2016年10月4日火曜日

阿久根ルター君の「朝のみ言葉」
マタイ  26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」

最近の調査では。ごはんを一人で食べる人が増えてきたといいます。それぞれが生活のリズムをもっており、一緒になることが減ったのでしょう単身赴任のときは食事はひとりでとりました。でも一人はとてもさみしいものです。会話も味の内ですから、食事は一人で食べるよりも、みんなで食べる方がおいしいのです。教会では礼拝後に共に食事をします。それだけでも有意義な教会の交わりです。そこに会話が生れます。その場所を創っていくことも必要と思います。

 イエス様は、人々と食事を共にすることを大切にされました。あるときは罪人とされた人達と。ある時は5千人の人たちと。またある時はファリサイ派や律法学者たちとも食事をされています。この食事のときに奇跡が行われたり、重要な対話がなされたり、福音のみ言葉を語っておられます。十字架におかかりになる前にも、「どうしてもこの食事がしたい」と、過越しの食事をされました。

 我が家では食前の祈りを、子どもたち一人一人がするというルールがありました。まだ小さかったこともありますが、長女はいつも「神様。今日も一日守って下さい。お食事をイエスの名によって感謝して、アーメン」と祈っていました。次女もいつのまにか祈るようになりましたが、2歳でしたので言葉がわかりませんでした。さて、それからしばらくして。夜の食事になり次女から祈りはじめました。するとはっきりわかるように「神様。今日も一日守ってください。おねえちゃんが元気で幼稚園にいけますように。お食事をアーメン」と、自分の言葉で祈ったのです。実はその日は、長女が風邪をひき幼稚園を休んでいたのです。幼子というのはこれだから神様の祝福をうけるのだなと悟りました。食事の時に奇跡は起こるものです。

 イエス様は、弟子たちと十字架のまえの食事でパンをとり「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われました。それは弟子たちとの最後の食事(最後の晩餐・過越しの食事)のときでした。この食事は現代の教会でも聖餐式として行われています。イエス様はこのとき、弟子たちと向かい合い大切なことを残されたのです。イエス様はよく食事を共にされていますが、その時を、福音をのべ伝え人々と向かい合う時とされたのです。

2016年10月3日月曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
『たった水一杯でも』
 
 「水不足」といわれ慌てて節水を心掛けています。そのような自分を思うとき、いつも普段の心掛けがいかに大切であるかを考えさせらます。
 
  最近「ちょっといい話」を耳にしました。東京教会のT姉はお風呂の水をとっておかれ、その水で洗濯される。ここまでは誰でもされていることですが、まだまだ水は残ります。その水でトイレをも流されるとのこと。ここまで使用されているとは驚きなのですが、それをずっと水不足のまえから何十年もつづけておられる。その話をお聞きしてT姉の信仰を見る思いがしました。
 
  神様が生きるために与えて下さったものを大切に使わせていただく。そのお心が見える思いです。聖書には「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者」(マルコ9:41)という御言葉があります。水のない所の話です。このことができるのは「ひと」の渇きをしっている人なのです。そしてまた、その渇きに対して神様の恵みを知る人なのです。「必ず報いを受ける」と主は言われる。
 
  T姉もその一人ですね。 

2016年10月2日日曜日

 
聖霊降臨後第20主日 説教         ルカ17章5-10
信仰は増すものか
 

 「いま食べたいものが、身体の栄養に不足しているものである」と、どこかで読みました。そこで自分を振り返ってみますと、私の場合はここ数日「野菜」が食べたくてしかたありません。ということは、ビタミン不足なのかなと思います。
 さて野菜については一つの思いでがあります。あれは中学生くらいのときでした。母親のつくる料理に、一日おきに「野菜炒め」が出て来ることがありました。「野菜炒め」が出ないときは、どっさりのキャベツの千切りがでました。私たち兄弟そろって不平を言ったことを思い出します。兄なんかはお皿をひっくり返し「こんなもの食べられるか」と激しく抗議したことを覚えています。とにかく母が作ってくれた料理に文句ばっかり言った時期があったのです。
 いまにして思えば、あの頃の母は、共働きで仕事に忙しかったころでした。朝はやくから夜おそくまで立ちづくめで働いているときでした。たぶん、野菜が多かったのは、母の身体が自然と野菜を求めていたためだと言えます。それに気が付かなかったのです。母の身体をいたわってあげられなかったことが、恥ずかしく思います。
 私たちは無意識のうちに、自然と求めているものがあります。それは自分ではわからないものです。なんでこの人はこればっかり言うのだろうか。なぜ、この本ばっかり読んでいるのか。しかし、よくよく考えてみると、それがその人の一番求めているものだと言えます。そこに本人だけは気が付いてないのです。
 私たちは何をイエス様に求めているのでしょうか。それに気が付かないで生きているのかもしれません。ところが、自分は気が付いてなくても、その生き方にすでに求めているものが現れているのです。

