2016年10月18日火曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
「カタクリコな私」
 
 全国の聖書日課につぎのような話をみつけました。
 
 ある女子高生が、教会の修養会で言いました。「わたしはカタクリコです」と。皆さんには、どういう意味かわかりますか。私はまったくわかりませんでしたが、これは日本のキリスト者の重要な課題なのだと知らされました。しかも、それは信仰の継承の問題なのです。
 
 「わたしはカタクリコ」というのは、「わたしは、両親のうち片方だけがクリスチャンの子です」ということなんです。笑い転げながら、これは深刻な問題かもしれないと思いました。
 
 今の教会には「カタクリコ」はどのくらいいるのでしょうか。多分そうとうの数の「カタクリコ」がいると思います。その子供たちが自分の両親を見ていく時、どのように両親から精神的なものを受け取っていくのかなと考えてしまいます。
 
 しかし、反面、キリスト者としての親の生き方、家族への接し方の中に神様をみているのかもしれません。やはり、自分自身がキリスト者としてしっかり生きている親であれば、「カタクリコ」でも信仰の継承はなされるであろうし、そのうちに「リョウクリコ」になっていくのでしょう。