2019年3月31日日曜日

きままな休日・紅白まんじゅう

入学お祝いに「紅白まんじゅう」いただきました。
あの一休みの饅頭です。
餡子が最高に美味しいです。

2019年3月30日土曜日

明日は礼拝です!

説教者:立野泰博牧師(大江教会・主任)
ぜひお越しください。

2019年3月29日金曜日

教会看板変更



阿久根教会は看板を作り替えました。
「キリスト教会」と分かりやすくするために。
ルーテル教会とは、
宗教改革者ルターの流れをくむ
キリスト教会なのです!

2019年3月28日木曜日

「信仰をもつ綿埃」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「信仰をもつ綿埃」
 
 牧師の務めの一つとして、教会の礼拝堂は土曜日に掃除することにしています。皆さんからは「大変でしょう」という言葉をいただきますが、実はこれがないと説教ができないのです。ある哲学者はつねに歩きながら考えていたと言われています。掃除というのは一つの「黙想」だと思います。一週間あたためてきた御言葉の福音をまとめるには「掃除」はもってこいなのです。
 
 さて、広島教会の会堂清掃には、ある特徴があります。それは「綿埃」が非常に多いということです。一通りダスキンで拭き終わると、山になるくらいの綿埃がくっついてきます。また、週日でも廊下にはどこからともなく綿埃がでてきます。それだけ、人がここに集まってきて下さるということでしょう。それは落ちている髪の毛の料でもわかるのですが。
 
 綿埃といえばある引退された牧師の言葉を思い出します。それは、ある時代の神学校の卒業式での説教で学長が次のように説教されたとか。「君たち若い牧師たちは、この社会からすれば綿埃のような存在かもしれない。なにも役に立たないような存在です。しかし、綿埃も集まって火を灯せば、人を暖める事はできるのです」と。
 
 信仰生活にかかわることは、すべて捉え方ひとつだと思います。会堂の掃除をすることも、ここに神様によって集められた人々がおられることを確認できる感謝のときなのです。

2019年3月27日水曜日

「壁のうちに平和を」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「壁のうちに平和を」

詩篇  122:7 あなたの城壁のうちに平和があるように。

被災地で救援活動していたころ、避難所にもよく出入りをさせていただきました。私たちがいったころは避難所生活も1ケ月を過ぎた頃でしたから、各家庭の場所が整理されプライバシーが守られていました。しかし、このプライバシーをどうやって作ったかといえば、隣りとの境界線に壁を作ることからだったそうです。実はこの壁が避難所生活のなかで大きな問題となったとも聞きました。壁が出来たばっかりに「共に」ということがなくなったのかもしれないと。プライバシーとは何か、それを守るとは何かを考えさせられました。

旧約聖書・詩篇にある「神殿にもうでる歌」です。内容は、エルサレムを称える歌です。エルサレム巡礼に出発するときの喜び。困難な巡礼の旅を終えてエルサレムに入城した喜び。巡礼者たちが平和を願うように促され、それに応えて歌うというものです。その中で、壁のうちに平和がと唱えています。

事務局にいたころ、毎朝掃除のおばちゃんと少しだけ話しをしました。ある日のテーマは謙虚になるということでした。おばちゃんはいまでも高校の校長先生の訓示を覚えているそうです。それは「自分がつくった壁から覗くと、人は壁の向こう側の人を見下すことになる。自分の後ろにはもっと高い壁があることを覚えておきなさい」という話だったそうです。おばちゃんは、その後ろの壁から見ておられるのが神様だと思うと言っていました。人はすぐ壁をつくってしまうけれど、壁の中で平安に生きるには、謙虚になることだと。そのように生きてきたら壁もなくなってまわりが平和にきたと。朝から考えさせられる言葉でした。

私たちは人との関係ですぐに壁をつくります。自分を壁の中において、そとを覗きながら生きています。そのとき、人を見降ろしていることに気がつきません。壁のうちにある自分に平和があるとき、壁はなくなり人を見降ろしたりしないですむのだと思います。そのためには、いつも見守ってくださっている神様に気がつくことが必要です。もともと自分の後ろに高い壁などなく、神様がともにいてくださるだけなのですが。

