2017年1月31日火曜日

小さな事に

阿久根ルター君の朝のみ言葉

ルカ  19:17 良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。

どんな小さな教会でも、伝統の継承というものがあります。伝統といえばおおげさですが、なにかしら伝わっているものがあるのです。ある時に特別伝道で招かれた教会では、バザーのうどんの作り方に伝統がありました。それは、特定された湯飲みで三杯の醤油をそそぎ、だしは鰹節と鯵ぶし、それに昆布はある一定の地域ものを使用し割合がこまかく指定してあるのだそうです。そして最後には真っ赤に焼いた火箸をだしにつっこみ一周させる。ただし、半周でジューといわなくなったら焼き方がたりない。かならず一周させることといった伝統が残っていました。なんとも微笑ましい限りです。その教会が守ってきたよい伝統は、どんな小さなものでも受け継がれて新しい人々へと伝えられていきます。ただ伝えられるだけでなく、信仰とともに伝えられていくのです。

ムナ(タラント)のたとえです。タラントとはタレント、才能・能力のことです。ある主人が10人の僕に1人1ムナ(お金の単位)を渡して旅にでます。留守のあいだこのお金で商売をしなさいと命令します。ある人は1ムナで10ムナを儲けます。ある人は5ムナにします。しかし、一人だけ布に包んでしまっておいた人がいました。減らすのが恐ろしくてなにもしなかったのです。この僕には主人は厳しく全財産を没収します。儲けた僕に対する言葉が今日の聖書の言葉です。

幼稚園の年少時の夏の思い出です。あるとき道で35円を拾いました。それを健軍教会のそばにあった交番に友達3人と届けたのです。おまわりさんは大変ほめてくれて、アイスクリームとアンパンをご馳走してくれました。そして「これからもどんな小さなお金も大切にしてね」と頭をなでてくれました。いまでも良い思いでとなっています。「どんな小さな」という言葉と、「大切に」がいまでも耳に残っています。

イエス様は「お前はごく小さな事に忠実だったから」と言われました。私たちが与えられている働きはどんな小さなものでも神様の働きです。私たちは神様からこれを任されて与えられています。私たちのことを信頼して任せてくださっている。「ごく小さな事」にも忠実でいましょう。

2017年1月30日月曜日

風とは

クレヨン牧師のミニエッセイ
「風とは・・・」
 
 山頭火の句は学べば学ぶほど深いなあと思います。今年になって毎日のように山頭火の句を味わっていますが、表現のしようもない重さを感じてただ唖然とするばかりです。今日は次の句に出会いました。
     けふもいちにち風をあるいてきた 山頭火
  山頭火にとって「風」とは何でしょうか。「風」はもともと実態はありません。しかし、山頭火はこれを自然現象としてではなく、精神的な面からも把握しようとしたのではないでしょうか。
  私たちキリスト者は「風」を「聖霊」として把握しようとします。きわめて精神的なものとして受け取るのです。山頭火は「風」におなじようなものを感じたのだと思います。彼の日記には「風の、己の、その声を聴く」と書いています。私たちには聖霊の声が聴こえているだろうか。

2017年1月28日土曜日

気ままな休日

上海に牧師会で旅行した時のフルコースです。
   といっても、これは現代風の中華フルコースです。
   なにか新しさを感じました。やっぱり上海ですよね。まるでイタリアンのような中華。
   料理も進化していくのですね!
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2017年1月27日金曜日

無駄にはならず

阿久根ルター君の朝のみ言葉

コリ  6:1 神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。

市ヶ谷会館風呂場への給湯配管がいきなり破裂した時があります。天井から滝のようにお湯が流れ、みるみる床が洪水状態となり救援に呼び出されました。いってみるとあたり一面が雨漏り状態。「バケツはないか」と探しまわっていました。ふと、「大きな洗面器が15個位印刷室にあった」ことを思い出しました。その洗面器が大いに役にたったのです。この洗面器は10年前からあったもので、青年修養会で1度だけ洗足礼拝で使用されたものです。それ以来、1回も使用されず「ほったらかし」にしてあったのです。無駄なものと思っていましたが、そうではなかったのです。せっかくの恵みを無駄にしているのは私たちなのだと思いました。

パウロは「神の協力者としてあなたがたに勧めます」とのべています。この「神の協力者」という表現は「神と共に働きながら」というのが直訳です。私たちは神の働きの中で、たくさんの恵みをいただいています。しかし感謝が少ないのは、その恵みに気がつかず受けとっていないからでしょう。「無駄」とは、せっかく与えられている恵みを受け取らずにいること。その恵みを「ほったらかし」にしていることです。

