2018年1月15日月曜日

「聞くという奉仕」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「聞くという奉仕」

ルカ 1042 必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。

「相田みつおカレンダー」には次のような言葉があります。「親切という名のおせっかい そっとしておく おもいやり」。私たちは親切という名のもとに、おせっかいをしていることがたくさんあります。そして、そのおせっかいに人を巻き込んでしまうこともあるのです。

イエス様の過ごされた時代は、女性が男性を迎える習慣はありませんでした。つまり普通ではなかったことです。しかし、ここでイエス様は、男と女の差別や区別などなさいませんでした。同じ人間として接しておられます。ということは、当然なこととしてマルタとマリアをも差別なさるはずはありません。同じ目でみておられます。決してどちらか一方に思いを寄せてはおられないのです。人間の目からみれば、マルタはどのようにイエス様をもてなすかと働き、マリアはイエス様の足元に座っているのです。マルタから不平不満がでてきてもしかたありません。マルタの主張は、「マリアは私だけを後に残して、自分だけ主の言葉を聞いている。マリアも私を手伝って主のもてなしの用意をすべきだ」ということです。自分だけが働くことの不当を訴えているのです。しかし、イエス様を迎え入れたのはマリアではなくマルタなのです。

次女が一歳の時でした。家では「おせっかい娘」といわれるくらいに、人に何かをするのが好きでした。ある日のこと、朝六時にひょっこり一人で起きて、なにやらトコトコと歩いて寝室を出ていきました。黙って様子を伺っていると、台所の方でコソコソ音がしています。静かにしている時には、なにか悪い(親はそう思うのですが)ことをしているものです。暫く好きなようにさせていますと、またトコトコと歩いてもどってくる音が聞こえました。そして寝室に現われた姿を見て大笑いです。両手と口にアンパンをもっていたのでした。それからが大変です。みんなを起こして「食べろ」とばかりに口にもってくるのです。おなかが減っているのなら、自分一人で食べればいいのですが、みんなも同じ様におなかが減っていると思ったのでしょう。「おせっかい」もたまにはいいですが、度々では疲れてきます。

イエス様の前に立つ時の、思い悩みにならない奉仕。心を用いる奉仕はただ一つだけです。「主の足元に座って聞く」奉仕です。ここにマリアの奉仕があるのです。それは、マルタがどんなことをしてもマリアから取り去られない奉仕であり、イエス様の喜ばれる奉仕でもあります。イエス様は「必要なことはただ一つ」といわれました。それは、イエス様にとっても、マルタにとっても、マリアにとっても一つなのです。つまり御言葉を聞くことです。

2018年1月13日土曜日

気ままな休日・宇土の甘酒饅頭

これは私が一番好きな饅頭です。
宇土教会の前にお店があります。
このまんじゅうを食べるとほっこりします。
餡が素晴らしいです。

2018年1月11日木曜日

「聖書の早合点読み」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「聖書の早合点読み」
 
 インドの笑い話に次のようなものがあります。
 
 旅人がサトウキビを積んだ牛車のおじさんに道を尋ねました。
 
 「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」
 
 「そうだな、三・四十分というところだな」
 
 「そうですか。ところで、すみませんが、わたしもこの牛車に乗せてもら えませんか」
 
 「いいとも。乗りなされ」
 
 それから四十分ほどして、旅人は尋ねました。
 
 「ワシカ村まであとどれくらいありますか?」
 
 「そうだな、一時間くらいかな」
 
 旅人は怒りました。さっきは、三・四十分といったではないかと。すると 牛車のおじさんは言いました。
 
 「旅の人よ。この牛車は反対の方に進んでいるのですぞ」
 

 
 進んでいる方向を確かめなかった旅人が悪いのです。しかし、このような間違いを聖書を読むときにしてませんか?早合点読みです。黙示録の早合点読みが、終末思想をあおり立てています。
 
