2017年3月31日金曜日

3.11九州臨床宗教師会

九州臨床宗教師会
3.11東日本大震災追悼の祈り
宗教宗派を超えて寄り添う祈る集いが行われました。
仏教、神道、キリスト教が共に大江教会礼拝堂で祈りました。
十字架と仏教の法輪がここに一緒にあります。

2017年3月30日木曜日

痛みと共に

クレヨン牧師のミニエッセイ

「痛みと共に」
 
 教会で始めた「指圧セミナー」を通して、いままで考えることがなかった「いやし」について多くのことを学んでいます。セミナーの中で「カルシュウム」と「酢」の大切さを再確認しました。最近この二つを充分とっていますので、心持ち自分に変化がおこってきたような気がします。なんと、イライラしたりカッとくることが少なくなってきたようです。落ちついて祈ることができるようになりました。しかし、いままでの性質をすぐ変えることはできません。
 
 先週の日曜日の朝6時ごろのことでした。長女・華美が耳が痛いといって私の枕に近づいてきたのです。前日の三時ごろ寝たものですから、その声がうるさくてたまりませんでした。あまにりもしつこく「痛い、痛い」というものですから、ついカッとなって怒鳴りました。「いまどうすることもできない。静かに寝てろ」と。ところが、先週は柳井教会の担当でしたから、車を運転しながらある声を聴いたのです。「華美ちゃんは、お父さんならこの痛みを受け取ってくれると、信頼して枕に近づいてきたのではないのかな」と。
 
 私たちはどれだけ人の痛みと共にできるでしょうか。あの朝、どうして神様に痛みを取りのけてくださいと、娘と祈れなかったのか。心から悔い改めをしたのです。やはりキリストといつも共にいなければ、人の痛みを感じることはできないのではと思います。

2017年3月29日水曜日

ユーモアが生かすこと

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「ユーモアが生かすこと」

ヨハネ 21:17 ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか

野村克也楽天監督の本を読んでいます。そこに「監督の大きさ以上のチームにはなれない」とありました。そのとおりですね。監督の人間的な大きさが、そのチームの大きさとなるのでしょう。これを牧師のスケールの大きさが、その教会の大きさとなると読むと、なかなか厳しいものがあります。どんなチームでも上にたつものの大きさが問題かな。どこまで状況を受け入れ、指示がだせるか。

本日の清書は、復活したイエス様がペトロに3回聞かれたことばが「わたしを愛しているか」でした。多くの意味を含んでいると思います。十字架のとき3回もイエス様を知らないと否定したペトロ。だから同じように3回も聞かれたのだと。そうなると「裁き」かな?と思います。しかし、何度もよんでいるとイエス様の大きさを感じる言葉です。また神様のユーモアがあるように思います。先に「わたしはあなたを愛しているよ」と聞こえてくるのです。

会議でいつも天国ジョークを話される方がおられます。ある教派の総主事なのですが。その話をきっかけに場がなごみ、会議がスムースにいくことが多いように思います。先日のジョークはこれでした。「ある教会に若いカップルが訪れ、結婚式の申し込みをしました。しかし、結婚式の前日に事故で天国に召されてしまったのです。二人は天国の門番であるペトロに『地上では明日が結婚式でした。天国ではめとることも嫁ぐこともないと聖書に書いてあるので、天国に入る前にここで結婚式をあげさせてください』と願いました。ペトロも2人のことを思い了解しました。ペトロは『どこの教会で結婚式をするつもりだったか』と聞きました。『ルーテル教会です』(どこの教会でもいい)とこたえました。ペトロは天国の中にいるルーテル教会の牧師をここに連れてくる約束をし、探しにいきました。しかし長い時間か帰ってきませんでした。かなりたったころペトロは門のところにきていいました。『大変残念ですが、ここに牧師はひとりもいない』と答えましたとさ」 。一つのユーモアが場を和ませます。

イエス様の大きさは、計り知ることができません。その大きさはペトロに「愛しているか」というみ言葉に集約されているように思います。その大きさに触れたペトロは「悲しくなった」のです。こんなに自分を愛しておられる方がいてくださるという胸を打たれる悲しさだったのでしょう。

