2019年1月7日月曜日

「木の根元に置かれた斧」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


木の根元に置かれた斧」

マタイ 310 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

新興宗教の特徴は「この世の終わりがすぐ来る」と叫ぶことです。終末思想からくるのでしょう。この世の終わりが来るということで恐怖心を与え、それから逃れるには自分たちの教団を信じるしかないというのです。これまでも多くの新興宗教ができました。しかし、大抵は詐欺のような宗教が多く、お金をだまし取られたという被害があります。洗脳というものもあります。恐怖をあおるときに「この世の終わり」を叫ぶことに騙されてはいけません。なぜならそれは神様が決められることで、人間にはわからないことだからです。

マタイによる福音書は、イエス様の宣教開始の前に洗礼者ヨハネの活動を記します。洗礼者ヨハネは、ヨルダン川の下流地域で独特な宣教活動をしていました。その活動は、彼の死後もヨハネ教団として独特な宗教性を持ってのこりました。洗礼者ヨハネの宣教の特徴は、「終末観」です。まさにすぐそこにこの世の終わりが来ているというかなり緊迫感をもったものでした。すでに斧が木の根元に置かれている。悔改めなければほろびるということでした。私たちキリスト者も、この緊迫感を人生の中に持っているかを問われています。神様の裁きはすぐそこにまできている。その裁きにたえられるような良い実をむすんでいるかということです。また洗礼者ヨハネは、自分の後に来る救い主についても語ります。悔改めのあとにくる福音について指示しておるのです。

ある時、パウロ使徒言行の旅を準備していまして、パウロをそこまで宣教へ駆り立てたものは何だったのかと考えていました。イエス様との出会いによって回心したパウロ、しかしそれだけではなかったことでしょう。何回も彼の宣教旅行、回心などを読んでいまして、ふとこれかもしれないと思えることにぶつかりました。それは、聖ステファノの殉教です。パウロ(当時はサウロ)は、ステファノの殺害に賛成しています。しかし、自らは石を投げず、彼を取り囲んで石を投げている者たちの洋服の番をしていたと聖書には書かれています。パウロの原点はここかもしれないと、ピンと思い当たったのです。殺害に賛成しながらも自らはあたかも傍観者のごとくに振る舞ってしまったパウロ。そのことが彼の心の痛みになっていたのではないかなと思います。最後まで自分に石を投げつける者たちのことを祈って召されたステファノ。その輝きの中で、イエス様にパウロはであったのではないかなと思います。そのことの悔い改めが、彼を救ったのでしょう。

洗礼者ヨハネは「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と忠告しています。斧は既に木の根元に置かれている。そのことを知ろうとも、見ようともしないならば、悔改めなどおこりません。悔改めがなければイエス様の十字架に出会うことはありません。良い実を結ぶには、まず悔改めることです。そしてイエス様と出会うことしかないのです。