2019年5月30日木曜日

「証を書く」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「証を書く」
 
 「証しを書く」というのが、今回の伝道セミナーの大切な作業でした。原稿用紙を3枚与えられ、戸惑った方々の多いこと多いこと。皆さんも同じ気持ちになるのではないでしょうか。「証し」を書かされるのだったら来なかったのに。約束が違う(誘った方がそんなことを言わなかった)。などなど、反応は様々でした。
 
 ところが、いざやってみると真剣そのもの。天城山荘は一時静寂につつまれたのでした。一人一人が真剣に神様と向かい合う時間の、その静けさに感銘をうけました。しかし、その「証し」をグループで発表し、吟味され、教えられつつ気がつけば、なんと神様の導きの豊かさ、深さ、暖かさを感じたのでした。
 
 「証し」を書くということは、はじめは困惑するのもかもしれません。何も書くことがないと思うのです。しかし、じっくりと落ち着いて神様と向き合ったとき、これまでの導きに気がつくのです。私を守って下さっている神様をそこに感じるのではないでしょうか。「証し」がない人はいないのです。神様に守られて生きている私たちはその存在自体が証しであり、それを人々に伝えねばおれなくなるのです。
 
 伝セミ「証し集」が出版されるとのこと。いまからとても楽しみです。どんな恵みに溢れたものになっているでしょうか。来年は皆で参加しましょう。牧師だけが恵みをいっぱいいただいているみたいで申し訳ありません。

2019年5月29日水曜日

「マイナスがあるから」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「マイナスがあるから」

コリ  12:7 そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。

 私達は試練が与えられると、その「できごと(試練)」しかみえなくなります。そこしか見えなくなると、試練ばっかりをみつめてそこから抜け出せなくなるのです。ヘレン・ケラー女史は「苦しみの扉が一つ閉まると、新しい幸せの扉が一つあく」と言う言葉を残されました。苦しみの中にあっても、かならず幸せの扉はあいていると言うのです。苦しみを受け入れた時、神様は必ず幸せの扉をあけてくださるのです。

パウロの生涯は、誇ってもいいものです。現在のキリスト教があるのもパウロの宣教力があったからだと思います。しかし、パウロは思いあがることのないように神様から「とげ」が与えられたと言います。具体的にそれが何かはわかりません。しかし、その「とげ」のゆえにいつも神様と向き合うことができるというのです。試練や苦しみをひとつの「とげ」として、それをマイナスに捉えず、神様との出会いのチャンスと考えているところが信仰だと言えます。この信仰のゆえに、どんなこともあきらめない信仰者パウロが生れたのです。

 パウロ使徒言行の旅をしたことがあります。そこで、パウロをそこまで宣教へ駆り立てたものは何だったのかと考えていました。イエス様との出会いによって回心したパウロ、しかしそれだけではなかったことでしょう。何回も彼の宣教旅行、回心などを読んでいまして、ふとこれかもしれないと思えることにぶつかりました。それは、聖ステファノの殉教です。パウロ(当時はサウロ)は、ステファノの殺害に賛成しています。しかし、自らは石を投げず、彼を取り囲んで石を投げている者たちの洋服の番をしていたと聖書には書かれています。パウロの原点はここかもしれないと、ピンと思い当たったのです。殺害に賛成しながらも自らはあたかも傍観者のごとくに振る舞ってしまったパウロ。そのことが彼の心の痛みになっていたのではないかなと思います。最後まで自分に石を投げつける者たちのことを祈って召されたステファノ。その輝きの中で、主イエスにパウロはであったのではないかなと思います。そのことの悔い改めが、彼を救ったのでしょう。

神様の前で完全であることは素晴らしいことです。しかし、完全な人間などいません。パウロは「思い上がることのないように」と「とげ」が与えられたと言います。私たちはどこかに「とげ」(痛み・苦しみ)を抱えています。その「とげ」と向かい合うとき、そこに神様が共におられることを知るのです。私たちに与えられた「とげ」は何か、それを赦し共にいてくださる神様に感謝して生きていきたいと願います。