「約束を信じる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「約束を信じる」

ルカ 1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。

神様がこの教会に託されている「宣教の力」は、いったいどのくらいあるのでしょうか。私としては底知れぬものがあると実感しています。ところが、まだまだ教会の礼拝は空席の方が多い。なぜでしょうか。その責任は神様にあるのでしょうか。神様の「宣教の力」を信じ、全てを捧げることのできない私たちに責任はあるのです。「できることしかできない」との言葉を良く聞きます。しかし、神様の宣教の前では、その言葉は通用しません。できないことをも要求されるのが神様なのです。つまり、神様ができると言われることを、私たちができないとはいえないのです。まずは神様の力を信じることが求められていると思います。

 イエス様の母マリアは、受胎告知を受けたあと親類のエリサベトを訪問します。神様のお告げによって身重になった2人がそこで出会いました。エリサベトはマリアの訪問を喜び「あなたは祝福された方です」と挨拶をしました。その時マリアのことを「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」と言いました。マリアの「お言葉どおり、この身になりますように」との言葉を受けてのことでした。

 保育園では新年度がはじまると、帰りの時間近くに門のところに立っている子どもたちがいます。お迎えを待っているのです。保育園に泣きながらやってくる子どもたちです。小さな子どもたちが、たとえ昼間であっても親元からはなれて園で生活するのは大変ことです。不安で寂しいのでしょう。朝から泣き叫ぶ子どもに親たちは約束をしていきます。「5時には迎えにくるからね」と。だから門のところで待っているのです。しかし、多くの親は5時に迎えに来ることはできません。園長先生は「できない約束はしないでください」と言われます。この時、子どもの心のなかで「信じる」ということがどのように受け止めているのでしょうか。

 エリサベトはマリアの訪問を受け「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」といいました。神様は必ずみ言葉どおりに実現される方です。それを信じることが私たちに祝福をもたらします。必ず実現するから信じることもできます。信じる心を育てるには裏切らないことだと思います。

2019年3月26日火曜日

「きめ細かい配慮」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「きめ細かい配慮」
 
 「禅の道・茶の道」という本の中に、興味深い言葉の出会いました。その言葉とは、「風邪と客は大事にすると早く帰る」というものです。きっと、あまり大事にされると客は窮屈なのでしょう。だから早く帰ってしまうというのです。客をもてなすということは大変難しいことだと言えます。
 
 私たちの教会へも、だいたい平均で2名位の新しい方が来て下さいます。その方々によって応対には気を使います。そっとしておいたほうがいい方もおられます。兄弟姉妹のように応対されたほうがよい方もおられるのです。どちらにせよ、まずは言葉をかけることが大切なのです。職務質問になってはこまりますが・・・
 
 先週も結婚式のために、礼拝に出席くださったカップルがおられます。ちょっとお話しさせていただく機会がありました。開口一番「みなさんにこんなに祝福されるとは思いませんでした」と言われました。きっと教会の方々が祝福の言葉をかけてくださったのでしょう。感激しておられました。そして、「教会というところは堅苦しいところだという考えをあらためなきゃ」と言ってくださいました。本当に嬉しかったのでしょう。
 
 キリストは時に応じて、きめ細かい配慮をしてくださいます。私たちがキリストの御心を伝えるときに、どのような配慮ができるかを考えたいものです。

2019年3月25日月曜日

「心強い存在がある」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「心強い存在がある」

ルカ 1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。

「人間の痛みとか、苦しみとは何のためにあるのだろう」と考えるときがあります。神様は何のために、私たちに痛みや苦しみをお与えになるのだろうかと。その度に与えられる答えは一つでした。「神様を知るため」です。私たちは痛み苦しみの中で、神様と出会うのです。普段、私たちは神様に守られていきていると、その存在に気がつき感謝するということを忘れてしまいます。今日も元気に目を覚ますことができた、それだけでも神様が大きな恵を与えてくださっているのですが、神様の存在を感じることができません。だから、人は痛み苦しみにであったときに、神様の知るようになるのでしょう。苦しい時の神頼みではなく、私たちには共にいてくださる神様がおられることを思い出すのです。