 本日の聖書をみてみましょう。使徒たちはイエス様に「わたしどもの信仰を増してください」と求めています。どうしてこのようなことを求めたのでしょうか。多分本人たちにはわかっていなかったのでしょう。ところが、イエス様は何が彼らの本当の求めであるかを知っておられたのです。
 さて、どうして使徒たちは「信仰を増してください」と求めたのでしょうか。その理由は「赦し」にあります。使徒たちはイエス様が言われるように人を赦すことができないのです。そしてその理由を「信仰が少ないからだ」と考えたのでした。そのような使徒たちの本当の求めに対して、イエス様は言われました。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことをきく」と。つまり、信仰のせいにしてはいけないよと言われたのです。信仰が真の信仰であるかどうかが問題なのです。
 私たちは「できないこと」を信仰の問題にしてしまいます。しかし実際の問題はそこにはありません。与えられた信仰に気づいていない私たち自身にあるといえます。その与えられた信仰の証しとなるものが「奉仕」だと、イエス様は言われるのです。 一日の野良仕事を終えて、家に「入って来た」僕は、さらに主人の夕食を準備し、給仕をしても、主人からの感謝を見返りとして要求することはできません。つまり、イエス様は「神様からの見返りを要求すること」それは信仰の奉仕ではないといわれているのです。そうするのが当然であると言われています。なぜなら、神様にいただいている恵みを返すことは無理だからです。これ以上何を要求するのかということです。いま生かされていること自体、信仰の奇跡ですよと言われるのです。そのことに感謝するからこそ、与えられた仕事を淡々とこなすことができる奇跡が生まれてくるのです。信仰の奇跡とは大小ではなく、与えられているかないか、それに気づいているか、いないかによるのです。

 さてここに、「その日暮らし」と「一日暮らし」という二つの言葉があります。どちらも同じように聞こえますが、「その日」と「一日」の間には歴然とした差があります。
 私たちにとって「その日ぐらし」といえば、「その日」をただなんとなく、ぼんやりと過ごしてしまう一日のことです。計画性もなく、ただ何事もなく過ごしてしまう一日のことをいいます。むしろ明日のことを思わない暮らし方です。
 ところが、「一日ぐらし」の「一日」というのは、その一日が欠けてしまったら、自分の一生を失ってしまうほどの貴重で大切な「一日」のことを言うのです。自分の人生にとって、それほど大切な一日を空しく過ごすということは、自分がこの世に生まれ出てきたことを、無駄にしようとしていることだと言うのです。つまり、自分の人生の集積としての一日を暮らすということです。
 信仰の問題も同じだといえます。「その信仰暮らし」と「一信仰暮らし」です。与えられた信仰が多い少ないの問題ではありません。信仰は多い少ないではなく、与えられているか、与えられていないかの問題なのです。与えられていれば、その信仰がすべてであるということです。信仰が少ないからできないのではなく、与えられた信仰に気が付かないからできないのです。

 信仰がないから奇跡を起こせないのではありません。信仰があるから無用な奇跡はいらないのです。山を動かしたり、空中に浮いたり、長く水にもぐったりしてもそれが一体何になるのでしょうか。イエス様は、そんなこと考えるより、与えられた仕事を淡々としなさいと言われました。むしろ、野良仕事をして疲れているにもかかわらず、あたえられた仕事を不平もいわずに、淡々とできること自体が信仰のなせる奇跡の業であると言われています。
 私たちはどうでしょうか。いろいろと理由をつけては、神様が命じておられる業をなそうとしません。むしろ「信仰心が薄いから」と理由を並べてしまいます。そんな私たちであっても、イエス様は十字架の恵みによって「信仰」を与え続けておられます。あなたに与えられている「信仰」は、できない「信仰」ではなく、できる「信仰」なのです。だからこそ、この世の人生で何があろうとも、喜びに満ち溢れて生きていくとこができるのです。

2016年10月1日土曜日

阿久根ルター君の朝のみ言葉
 

マタイ 14:16 「『ここにはパン五つと魚二匹しかありません。』イエスは、『それをここに持って来なさい』といい、群衆には草の上に座るようにお命じになった。」

 イエス様に対する弟子たちの言葉「~しかありません」は、どんな響きでしょうか。「イエス様。たったこれっぽっちしかないですよ」という抗議。「イエス様これじゃあしかたありません」という諦めの響きでしょうか。どちらにせよ「こりゃだめだ」というものでした。これに対し、イエス様は弟子たちに「違った方法」をしめされました。5千人の人々に食べ物を与えるという奇跡という方法でした。

日本福音ルーテル大江教会の就任式の式次第の中では「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい」というパウロの言葉が告げられます。「折りが良くても悪くても」という御言葉の中に、宣教とは良い状態だけでなく、たとえ困難にぶつかっても御言葉を信じていく信仰をみます。どんな状態であろうと、私たちの務めは御言葉を述べ伝えることです。そこから始めなければなりません。