2019年5月28日火曜日

「十字架で鯛をつる」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「十字架で鯛をつる」
 
 ある会合の席で「ことわざ」の現代的な解釈ことが話題になりました。そのことわざとは、「エビでタイを釣る」というものです。その解釈はだいたい3つでした。
 
 1、安い餌で高価な魚である鯛を得る。まるもうけということ。
 
 2、鯛にとってはエビはご馳走。きちんとした「おもてなし」をすること によって大きな利得を得るということ。
 
 3、魚釣りの餌を考えると、エビは高価な餌。大きな利得を得るには、そ れなにり大きな投資が必要。それができるかどうか。
 
 本当の意味は・・・と、ことわざ辞典を調べてみてものってませんでした。しかし、どれももっともだなと思います。現代社会の状況によっては、エビをどうみるかなのですね。
 
 この「エビでタイを釣る」のエビとタイをいろいろと入れ替えてみました。エビを信仰、タイを神様の救いと考えたらどうなるか。エビが十字架だったらどうでしょうか。なかなか意味が深いなあなどと思います。
 
 私たちは一つの出来事を、それだけで考えてしまいます。しかし、必ずそれはつながっているのです。ひとつの出来事が次の出来事へと発展していくのです。しかし、信仰の世界は、「信じる」という出来事から神様の出来事へとつながっていくのです。信じることからはじめる。それは復活を受け入れることへともつながり、それが私たちの救いへとつながり、そして神様へとつながっていくのです。

2019年5月27日月曜日

「食事時間に向かい合う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「食事時間に向かい合う」

マタイ  26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」

最近の調査では。ごはんを一人で食べる人が増えてきたといいます。それぞれが生活のリズムをもっており、一緒になることが減ったのでしょう単身赴任のときは食事はひとりでとりました。でも一人はとてもさみしいものです。会話も味の内ですから、食事は一人で食べるよりも、みんなで食べる方がおいしいのです。教会では礼拝後に共に食事をします。それだけでも有意義な教会の交わりです。そこに会話が生れます。その場所を創っていくことも必要と思います。

 イエス様は、人々と食事を共にすることを大切にされました。あるときは罪人とされた人達と。ある時は5千人の人たちと。またある時はファリサイ派や律法学者たちとも食事をされています。この食事のときに奇跡が行われたり、重要な対話がなされたり、福音のみ言葉を語っておられます。十字架におかかりになる前にも、「どうしてもこの食事がしたい」と、過越しの食事をされました。

 我が家では食前の祈りを、子どもたち一人一人がするというルールがありました。まだ小さかったこともありますが、長女はいつも「神様。今日も一日守って下さい。お食事をイエスの名によって感謝して、アーメン」と祈っていました。次女もいつのまにか祈るようになりましたが、2歳でしたので言葉がわかりませんでした。さて、それからしばらくして。夜の食事になり次女から祈りはじめました。するとはっきりわかるように「神様。今日も一日守ってください。おねえちゃんが元気で幼稚園にいけますように。お食事をアーメン」と、自分の言葉で祈ったのです。実はその日は、長女が風邪をひき幼稚園を休んでいたのです。幼子というのはこれだから神様の祝福をうけるのだなと悟りました。食事の時に奇跡は起こるものです。

 イエス様は、弟子たちと十字架のまえの食事でパンをとり「取って食べなさい。これはわたしの体である」と言われました。それは弟子たちとの最後の食事(最後の晩餐・過越しの食事)のときでした。この食事は現代の教会でも聖餐式として行われています。イエス様はこのとき、弟子たちと向かい合い大切なことを残されたのです。イエス様はよく食事を共にされていますが、その時を、福音をのべ伝え人々と向かい合う時とされたのです。

2019年5月26日日曜日

2019年5月25日土曜日

2019年5月23日木曜日

「みんな・・・」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「みんな・・・」
 
 面白いジョークをみつけました。といっても本当は笑えないのですが・・・。
 
 「船が難破し、救命ボートに乗り移る人が多すぎて、ボートが沈みそうになった。女性、子どもを救うために男性に海に飛び込んでほしいが、このときどう言えば効果的かというときのジョークです。
 
 イギリス人には『あなたは紳士ですね』と言うがよい。ドイツ人には『命令だぞ』と言う。イタリア人には『飛び込むな』(彼らはあまのじゃくだから)と言う。そして日本人には『皆さん、飛び込んでいらっしゃいますよ』とささやけばよい」
 
 これを読んで「なるほど」と感心してしまいました。大笑いもしたのですが。なぜなら、私たちにもよくあてはまるものですから。最近の子どもたちをはじめ、大人も「皆」という言葉を使います。「みんな持っている」「みんなやっている」「みんながこう言ってます」「みんな同じ気持ちです」「みんな・・・」と。だいたいその「みんな」といううのは2、3人のことなのですが。
 