ある歌手の歌詞で、ドキッとさせることがあります。たとえば、「ずっと いつまでも このままでいれたらいいな 前の人 一緒にいすぎて 愛が生活に負けたから」というのがあります。これはどんな意味があるのかと考えこんでしまうのです。つまり、その人のメッセージが含まれているのです。またこんなのもあります。「いちばん近くにいてね 束縛したくないの お互いの人生 今は大切にしたいから」。一緒ではなく、いちばん近くにいるのがイエス様かもしれないときこえてきました。その中でも「無駄だと言われることも 寄り道したりすることも 別に自分が納得すれば それでいいんじゃないの」というのもあります。無駄を無駄にしているのは私たちかもしれないと思わされました。

神様が与えてくださったものはすべて恵みです。何一つ無駄なものはありません。無駄にするのは私たち自身ですし、無駄にするから感謝もないのです。今日1日与えられたものはすべて神様からの恵みである。これを覚えながら過ごしましょう。

2017年1月26日木曜日

野鳥の礼拝

クレヨン牧師のミニエッセイ
「野鳥の礼拝」
 
 礼拝堂で毎朝祈っていますと、聖霊を感じることがあります。心が安定して気持ちよくなってきます。そして不思議なことに出会うことがあります。
 
 先週の水曜日に祈っていたときのことです。礼拝堂の窓ガラスをトントンと叩く音が聞こえてきました。一瞬ドキッとしました。誰だろうとみてみると、なんと野鳥が窓を叩いていたのです。きっと野鳥も祈っていたのでしょう。
 
 一回だけの偶然かなと思って窓のところへ行ってみますと、毎日来ている様子がわかりました。皆さんも見て下さい。礼拝堂森側の下の窓です。汚れているのではなく、野鳥が毎朝つついたあとなのです。もしかすると何かを訴えているのかもしれません。童話の話みたいですが、この教会がここに存在することの素晴らしさを教えられたようです。
 
 「教会はキリストの体」。野鳥が祈りにきても何も不思議ではありません。不思議なのは、祈らない私たちかもしれませんね。

2017年1月25日水曜日

内面

阿久根ルター君の朝のみ言葉

ルカ 6:43 悪い実を結ぶ良い木はなく、良い実を結ぶ悪い木はない

古代ギリシャの医者・哲学者であったヒポクラテスの言葉に「知りながら害をなすな」というものがあります。これを「プロの責任と倫理」と捉えた人がいます。牧師、医者、弁護士、その他どんな職業でも、顧客に対して必ずよい結果を出せるという保証はありません。最善をつくすことしかできないのです。しかし、「知りながら害をなさない」と、信じていただくしかないのです。どんな職業であれ、「知りながら害をなすな」が職務倫理であり社会的な責任なのです。

イエス様は「実によって木を知る」という、たとえ話をされました。木はそれがどんな木であるかは、その実によってわかると言われたのです。「茨からいちじくは採れない」「野ばらからぶどうは集められない」。そこから、良い人は良いものを出し、悪い人は悪いものを出すと指摘されたのです。問題となるのは、外側に出てきたものではありません。その人の内面がどうであるかです。内なるものは必ず外にでてきます。だからこそ、見えない内面が大切なのです。

先日テレビで「日本一気持ちのいいカラオケ」と題して、あるお店が紹介されてありました。どうして「気持ちのいいカラオケ」なのかといえば、ストレスを発散できるからなのです。しかし、日本一というからには、その店にしかないものがあるのです。それは、その店に飾ってあるものは何でも壊していいのだそうです。例えば、花瓶、お皿、時計、壷などの骨董品、テーブル、コップなどなど。つまり、1万円払えば、その店の中のものを破壊してもよいのだそうです。しかも、その店は1年先まで予約で一杯というから驚きました。私は恐ろしくなりました。このままこんなことが受け入れられていったとすれば、人をどれだけ殴ってもいいカラオケとか、お年寄りをいじめていいカラオケなどが出現するかもしれないと思ったのです。お金を払えば、自分のストレス解消のために何でもやっていいということはありません。むしろ、そのストレスの原因を見つけて処理するほうがいいと思うのですが。自分の内面を見つめたいと思います。