2017年3月28日火曜日

ありのままで

クレヨン牧師のミニエッセイ
「ありのままで」
 
 カウンセリングの本に次のような話が書いてありました。
 
 外国のある学校の話です。その学校はとても評判の悪い学校でした。卒業生の中にはまともなものはあまりいず、警察のお世話になるものばかりでした。あるときそこの学校の先生は、驚くべきひどいことをしました。それは卒業生名簿を持ってきて予想を書き込んだのです。「こいつは泥棒。こいつは殺人犯。こいつは詐欺師」と。よその子の分まで将来の予想を書き込み、あたるかどうか同僚と賭けたのだそうです。
 
 十年後、その先生が追跡調査をしました。すると一つのクラスに限ってことごとく予想が外れてみんな立派な人になっていました。その学校始まって依頼のことでした。追跡調査の結果そのクラスの全員から、一人の女の先生の名前が聞けました。しかし、その先生は教師としての能力がないということで一年で止めさせられた先生だったのです。
 
 別に普通の先生でした。特に教育理論もない先生でした。今は老人ホームに入っているその先生からは特別なことは聞けませんでした。しかし、ただひとつ違うことは、卒業名簿をながめながら、「ああこの子は好きだったわ。この娘はどうしているだろう。好きだった。この子はやんちゃで好きだった」と涙を流していたのでした。
 
 人はありのままで愛されると変わるのです。キリストもありのままの私を愛されるのです。

2017年3月27日月曜日

手に愛が宿る

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「手には愛が宿る」

イザヤ25:10 主の御手はこの山の上にある。

上前淳一郎氏の『読むクスリ』の中で、「若者の食事が洋食にかたよりすぎているのは、母親に原因がある」と書いてありました。すなわち、「オカアサンヤスメ」だそうです。なんだそれはと思う方へ。オムレツ、カレ-ライス、アイスクリ-ム、サンドイッチ、ヤキメシ、スパゲッティ、メダマヤキ。どれもインスタントでできる手抜き料理で、子供が喜ぶものだそうです。もうひとつ、「ハハキトク」といのもあります。ハンバ-グ、ハムエッグ、ギョウザ、ト-スト、クリ-ムス-プ。これはなぜいけないと思いますか。答えは噛まなくても飲み込めるものばかりだということです。それで顎の力が弱い若者が増えたのだそうです。皮肉なことにこの現象を発見したのはお母さんたち自身だったのですが。ある料理家はこれを手抜き料理といっていました。

救いを待ち望んでいた民に預言ざれた言葉の一つです。「御手はこの山の上に」。神様がここにいて守ってくださる。神様はここにおられるという確信があります。「御手」という言葉にひかれます。私たちにも手が与えられているからです。神様の御手とわたしの手。なにか不思議なつながりをいつも感じています。

ある看護婦さんがおられました。末期医療の病室で、反応がわずかしかない患者さんの体を毎日拭いておられました。いつもの仕事なので何も考えずに。しかしふと自分の母のことを思い出したそうです。母が末期病棟にいたとき、自分は同じように機械的にはできなかった。私の大切な人がここに生きていると思って体を拭いていたことを思い出したそうです。それから、すべての患者さんを母と思い、接してこられたそうです。ある日一人の患者さんが感謝をのべられた言葉は、「あなたの手には愛がある」でした。

私たちはここで仕事をします。機械的に仕事をするために神様から集められているわけではありません。神様から呼び集められた私たちの仕事は「この手に神様の愛が宿る」仕事です。今日も手を眺めるときがあれば、この手に神様の愛が宿っていることをおぼえましょう。

2017年3月26日日曜日

オルガンコンサート

熊本大江教会でオルガンコンサートがあります!
阿久根教会でも今年の秋にコンサートを行います!

