2018年1月8日月曜日

「今日を生きること」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「今日を生きること」

マタイ 6:34 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。

「慢」ということばは、仏教では煩悩を表わすそうです。我慢もそのひとつ。それは、自分という存在が永遠不滅のものだと錯覚している煩悩なのです。自分中心に考えることは、どの宗教にとっても問題があります。その自分中心とはいったい何でしょうか。それは自分が神様になることではないです。私たちは中心をどこに据えるか、自分に据えるか、イエス様に据えるか。常に考えながら生きていたいと思います。自分中心で生きていくと、思い悩むことが多くなります。

本日の聖書のみ言葉は、イエス様が山上で説教された言葉のひとつです。この34節には「思い悩む」と言う言葉が2回でてきます。聖書で同じ言葉が2回でてくるときは強調を表します。6章の最後にこの節があることを考えると、神様への信頼によって思い悩むことから解放されなさいということでしょう。しかも、明日のことまでもと言われていますから、目の前にある今日を大切にしなさいということです。

「セレンディップの3人の王子」という話があります。この童話の王子様はしょっちゅう探し物をしています。だから人々からはおかしな人と思われている。でも、しょっちゅう探し物をするのは普通のことです。私たちもしょっちゅう探し物をしているのですから。しかし、この王子様が私たちと違うところはしょっちゅう探し物をしているが、探している物は見つけられない。そのかわり別の宝物を見つける。探しているものよりもっと貴重な物を見つけ出してくるという王子様なのです。つまりこの王子様は思いがけない発見をする能力をもっていたのです。自分が思い悩んでいること以上に、神様は守っていてくださることを知る。その発見があれば今日のことで生きていける発見をするのです。

イエス様は「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」と教えられました。今日をしっかり生きることが明日へつながります。まず今日の命を感謝し、神様を信頼することです。明日のことは明日自らが思い悩むことですから、それは神様におまかせすればよいのです。明日の問題とすればいいと言われます。与えられた今日のこと、いま目の前にある働き、招き、使命に素直にとりくんでまいりましょう。

2018年1月5日金曜日

2017年最終礼拝

2017年の最終礼拝は12つき31日でした。
20名の参加があり感謝感激でした!

2018年1月4日木曜日

「みんなと再開します」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「みんなと再開します」
 
 「キリストと笑い」という本の中に、ひとつのユーモアがあります。
 
 カール・バルト(神学者)は少ししつこい婦人から、永遠の生命について尋ねられた。「先生、教えてください。私たちが天国で私たちの愛する人々にみな再開するというのは、本当に確かなものでしょうか」。バルトは、その婦人を鋭く見すえながら、おもむろに、しかし力をこめて言った。「確かです。だが、他の人々とも再開します。
 
 婦人は、愛する人再開できるかと聞きました。バルトは、愛する人と再開するけれど、同時に会いたくないと思っている人たちとも再開しますと答えたのです。これはとても面白い話です。
 
 この婦人は、自分の都合のいい愛する人たちとだけ再開したかったのです。ところがこの考えは、自分勝手で虫のいい願いです。主イエスの十字架を思うとき、私に都合のよい人だけの十字架ではありません。むしろ、私に都合の悪い人にとっても赦しの十字架なのです。私の立場がどうであろうと、主イエスは救いに導かれるのです。それでなければ、主イエスを信じたりはしません。
 
 神様の救いは全ての人のためにあります。だから、神様の国ではみんなと再開するのです。ただし、神様に救われた人たちになった姿で再開します。
 

2018年1月3日水曜日

「単ではなく」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「単ではなく」

エフェソ 2:20 そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。

あるビジネス関係の本を読んでいました。すると面白いことに目がとまりました。それは船の話でした。船を作っている部品はすべて単体では海に沈んでしまうが、船として組み立てられると海に浮くというものでした。確かに、スクリューや舵、窓、煙突など船を構成している部品は、ただそれだけでは沈んでしまうのです。船というコンセプトがあって、そこに向かって組み立てられるから海に浮くのです。このことは何を意味しているのだろと思いました。

パウロは、「キリストにおいて一つとなる」ことを教えます。本日の箇所では、教会という交わりについて、建物のイメージからのべています。教会の交わりには「かなめ石」としてのキリストがおられます。この「キリストにおいて」が繰り返されていることによって、キリストとの結び付きが交わりを支え、成長する基になるというのです。すべてはキリストが中心です。私たちの教会も、一人一人が単体であるならば決して宣教できるものではありません。「御言葉を一人でも多くの人に宣べ伝える」という教会の船にならねば沈んでしまうと思います。宣教する船である教会にはイエス・キリストという「かなめ石」があるのです。人をみず、キリストをみることによって教会は一致できると思います。そしてすべてをキリストのみ言葉から見ることができれば一致できるし、大きな力となります。その時に神様の御心による宣教が始まります。

パウロは、キリストがすべての「かなめ石」であるといいます。ここに私たちの基準があります。人間の言動に左右されない、確かなみ心がここにあります。聖書を読むことは、すべての基本であると改めて教えられました。私たちはキリストを中心にして教会の宣教をしていきましょう。一人一人の賜物をもちよってキリストの体となり一つになりましょう。

2018年1月2日火曜日

「間」



クレヨン牧師のミニエッセイ

「間」
 
 ヤクルトスワローズの野村監督が、ある対談で次のようなことを言ってました。監督によれば野球の打者は打つさいに、「イチ、ニイ、ノー、サン」と唱えなければいけないそうです。この「ノー」が入らない打者は、「ノー(能)なしなのだ」と言ってました。
 
 バッターが構え、振り上げて打つとき、真っ直ぐの球ならその動作は「1、2、3」でよい。しかし、微妙な変化球を打つには「ノー」を入れた「間」が必要だというのです。大切なのはこの「間」だと言ってました。
 
 私たちの人生にはこの「間」があるでしょうか。間のない人生のことは「まぬけ」というのかもしれません。信仰にも同じことが言えます。これでなければならない、という考えには「間」がありません。宗教の恐ろしさとは、この「間」がなくなったときだと思います。熱狂的になるあまり本来の姿を見失ってしまうのです。
 
 しかし、「間」ばっかりでもいけません。信仰まぬけにならないためには、つねにキリストの御言葉を聞くことしなかいようです。しかし、それが一番難しいのですが・・・。

2018年1月1日月曜日

新年は礼拝から

あけましておめでとうござます。
大江教会では11:00~新年礼拝です。
今年もよろしくお願いします。