イエス様は「悪い実を結ぶ良い木はなく、良い実を結ぶ悪い木はない」と言われました。私たち自身がどうであるかを考えねばなりません。私たちはこの職場に、悪い実を結ぶように集められているわけでなく、良い実を結ぶように集められています。

2017年1月24日火曜日

愛の日

クレヨン牧師のミニエッセイ

「愛の日」
 
 聖バレンタインの日がやってきます。最近では「チョコレートの日」となってしまいました。ところがある年は「愛の日」なのだそうです。なんでも十四日が日曜日になると、義理チョコが激減するのたそうです。学校も休み、会社も休みだからです。かわそうなのはお父さんたちです。
 
 それではチョコレートの売上も激減したかといえば、いつもと同じです。なぜなら、たった一個の「本命チョコ」に予算のすべてを費やしたからです。やっとチョコレートの日から、愛の日となったわけです。どっちにしろチョコレート販売の店はニンマリですが。
 
 何が本当の愛なのでしょうか。たった一個のチョコレートで愛を伝えることができたら、教会の予算を全部費やしてチョコレートを配ればいいのです。神様の愛を伝えるのが困難なのは、「ここにないものを信じれるどうか」にあるからです。つまり、信仰の問題だからです。私に与えられた信仰が神様の愛を伝えると言えます。

2017年1月23日月曜日

ひたすら続ける

阿久根ルター君の朝のみ言葉

ルカ  18:7 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きをおこなわずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか

スーパーのお菓子売り場で泣き叫んでいる子どもに出会いました。「買って,買って」とずっと泣き叫んでいました。お母さんはどうするだろうと思ってみていました。はじめは説得しておられました。そのご怒ってどっかに行こうとされ、それでも泣きやまないので、結局は買ってあげていました。ふと今日の聖書の箇所を思い出しました。

イエス様は「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを教えるために、一つのたとえを話されました。そのたとえは「やもめと裁判官」のたとえです。神を畏れず、人を人とも思わない裁判官も無力なやもめが執拗に求め続けると、取り合おうとしなかった裁判官の心を動かすというものです。そこから「絶えず祈りなさい」という教えをのべられました。

ある神父の『断想』に、「同じ時間に同じ場所で毎日祈ることは大変難しい修行の一つである」と書いておられました。まして、祈り続けるなんてとても大変なことです。呼吸するように祈る。私たちはこれを、心を静めて祈ると理解しますが、実は、呼吸しながら祈るのだそうです。呼吸と合せていつでも祈っていることです。そんなことができるだろうか。毎日きまった時間に祈ることさえ難しいのに、とぎれなく祈り続けるとは。しかし、そこに大きな慰めと平安が満ちていることもわかります。もうひとつ。自分の言いやすい言葉で常に祈る。たとえば「主よ、あわれんでください」「キリストよ、おまもりください」「イエスよ」でもなんでもいい。これを歩きながら唱える。こうなると念仏みたいですが、それでも祈り続けることになります。どちらにせよ祈りつづけることは大変な修行です。

イエス様は「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きをおこなわずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか」と教えられました。祈りも同じだと言えます。

2017年1月21日土曜日

きままな休日

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「きままな休日」
やっぱドイツはブルストですよね。
ミュンヘンのは、ニュールンベルガーかな?
ハーブ入りのソーセージです。
ザワーークラフトにのって美味しかった!
いいな~また食べたい!

2017年1月20日金曜日

み言葉を聴く

クレヨン牧師のミニエッセイ
「み言葉を聴く」
 
 今年は正月から「三年日記」を書き始めました。といっても一月二日~三日までは空白となっています。あれだけ日記を付けることが楽しみで、昨年の十一月に日記帳を買ったのに、すっかり忘れてしまっていたのです。まあそれでも一月は六日の空白ですみました。
 
 いま空白の日記を前にして、聖書を読まない日を空白にしたら一年でどれくらいになるだろうかと考えていました。そういう意味では、教会の牧師は環境がよいのです。朝夕の礼拝堂での祈りのときに、聖書を読むからです。しかし、あまりにも習慣になりすぎると表面だけすっと通り過ぎていくことになります。聖書を読むことに中心をおくのではなく、キリストのみ言葉を聴くことに中心をおきたいものです。
 
 今年度の教会の目標は「聖書を読む」です。それは「キリストのみ言葉を聴く」ことであり、「神様の言葉に触れる」ことでもあります。一日に一度は聖書を開きましょう。どこから読まれてもよいのです。神様のみ言葉に触れることが、私たちを希望へと導くのですから。