2017年3月25日土曜日

きままな休日・2種類カレー

14446158_10207512482231654_3427106134632239395_n
   1皿で2度おいしい!実は右がパキスタンカレー、左がスリランカカレーです。
   YMCAのユースの集いでご馳走になりました。どちらも特徴のあるカレーでした。
なるほどカレーの文化なんだ。
   ちなみに、具はチキンとシーフードでした。さすがに豚はなかったですね。

2017年3月23日木曜日

ジャングル温泉

クレヨン牧師のミニエッセイ
「ジャングル温泉」
 
 鹿児島教会へいってきました。とても楽しい時を過ごしましたが、蒸し暑さにはまいってしまいました。南国特有のバケツをひっくり返したような雨。その後一時の晴れ間。そしてまたバケツをひっくり返したような雨。これでは蒸し暑いのもしかたありません。しかも火山のすぐそば。熊本生まれの私にとっては懐かしさもありました。
 
 そのような雨の中、イッシーで有名になった池田湖をみて、砂風呂を見学(地熱がこれだけあれば蒸し暑いはず)、その後、指宿のジャングル温泉へいきました。一番喜んだのは娘達ではなく、二人の牧師たちで、観葉植物に囲まれながらお風呂に入るのは最高でした。しかもとにかく広いとくれば言うことなしでした。
 
 神様の作られた自然は、私たちをゆっくりとさせてくれます。そこにただ自然があるだけで心が落ちつくのです。なぜでしょうか。それは人間も自然も、神様が造られたものだからだと思います。もともとは一つのものだからではないでしょうか。私たちは機会の一部としてではなく、自然の一部としての人間なのです。もういちど行きたいジャングル温泉です。
 

2017年3月22日水曜日

アイデアで乗り切る

阿久根ルター君の朝のみ言葉
「アイデアで乗り切る」

 マタイ7:28 群衆はその教えに非常に驚いた

 何を話そうかとさんざん悩んだあげく、とうとう時間切れになってしまいました。仕方ないのでイソップの寓話を読んでいましたら、有名な「かにの親子」という物語に改めてはっとしました。その物語は、皆さんもよくご存知だとおもいますが、かにのお母さんがその子に、「横にはうものではありませんよ。またわき腹をじめじめした岩にこすりつけてはいけませんよ」といいました。子どもは、「そう教えてくださるお母さんがまっすぐに歩いてください。私はそれを見てその通りにします」といいました。久し振りで読むとなかなかのものです。私たちはあまり自分をみませんし、していることがどう見えているのかわかりません。イエス様は「我に従え」といわれます。イエス様に従う時、そこには十字架が見えてきます。すると私たちの救いが見えてきます。

イエス様のたとえ話を読んでいると、アイデアに満ちていることがわかります。種をつかったり、からしだねの話をしたり。そのときにあった話をされているようにおもいます。しかも具体的なのでわかりやすかったのでしょう。しかし、聞く側に問題があると大変奇妙で、難しい話になってしまいます。

 先週、犬のトレーナーの話を聞きました。犬のしつけを簡単に行う方法を話してくれたのですが、ポイントは「アイデア」と言われました。犬がどうやったら思うような体制にできるかを人間がアイデアをだすことという話だったのです。 つまり、「伏せ」を教えるのに、上から押さえつけたり、叱ったりしては絶対いけない。無理やりやらせるのはいつまでたってもできない。それではどうするか。犬が伏せの体制を自然ととれるようなアイデアを出せばいいというのです。つまり、まず人がかがんで足をだし、その空間をとおらせれば自然と伏せの体制になる。そのときにご褒美をあげる。何回かするうちに伏せができるようになるのです。犬も楽しいことなのですぐに覚えるというのです。

本日の聖書には「群衆はその教えに非常に驚いた」とあります。イエス様の教えもアイデアが満ちています。なにかにぶつかったとき、苦しいときアイデアで乗り切ることができることって多いものです。働きの中でもそれぞれがアイデアをだして楽しく働きましょう。

2017年3月21日火曜日

クレヨン牧師のミニエッセイ
蛍の乱舞にさそわれて」
 
 先週はこの雑文に書きたい話題が多い週でした。松山での出来事。フェリーでの出来事。どれもこれも楽しい出来事でした。そんな中で、やっぱり書きたい出来事は、今年も蛍の季節になったということです。
 