この時代にあって、教会の宣教も苦戦しています。伝道費さえも「これっぽっち」しかない。集会費なんて「全然ない」。「あれもない。これもない」と聞こえてきます。私たちの教会も弟子たちの言葉と同じようです。「どうせだめです。これしかないのですから」と。イエス様はそんな私たちにどういわれるでしょうか。私には「おいおい。パンが五つもある。魚が二匹もあるではないか。教会にはあなたがいるではないか。」と聞こえてきます。イエス様のみ言葉を信じて歩みましょう。

2016年9月30日金曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ

 『大きな声で讃美歌を』

 歌は不思議な力を持っています。人をひとつにしたり、そのなかにメッセージを含むもの、気持ちを軽やかにするもの、力づけるもの、そして心の支えになるもの。

  あるとき教会学校で夏にお化け屋敷にいったことがあります。大人の私が怖いと思うほどの屋敷でした。あちこちで子供が泣き、それはもうパニックになりかけたころ「主われをあいす~」と一人の子供が歌いだしたのです。いつのまにかそれが大合唱になり、なんとかそこをくぐりぬける事ができました。

  その出来事を通して、讃美歌がいかに人の心に勇気をあたえ、しかも支えになりうるかと驚きまた感謝しました。

  讃美歌を歌うことは神様との対話です。それはいつでもどこでも予約なしにさせて頂けるのです。歌いましょう。大きな声で讃美歌を。

2016年9月29日木曜日

阿久根ルターくんの「朝のみ言葉」

ルカ  10:40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

 「私は○○だから・・・」という言葉を聞くことがあります。この「・・・」には何がはいるのかなと思います。きっと「私は○○だから、でも・・・」と言いたいのでしょう。わかってもらいたいのは「…」の部分です。しかしその大切な部分が聞いてもらえないもどかしさを感じます。「でも…」の部分を聞くためには、じっくり向かい合わなければならないからです。

ルカ福音書の中でも「マルタとマリア」姉妹の話は有名です。イエス様の接待に忙しい姉マルタとその足元で話を聞いているだけの妹マリア。ついに姉マルタはイエス様に訴えるのです。「わたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」と。妹マリヤのことを訴えているようですが、責任はイエス様にもあると言いたいのでしょうか。なぜ彼女からイエス様に対して、このような心にもない言葉がでてきたか。それは「せわしく」(聖書には忙しいという言葉はありません)立ち働いて、何かを見失っていたからでした。自分がしていることが神様から喜ばれると自分勝手に考えていたのでしょう。すべては「せわしく」心を乱していたのです。

 たま~に子どもたちと私だけの時がありました。その時は主夫になりました。主夫初日は朝早く起きて、娘たちのお弁当作りから始めました。作りながら洗濯、朝御飯の準備。子どもたちを起こしながら、登園の準備。まあ忙しいことといったらありません。それだけではありませんでした。様々な家事が待っていたのです。つくづく家庭を守ることの大変さを感じました。しかし、家の仕事はなんでもあるのだと思います。いそいそと働きながら、実はこれほど神様から祝福されている仕事もないと確信しました。家族が平安のうちに出かけて、また帰ってくる。その拠点を守るのですから。これこそイエス様に仕えることなのです。どんな仕事や役割も、すべてはイエス様に仕えるということがなければむなしいものになっていきます。しかし、この仕事はイエス様に仕えているのだと感じたとき、そこには神様の祝福があるのです。

イエス様は「せわしく」働いていたマルタに「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言われました。そして必要なことはただ一つ、目の前におられるイエス様のみ言葉きくことだと言われました。心が亡んでしまわないように、いま何をイエス様は求めておられるかを考えましょう。忙しそうに働くことではないと思います。

2016年9月28日水曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
『あなたの顔』
 
 「顔のはなし」・・・
 ある国に勇猛な王様がいました。強いだけに体はたくましくその顔はたいへん恐ろしいものでした。一目見ただけででも震え上がるほどなので誰も近寄ったりできません。ましてや、お妃さきなんてとても見つかりません。さてその王様にある賢者が知恵をつけてくれました。「優しい顔のお面をつくり取り付けては・・・」そこで国一番のお面職人に命じ、ぴったりとした、しかも食事も出来、笑うことも出来、目を閉じることもできるお面を作らせました。王様は大喜びですぐにお妃さきがやってきました。一年たち王様は良心の傷みをおぼえるようになり、夜も寝られずついに愛するお妃に秘密を告白することにしました。鏡のまえに座りお面をはずそうとしたとき突然お面は粉々にくだけてしまいました。あわてた王様はこのまま死んでしまおうとしました。しかし鏡に映ったのはあのやさしいお面の顔だったのです。王様はその顔に合わせて生活しているうちにあの顔になってしまったのです。
 イエス様を土台にいきる人は、イエス様の信仰によってかえられるのです。