2017年1月19日木曜日

生きて咲く

阿久根ルター君の朝のみ言葉

マタイ 6:29  栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

坂村真民さんの詩に次のようなものがあります。「今を生きて咲き 今を生きて散る花たち 今を忘れて生き 今を忘れて過ごす人間たち ああ 花に恥ずかしい 心痛む日々」。何の解説もいらない詩です。

イエス様は山上の説教の中で、「思い悩むな」のテーマのもとに「命」のことを話されます。自分の命のために「何を食べようか」「何を着ようか」と思い悩むなと言われるのです。何をするかが大切ではなく、一番大切な「命」そのものを考えよと言われるのです。その「命」を支えておられるのは神様であり、神様が私の命のための働かれるというのです。そのたとえ話の一つに「野の花」の話をされました。

ふと足を止めてみたくなる小道を発見しました。その小道は柳井から田布施へむかう道の途中にあります。昔はたんぼの畦道だったのでしょうが、いまは小さな舗装道路になっています。その小道はたんぼの間を一直線に山へむかっているのです。それだけなら足を止めたくはないのですが、なんとその小道は道の両側に花が咲いているのです。たぶん水仙の花だと思うのですが、片方には白い水仙が一直線に咲いています。もう片方には黄色の水仙がこれまた一直線に咲いているのです。山に向かう約500㍍ほどでしょうか、それはもう水仙の滑走路のようにただひたすら真っすぐに咲いているのです。なんとすてきな小道なのかと、つい車からおりて歩いてみました。とてもすてきな気分になり春を満喫しました。神様が創造された世界の美しさ、そしてそれを保たれる愛を感じました。花もそれに応えているように思えました。

イエス様は野の花を見せながら「命」について語られました。思い悩むより神様が守っていてくださることを信じなさいと言われるのです。今を生きるということは、神様の守りの中で感謝して生きるということです。求めるものは食べること、着ることではなく、今を生き、今を生きて散るために必要な神様の国と神様の義だと思います。

2017年1月18日水曜日

ふしぎな言葉

クレヨン牧師のミニエッセイ
「不思議なことば」
 
 子どもたちには、子どもたちだけにわかることばがあります。
 
 お風呂の順番を待っている時のことでした。「はなちゃんは、ひとみちゃん」「まなちゃんは、ちあきちゃん」と言っているのです。なんのことだかさっぱりわかりませんでした。ひとみちゃんも、ちあきちゃんも幼稚園のお友達だというのはわかるのですが。実は、幼稚園の並び方が、1、2、3ではなく、背の低い順に「ひとみ・ちあき・はなみ」と覚えているらしいのです。ですからなんでも1番の人は「ひとみちゃん」。2番の人は「ちあきちゃん」になるのです。
 
 ですから「ちあきちゃん、はなみちゃん、ひとみちゃん」と並んだとします。すると、「ちあきちゃんはひとみちゃん、はなみちゃんはちあきちゃん、ひとみちゃんははなみちゃん」なのです。わかりますか。
 
 順番をいちいち決めるのが必要なら、子どもたちのやり方もいいかもしれません。「あなたはいつでも2番ね」というより、「あなたはいつもちあきちゃんね」と言われたほうが楽しいかもしれません。
 
 イエス様も「先のものが後になる」と順番を逆さまにされるほどですから。

2017年1月17日火曜日

本当に持っているもの

阿久根ルター君の朝のみ言葉

マタイ  13:12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

 「あなたは何を持っていますか」と聞かれた時、どのようにこたえるでしょうか。特別に何をと言う答え方ができるかなと思います。物はたくさん持っていますが、人や、思い、考えなども持っているものになるならば、いったい何を持っているのかと考えてしまいます。もしかすると持っていると思っているだけで、本当は持っていないかもしれません。私はこれを持っていますと言える人は幸せな人生を送っているのです。

「種まきのたとえ」を聞いた弟子たちは、「なぜたとえで語られるのですか」とイエス様に質問をしています。たとえ話は、み言葉の真理を分かりやすく説明するものです。弟子たちにとって、なおわかりにくい話だったのかもしれません。弟子たちは、与えられている神様のみ言葉を自覚し何を持っているかがわかっていなかったのでしょう。そうなるとイエス様のたとえ話も理解できない難しい話となります。