 六日市集会にいく道では、いま蛍が乱舞しています。車でスピードをあげて通り過ぎると何もみえません。しかし、車を止めてライトを消し、静かに川をながめていると、一つ、二つと灯が増えてきます。そして五分もすれば川中に蛍の群れが飛び交っているのがわかります。不思議に思うのは、みな一定のリズムで光っているということです。バラバラには決して光りません。光るときは一斉に光るのです。神様の創造の業の不思議さを思います。
 
 さて、友人と一匹捕まえようということになりました。ところが、これが大変でした。子供の頃はあんなにたくさん捕まえたのに。しかし、やっとの思いで一匹捕まえて、車の中に離しました。そのままの状態で、六日市、益田、徳山へと車を走らせているうちに何だか蛍に対して気の毒になってきました。たった一度限りの命ではないか。神様の業の中で生まれてきたのではないか。そう考えてみると、蛍も私も同じだなと思ったのです。
 
 やっぱり川に返すべきだと思ったとき、ちょうど捕まえた場所に着いていました。いそいで車の中から探しだし、同じ場所に戻した時、前にもまして大勢の蛍に取り囲まれていたのでした。

2017年3月20日月曜日

キリストに結ばれて

阿久根ルター君の朝のみ言葉
「キリストに結ばれて知恵」
 
2テモテ  3:15 自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。
バスを待っていたときのことでした。お母さんらしい人が子供に、「脳のシワが多いほど頭がいいのよ。うんと勉強して、シワをふやしなさい」と言いました。すると子供は、「それじゃお母さんは、顔で考えているんだね」と返したのです。横にいて驚かさせられました。「頭がいい」という言葉をよく聞きます。いまでは勉強がよくできることをいうのでしょうが、私などは「賢い」といわれたいです。この「賢い」とうのは聖書では心の問題としてでてきます。つまり、人の賢さは心から出てくるものではないでしょうか。  
パウロはテモテへの最後の言葉を残しています。テモテがすべての点でパウロに忠実に従ってきたことを改めて強調しているのです。その最後の言葉の中で「キリストに結ばれて」という表現があります。キリストと私たちを結んでいるのは「自分が幼い日から聖書に親しんできた」そのことによるというのです。
ある教会では、宣教百年の記念事業として「教会員全員が聖書通読をする」という計画を立てています。簡単に聖書通読といっても、いざやろうと思っても無理です。聖書通読の基本は「毎日読む」です。この毎日読むことが続かない。そして次に大切なのは集中することです。なぜなら読みながら別のことを考えてしまうからです。字を追ってはいますが、何を読んでいるかわからなくなります。最後は祈りです。御言葉を受けとる祈りをして心を準備するのです。そうやってはじめて「キリストに結ばれた」聖書通読ができます。
パウロは「聖書は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます」。と告げています。このパウロの言葉は真実です。聖書を毎日よむとき、毎日イエス様と出会い。毎日救いに導く知恵を与えられます。このような恵みをいただいていることが「キリストと結ばれて」いることです。教会生活の基本は聖書を読むことだと言えます。

2017年3月18日土曜日

きままな休日・黒豚トンカツ

気ままな休日
鹿児島といえば黒豚とんかつでしょ!
大江教会宣教ツアーの皆様がみんなでトンカツを食べました。
さすがに美味しいですよ。柔らかいし、サクサクもっちりです。
ぜひ皆さんも、まず礼拝に出てそれからトンカツへ!

