2018年6月30日土曜日

2018年6月29日金曜日

2018年6月28日木曜日

「まん丸まるく」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「まん丸まるく」
 
 木食行道(もくじきぎょうどう)というお坊さんの句に、次のようなものがあります。
 
     まるまると まるめまるめよ わが心
 
               まん丸丸く 丸くまん丸
 

 
 この句を読んだとき、これは三女の聖美そのものだと思いました。まだ9ケ月を迎えたばっかりの赤ちゃんは、なんと「まん丸」という表現がぴったりなのです。この赤ちゃんをみていると、こちらまで心が丸くなってくるがわかります。赤ちゃんを抱いた人は、それだけで丸い心になれるのかもしれません。
 
 ところが、赤ちゃんを離したとたん心のまん丸が少しずつ壊れて、ガクガクとなってくるのがわかります。きっとこれは自分中心という心がでてくるからではないかと思うのです。
 
 「優しい人間になりたかったら、赤ちゃんを抱けばいいよ」と教えてくださった牧師がおられました。やってみると、優しい人間でいられる自分を発見することができます。そうすると、いつでも心に幼子イエスを持ち続けることが、人に優しい人間であることのコツといえそうです。
 
 まるくまるく生きて行けたら幸せのような感じがします。

2018年6月27日水曜日

「単ではなく」

 阿久根ルター君の朝のみ言葉

「単ではなく」

エフェソ 2:20 そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。

あるビジネス関係の本を読んでいました。すると面白いことに目がとまりました。それは船の話でした。船を作っている部品はすべて単体では海に沈んでしまうが、船として組み立てられると海に浮くというものでした。確かに、スクリューや舵、窓、煙突など船を構成している部品は、ただそれだけでは沈んでしまうのです。船というコンセプトがあって、そこに向かって組み立てられるから海に浮くのです。このことは何を意味しているのだろと思いました。

パウロは、「キリストにおいて一つとなる」ことを教えます。本日の箇所では、教会という交わりについて、建物のイメージからのべています。教会の交わりには「かなめ石」としてのキリストがおられます。この「キリストにおいて」が繰り返されていることによって、キリストとの結び付きが交わりを支え、成長する基になるというのです。すべてはキリストが中心です。私たちの教会も、一人一人が単体であるならば決して宣教できるものではありません。「御言葉を一人でも多くの人に宣べ伝える」という教会の船にならねば沈んでしまうと思います。宣教する船である教会にはイエス・キリストという「かなめ石」があるのです。人をみず、キリストをみることによって教会は一致できると思います。そしてすべてをキリストのみ言葉から見ることができれば一致できるし、大きな力となります。その時に神様の御心による宣教が始まります。

パウロは、キリストがすべての「かなめ石」であるといいます。ここに私たちの基準があります。人間の言動に左右されない、確かなみ心がここにあります。聖書を読むことは、すべての基本であると改めて教えられました。私たちはキリストを中心にして教会の宣教をしていきましょう。一人一人の賜物をもちよってキリストの体となり一つになりましょう。

2018年6月26日火曜日

「何を願っているのか」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「何を願っているのか」
 
 何を思ったのか、次女が「そろばん」に通い始めました。いまのところはとても楽しそうに通っています。たぶん幼稚園のお友達が「そろばん」を楽しそうにしているので、自分も行きたくなったのでしょう。
 
 ところが、姉にとっては、妹が「そろばん」に行くのは面白くない。そこで、納得させるまでが大変な騒ぎとなったのです。理由は簡単なことなのです。「自分より妹が計算できるようになるのがゆるせない」というものです。妹だけには、どれもこれも負けたくないらしいのです。姉としてのプライドでしょうか。
 
 そこで次女は説得にかかりました。「お姉ちゃんは、ピアノ、英語、スイミング、習字をやっている。私は英語だけだからずるい」と。いろいろ話し合ったあげくの結論が愉快でした。まず姉にそろばんに行く気持ちがあるかを聞きました。もちろん負けたくありませんから、行くといいました。ところが、自分のスケジュールを考えて、これ以上に別の教室にいくと遊ぶ時間がないことにはたと気が付いたのです。そこで、「遊ぶ時間がいるから、行かない」ということで決着したのです。
 
 主イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているのか分かってない」と言われました。自分の首を締めていくのは、自分の勝手な願いかもしれません。