 子どもたちが小さかった頃、よくオモチャの取り合いをしていました。それはお友達との間でも同じでした。貸してあげればいいのにと、子どもって案外ケチだなとも思っていました。ある本で「なぜ子どもはおもちゃを貸すことができないか」というエッセイを読みました。貸すという前に「自分が所有しているということが認識できてないから」です。つまり所有していないものを貸すことができないというのです。子どもには所有していることを教えることからしなければ、「ケチ」と判断してはいけないのです。

 イエス様は「持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」と言われました。何を持っているかを認識できないと、取り上げられたことも理解できません。私たちは神様のみ言葉を持っています。それを持っていることの認識がなければ、人に分け与えることもできないのです。「何を持っているかに注意しなさい」というイエス様のみ言葉もあります。自分は何を持っているのかを点検してみることも大切です。

2017年1月16日月曜日

本当の支え

クレヨン牧師のミニエッセイ
「本当の支え」
 
 私たちの生活は、どんなことに支えられているのか詳しく考えてもみませんでした。しかし、先週はそれを考えるいいチャンスでもありました。というのも、二時間の停電があったのです。
 
 さて、停電といえば台風で経験済みです。その経験から二時間くらい大丈夫と思っていました。心配なのは冷蔵庫くらいなものさと。ところが一昨年は夏だったのに、今回は冬ということを忘れていたのです。そうなんです。電気がとまればすべての暖房器具が使用できなくなるのです。いまや電気を使わない暖房器具は少ないのです。ストーブにだってファンがついているからです。
 
 電気というものは隠れたところで、しかも大切なところで働いていることがわかりました。原子力発電所の問題もありますが、電気そのものは確かに神様からの贈り物だと思います。それをどう使用するか、大切に使うかということです。電気を余分に使わない工夫・節約をする必要はあります。
 
 私たちの生活は何によって本当は支えられているのか。それは神様の恵によってだと言えます。そのことに気がつきたいものです。

2017年1月14日土曜日

きままな休日

熊本と宮崎の県境の村に行ってきました。
清流そのもの。そこに釣り堀があり、釣った魚を食べさせていただきました。
なんとでかいニジマス。塩焼きが最高でした。自然の中で食べるので、これも味のうちですね。
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2017年1月13日金曜日

共に歩けば

阿久根ルター君の朝のみ言葉

箴言 13:20 知恵ある者と共に歩けば知恵を得、愚か者と交われば災いに遭う。

エクササイズ本の中でメトカーフという人が、「生身の人間であれバーチャルなものであれ、サポートしてくれる存在を持つことが成功の秘訣だ」と書いています。彼は、「自分自身の力だけで減量できる人は10人に1人だが、仲間のサポートがあれば10人に7人は減量できるようになる」と説明していました。初めからペースを上げることはせず、プロのトレーナーに頼り、ブログや電子メールで仲間に成果を報告するように勧めています。誰かが共に歩んでくれること、その人がどのように共に歩むかが大切なのでしょう。

箴言の13章は教育に関する格言です。「子は父の諭によって知恵を得る」という言葉から始まります。実はこの文には動詞がないので、翻訳には少し無理があります。あえて「父」を動詞の「愛する」に変更して、「賢い息子は諭を愛する」と翻訳している注解書もありました。父がどんな存在として共にあるか、それは子に知恵を与える者であることを示しているように思えます。

女子パウロ会の本に『動物の祈り』というものがあります。そのなかに「カメの祈り」もあります。「神様。どうかちょっとお待ちを。今まいります。私のお荷物は背負っていかねばなりません。別に好きこのんで背負ってるわけではないのですが・。いいえ、背中にのったこの家に不満なわけではありません。けっこう役に立つのですから。けれども主よ。おわかりくださるでしょうが年中運んで歩くとなるとなかなか重いものなのです。私に与えてくださったこの二重の束縛、甲羅と心の二重のかせゆえにあなたに対して心をとざすことがないようにいつも祈りつづけさせてください。ア-メン」私たちはこれが自分の祈りだというものを持っています。それは自分の弱さかもしれません。しかしそれを聞いてくださる神様も同時に持っているのです。

箴言は「知恵ある者と共に歩けば知恵を得る」と教えています。私たちは共に歩むときに、自分の心地よい人と歩むことを選びます。しかし、自分に心地よいだけではいけないのです。自分のことを本当に愛し、支え、時には忠告してくれる人と共に歩むことが必要です。イエス様が共に歩んで下さることを考えてみたいと思います。