2017年3月17日金曜日

鹿児島教会の礼拝が10倍に

大江教会からの宣教ツアーを迎え
礼拝がいつもの10倍に!
いいですね!またやってきますよ!大江教会宣教ツアー!
熊本大江教会と阿久根・鹿児島教会は宣教協力をしています。
ますますつながりを深めてまいります。

2017年3月16日木曜日

悪魔の悪魔

クレヨン牧師のミニエッセイ
「悪魔の悪魔」
 
「波」六月号を読んでいましたら、次のような言葉に出会いました。
 
 「世の中には優しさという言葉が流行っているようだが、悪を生きたことのない人には優しさなんて表現できないのではないか」。これはある文学賞を受賞された作家の言葉です。
 
 「悪を生きる」とはどんなことでしょうか。私は善でありたいし、人からもそうみられたいと思います。もしも「悪」と言われたらきっと落ち込むでしょう。しかし、その落ち込みが優しさを生むのかもしれません。
 
 ある牧師が、「悪魔に勝つには、悪魔にとっての悪魔にならないと勝てない」と言われました。なるほどだなと関心したのです。なぜなら主イエスは悪魔にとっての大悪魔だったからです。
 
 主イエスは聖書時代の律法学者たちからは「悪を生きた」方でした。しかし、それが故に律法学者たちに見捨てられた人々に「優しさ」の表現ができる方だったのです。
 
 「自分が善だ、自分は正義だ」と言い切る人たちには優しさは感じられません。優しさを持つと自分だけではいきていけないからです。悪に生きるとは、弱さに生きることかもしれません。

2017年3月15日水曜日

心遣い

阿久根ルター君の朝のみ言葉

フィリピ 4:10 あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。

お菓子を食べていたら、煎餅袋の裏に『日本食の礼儀』というものが書いてありました。茶碗の持ち方や、お箸の置き方、目の置きどころなど詳しく書いてあるのです。私は食前・食中・食後の箸の置き方など初めて知りました。また箸の使い方の悪い例はたくさんあって驚きました。

 お箸をなめるのは「ねぶり箸」、同じお菜を続けて食べる「移り箸」、なにを食べようかうろうろするのは「迷い箸」、遠くのお菜に差し出すのは「及び箸」、吸い物のお椀の中に実を探すのは「探り箸」、お料理を箸で突く「突き箸」、お茶碗の中で御飯をかためる「かため箸」。これはみんなやってはいけないことなのです。あらためていわれると、この礼儀は作った方への感謝から出てきているように思えます。食べる側の心遣いかもしれません。

フィリピの信徒への手紙は、パウロが教会からの贈り物にたいする感謝の言葉をしたためた手紙です。この中で「心遣い」ということばがあります。聖書の中に「心遣い」という言葉はあまりありません。もしかするとこの箇所だけかもしれません。この「心遣い」とは何を意味するのでしょうか。パウロは「あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました」といいます。苦難を共にしてくれたということに対して「心遣い」と言っています。本当に苦しい時、共にいて、共にその痛みを負ってくれたことを「心遣い」と言っています。

テレビで葬儀屋さんの特集をしていました。その中で、ある社長さんの言葉に感銘を受けました。その言葉は「結婚式に必要なものは気遣いでよい。しかし、葬儀に必要なものは心遣いです」というものです。この「気遣い」と「心遣い」の違いが私たちにはわかっているかと問われているようでした。その葬儀屋さんの映像をみていると、出棺のとき喪主の奥様に一つの紙袋を渡していました。その中にはおにぎりが3個と「お疲れがでませんように」と手紙が添えてありました。「心遣い」とはこのようなものかと心を打たれました。わたしたちの教会も「心遣い」を大切にしていきたいと思います。教会生活の中でおこる出来事の中に、ぜひ「主にある心遣い」を持ちたいと願います。

パウロは苦難を共にしてくれたことを「心遣い」といいました。その人と共に歩むとき、その苦しみを共に受け取ることで「心遣い」ができるのです。そのようなホスピタリティを教会はもとめられています。それができる教会にあるために、今日も御言葉を聞き、祈り、仕えてまいりましょう。

2017年3月14日火曜日

賛成でも反対でも

クレヨン牧師のミニエッセイ
「賛成でも反対でも」
 
 出久根達郎さんの本で、ぞっとするような話しを読みました。
 
 「いつのことだろう。ロシアでは政府を批判した本の著者には、その本を食べさせる刑罰を科した。毎日、医者立ち会いのもと一定時間、本を寸断してくわせた。発行部数を全部食べ終わった時、刑が終了したとして赦免した。ベストセラー作家は生涯くいつくせないわけである」というような話しです。もしも、「神様のクレヨン」が刑にふれて、このような刑罰をうけたとしたら、考えただけでゾッとしました。
 