 主イエスは弟子たちに「わたしのことを誰というか」と聞かれました。ペトロもはじめは「みんなは・・・と言ってます」と言いました。すると主イエスは「それではあなたはどういうか」と聞かれました。みんなではなく「私」はどう答えるのでしょうか。つまり、私は与えられた信仰に従ってどうするかではないでしょうか。
 
 「心が燃えたではないか」と復活の主に出会った弟子はいいました。それはみんなではなく、語りかけられた私の心が燃えたのです。

2019年5月22日水曜日

「合わせる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「合わせる」

コリント  3:9 わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。

ちょっと前に事ですが、マクドナルドの注文カウンターに60秒の砂時計が置かれていました。どんなサービスでしょうか。これまで、平日半額とか、バリューセット、いろいろ選べるマックチョイスなどがありました。今回は注文したものが60秒以内に出せない場合はポテト無料クーポンをプレゼントするというサービスです。これは、お客さん自身が食べたいものを組み合わせるようになったため、何百通りの組み合わせができます。そのことで商品を出す時間が遅くなり、お客さんの回転率が下がり、売り上げが落ちてきているということのようです。面白い企画だなと思いました。お客さんにとっては「早い」という利点があります。もし遅い場合でも、ポテトで得したという喜びがある。お店にとっては、回転が速くなることで売り上げがあがる。一番大切なことは社員教育・サービス向上になるということです。待たせないサービス訓練です。驚いたのは、一つの企画がサービスする側と受ける側の両方に働くということでした。しかし、よく考えるとこれは共に働くと言う事ではないかなと思いました。

パウロは教会を、神様が奉仕者たちを用いて「耕作する畑」「建てる建物」といいます。ここに神様の同労者であるという表現が用いられています。これは神様と共に働く者という意味ではなく、神様のために、神様に用いられて、私たちが共に働く者という意味です。神様と同じことをしているという意味ではありません。

組織の中で心が落ち込んでいく原因は3つあるといいます。それがひどくなると鬱(うつ)になるそうです。その3つ思いは、1)誰からも好かれたい。2)完璧にしようと思う。3)自分の思い通りになる環境を求める。だそうです。この3つ目がなかなか難しいものです。自分の思い通りの環境に人を合わせることを求めるのです。自分があわせるのではなく、人を自分に合わせようとする。それは、人を無理やり作りかえることです。それができないことに苦しみ落ち込んでいくのです。自分の方がその環境に合わせて、その中で何が出来るかを考える方がよいのですが。

パウロは「わたしたちは神のために力を合わせて働く」と教えています。力を合わせて行くということは、自分一人ではできません。お互いが合わせていかねばならないのです。しかしその目的は一つです。「神のために」。この目的がはっきりしてから、「合わせる」ということの意味もはっきりするのです。

2019年5月21日火曜日

「なにを考えるか」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「なにを考えるか」
 

 カトリックの黙想集「実る人生」に次のような文を見つけました。
 
 「外面の静けさと内面のあらしといった対照的な状態がよくあるものです。重要なのは、どこにいるか、ではなく、なにを考えているか、ということです」
 
 復活の朝、その知らせを婦人たちから聞いたペトロは走って墓を見に出かけています。ペトロにとってこの出来事は内面のあらしではなかったかと思います。十字架の上で死んだ主イエスがそこにおられないのです。外面上は静かな時間が過ぎています。人々は主イエスの十字架の出来事に打ちのめされていたのですから。
 
 ペトロは空っぽの墓をのぞいたとあります。そこには亜麻布しかありませんでした。このとき何をペトロは考えていたのでしょうか。大切なことは、この出来事を前にして何を考えることができるかということです。
 
 復活は私たちに喜びをもたらします。私たちもまた同じように復活させてくださる希望を与えてくださったのです。これが、救いの完成なのです。
 

2019年5月20日月曜日

「蒔こうよ種を」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「蒔こうよ種を」

マルコ 4:3 よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。

地方の教会を訪問しました。徐々に人がいなくなり、すでに礼拝出席10名の教会になっていました。礼拝のあと食事をしながら、この教会はあとどれくらい存在していられるかという話になりました。もって10年という意見が多く、みな暗い雰囲気につつまれました。そのとき一人の青年が次のように言いました。「イエス様の種まきのたとえを読んでいるのですが、収穫は大切なことです。でも、種を蒔かずに長年刈り入れを続けてきたせいで、種を蒔く必要性を忘れてしまったのではないかと思います」と。種を蒔かなければ収穫はありません。蒔かないところから収穫をしようとしているのが今の教会かもしれません