2018年6月25日月曜日

「身でわかる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「身でわかる」

ルカ 6:44 木は、それぞれ結ぶ実によってわかる

 ネット朝日に、次のような記事がありました。名古屋市交通局は、市バスの男性運転士が、同市でバスを運行中に、乗客を置いたままバスを乗り捨てたと発表した。バスには乗客8人がいたが、25分後に代行バスに乗り換えるなどした。交通局によると、運転士は、地下鉄高畑駅のバス停を出発する予定だったが、発車直前に乗客から病院への行き方を尋ねられ、発車が1~2分遅れた。車内の別の客から「早く行け」などと遅れをとがめられ、運転士は憤慨、一つ目のバス停を約400メートル過ぎた所で突然停車し、バスを乗り捨てた。運転士は約1時間後に歩いて営業所に戻ったという。運転士は交通局の調べに、「注意され、怒ってしまった。バスを放置してしまい、大変無責任なことをした」と反省しているという。こんな記事でした。これを読んでみて、何かおかしいなと感じました。何がおかしいのか。それは運転士さんだけが無責任なのではないと思います。彼は親切に病院の行き方を教えていたのでしょう。その状況がわかっていながら「早く行け」といった乗客の言葉にもおかしさを感じるのです。どちらにも心の余裕が必要と思いました。

ルカ福音書でも有名な「平地の説教」の中にある、み言葉です。「木は、それぞれ結ぶ実によってわかる」といわれているように、神様から与えられた賜物によって、どんな実をつけるかが大切です。しかし、実をつけるのは私たち自身です。人はその人の実しか結ぶことができないのです。良い人に良い実が。ただ、考えておかないといけないことは、なにを持って「良い」とするかです。

道元禅師の言葉に「霧の中を行けば、覚えず衣湿る」というのがあります。霧の中を歩いていると知らない内に衣服が湿ってきて重くなるということです。濡れるともなく濡れるということでしょうか。人間の生き方も同じで、知らず知らずに、ということが多いと言われているみたいです。ところが、少し考えを変えてみました。人生は知らず知らずのうちに身に付くものがあるというのなら、美しいもの、楽しいもの、感動するものの中をたえず歩こう。知らず知らずのうちにそれらを持つことになる。生きるのが苦しいとか、仕事が大変だと思ってばかりだと背中が重くなってくる。しかし、これも神様から与えられたものとして、神様と共に歩むならば人生は神様の恵みに湿ることができる。恵みに湿るというか、恵みにしっぽりと包まれることになるのだと。

 イエス様は「木は、それぞれ結ぶ実によってわかる」と言われています。最終的にはいまそこに現れていることでその人の根っこがわかるといわれました。イエス様がいわれる「良い実」とはその人が生きてきた選択による結果です。神様の御心に従った生き方を選択してきたかどうかが実に影響を及ぼします。仕事が出来るだけでなく、何のためにこの仕事をしているか、神様の御心に従っているかどうかを考えて、今日も生きていきましょう。

2018年6月24日日曜日

熊本地区講壇交換TV中継礼拝

本日は主日礼拝があります。
説教者:小泉 基牧師(健軍教会)
熊も地区講壇交換日
本日はTV中継礼拝です。

2018年6月22日金曜日

休日クレヨン・天草崎津「海月」の握りずし

天草崎津「海月」の握りずし
今年世界遺産になる予定の教会のそばになります。
これから観光客で一杯だろうな~
その前に食べておこう!

2018年6月21日木曜日

「信仰のセンターライン」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「信仰のセンターライン」
 
 六日市集会の行き帰りはとても楽しいひとときです。落語を聞いたり、音楽を聞いたり、説教を考えたり、伝道計画を練ったりしています。ところが、帰り道で大変なこともあります。それは、濃霧がでたときです。それでも1年に5回位でしょうか。その中でも、1㍍先が見えない霧にであうこともあります。先々週がそうでした。これにあうと、頼りになるのはガードレールとセンターラインだけです。スピードを落として、ゆっくりすすむのです。普段の倍以上に疲れます。このような濃霧の中で教えられるのは、いつもなら遠くまで見えるハイビームよりも、足元がよくみえるライトの方がよいということです。
 
 私たちが生きている時代は、先の見えない時代だと言われます。こんな時は、足元をきちんと見る必要があります。禅の言葉では「脚下照顧」です。ところが、足元をみれば、きちんとセンターラインがあり、それが道を教えてくれるのです。 私たちの人生は道だとすれば、センターラインとは何にあたるのでしょうか。それぞれの人によって違うでしょう。私たちキリスト者にとっては、「キリストの御言葉」でしかありません。ひとつひとつの白いラインが「キリストの御言葉」であるならば、その道は確かに神様へとつながった平安の道であるといえます。 濃霧に悩まされながらも教会の十字架の灯が見えたとき、守られていたことを実感できます。すべてのラインは主の十字架へとつながっているのです。

