか。もちろんあります。しかし「存在感」がないときもあるのです。野の花はそうだと思います。「存在感」があるとかないとか、野の花はいいません。しかし、関わりを持つ人によっては素晴らしい「存在感」をもっているのです。それでいいと思います。
 
 たぶんその牧師は、「あなたは存在感があるね。あなたないはこれだというモノがあるね」と言われたかったのかもしれません。

2017年2月27日月曜日

友と呼んでくださる

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「友と呼んでくださる」

 ヨハネ 15:15 わたしはあなたがたを友と呼ぶ

テレビで三木たかしさんの葬儀模様が流れていました。弔辞は萩本欣一さんでした。その弔辞の内容に少し驚きました。萩本さんは次のように語りかけたのです。「今日であなたと友はやめます」(正確ではないかも)。友達関係は終わりと言われたのです。その後「これからは先生です。三木先生」と。尊敬をこめてこれからの新しい関係に心から感謝されているような弔辞でした。普通なら「ずっと友達でいましょう」というところですが「先生」と呼ばれたところに2人にしかない特別な関係の強さ、尊敬、信頼をみることができました。

 ヨハネ福音書にある告別説教でのみ言葉です。十字架での死を前にした、最後の晩餐の席上でのみ言葉になります。イエス様は、明日は死を迎えることを知っておられました。遺言のように語られた言葉で、弟子たちにむかってあなたがたは「僕(しもべ)」ではなく「友」といわれたのです。弟子たちは自分たちのことをどう思っていたのでしょう。もちろん「僕」と思っていたでしょう。イエス様のことは「先生、師匠」と考えていたかもしれません。それは、あたり前のことだと思います。しかし、あえて「友」と呼ばれたところに感動を覚えます。

 日本海外医療協会派遣医師の講演会がありました。ある地区のキリスト教会の合同集会として行なわれた講演会でした。そこで改めてキリスト者の働きについて学びました。医師は幼いころからのキリスト者で、講演の最後に祈ることについて話されました。「とにかく誰でもいいです。アジア・アフリカにいる方の顔を思い浮かべてください。テレビでみた子供でもいいです。そしてその子のために具体的に毎日祈ってください」と言われました。「そのことが、世界に友を具体的につくることです」と教えてくださいました。

 イエス様は「先生」と呼ばせず、「友」と呼べといわれました。イエス様の方から「友」と呼んでくださったのです。その関係の中におおきな神様の愛を感じます。私たちはイエス様を友としてよいと言われました。神様を友としていることは、なんと奇跡なことでしょうか。萩本さんが「先生」とよびながら、友であることを表現されたことに関係の深さをみることができました。

2017年2月25日土曜日

気ままな休日

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   阿蘇で青高菜を買ってきました。いつもは母が漬けたものをたべていました。仮設でも漬けられるけど、高菜がないとのこと。
   そうでした従姉妹の畑が被災して高菜を植えられなかったのでした。来年は漬けると張り切っておりましたが。畑の断層をなんとかしなきゃと。
   希望持って待ちます。でも、これは美味しいです。

2017年2月24日金曜日

痛みを負う

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「痛みを負う」

 イザヤ 53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病をしっている。

中央線を四谷から三鷹まで利用しました。東京の電車にはテレビモニターがついており、いろんな情報を教えてくれます。天気、ニュース、マナー講座、今日の一品など。その中に「ネット検索用語ランキング」というものがありました。ネットで検索するキーワードで一番多いものは何かということです。1位は「痛み」でした。とても以外でしたが、「痛み」というキーワードが意味しているものを考えてしまいました。たぶん痛みには「心」と「体」の両方があるのでしょう。痛みを取りのぞきたい、痛みから解放されたいという思いから、なんとかしたいと「痛み」という言葉で検索をされているのだろうと思います。しかし、痛みを完全に取り除くことはできません。痛みがあるから生きているという実感もあるでしょう。痛みには深い苦しみと嘆きも感じます。この痛みと共に生きていかねばなりません。でも、痛みを軽くすることはできます。痛みを共に負ってくださる存在に気がつくことです。