イエス様が語られたたとえ話のなかでも「種まき人」は有名です。種まき人が種を蒔いたところ、道ばた、土の薄い石地の上、茨の中、よい土地の上に落ちたというものです。良い土地に落ちた種は、芽を出し、成長し、実を結びます。他の所に落ちた種は実を結ばないという教えです。イエス様はこの種のことを「神の言葉」であると言われました。すべてのものに蒔かれている「神の言葉」は成長し、実を結ぶと教えておられます。

野村克也元楽天監督の本を読んでいます。そこに「監督の大きさ以上のチームにはなれない」とありました。そのとおりだと思いました。監督の人間的な大きさが、そのチームの大きさとなるのでしょう。これを牧師のスケールの大きさが、その教会の大きさとなると読むと、なかなか厳しいものがあります。どんなチームでも上にたつものの大きさが問題かなと。どこまで状況を受け入れ、指示がだせるか。一番大切なことはどれくらいそのチームを愛しているかということかもしれません。

イエス様は「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った」と言われました、この「よく聞きなさい」をいままで、種が落ちたところのことについて「よく聞きなさい」と言われたのだと聞いていました。しかし、「種蒔きに出て行った」という言葉についても言われたのかもしれません。教会の成長はやはりみ言葉の種を蒔くことからだと思います。

2019年5月19日日曜日

2019年5月17日金曜日

2019年5月16日木曜日

「イエスの命をいただく」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「イエスの命をいただく」
 
  教会のある姉妹から、ちょっと小耳にはさんだ話です。
 
 あるお宅にに初孫が与えられました。元気な男の子で、その孫を連れて毎週日曜日になると、子どもたちが家へ連れてきて下さるとのこと。おじいちゃんは嬉しくてしかたありません。孫がくるやいなや抱っこして、片時も離されません。それをみながらみんなは、おじいちゃんの方が疲れてしまうのではと心配するほどでした。
 
 さて、そのおじいちゃんはこの頃とても元気です。とくに月曜日は一週間のうちで一番元気もりもりなのです。そのわけを聞いたところ、「赤ちゃんを抱っこしていると、新しい命のエネルギーをもらえる。そのエネルギーによって月曜日は元気もりもりってことだね」とのこと。
 
 本日は「十字架上の七つの言葉による礼拝」を守ります。私たちは十字架の主イエスを見る時、痛み苦しみを受け取ります。しかし、そこにとどまることはゆるされないのです。実は十字架から見えてくるのは、復活という新しい命なのです。この命が私たちにエネルギーを与えるもととなります。
 
 毎週の礼拝において、私たちは主イエスの新しい命をいただきます。だからこそ、元気や勇気、そして生きていく力がでてくるのです。今週は聖週です。十字架をしっかりと見据え、そこから見えてくる新しい命を受け取りたいと思います。

2019年5月15日水曜日

「ありがとうを返す」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「ありがとうを返す」

ヨハネ 3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

会話の中でよく聴く言葉があります。「すみません」という言葉です。本来「ありがとう」と言うところで、「すいません」といいます。何も悪いことはしていないのに謝っているように聞こえます。しかし、ある仏教のお坊さんの解釈を思い出しました。「すいません」という言葉は、「私」はこれまで多くの人、出会い、物、大自然のおかげで今日まで生きてくることができた。しかしそれに対して何一つ恩返しができていない。つまり「すみません(申し訳ない)」という気持ちを表した言葉ですと。あなたからの恩になにも返せなくて「すみません」ということです。イエス様と私たちの関係も同じかもしれません。

 ヨハネ福音書の中で、最も有名な箇所です。たいてい好きな聖句のトップにこの聖句が上げられます。神様が、独り子であるイエス様を十字架の死に渡してまで、私たちを愛してくださったのです。私たちの罪を赦しあがなうためです。「たち」というより、これを読む人は「私」と置き換えます。こんな私のために、神様がそこまでしてくださったことに感謝するのです。