 ルカによる福音書は、クリスマスの出来事の中心に2人の女性を置いています。一人はマリア、もう一人はエリザベトです。このエリザベトはマリアの親類でエンカレムに住んでいました。年をとっており、不妊の女といわれていました。夫であるザカリアのもとに天使ガブリエルがきて、エリザベトが洗礼者ヨハネを身ごもることを告げます。クリスマスの出来事の中に、神様の奇跡で子どもを身ごもった女性が2人いたのです。

 保育園のチャプレンをしていた時のことです。「氷鬼」という遊びがあります。鬼ごっこのようなものですが、鬼にタッチされたら固まって(氷になって)動いてはいけない。仲間が助けにきてタッチされるとまた動けるようになるという遊びです。この遊びをしている時、一人の男の子が泣きだしました。別になにがあるわけでもないので、「なぜ泣いているの」と聞きました。すると「氷になったまま、誰もタッチに来てくれない」と言うのです。たった一人でじっと立っていることが寂しかったのでしょう。自分のことを誰も気づいてくれないということが辛かったのです。

 イエス様を身ごもったマリアも、自分一人の問題として受けとめようとしました。聖霊によって身ごもったなどと誰も信じてくれないからです。しかし神様はマリアを一人にはしておかれませんでした。親類のエリザベトも洗礼者ヨハネ身ごもっているというのです。年とった不妊の女と言われていたエリザベトも神様の奇跡によって身ごもったのです。一人ではないことがマリアにとってどれだけ心強かったか。ここにも、インマヌエル(神我らと共にいます)が語られています。

2019年3月23日土曜日

2019年3月21日木曜日

「みんなの善意」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「みんなの善意」
 
 FMであるとき次のような話を聞きました。ある主婦のバスでの体験でした。その主婦は毎日同じ時間に同じ場所からバスに乗ります。当然毎日同じ人と出合うことになります。彼女にとって一番印象の強い人は、4番目のバス停で乗って来る、盲導犬を連れた女の子でした。彼女と盲導犬は乗車すると、決まって扉のすぐそばの席に座ることが習慣でした。ですからいつも乗る人々は決してそこの席には座りませんでした。
 
  ある時、身体障害の女性が乗って来ました。彼女は乗ってすぐのあの女の子の席に手をかけました。それを見ていた主婦は、「そこには盲人の女の子が座るから空いてる席にかけて」と心では思いましたが言えませんでした。しかし、その女性は手をかけただけで、座りませんでした。きっとその席をことを知っていたのでしょう。
 
  次ぎに中年の男性が乗ってきました。その男性はすんなりその席に腰掛けたのでした。主婦の心のなかは複雑でした。その席にはあと二つ目のバス停で盲人の女の子が乗って来る。その男性に言うべきか言わないでおくべきか迷いました。せっかくみんなの優しさで空席になっている席だと信じていたからです。一つのバス停がすぎ、次ぎのバス停が近づいてきました。どうしよう、どうしようと迷っていたときでした。次ぎのバス停の少し前にきたときその男性はすっと立って違う席へ移動したのでした。きっとその男性も知っていたのでしょう。
 
  そのバス停ではいつもどおり、盲導犬をつれた女の子が乗って来ました。そして手で座席に触れ、誰も座ってないことを確認してゆっくり腰掛けたのでした。誰もなにも言わないけれど、みんなの善意がこの席を暖めていたという話です。神様が与えて下さった人間の心は、本来暖かいものだと思います。

2019年3月20日水曜日

「わかっているから」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「わかっているから」

 ルカ 1:29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。

カトリックの神父が書かれた黙想の本があり、そのなかに次のような一節があります。

「神に愛されようとして、自分自身を変える必要は全くない」自分を変えるというのは、悪いことではありません。しかし、神様のまえでは変える必要はない。これはどういうことでしょうか。それを考えることが黙想の初めなのでしょう。私たちをそのまま愛してくださる。欠点は多いがそのままを大切にされるのです。こんなことは、神様しかできないことです。ありのままということが最近よく聞かれます。しかしこのありのままほど難しいものはありません。

 天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神様から遣わされます。そこに住むマリアにイエス様の誕生の予告をするためでした。ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方」と挨拶し、イエス様を身ごもる予告をしました。マリアはこの出来事に恐れ、戸惑い、一度は拒否します。結婚前の女性が妊娠することでおこる試練、迫害、困難を乗り越えねばならなかったからです。最後には神様の言葉を信じ、その出来事を受け入れる決心をしました。