 イザヤ書の中にある「苦難の僕」として有名な箇所です。イエス様の十字架の苦難を預言したものです。まさに十字架の出来事がここにあるといえます。「軽蔑され見捨てられる」イエス様の姿に心が痛くなります。

 注射というのはいやなものです。とくに『痛い』ことがいやです。ところがとってもいい話を聞きました。痛みを和らげる方法です。それは、注射の数秒前に太腿をつねるという方法です。これをやると痛みが半減します。この方法は、麻酔科のお医者さんが発見し、学会に発表された説でもあります。なぜ痛みが半減するか?それはハリ療法がなぜ痛くないかと一緒です。つまり人間の体は、たくさんの痛みのなかで、一番刺激の強い痛みだけを感じるという性質をもっているのです。ですから、ハリ療法は押手というテクニックを使うのです。すると注射の前に太腿をつねれば、注射の痛みよりも刺激が大きいので、痛みが半減するというわけです。自分の痛みしか見えない人はその痛みに苦しむ。しかし、キリストが十字架の上で、それ以上の痛みを感じてくださったことを知る人は、キリストの痛みゆえに、自分の痛みが和らげられるのではないでしょうか。

イザヤは「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病をしっている。」と告げています。あなたの痛みを知って、共に負っている方がおられる。その方の存在に触れたとき、痛みは軽くなると思います。イエス様が十字架でしめしてくださったのは、この痛みを共に負うということだったといえます。心・体にみな痛みを持っています。それを共に負い合う教会でありたいものです。

2017年2月23日木曜日

流れている水

クレヨン牧師のミニエッセイ
「流れている水」
 
 六日市から、たくさんのハナミズキをいただきました。今日の礼拝堂の花がそうです。ところがこの花は一度枯れかかったのでした。牧師館と教会にわけて活けておきましたが、教会のものは前週のカラーと一緒にしておいたのです。そのカラーの水を変えるのを忘れていあたため、水が腐っていたのかもしれません。一日で元気がなくなってしまったのです。ところが、牧師館のハナミズキは元気そのものでした。
 
 水の大切さを思います。しかも生きた水の大切さです。主イエスはサマリアの女に「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました。
 
 主イエスが私たちに与えてくださる水は、いつも流れている水です。流れている水は腐らないのです。もし主イエスが与えてくださる水が腐れているのなら、私たちが「そのままに」していたり、「ため込んで」いたり、「忘れたり」しているためだと言えます。それでは主イエスが与えてくださる水とな何か。それは命のみ言葉(聖書)でしょう。

2017年2月22日水曜日

中を見たい

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「中を見たい」

 ルカ 8:17 隠れているもので、あらわにならないものはなく・・

ある本で面白い話をよみました。ニューヨークの工事現場の塀にはいくつも穴があいているのだそうです。しかもわざとあけてあるそうです。理由は中で何が行われているか興味があり、穴がない塀はすべて壊されて中がみえるようになるからです。そこで始めから穴をあけて中を見せることにしたというのです。

 イエス様の教えの一つです。はじまりは「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり・・しない」という話の中にあります。ともし火は何のためにあるのかをきちんと考えないということ。また、み言葉の光は隠されたままにはなく、かならず光輝くのだということでしょう。悪いことを影でやっても公にされると読むひともいるかもしれません。

あれもいけない。これもいけない。世のなかが暗くなればなるほど、暖かい話を聞きたくなるのはどうしてでしょう。なんとかして、この世を肯定して生きていきたいからです。「隠れたところでは、こんないい話がある」ということで安心したいのです。テレビのニュ-スを観ながら、「これから中高生が生きていく世界は何と暗いことか」と嘆きたくなります。しかし、必死に肯定できるものを探してみる努力をしたいと思います。肯定できるもの、それは、この世を造られた神様が、イエス様を通して今も働かれているということです。

 さて、私たちの教会はどうでしょうか。教会で語られる福音を隠したりしてないでしょうか。いや、教会の塀をこわしてまで覗きたいものとして捉えているでしょうか。私たちに与えられている神様のみ言葉の価値をも一度再確認したいと思います。「隠れているもので、あらわにならないものはない」のに、こんな素晴らしい宝を隠しているのはいったい誰でしょう。