 真夜中のことでした。午前2時頃にベットに入りました。三女がいつものように隣に寝ていました。ちょっと頭をなでてあげていたら、なんと寝言で「神様いつもありがとうございます。アーメン」とお祈りしたのです。夢でもみているのでしょうが、寝言の中でもお祈りできるって素晴らしいなあと思ってしまいました。この話を家族にしました。すると全員「ご飯を食べている夢を見てたんじゃない」というのです。そう考えれば、毎回の食事時にそれぞれがお祈りすることになっていますので、「神様ありがとう。アーメン」は三女の毎日の祈りでもあるのです。しかし、夢の中でたべる食事でさえもお祈りして感謝できることって素晴らしいと思ったのです。

 神様から私たちが頂いたものを数えることができません。(あまりにも多くて)イエス様の命までも頂いたのです。神様に何を返していけばいいのでしょうか。いや、返すことを神様は望んでおられないと思います。「ありがとう」と感謝して受け取ればいいのです。そして、頂いた恵みを隣人と分かち合い、「あなたも神様から愛された存在ですよ」と伝え、隣人に仕えることが「すみません」の言葉、それが本当の生き方だといえます。

2019年5月14日火曜日

「キリストの香り」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「キリストの香り」
 
  引き続き「井上井月」です。
 
 先週に記載しました句「松の花四十は老の美しき」から、いろいろとご意見を賜りました。一番多かった感想は「そういえば、四十歳は自分のこれまでを一応区切りをつけた歳だった。四十歳は人生のひとつの節目だ」というご意見でした。きっと心情も身体もひとつの節目を迎えるのかもしれません。そこに美しき老があるのかも。主イエスは十字架におかかりになった時、約三十三歳(聖書によれば)だったと書かれてあります。この年齢をどのようにとらえたらいいのでしょうか。すざまじい成熟としか考えられません。やっぱり神様の御子なんですね。
 
 さて、またペラペラと井月句集をながめていました。今回は次の句が目に止まりました。
 
    泥くさき子供の髪や雲の峰  井月
 
 そういえば、子どもたちから泥臭さがなくなってしまったように思います。毎日学校の帰りに川に入ったり、田圃で悪さをしたりしていたころがなつかしいものです。まだ私の時代にはそれが残っていましたが。それに川もまだ奇麗だったように思います。いまの子どもたちはどんな匂いがするのでしょうか。そう思いつつわが子を抱きしめてみると、学校の消毒液の匂いと、なんとなく電気製品の匂いがするのです。
 
 それでは私たちはどんな香りをはなっているのでしょうか。キリストの香りという言葉をパウロは述べています。私たちの生き方をとおして。このキリストの香りを残していけたらと思います。

2019年5月13日月曜日

「本当の勇気を教える」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「本当の勇気を教える」

マタイ 5:39 わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。

ブッダの教えに「先に傷つくのは自分」というものがあります。たとえ相手が悪人であっても、怒ったり攻撃したりすれば、自分もよけいな罪を犯して不幸になると。悪をなすのは相手であって、それに対して怒ると、自分もその怒りに汚染されるというのです。たとえば、怒りによって相手に汚物や炭火を投げようとすれば、先に汚れ、火傷をするのは相手ではなく自分である。相手が身をかわせば自分の手だけが汚れるというのです。

イエス様の教えで、最も知られたものの一つです。これは律法の中にある「目には目を、歯には歯を」という「同害報復」をとおして、加害者も被害者も同じ痛みを受けることを定めたものです。これに対しイエス様は、一切の復讐を放棄しなさいといわれました。それは悪への屈服でも単なる無抵抗でもありません。それができるためには、よほどの勇気が必要であり、弱い態度ではありません。イエス様の十字架も敗北(死)をもって勝利(復活)へと導かれたものでした。

ヒンズ-教の聖典に、バ-ガヴァタ・プラ-ナというものがあります。そのなかに次のような話があります。あるとき、一羽のカラスが、くちばしに一片の肉をくわえて空を飛びました。二十羽のカラスがそれを追いかけて、意地悪く攻撃しました。するとついにカラスは肉片を落しました。追いかけていたカラスは、彼一羽を残し声をあげながら肉片を追って飛び去りました。一羽だけ残ったカラスは、「ここは平和になった。空全体がぼくのものだ」といいました。本当に大切なものは何かを見分けるのは、とても難しいものです。捨てることによって与えられることがあります。