2017年1月12日木曜日

みんなとあなた

クレヨン牧師のミニエッセイ
「みんなとあなた」
 
 「教会のあり方が何だかおかしい」と言われています。何がおかしいかと言えば、「教会は何のためにあるのか」ということがわからなくなってきたのでしょう。私のためか、宣教のためか。私などはどちらのためでもあると思います。むしろおかしくなってきているのは教会の方ではなく、信仰の受け取り方だと思うのですが。
 
 イエス様はペトロに、「あなたはわたしを誰というか」と質問されました。この部分はイエス様とペトロの一対一の真剣勝負です。そしてここに信仰のあり方があるのです。神様と私です。
 
 先週の教区常議員会である方が次のように言われました。「教会でよく聞く言葉に『みんなでやりましょう』というのがあります。これは曲者なんです。『みんなでやりましょう』というときは『誰も責任をとりません』ということと同じなのです」と。
 
 教会に必要なのは、「みんなの信仰」ではなく「あなたの信仰」です。私は一人でも宣教するという気力です。どうか今年は各自が「私は信仰によってこれをする」という一人になってください。

2017年1月11日水曜日

間に合う


阿久根ルター君の朝のみ言葉

 ルカ  4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。

牧師の仕事のひとつに「間に合う」というのがあります。今月ほどそれを考えたことはありません。しかし、どうしても間に合うことができないこともあります。そんなときは、間に合う牧師にその働きを委ねるという道があると思います。谷口恭教先生の臨終に間に合わなかったのですが、そこには後輩の牧師がいてくださいました。牧師も一人で働いているわけではありません。やっぱり神様のチームで働いているのだと実感しました。そして、そこにおられた兄弟姉妹も全員が神様のチームだと教えてくださいました。わたしたちのチームは、神様の働きのなかで「間に合う」ということを大切にしたいと改めて思っています。

イエス様の公生涯は、「み言葉を告げ」「悪霊を追い出し」「病気を癒す」ことから始まりました。カファルナウムと言う町では、シモンのしゅうとめを癒しておられます。このシモンは弟子のペトロで、イエス様から召される前の出来事でした。今朝は「すぐに」ということ考えました。癒されて「すぐに」人々に仕えた彼女の生き方、あり方が、いまの私たちに問われていると思ったからです。イエス様に愛をうけ、癒されたものは「すぐに」仕えるものになるのです。

ニュースで、「両親による幼児虐待で1歳児が死亡」というのがありました。このようなニュースを聞くたび、心が痛いものです。子どもたちは虐待する親を信頼しているはず。どんな思いでその親からの虐待を受けてきたのだろう。しかし、そのニュースにはもう一つ思うことがありました。虐待の事実があるという医者の報告に、児童相談所は会議をして「明日抜き打ちで訪問しよう」と決めたというのです。じつはその夜に子どもは虐待をうけて亡くなっています。なぜ「今日でなく、明日だったのか」。なぜ「すぐに」ができなかったのだろうと思いました。

イエス様に癒されたシモンのしゅうとめは、その後「すぐに」「もてなした」とあります。「すぐに」人々に仕えることができたのです。「愛は間に合うこと」といった方がおられます。愛や奉仕の行いも「間に合わなければ」なりません。神様からの愛は「すぐに」私たちに届けられます。いつでも「間に合う」のです。私たちも「間に合う」ことを考えながら、「すぐに」を考えてすごしましょう。

2017年1月10日火曜日

最後の伝道

クレヨン牧師のミニエッセイ
「最後の伝道」
 
 告別式というのは、その方の最後の伝道のチャンスです。キリストと共に歩んだ生涯がいかに恵みに満ち溢れていたかを示す機会でもあります。聖書には、「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、『霊』と力の証明によるものでした」(一コリント24)とあります。キリストの霊が私たちに語らせてくださるのです。
 
 松岡俊一郎牧師(元阿久根教会牧師)の御母様の告別式の時した。遺族挨拶の中で、先生が入院中のエピソードを話されました。それは、意識不明になられても絶えず讃美歌のテープを流されていたそうです。たまに意識が戻られたそうですが、看護婦さんが意識を確かめようと「松岡さん。いまどこにいるかわかりますか」と聞かれたそうです。すると御母様は「教会にいます。みんなで礼拝をしています」と幸せそうに答えられたそうです。
 
 私はこの挨拶を聞きながら、この世に遺された「証し」だと思いました。礼拝とはなんだろうかという答えを、このエピソードからはっきりいただけたのです。あなたはいまどこにおられますか。

2017年1月9日月曜日

気ままな休日

ドイツのビールをどうぞ!
ポツダムのカフェで1杯。
なんとも至福のビールでした。
やぱり小麦のビール好きです。
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今日は成人の日ですもんね!