 終末は必ずやってきますが、そのときは主イエスが来て下さる救いの時です。喜びの日であって、悲しみの日ではありません。今、主イエスとともに生きることがどれだけ大切なことでしょうか。

2018年1月10日水曜日

「上に立つ御言葉の権威」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「上に立つ御言葉の権威」

ローマ13:1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。

 ニュースで「こんな上司はいやだ」というアンケートをしていました。それによると、1位・気分によって言うことが変わる。2位・責任をとらない。3位・自分の間違いを認めない。4位・接する相手によって態度が変わる。5位・飲み会ばかりする、とありました。上に立つ者の果たすべき役割の自覚を思います。

パウロは「上に立つ権威に従うべき」と言いました。この言葉はこれまでも間違って受け取られてきました。「上に立つ」ということの理解です。しかしここでパウロがいっていることは「上に立つ人」に従えとは言っていません。上に立つ人はその人の置かれた立場、役割、何によって立っているのか(これが権威です)を十分に自覚しなければなりません。教会でも役についている者は、神様の業を果たすために、神様によってこの役職をいただいています。

 街の清掃キャンペーン集会で代表が言われました。「ゴミを拾う人はゴミを捨てない。ゴミを拾わない人がゴミを捨てる」。とても納得して聞きました。この集会は、街からゴミをなくそうという運動集会でした。ゴミをなくすにはゴミを捨てる人が少なくなればいいのですから、「ゴミを捨てないようにしましょう」でいいのです。しかしあえて「ゴミを拾う人はゴミを捨てない。ゴミを拾わない人がゴミを捨てる」と言われたことに感銘をうけました。いままで何回も「ゴミを捨てるな」という言葉を聞いてきました。そのように実践もしてきました。しかし、捨てるなではなく「拾おう」というところに発送を転換させたのです。ゴミを拾う人は捨てないのであれば、拾う人を増やせばいいのです。また拾うという行為に、みな善いことをしているという実感と喜びも生まれてきます。「捨てるな」という否定よりも、「より積極的に拾いましょう」のほうがいいのです。言葉も伝え方次第で違うものです。人を動かすには権威をもって命令した方が早いかもしれません。そこには共感は生まれないし、言われたときだけということになります。イエス様の言葉は、権威ある新しい教えではあっても、命令ではありません。

 パウロは「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と教えています。上に立つ権威とは神様のみ言葉しかありません。そこに権威があり、そのみ言葉に従うのです。上に立つ人ばかりをみるとき、失望が多いものです。しかし、その人に語られているみ言葉が示されたとき、私たちはそのみ言葉の権威にしたがうのです。だとすると上に立つということは、イエス様のみ言葉を常にいただき、それをしめさなければなりません。

2018年1月9日火曜日

「心に余裕があれば」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「心に余裕があれば」
 
 華美が一年生になって一ヶ月が過ぎました。幼稚園時代はあんなにおとなしい娘だったのに、いまではハイテンションでガチャガチャ娘へと変身してしまいました。
 
 先日も一緒に寂地山に山登りに行ったのですが、落ちつきのないハラハラの連続でした。何回怒ったことか。ところが山に登り、カタクリの可憐な花をみたとき、「自分はどうしてこんなに怒ってばかりいるのだろう」と、ふと考え込んでしまいました。きっと何か自分に問題があるはずなのです。するとやっぱり、余裕がないことに気がつきました。いろいろな仕事を多く与えられ、ありすぎるために何一つまともにできないイライラがあったのです。お弁当を食べながら、まわり一面に咲いているカタクリが、心に余裕を与えてくれました。
 
 心に余裕がでてくると、「華美も子供らしくなったものだ」と感心したのです。いまこの交わりの中で、華美はありのままでいられるのだなと思いました。学校の緊張から解放され、自然ととけあって遊んでいる。やっぱり、主イエスを中心とした教会の交わり、そして神様が創造された自然の包容力は見事なものだと感心しました。