イエス様は「わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われました。律法を再解釈されたように思えますが、実は律法の本来の意味を教えてくださいます。神様の御心がどのようなものであるか。「目には目を、歯には歯を」という律法も、否定という形において本来あるべき姿を示されたものです。

2019年5月12日日曜日

明日は礼拝です。

説教:立野泰博牧師(主任)
どうぞお越しください。

気ままな休日・アメリカ自宅でスペアリブ

アメリカ滞在中に食べたスペアリブ。
何と自分でスペアリブを買ってきて、
自分で調理して、バルコニーで自分で焼いて、食べる。
へ~~~こんなに美味しいのですね。
アメリカの肉文化はさすがでした。

2019年5月11日土曜日

礼拝の日です

説教者:吉谷正典牧師(引退教師)
ぜひいらしてください。

2019年5月10日金曜日

大江教会特別礼拝

協力教会の大江では
アメリカの姉妹教会を迎えての
特別礼拝がありまうs。

2019年5月9日木曜日

「風呂で読む井月」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「風呂で読む井月」
 
 「たまにはのんびり、お風呂で読書でもいかが?」という手紙とともに、一冊の本が送られてきました。その本は「風呂で読む井月」というものです。なんでも湯水に耐える合成樹脂使用なもので、お風呂で湯水につかっても大丈夫なのです。とすれば聖書もこれでつくればお風呂でも読めるということになります。まあお風呂で聖書を読む気にはなりませんが、露天風呂でならなんて考えてみたりします。
 
 さて、その「井月」とはいかなる本かといえば、漂白俳人井上井月のことです。私はその存在を今回はじめて知りました。そこで少し心に残った句を。
 
   春風や碁盤の上の置き手紙   井月
 
   来る風を涼しくうける簾かな  井月
 
   魚影のたまたま見えて水温む  井月
 
 ゆったりと回る田舎の時間の流れを感じます。のどかというかなんというか。しかし彼の人生は放浪のすえの野垂れ死にするまで過酷だったように思います。その本の解説に「名声、地位、金銭のとりことなるよりも、人生を一場の夢と観じたい。最悪の立場にあっても常に自己を失わず、飄々として生きたい。自然に生き、自然に死にたい井月」と書かれてありました。自然に飄々として生きる。それができるのは過酷なことを通り抜けてきた人だけではないでしょうか。私はそこにキリストの十字架を観じます。
 

2019年5月8日水曜日

「キリストのちょっとうれしい」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「キリストのちょっとうれしい」

マタイ 4:25 ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。

書店でビジネス書を立ち読みしました。「あなたのお客さんになりたい」という本の扉に次のように書いてありました。「いままでのサービス業は、『お得』ということがサービスでした。やがてそれは『便利』に変わりました。これがスーパーからコンビニへの移行です。これからは何か。それが『ちょっとうれしい』です。あなたがお店へ行ってあの店はよかったと覚えているのは、ちょっとうれしかったからです」。礼拝もまたサービスといいます。神様の福音は変わらないのですが、教会が人々に与えてきた恵み、人々が受け取る平安は、時代によって変わってきたのだと思います。キリスト教ブームといわれた時代がありました。その時は教会が人々のニーズにあっていたのでしょう。ところが、教会はそのときから変化したかといえば、その当時のままかもしれません。伝道の不振というより、時代をつかめないのではないでしょうか。これからの時代は「ちょっとうれしい」だとすれば、それは感動を与えられるかということです。ちょっとした感動を与えられるかということです。

イエス様の宣教活動の様子が記されています。まず最初は「おびただしい病人をいやす」ことでした。この評判を聞きつけて大勢の群衆がイエス様のもとにやってきました。イエス様の宣教の働きは「教え」「福音を宣べ伝え」「いやす」の3点にまとめられています。集まってきた群衆の地域性はかなりオーバーな表現ですが、その評判は絶大なものだったようです。イエス様のファンが増えてゆく様子がわかります。

大江教会は新しい方向転換をして3年になります。集会室をカフェにすることを承認し、計画を実行しました。教会が、地域の教会として九州学院へも宣教する教会となるための整備でした。