2017年1月8日日曜日

2017年1月7日土曜日

きままな休日

IMG_3333 最近みかける「味噌ラーメン」といってもちょっと前からありましたが。熊本は豚骨ラーメンと思っていましたから、味噌ラーメンはねえ~
 ところが、これはこれで結構おいしいです。
 九州に会う味噌をブレンドで選択できるようになっていました。
 熊本味噌ラーメンも侮れないですよ。

2017年1月6日金曜日

教会の適応力

阿久根ルター君の朝のみ言葉

1コリント 9:22 すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。

パウロの言葉で大好きなものがあります。「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」というものです。この「どんなこと」の中に、どれだけ多くのことを入れることができるか、それが私たちの信仰の問題です。しかし、「福音に共にあずかる」という言葉にやる気を与えられます。その福音のために、自分はどんな風にでもなれるという奇跡が生まれます。

パウロは「すべての人に対してすべてのものになりました」と言っています。それは「何とかして何人かでも救うためです」というのです。神様から招かれている人々を、ひとりでも多くイエス様のもとに導きたいというのです。そのためにはパウロの方から近づいていくのです。すべてはひとりでも多く救われるためなのです。これもパウロが救われた確信によって、すべて人に対して自由だからです。また救われた確信は重荷や苦しみから自由でもあるのです。この自由があるからなんでもできるのです。

 ダーウィンの「種の起源」の中に「強いものが生き残るのでも、頭が良いものが生き残るのでもない。適応力のあるものが生き残る」という言葉があります。この言葉を読んで「適応力」ということにハッとしました。神様のすべての宣教の業に私は「適応力」があるだろうか。神様が進まれることに、自分という自我のために適応していないことがないか。どんなことがあっても、神様を信頼することによって適応しているか。

 パウロは「すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです」と言います。私たちの信仰生活は、教会という交わりの中にあります。その教会の交わりの中で適応しているだろうか。それだけでなく、教会から外へむかって宣教するとき、外の世界と適応しているだろうか。これからは「適応力」のある教会が生き残って、宣教していくのでしょう。その中で自分という信仰者はどうでしょうか。また阿久根教会は何に適応していくのでしょうか。神様から与えられた福音の適応力を考えて今日を過ごしてまいります。

2017年1月5日木曜日

捨てる大切さ

クレヨン牧師のミニエッセイ
「捨てる大切さ」
 
 あけましておめでとうございます。今年もよろしくと同時に、「ミニエッセイ」にもおつきあいください。
 
 年末年始はゆっくりと過ごすことができました。そうはいっても「掃除」は大変でした。なにが大変だったかといえば、ため込んだものを捨てる大変さでした。思い切って捨てようと思ってもなかなかできません。捨て去ることができないのはどうしてでしょうか。いままで集めた苦労を無駄にしたくないのでしょうか。心の中の深い部分にある何かがあるのでしょう。
 
 信仰も捨て去ることを大切にします。しかし、それは一番大切なものを持っているからこそ捨て去るのです。その一番大切なものがあれば、ほかには何もいらないものです。その一番大切で、これがあれば何もいらないもの、それは主イエス・キリストだと私たちは知っているのですが。
 


 

2017年1月4日水曜日

人生の最後には

阿久根ルター君の朝のみ言葉
 
ルカ 23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。

昨年のクリスマス後に一人の姉妹が神様のもとへ召されました。教会員の親族のかたでした。洗礼をうけておられるわけではありませんでした。彼女はもう余命もいくらもないというときに視力を失くされました。自分の死を自覚された時、従妹であった教会員さんの手に「ぼくし」と書かれたそうです。彼女はその時牧師に会いたいと言われました。すぐに出かけていきお話をし、祈りました。はじめは「こわい」ということを話されましたが、祈りには涙で感謝されました。それから3日後に召されていかれました。一粒の涙が最後の時の証にみえました。平安を得て召されていかれたように思います。

イエス様が十字架に架けられたとき、左右に1本ずつ犯罪人の十字架が立っていました。この2人は人生最後の時をイエス様と一緒に過ごしました。ただ、一人は救われたのですが、もう一人は最後までイエスさまをののしっていました。人生の最後での言葉がののしりだったこの犯罪人は、救いが何か、一緒にいてくださっているイエス様が神様であることを信じることができなかったのです。