 テレビで小耳にはさんだ話です。ある女性の起業が成功し、これまでの人生についてインタビューしていました。話のなかで彼女は人生を振り返り、その試練と悩みが次々に起こったことを紹介していました。最終的には多額の借金をかかえ、夫と別れ、子ども3人を育てるために昼夜働かねばならない過酷な試練にあうのです。しかし彼女は「いまはこのように事業が成功した。すると、あの時の試練や苦しさはいまの成功のために必要なステップだった。必ず成功すると信じれば、いまの苦しみはそのためのステップなのです。そう考えている」と話していました。未来に起こることを信じることで、いまの苦しみを乗り越えることができるのだと思います。

 イエス様の母マリアは、天使のお告げに「何のことかと考え込んだ」とあります。これから起こる出来事の試練、いま自分おかれている状況への不安。たくさんの思い悩みがあったことでしょう。しかし母マリアは「お言葉どおりこの身になりますように」とそれを信じ受け入れたのです。神様のみ子が誕生するという未来に起こる奇跡を信じたことで、この試練を乗り越えていきました。神様が必ず導いてくださる。この信仰が私たちに生きる勇気を与えてくれるのです。

2019年3月19日火曜日

「坊ちゃん気風」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「坊ちゃん気風」
 
 松山教会で行われた、「地区信徒修養会」へいってきました。松山といえば道後温泉ということで、宿泊所は道後温泉のすぐとなりのホテルでした。とても素敵な場所でしたが、人の多いことだけには閉口しました。本当に、人、人、人でした。
 
そこで、温泉には一番風呂にすることにしました。結局は寝過ごしてしまったのですが。
 
 さて、タクシーに乗って教会へ行く途中にある方が、「坊ちゃん気風というものはまだありますか」と運転手さんにききました。すると、「少なくなったが、まだまだあるよ」と教えてくださいました。なんでも、朝浴会というのがあって(もちろんお年寄りが多い)、いまでもお風呂の入り方の礼儀作法を初歩から教えてくれるとのこと。「その厳しいことといったらないで」と教えてくれました。若いモノは「なんで風呂でじじばばに説教されなければならないの」とふくれているところによく出会うということです。その話しを聞きながら、私はほのぼのとしたのですが・・・。
 
 信仰の継承といわれます。その方の生き方を通して、信仰は継承されていくものだと思います。あるときは厳しいことがあるかもしれませんが、それはその方の信仰がそうさせるものだと感謝したいものです。

2019年3月18日月曜日

「別の道を」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「別の道を」

マタイ 2:12 「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

 ある教会からの帰り道でのことでした。通り抜けようとス-パ-の信号へ差しかかったとき、地面を動いているものを発見しました。よく見るとカニが道路横断中だったのです。わりと大きなカニで体調十センチはあったでしょうか。しかも、車がどんどん通り過ぎるなかを、車に対してはさみを振り上げ威嚇していたのです。それを見ながら二つのことが頭に浮かびました。「一、自分を知らないということは恐ろしいことだな。二、ここに道路さえなかったら、カニは死なないでよかったろうに」ということです。そしていろいろと考えながら、自分を知らない人間ほど恐ろしいものはないという結論に達したのです。自分を知ること。これには自分を別な角度から見ることが求められます。第三者の視点、それがは別の視点であり、神様の視点だと思います。

イエス様の誕生のとき、東方から3人の博士がやってきます。彼らはまず、ヘロデの所に向かいます。ユダヤ人の王様が誕生することを星によって知らされていました。ヘロデはこれを聞いて不安を感じます。自分ではない王様が誕生するというのです。その後3人の博士はベツレヘムでキリストを拝みました。これがクリスマス礼拝です。ところがイエス様の誕生を知ったことで、ヘロデから命を狙われることになり、神様が示される別の道を通って自分たちの国に帰ることになりました。

 大都市の交差点には、目の不自由な方のための音の出る信号が設置されています。とくに車の流れが多く危ない所に設置されています。ところが、ある都市ではこの音がなるのは午後7時までと決まっているそうです。理由は周辺住民から、その音がうるさくて騒音だという苦情があったのだとか。市の管理、警察が話し合って午後7時までにしたというのです。「目の不自由なものは午後7時以降の外出はするなということですよ」と、それを利用している方が言っておられました。それが必要ない方にとっては騒音になる。しかしそれが必要な方々おられる。何かよい別の方法はないのかなと思いました。その方法を考えるのは「管理者、住民、目の不自由な方」の3者と、それを聞いた私たちなのだろうと思います。共に生きるという視点から考える時に、神様が別の方法を教えてくださるのではと思うのです。