2018年6月20日水曜日

「聞くだけではなく」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「聞くだけではなく」

ヤコブ  1:22 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。

若いカップルが喧嘩をしていました。どうもお互いの意志疎通ができずに言い合いをしているようでした。盗み聞きはいけないとおもいながら、自然と聞こえてくる声にどうしようもなく聞いてしまいました。実は男の子はとてもおしゃべりで、自分の意見だけをまくしたてていたのです。女の子も何か言いたいのだけど、黙っていました。その男の子がしゃべらせないのです。「何か言いたいことある?」「ないよね」「何か言ったら」「言わないなら僕が言う」とずっと話していたのです。相手の話を聞くことの難しさを思いました。聞き流す、聞くだけよりもっと悪い状況のように思えました。

聖書の中には「聞く」というみ言葉はたくさんでてきます。聞くこととはどんなことでしょうか。聞いたらそれによって何かが起こることを意味しているようです。ヤコブは「聞くことだけに終わるもの」になってはいけないと諭しています。聞いて理解し、そして行うことがもとめられています。その行いは「受け入れる」ということです。

北原白秋の詩を読んでいましたら、次のような詩に出会いました。

  落葉焚けばおもしろ、

  櫟(くぬぎ)の葉はふすふす。

  萱(かや)の葉はちょろちょろ、

  松の葉はぱちぱち。

 なんという心の余裕でしょうか。ふつう焚き火をするときなど、騒ぎ回って静かな心でその音を楽しむなんてことはありません。よっぽど静かな心で焚き火を見つめていないとわからない音の違いがあるのです。

ヤコブは「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と教えています。たいていの人は「聞くだけ」になります。しかし、しゃべり続ける人は「聞くことさえできない」人です。聞くことは相手を受け入れることです。それがなければやっぱり「聞くことさえできない人」になってしまいます。せめて聞くだけからはじめて、本当の聞くことを学んでいきたいと願います。それは受け入ることへとつながっていくからです。

2018年6月19日火曜日

「温泉以上に暖かい」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「温泉以上に暖かい」
 
 友人の結婚式で、熊本へ帰る機会が与えられました。やっぱり故郷というものはいいものだと感じました。今回もまた、ウイナスという温泉に行きました。といっても、私の生まれた村(長陽村)が建てたものなので、近くにあるのです。 さて、ある父子が脱衣場で話しているのを耳にしました。その会話を聞いていましたら、温泉以上に暖かいものを感じたのです。5歳くらいの子供がお父さんに聞いていました。
 
 「お父さん。お父さんと温泉に入ると、どぎゃんなっと。からだん大きくなっとね。それっとんきれいになっと。おしえちくれ」。 (訳:お父さんと温泉に入ると、どうなるの。からだが大きくなるの。それともきれいになるの。おしえてよ)
 
 するとお父さんが答えました。「お父さんと温泉にはいると、幸せになっと」。 (訳:お父さんと温泉に入れば、幸せになるんだよ)
 
 普段あまり会わない父子かもしれません。たまの休みに家族いっしょに温泉にきたのでしょうか。それにしても、親子で温泉に入れば幸せになれるとは、何とここちよい言葉だろうかと思いました。
 
 私たちは、隣にイエス様を感じたとき幸せになります。ということは、いつもいつも幸せを感じることができるのです。いつも共にいてくださるから

2018年6月18日月曜日

「捨てて信仰を拾う」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「捨てて信仰を拾う」

ルカ 5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。

九州学院の高校3年も大学進学を目指して追い込みと言ったところでしょうか。自分も大学進学のために、東京へ旅立った日のことをおもいだします。神学大学の寮につき、自分の荷物をまえにしたときの、なんとも表現できない悲しいような気持ちを思い出すのです。部屋についた荷物は、布団一組と段ボール箱一つでした。箱の中には本が三冊とカセットテープ、鉛筆削り、そしてインスタントコーヒーだったのです。あれから30年、なんと荷物が増えたことでしょうか。三冊だった本はいまや段ボール百箱。あ~あ。家族が増え、家具が増え、ステレオに車が増え、心に平安が増え、心配事が増え。

 私たちはたくさんのモノを持っています。物質的にも、精神的にも。持ってしまった以上に捨てきれないのも私たちです。しかし、原点を思い出すたびに何が大切かを思い知るのです。なぜなら、三冊の本とは「聖書」でした。捨てきれない荷物のおもさまえうしろ 山頭火

徴税人レビ(使徒マタイ)の召命箇所です。イエス様が、ローマへの税金を同朋からあつめていたレビを弟子に召されました。徴税人はローマ帝国の手下と思われ、同朋を苦しめるものとしてユダヤ人から嫌われていました。しかし徴税人レビは、イエス様の「わたしに従いなさい」という一言で、何もかも「捨てて」従ったのです。彼の人生にとって、すべてを捨てても得るものがあったのでしょう。イエス様のこの一言を待っていたのです。彼も悩み苦しみの中で、イエス様との出会いを待っていました。