再び地域に開かれ、人が集まる場所になるための計画を立てました。それが「集会室のカフェ化」です。新しい方向転換でした。現代の若者たちは、時間のある時、ちょっとした集まり、仕事をするとき、勉強をする時「カフェ」を利用します。スタバなどはいつも満員です。ここに注目しました。集会室をカフェにすることで教会の門を広げる計画でした。自由に珈琲も飲める。安心してそこに居場所を見つけることができる。そして十字架を置くことによってキリスト教をさりげなくアピールできる。大江教会カフェのファンを増やし、教会の持つ壁をなくすことでした。教会カフェが神様のもとで、安心した居場所としてなる。教会が新しい方向転換で目指していたものはこれでした

教会の宣教も、自分の信仰生活も「神様のサービス業」だと思います。イエス様はファンをたくさん持っておられました。私たち牧師も信徒も「あなたから神様のみ言葉を聞きたいと」思われる存在でありたいです。教会の宣教も「大江教会から神様のちょっとうれしいをいただきたい」と思われる宣教をしたいと願います。そこにはノルマ、マニュアルは存在しません。聖書を読み、祈り、奉仕するという原則があるのみです。

2019年5月7日火曜日

「花粉症になった」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「花粉症になった」
 
 先々週あたりから、ある症状に悩まされています。それは、目がかゆくてくしゃみがでるといえばお分かりでしょう。そうです「花粉症」です。生まれて初めての体験で、なにがどうなっているのかわかりません。顔中が粉っぽくて、花粉を塗っているような感じなのです。いままで、花粉症で悩んでいる方を横目でみながら、そのつらさなど皆目考えたことはありませんでした。自分がそうなってはじめて、そのつらさに気がつくしまつです。それでも、不思議なもので、礼拝をしている時や結婚式の司式をしているときはピタッととまるのです。たぶん意識してない状態がいいのかなと思います。
 
 先日もテレビで花粉症のことを放送していました。なんでも約30%は実際の病気ではなく、精神的なものだというのです。面白い実験で、空気清浄された部屋の中にる10人に花粉が舞っているビデオを見せます。すると3人がすぐに反応し、目をかきながらくしゃみをしていました。こうなってみると、自分は花粉症だと思いこむとそうなるということでしょうか。
 
 土曜日は台風のような風でした。春一番というのでしょうか。やっと春がきたという喜びと花粉が舞っているという不安とが入り交じりました。しかし、それによって春がくるのが苦痛になってはいけません。
 
 信仰もまた同じことかなと思います。それが苦痛になるのは信仰に問題があるのではなく、それを受け取る自分の心に問題があるのでしょうね。
 

2019年5月6日月曜日

「今日を生きること」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「今日を生きること」

マタイ 6:34 明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。

「慢」ということばは、仏教では煩悩を表わすそうです。我慢もそのひとつ。それは、自分という存在が永遠不滅のものだと錯覚している煩悩なのです。自分中心に考えることは、どの宗教にとっても問題があります。その自分中心とはいったい何でしょうか。それは自分が神様になることではないです。私たちは中心をどこに据えるか、自分に据えるか、イエス様に据えるか。常に考えながら生きていたいと思います。自分中心で生きていくと、思い悩むことが多くなります。

本日の聖書のみ言葉は、イエス様が山上で説教された言葉のひとつです。この34節には「思い悩む」と言う言葉が2回でてきます。聖書で同じ言葉が2回でてくるときは強調を表します。6章の最後にこの節があることを考えると、神様への信頼によって思い悩むことから解放されなさいということでしょう。しかも、明日のことまでもと言われていますから、目の前にある今日を大切にしなさいということです。

新潮社「波」に、作家の城山三郎氏が次のように書いていました。

 一日即一生私たちはよく、今年はどんな年にしようかと考えます。しかし、聖書にも書いてあるように、明日のことを思い悩むことはないのです。むしろ、今日という日を大切に生きていきしかないのかもしれません。自分で書いていて冷や汗が出るのですが、今日やらなければ明日はできないという思いで、何事も誠実に取り組みたいと思います。誰にだって明日はわかりません。手探りだけれど確実な今日が一生なのです。この思いを胸に祈りつつ歩める一日としたい。

イエス様は「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む」と教えられました。今日をしっかり生きることが明日へつながります。まず今日の命を感謝し、神様を信頼することです。明日のことは明日自らが思い悩むことですから、それは神様におまかせすればよいのです。明日の問題とすればいいと言われます。与えられた今日のこと、いま目の前にある働き、招き、使命に素直にとりくんでまいりましょう。