 クリスマスの時、3人の博士は「別の道を通って・・・帰って行った」とあります。この別の道を示されたのは神様でした。ヘロデの難から逃れるための道です。私たちの人生、行き詰ったときでも必ず道が用意されています。その道を見いだすには、つねに神様のみ言葉に触れていないといけません。別の道も神様の道なのです。

2019年3月17日日曜日

きままな休日・簡単な朝は

出張などに行ったとき
簡単に朝食を済ませるにはカフェへ。
結構楽しいひとときです。

2019年3月16日土曜日

2019年3月15日金曜日

聖書の授業にお坊さん

私が受け持っている九州学院の聖書の授業
ミッション系ですがお坊さんをお招きしました。
その様子が宗門の機関紙に記載していただけました。

2019年3月14日木曜日

「信仰は神様のもの」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「信仰は神様のもの」
 
 ラジオで次のような話が流れていました。
 
 一人の婦人がクッキーを一袋買い、それを持って空港の待合い室で本をよんでいました。夢中になって本を読んでいるうちに、ふと気づけば横にいる男が、こともあろうに二人の間に置いた袋からクッキーをつまんでいたのです。婦人は知らんぷりしていると、クッキーをどんどん食べていくのです。内心「あたしがこんないい人でなけりゃ、ぶん殴ってやるわ」と思いつつ。そしてついにクッキーは残り一つとなりました。この男はどうするかと見ていると、ニコッと笑ってそのクッキーをとり、二つに割って自分に差し出したのです。婦人はこんなに腹立たしいのは生まれてはじめて、と立ち上がって自分の飛行機に向かったのでした。
 
 婦人は飛行機に乗り、座席に身を沈め、やおら本を探し始めました。荷物をまさぐった婦人は、驚いて息をのんだ。なんと自分が買ったクッキーがそこにあったのです。
 
 ラジオは笑い話として放送していましたが、なぜか笑えませんでした。神様と人間の関係と重ね合わせて聴いてしまったのです。私たちは神様のものである信仰を、自分のものとして欲張って独り占めしてはいないだろうかと。神様の愛は多くのひとと分かち合うために与えられているのではないでしょうか。

2019年3月13日水曜日

「向かい合う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「向かい合う」

マルコ  12:41 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。

はじめて赴任した教会には幼稚園がありました。その園で飼っている鶏とアヒルは、注意深くみると私たちに素晴らしい警告を与えてくれました。それは人間も同じだなということです。

ある時、こんなことがありました。毎朝えさをあげるのですが、えさの桶は二つあります。二羽しかいませんので、一羽に一桶という計算になります。単純にはそうですが、この桶の取り合いが傑作なのです。ちゃんと同じにわけても、一つの桶を二羽が取り合いをするのです。しかも最初に口をつけたほうを、二羽で取り合いをしている。たまたま一羽が途中でもう一つに移れば、またそれを取り合いしているのです。これを眺めながらある意味でぞっとしました。他人のものはよくみえるということは、人間に限らないということです。そこに欲望・恨み・嫉妬の根源があるような気がします。自分は何を見ているか、何と向かい合っているかが問われます。

 イエス様の時代には、神殿にラッパの形をした献金箱がおかれていました。人々はこのラッパに向かって多くの献金を投げ入れていたのでしょう。その中にわずかな献金を入れたやもめがいました。イエス様は、やもめを無視なさいませんでした。金額の大小ではなく、やもめの信仰に目をとめられています。投げ入れたか、入れたかは大きな違いです。イエス様は賽銭箱の向かいに座っておられ目をとめられたのです。