 先週の宣教協議会に出席し、教会の会議のあり方を考えています。主イエスを中心とした会議にはみえなかったからです。話し合いという名の責め立てあいのようでした。私はそこにいたたまれず、帰ってきました。批判するなとはいいません。しかし、そのやり方に問題を感じます。宣教協議会は法廷闘争を準備した話し合いではないはずです。あくまでも、宣教の役に立つ話し合いのはずだと思うのです。
 
 批判するのは簡単なことです。しかし、そこからどうやって前向きに進めていくか、いや決断して中止するかなのです。ある信徒の方が次のようにいわれました。「賛成でも反対でも、それをどうやって宣教に役立たせるかという視点で考えたい」。もっともだと思います。

2017年3月13日月曜日

愛がなければ

阿久根ルター君の朝のみ言葉

1コリント 13:2 預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

「自分はなんでも持っている」と言う人がいました。何でも持っているなら幸せですねと答えました。すると、物はなんでも持っているし、これ以上いらない。しかし、本当に必要な物を持っているのか疑問だというのです。特に何不自由なく生活できる財産はあるけれど、さみしいという相談でした。イエス様は「受けるより与える者は幸い」と教えてくださいました。たくさんの物を、人々に分け与えた時、はじめて本当に必要な物が見つかるかもしれません。全てを与えつくして何が残るか。残ったものが、神様から与えられた確かな恵みだと言えます。

本日の聖書は、新約聖書の中でも有名な「愛の賛歌」の1節です。パウロはコリントの人々に、「最高の道を教えます」と言っています。その冒頭に「愛がなければ一切は無に等しい」というのです。愛がなければ一切は空しく、何の価値もなく、無益であるとまで言っています。しかしその「愛」は「神の愛」であることが引き続き語られていきます。私たちは「愛」と言うとき、自分の中にそれを見つけようとします。しかし、私たちの中に見つけようとしてもみつかりません。「愛」は神様のもの。神様か毎日与えられるものだからです。その愛を自分の中に留めておくことのむずかしさを思います。

出張などでビジネスホテルにとまります。最近ではいろいろなタイプのホテルがあります。泊る方が自分の目的や状況によって選ぶことができます。泊るだけでいいと思えば、それなりのサービスで値段が安いほうがいいです。またゆっくりしたいと思えば、少し金額はあがってもきめ細やかなサービスがあった方がうれしいものです。しかし、どのホテルも宿泊客の確保に必死なのだなと思います。最近ではサービスという点では変わりないからです。それではどこでホテルを判断するか。それはフロントの印象です。先週宿泊したホテルのフロントは最初から「注意事項のみ」の説明でした。挨拶も、気持もなく、ここには2度とくることはないかなと思いました。言葉の中に心を見つけられなかったからです。

パウロは「愛がなければ、無に等しい」と教えています。どんなに賜物があっても、才能があっても、大切なことは中心に何があるかです。パウロは「愛」といいます。しかしこの「愛」は神様の愛であるアガペーです。すべては神様が中心になければ無に等しいというのです。

2017年3月11日土曜日

気ままな休日

14355563_10207434492881969_1611291404088253265_n
   真力のカレーうどん。
   ここはうどんの定食屋さんなんですが(夜は居酒屋になる)、食べるならカレーうどんに決定!
   色々なスパイスがつかってあり、香りが豊かです。カレーうどんとは、奥深い食べ物ですね。

2017年3月8日水曜日

噛み合わない面接

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「噛み合わない面接」

マルコ15:2 「それはあなたが言っていることです」

 イエス様はローマ総督ピラトから尋問を受けておられます。ピラトからの尋問は「あなたはユダヤ人の王であるか」というものでした。その尋問でピラトが何を聞きたかったかわかりません。ピラトはこのあと、イエス様の沈黙に関心を向けています。その沈黙に彼は驚いているのです。このイエス様の沈黙の意味を理解できずに裁判はすすんでいったのです。結局最後までイエス様とピラトは「問い」と「答え」が噛み合いませんでした。