「人生の最後の瞬間に何をしているかを考えたことがありますか」と、ある本で問われました。たぶんいままでの人生を振り返り、一番大切な人のことを祈っているかもしれません。その本にはつづけて、人生の最後に神様が現れて「あなたは生まれ変わって、もう一度、同じ人生を過ごすことになるけれど、それでもいいか」と問われたら何と答えるかともありました。一番幸せな答えは「いろいろ大変なこともありましたが、もう一度この人生で結構です」というものでしょう。すべては神様の御心のままに生きているのですから、この人生でよいのです。

聖書は十字架上の出来事の中で「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった」と記しています。私たちの働き、人生を考えるとき、終わりから考えることも必要です。神様のもとで復活の命を与えられる私たちは、その救いから振り返って今を見ることが求められています。確実な救いからみて「今」はどうかを考えてみましょう。「もう一度この人生で結構です」と言える信仰を与えられています。その信仰に立って今日を生きていきましょう。

2017年1月3日火曜日

皆が主役


クレヨン牧師のミニエッセイ
「みんなが主役」
 
 幼稚園の演劇会で楽しい話をききました。
 
 今年の出し物は「ぐりとぐら」でした。ある子供が家に帰ってきてお母さんの言いました。「お母さん、僕『ぐり』の役になったよ」と。お母さんは大喜びでした。なんたって主役ですから。それでおじいちゃんやおばあちゃんはもちろん、親戚の皆に声をかけ当日の晴れ姿を見て欲しいと招待されたそうです。
 
 さて当日のこと。大勢の親戚の見守る中、劇が始まりました。幕があき自分の子供はどこに出てくるか緊張してまっていました。ところが舞台には幼稚園の全園児が立っていたのです。そしてよくみると、半分は「ぐり」半分は「ぐら」だったのです。つまりみんな主役だったのです。
 
 この話を聞いて笑い転げました。しかし、クリスマスも同じだと思いました。クリスマスの主役は誰でしょうか。主イエスはもちろん、私たち一人一人もキリストによって救われる主役なのです。あなたが主役。私もp主役。全員主役です。

2017年1月2日月曜日

心に大切なもの


阿久根ルター君の朝のみ言葉

マタイ 6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。

正月の3日間は近くの神社も賑わっていました。ニュースでは有名な神社も今年は人が多いということです。それだけ社会情勢が不安定なのだと解説していました。それを聞きながら、不安定なときだけでなく、安定しているときから神様と出会っていれば何もあたふたしなくてもいいのにと思います。しかし、それでも神様のことを考える時間が少しでも与えられていることは恵みです。物や人に中心をおいても人の心は安定しません。いつどうなってしまうかわからないからです。神様を中心においた時だけ、人の心は安定するのです。

イエス様の指摘は私たちの心に鋭いものがあります。人から認めてもらう、称賛をえることをあてにした行いは、それが善いことであっても所詮は地上に富を積み上げることにしかならないのです。なぜなら、そこに自分の心、自分の関心、自分のこだわりがあるからです。イエス様は、「本当の富とは、天に積むものだ」と言われます。心がそこにある本当の富、その富の価値とはいったい何かが問われます。私たちは何に価値をおいているのかということです。

「小さな幸せに気づく24の物語」中山和義著に書かれてあった話です。ある知的障がい児童施設での出来事です。社会にでても通用するようにお金の価値の勉強をしていました。1円から500円までの硬貨を順番にならべ、お金の価値を学ぶというものでした。一人の女の子に先生が「一番大切なお金はどれですか」と聞きました。すると笑いながら10円を指しました。先生は何回も「500円が一番大切よ」と教えましたが、女の子はいつも10円を指すのです。先生は困り果て「どうして10円が大事なの」と聞きました。すると女の子は「だって、この10円をあの公衆電話に入れたら、大好きなお父さんの声をきけるから」と答えました。この女の子にとって本当に価値があるのは、お金の額ではなくお父さんの声をきくことだったのです。

イエス様は「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と言われました。自分は何に価値を見出しているか、それは天にあるものかどうかを点検してみなければなりません。今年与えられている働きの中で、天に富を積む働きは何かを考えなら過ごしましょう。

2017年1月1日日曜日

2017年よろしく!

あけましておめでとうございます。
今年も阿久根教会をよろしくお願いします。
礼拝 毎週土曜日10:30~
お待ちしています!