 いじめが原因で自殺した小学生のニュースがありました。いつ聞いても胸がつまります。同じ年頃の女の子をもつ親として痛みを覚えます。今回も学校の対応、教育委員会の在り方に疑問をもちました。PTA会長をやっていた時と同じ疑問です。なぜ向かい合うことができないのかなと。ある時、市PTA連絡協議会で中学校のPTA会長さんと席が同じになりました。その方が、なぜPTA会長をしているかを話してくださったのです。彼は「自分の娘は中2で妊娠し子どもを生みました。そこから地獄の日々を過ごしました。学校も先生も教育委員会も娘を助けてくれなかった。でも親である私はそこで娘と真剣に向かい合ったのです。その時、私一人が最後まで向かい合う決心をしたのです」と教えてくれました。

 イエス様は、賽銭箱の向かいに座っておられました。すべての人と向かい合っておられたのです。そこで1人の貧しいやもめと出会われました。イエス様が彼女の中に何をみたのか。それはすべてを神様に捧げる信仰だったのです。向かい合ってはじめてわかることがあります。

2019年3月12日火曜日

「比治山の紅葉」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「比治山の紅葉」
 
 牧師執務室から比治山をながめると、すでに紅葉がすばらしいことに気がつきました。パソコンばっかりながめている私には、とても新鮮に感じてしばらくボケーっと心洗われる時を持てました。
 
 そのような時、長女が学校から喜んで帰ってきました。「今日、わたしの作文がみんなの前で読まれたんよ」と。あまりにも嬉しそうなので、その作文とやらをのぞいてみました。するとこうです。
 
 「題:勉強 今日、尾前先生(教育実習生)がじゅぎょうをやりました。国語をやりました。わたしは尾前先生がちゃんと勉強できるか心配でした。でもできてうれしかったです」
 
 子供は子供なりに励まそうとしているのだと思います。その思いが伝わっていくときに、なにか神様からいただいている愛を確認できるように感じます。
 
 教会の行政にかかわっていると、溜息がでるような問題にぶつかることがあります。「どうしてなんだろう」と考え込むこともあります。神様の御心はいったい何かと迷うときもあります。しかし、そのようなときは、自分しか見ていない時のようです。比治山の紅葉をみながら、何か神様が語りかけて下さっている「励まし」を感じています。秋もまたいいものですねえ。
 

2019年3月11日月曜日

「成長すること」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「成長すること」

二ペトロ  3:18 わたしたちの主、救いイエスさま・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。

事務局長時代のひとつの課題は、会議全体を整えることをでした。資料の作成、事前配布、審議方法の簡略化、フォーマット作成、速報を流す体制つくりなど。また席を指定し、名札をおいて同席・陪席の色分けを行いました。整えられた会議はとても気持ちがいいものでした。ある日のことでした。35年も働いておられる掃除のおばちゃんが出席者の名札をみて一言。「あれこの子、偉くなったのね」と。学生の頃から知っている名前がそこにあったのでしょう。「ちゃんと成長したのね」と喜んでおられました。その成長がイエス様においてであればいいのですが。

 聖書にはペトロの名前をしるした2通の手紙があります。この2つ目の手紙は、著者とは異なるキリスト教理解を主張する「偽教師」を退け、その主張に惑わされないように警告しています。本日の箇所は、この手紙の最後の結びの言葉です。私達はイエス・キリストの恵みと知識において成長しなければならないことをのべています。

 中国の昔話です。「ある人が種をまいてから、毎日毎日その畑を見回っていました。ところが、となりの畑の方が芽の伸びがよい。うちの方が悪すぎるということに気づきました。そこである夜、自分の畑にでかけていき、一本一本手で引っ張って伸ばしました。翌日あれからどれだけ伸びているか期待してみにいきますと、全部の芽がお辞儀をしていました」。笑い話ですが、よく考えると笑えない話です。神様はその人にあった成長を一番よく知っておられます。ところが私たちは無理に伸ばそうとして駄目にしてはいないでしょうか。

 ペトロは「イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」と教えました。自分勝手に振る舞うのでなく、キリストの恵みと知識において成長することを求めています。私達を成長させて下さる恵み、与えられる知識はすべて神様のもの。み言葉に謙虚になることが成長のカギだと思います。