毎年4月の初めに教職志願神学生の面接があります。事務局長のとき何回か面接にださせていただきました。実は、面接のたびに思うことがありました。それは「質問」と「答え」が噛み合わないということです。「この学生は何を言っているのか」と聞く側が推測することがあります。この場合、質問に答えてないというというのが原因だと思います。ある時の面接で、教授がたまりかねて「問はこれだから、これに答えることがあなたに求められていること」と言われた。それでも答えが噛み合わないということは、問が自分の問になっていないからなのでしょう。しかし、もう一つの問題もあります。質問する方にも力量がいるということです。何を質問するか、この質問で何を聞きたいのか。はじめから答えを設定して質問するのが質問ではないと言えます。いま何をここで聞きたいかを考えることも力量の一つです。

 イエス様はピラトの質問「お前がユダヤ人の王なのか」という質問に対して、「それはあなたが言っていることです」と答えられた。ピラトは自分が何を質問しているのかわからなかったのでしょう。自分では適切な問と思っていてもそうでないことがあります。十字架上のイエスと対峙するとき、死の苦しみの中におられるイエス様にあなたは何を問うでしょうか。それでも「ユダヤ人の王か」と問い続けるでしょうか。十字架のイエス様に問うことばを今日は探してみたいと思います。

2017年3月7日火曜日

一日を大切に

クレヨン牧師のミニエッセイ

「一日を大切に」
 
 牧師会の最中にふと、「一日を大切にしているか」と考えていました。朝がきて夜がきての繰り返し。どれだけのものに感動し、心を動かされ、神様を讃美しているか。ただ単にボケ~っと日々を重ねてきたのではなかろうかと考えてみたのです。
 
 さっそく計算機を出して、いままで何日生きてきたかを計算してみました。三十二歳と半年の時で、ザ~っと計算そても「一一八00日」となります。四十五歳の人では「一六五00日」で、七十歳では「二五五00日」です。ちなみに三歳の娘では「一九0五日」ですが・・・。
 
 いったいこの日数のうち、どれだけを覚えているでしょうか。昨日のことすら思い出せない私ですから、ほとんどわからないかもしれません。一日を大切に生きようと思っても、なかなか大切にはできなものです。たぶん感動とか、感謝を忘れているのかもしれません。
 
 益田教会からの帰り道で鹿野を通りました。いま新緑がもっとも素晴らしい季節です。いつもなら車の中から眺めておわりですが、車を降りてみました。すると太陽に輝く新緑とウグイスのさえずり、蛙の鳴き声、小川のせせらぎが聞こえてきました。生かされていることを実感したのです。
 
 神様の前に立つ一日を大切にしたい。

2017年3月6日月曜日

完璧・正しさ・おまかせ

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「完璧・正しい・おまかせ」

マタイ119 夫ヨセフは正しい人であった

クリスマスの出来事にしか出てこないのが、マリアの夫ヨセフです。仕事は大工でした。それ以外のことはまったくわかりません。しかし聖書は「正しい人であった」と述べています。当時、婚約した女性は妻とほぼ同じ法的責任がありました。ヨセフが律法を守るのであれば、マリアは石打ちの刑でした。彼はマリアを守るために婚約解消をしようと思ったのです。彼の正しさは律法において完璧であるという正しさではなく、神様の前に正しい人でした。

アメリカで看護師として働く信徒さんに会いました。病院にはいろいろな国の方がこられるそうです。その患者さんの中で、一番扱いにくい患者さんは「完璧主義」を持っている宗教の女性信者だそうです。一番扱いやすいのは、その宗教の男性信者だというのです。つまり奥様の完璧主義に付き合っている夫は常に相手のことを考えるからということでした。 こうあらねばならないという信仰は、やはりどこかでうまくいかなくなると思います。自分が中心になっていく危険をもっているのです。