2019年5月5日日曜日

気ままな休日・会議後の活きイカ

 博多の会議が夜まで続きました。
疲れたな~と思っていたら、
なんと夕食に活きイカが!!!
美味しかったです。

2019年5月4日土曜日

明日は礼拝です。

説教者:吉谷正典牧師(引退教師)
ぜひいらしてください。

2019年5月3日金曜日

鹿児島教会看板移設

協力教会の鹿児島教会が
変わりつつあります。
今回は看板が移設されたようです。

2019年5月2日木曜日

「花粉症になった」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「花粉症になった」
 
 先々週あたりから、ある症状に悩まされています。それは、目がかゆくてくしゃみがでるといえばお分かりでしょう。そうです「花粉症」です。生まれて初めての体験で、なにがどうなっているのかわかりません。顔中が粉っぽくて、花粉を塗っているような感じなのです。いままで、花粉症で悩んでいる方を横目でみながら、そのつらさなど皆目考えたことはありませんでした。自分がそうなってはじめて、そのつらさに気がつくしまつです。それでも、不思議なもので、礼拝をしている時や結婚式の司式をしているときはピタッととまるのです。たぶん意識してない状態がいいのかなと思います。
 
 先日もテレビで花粉症のことを放送していました。なんでも約30%は実際の病気ではなく、精神的なものだというのです。面白い実験で、空気清浄された部屋の中にる10人に花粉が舞っているビデオを見せます。すると3人がすぐに反応し、目をかきながらくしゃみをしていました。こうなってみると、自分は花粉症だと思いこむとそうなるということでしょうか。
 
 土曜日は台風のような風でした。春一番というのでしょうか。やっと春がきたという喜びと花粉が舞っているという不安とが入り交じりました。しかし、それによって春がくるのが苦痛になってはいけません。
 
 信仰もまた同じことかなと思います。それが苦痛になるのは信仰に問題があるのではなく、それを受け取る自分の心に問題があるのでしょうね。
 

2019年5月1日水曜日

「間に合う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「間に合う」

ルカ  4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。

ニュースで、「両親による幼児虐待で1歳児が死亡」というのがありました。このようなニュースを聞くたび、心が痛いものです。子どもたちは虐待する親を信頼しているはず。どんな思いでその親からの虐待を受けてきたのだろう。しかし、そのニュースにはもう一つ思うことがありました。虐待の事実があるという医者の報告に、児童相談所は会議をして「明日抜き打ちで訪問しよう」と決めたというのです。じつはその夜に子どもは虐待をうけて亡くなっています。なぜ「今日でなく、明日だったのか」。なぜ「すぐに」ができなかったのだろうと思いました。

イエス様の公生涯は、「み言葉を告げ」「悪霊を追い出し」「病気を癒す」ことから始まりました。カファルナウムと言う町では、シモンのしゅうとめを癒しておられます。このシモンは弟子のペトロで、イエス様から召される前の出来事でした。今朝は「すぐに」ということ考えました。癒されて「すぐに」人々に仕えた彼女の生き方、あり方が、いまの私たちに問われていると思ったからです。イエス様に愛をうけ、癒されたものは「すぐに」仕えるものになるのです。

依頼を受けて、外部の結婚式奉仕に行っときのことです。場所が変わればハプニングがあるもので、式が始まって結婚指輪が聖卓にないことに気がつきました。すぐに信徒のかたに合図を送り、探していただきました。そうこうしているうちに、説教壇にメモが届けられました。そこには「指輪はまだ披露宴会場にあります。すぐに来ます。少し説教をのばしてください」と書かれてありました。突然のことなので、いつもは十分で終わる説教を二十分かけてゆっくり話しました。もう冷や汗がでました。しかし、自分が話したものをその場で確認しながら、自分でも聞くという作業に恵まれました。そこで、聞いた自分が語る御言葉は「人生にはいろいろなことがあります。苦しいこと、悲しいことにぶつかります。突然起こってくる災難もあります。しかし、神様はきっと導いてくださり、それを乗り越える力を与えてくださるのです。それを信じてください」でした。そう語り終えたときすぐに指輪が届きました。

イエス様に癒されたシモンのしゅうとめは、その後「すぐに」「もてなした」とあります。「すぐに」人々に仕えることができたのです。「愛は間に合うこと」といった方がおられます。愛や奉仕の行いも「間に合わなければ」なりません。神様からの愛は「すぐに」私たちに届けられます。いつでも「間に合う」のです。私たちも「間に合う」ことを考えながら、「すぐに」を考えてすごしましょう。