2019年3月10日日曜日

気ままな休日・石焼きピザ

YMCA阿蘇尾ヶ石保育園に石焼きピザ窯が
設置され、祝福式をおこなってきました。
最高の焼き上がりです。

2019年3月9日土曜日

2019年3月8日金曜日

2019年3月7日木曜日

「特別な感じ」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「特別な感じ」
 
 メサイアのコンサートも無事に終わりました。初めて通しできくことができました。その迫力に圧倒されそうになりました。あれが意味を理解しながら聴けばもっと感動するのではないでしょうか。アンケートの中に、「メサイアはいろいろなホールで聴いたことはありますが、今回は場所が教会の礼拝堂でしたので、なにか特別な感じがしました」というのがいくつかありました。「特別な感じ」というは、きっと礼拝堂だけがもつものなのかもしれません。それにしても、広島教会の十字架は、ただそれだけでメッセージを贈っているものなのだと思いました。
 
 さて、「特別な感じ」といえば、最近礼拝堂であるCDを聴いています。いままでは、オルガンとかグレゴリアとかでした。ところがひょんなことから「野鳥のさえずり」を聞き始めたのです。なぜかといえば、自然の中にいるような感じがするからです。すがすがしいというのいでしょうか。いい気持ちになるのです。そして、いつかいったインドネシアの山奥の教会を思い出すからです。
 
 メダンから2日がかりでいった本当のジャングルの中でした。オラウータンやスマトラタイガーがいるという山奥にも礼拝堂がありました。その礼拝堂に入り、椅子に腰掛けて祈っていますと、小鳥のさえずりの奇麗だったこと。「特別な感じ」でした。その至福のひとときを思い出すのです。
 

2019年3月6日水曜日

「日曜日の夕方の飛行機で」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「日曜日の夕方の飛行機で」


マタイ  20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

イソップの話です。「神が、いいものをみんな、酒がめにつめてふたをしてから、ある人にやりました。その人は、がまんできずに、なにがはいっているのか見ようとして、ふたをとりますと、中にはいっていたいいものが、神さまのところへ、飛んでいってしまいました。しかし、おおいそぎで、ふたをしたものですから、希望だけは残りました。そこで希望だけが人間のところにいて、にげていったものがいまにまたくるといってきかせるのです」。希望だけが残ったという話は、滑稽なようでいても、心にずしりというものを感じます。私たちは見なければいけない事実から目をそらしてはいけないと思います。

 イエス様は「ぶどう園の労働者」のたとえを話されています。これも理解するにはよく考えねばならない話です。朝から雇われ真面目に働いた者と、最後の1時間しか働かなかった者が、主人の思いから同じ賃金を受け取るというものです。しかし、これは天の国のたとえ話ですから、神様(主人)の御心はどこにあるかを考えねばなりません。自分のことばかりしか見えてない者には「不平」しかないのです。

 事務局に勤務していた時の話です。日曜日の夕方、地方から羽田への便はいつも満席です。雰囲気的も「明日から仕事か~」とか「旅行も終わりだな」とか疲れている感じです。そんな時、乗客からの不満が多く聞かれます。結構、自分勝手な人たちが多いものです。昨日も「なんで満席なのに空席があるの」と乗務員さんに怒鳴っておられる人がいました。どうもキャンセルがでず、同行者とは別々の飛行機になったのでしょう。たまたま、自分の前に大物政治家の方がおられ、その横がひとつ空席だったので、政治家を優遇しているように思えて腹が立ったのでしょう。その後、どのような説明がなされたかはわかりませんが、そのやりとりを聞いている政治家さんも大変だなと思いました。

 イエス様のたとえ話の中で、不平をいった労働者の意見もわかります。1時間しか働かなかった者と同じ賃金では割が合わないからです。しかし、初めの約束は何だったか。主人の思いは何であるか。を考える余裕があれば不平を言わずにすんだかもしれません。怒鳴っていた乗客の方もきちんと説明をされたら納得なれたでしょうが、怒鳴ることによってまわりに与える影響は?と考えてみてもよかったかも。
 
※東京出張のため2日ブログをお休みしました。

2019年3月3日日曜日

きままな休日・コンビニおにぎり

車で出かけるときなど、食事の時間がないときはコンビニおにぎりです。
簡単便利ですから。しかもマヨネーズタイプが大好きなのです。
ホントは健康のためには、、、でも大好きです。

2019年3月2日土曜日

2019年3月1日金曜日

受難節を迎えます。


熊本の大江教会ですが、、、
それぞれのところで受難節の始まりを!