クリスマスの記事の中で、夫ヨセフは「正しい人であった」とあります。彼は律法に対して完璧な人ではありませんでした。神様のもとで、やるべきことをきちんとする信仰者だった。そして最後は神様にお任せすることができる信仰ゆえに「正しい人」と呼ばれたのでしょう。私たちに与えられている働きも、完璧ではなく、正しく行っていきましょう。やることはきちんとして、最後は神様にお任せするという仕事の仕方を求めています。私たちは完璧主義ではなく、神様の働きを正しく行っていく責任をまかせられています。

2017年3月4日土曜日

きままな休日・牧師の弁当

14440711_10207488101462150_1020282590122411648_n   牧師の最近の楽しみは、弁当男子になることです。
   阿久根でめざしを見て「これだ!」と思いました。
   昔懐かしくまげわっぱを買って、おかずはめざしと卵焼き。
   それで十分でしょう。なんだか懐かしいな~母の弁当。

2017年3月3日金曜日

Eウエンツ先生記念の祈り


2月26日阿久根教会礼拝にてウエンツ先生の宣教感謝と記念の祈りをおこないました。
礼拝堂一杯に感謝があふれました。みなウエンツ先生から導かれたキリスト者です。

2017年3月2日木曜日

共に祈る恵み

クレヨン牧師のミニエッセイ

「共に祈る恵み」
 
 子どもを叱っていると、自分がむなしくなってきます。「人格の未熟な親ほどよく子どもを叱る」の言葉を思い出すのです。
 
 最近、娘・華美がイライラして、いつも怒ってばかりいました。きっと親に十分遊んでもらっていないのが不満となっているのだと思いました。そこで一緒に遊ぶことにしたのです。それでもなおイライラはとまらず、とうとう同じように怒ってしまいました。はじめは「いい加減にしろ」からはじまり、だんだんエスカレートしていきました。手はでないものの、グジグジとなってきます。この辺で終わればと思いつつ、歯止めがきかないのです。そして、「叱っている自分はどうなんだ」という心の声を聞いて悲しくなったのです。
 
 「このままではいけない。しかしどうすればいいのか」と迷いつつ、礼拝堂へいこうと思ったのです。華美も反省しているらしく、礼拝堂へ行こうと言えばついてきました。そして二人でざんげの祈りをしたのです。華美は、「神様。イライラしてごめんなさい。ゆるしてください」と祈りました。私は自分の未熟さを祈りました。
 
 主イエスを中心に向かい合うことができるのは、本当に感謝です。これからもいろいろな衝突があるでしょうが、共に祈ることができる。それが私たちの信仰の宝だと言えます。

2017年3月1日水曜日

神様の働きに参与する

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「神様の働きに参与する」

ヨハネ17:21 すべての人を一つにしてください

 ヨハネによる福音書でイエス様は、最後の晩餐の時弟子たちにむけて決別説教をされました。十字架の出来事の前にどうしても弟子たちに語らねばならないことを話されたのです。その後、イエス様は祈られました。父と栄光が顕れるようにと祈られるのです。その中で、父と子と弟子たちが一つになるようにと祈られました。

十字架の受難の前に弟子たちに「ひとつに」という言葉を何回も語られたように、祈りでも繰り返されたのです。

 掃除のことで面白いことを聞きました。ひとつの部屋を掃除する上手な方法があるというものです。それは毎日5分ずつ場所を決めてやることだそうです。月曜は床、火曜は台所、水曜は・・・と。これにて一週間で部屋は奇麗に保てるといいます。このやり方は大きな仕事も、自分でする仕事も同じような気がします。教会の仕事は、皆が役割を分担しながら一つのことをやり遂げていくことです。自分の中でも分担しながらやっていくことができるのです。その基本は「神様の働き」を協力・共働していくことだといえます。それぞれが賜物を持つよってすべてが整えられる。これが一つになる教会だといえます。

イエス様は「すべての人を一つにしてください」と祈られています。しかし、どうやったら一つになれるのでしょうか。それは「基本・起点」をきめることです。私たちは「神様の働き」というこの一点さえ見失わなければ一つになれます。それは教会の中でも、家族の中でも同じことです。「神様の働きに参与する」という原点を確認することです。