良寛さんというお坊さんがいます。大好きなお坊さんです。その良寛さんの逸話話に「拾うことの楽しさ」というのがあります。良寛さんは人々がお金を拾ったら大喜びするのが不思議でたまりませんでした。良寛さんにとってお金は何をおいても大切なものではなかったのでしょう、それで、良寛さんは自分もやってみることにしました。自分のお金を捨てて拾ってみます。全然楽しくない。ところが、投げ方が悪く草むらに入ってしまった。必死に探して見つかったときの喜びがわかったという話です。良寛らしい話だと思います。

本日の聖書では「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」とあります。徴税人レビは、すべてを捨ててイエス様に従いました。すべては捨てたけれども「イエスに従う」という信仰を拾ったのです。信仰を拾ったというのは与えられたのです。神様から一番確かなものを与えられたことになります。私たちが必死にしがみついているものは何でしょうか。信仰はしがみつくものではありません。与えられるものです。

2018年6月17日日曜日

2018年6月15日金曜日

休日クレヨン・お好み焼き食べ放題

たま~~~に食べたくなる関西風お好み焼き。
熊本にある「道頓堀」で食べ放題してきました。
お店の「いらっしゃいませ~ぽんぽっぽん」は好きです。

2018年6月14日木曜日

「み言葉が身につく」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「み言葉が身につく」
 
 何げなく買った本の中に、次のような一文をみつけました。
 
 「私たちはいろんな人から、生きるうえでの知恵を教えてもらう。他人は、自分の知らないことをたくさん知っている。私もこれまで様々な人から多くのことを教えてもらった。そうして最近気づいたのは、『普段実行していない人から習ったことは、身につかない』ということである」。
 
 この文を読みながら、大笑いしたあとに、まてよとギクッとしました。根本的なところは、「知恵と知識の違い」ということでしょう。しかし、あらためて自分に問うみると、普段実行もせずに教えていることはたくさんあるのです。
 
 テレビでは毎日、健康のためにと知識をたくさん与えられます。それを人に教えてもきっと身につかないのだとつくづく思います。自分がやってみて本当によかったといえるものしか、人の心を打つことはできないのです。
 
 広島教会の森牧師が、「りんごダイエットをしよう」と呼びかけています。なんでも、90キロの体重が正月に97キロまで増えたそうです。そこで「りんごダイエット」を始めたところ、みるみる7キロやせたそうです。はたして身につくことやらと思いつつ、やってみたくなりました。
 
 キリストの言葉が身につくのは、神の業がそこにあるからです。なかなか身につかないと思っている人は、身についているのに気がつかないからでしょう。

2018年6月13日水曜日

「自分の視点だけでなく」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「自分の視点だけでなく」

フィリピ 24 めいめい自分のことばかりでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

「イソップ物語」の中に次ぎのような話を見つけました。

 「農夫の畑に、木が一本ありましたが、くだものがならず、やかましいスズメやセミの休み場になっていました。農夫はくだもののならない木だから切ってしまおうと思いました。そこでおのを持ってきて一度切りつけました。セミとスズメは、自分たちの休み場を切ってしまわないで、いままでどおりそこで歌をうたわせて下さいとたのみました。ところが農夫はそれにはかまわず、二度三度と切りつけました。ところが、その木はうつろになっていて、ミツバチのむれとハチミツが見つかりました。農夫はハチミツをなめて、おのを放りだして、その木を神木におまつりしてだいじにしました。人間というものは、生まれつき正しいことを大事にして敬うよりも、利益を求めるものです」。私たちは「身勝手な存在」かもしれません。自分を考え、利益に従って変わる弱い存在かもしれません。しかし、それでも神様は導いてくださるのです。

パウロはまず2章のはじめに「へりくだる心」を持つことを薦めています。また、キリストによる励まし、交わり、あわれみの心が与えられていると告げています。そのことはキリストの十字架の出来事として確認できるというのです。キリストの十字架を思いながら、自分たちの生き方を点検するように勧めています。すべてはキリストがどうされたかを考えることです。

 ある本で次の言葉をよみました。「人間の見方ほどあてにならないものはない。多くの人間は自分を中心にしてそこからすべての物事をみるものだ」と。つまり、その視点が正しいかどうかは問題にしていないというのです。本質は違っていても、自分の視点こそが正しいものとしていると。具体的なたとえも書いてありました。かわいいぬいぐるみを持った一人の女の子がいます。彼女はそれを誰にも触らせてくれませんし、まして貸してもくれません。多くの人は「なんてわがままな女の子だろうか」と思います。しかし、その子の母が昨晩天に召されて、そのぬいぐるみはお母さんが大切にしていたものだということがわかったとき、人はその女の子を「わがまま」とは思わない。すべては、自分の視点でしかみないことに間違いがおこる。

 パウロは「他人のことにも注意を払いなさい」と言います。そして見本はイエス・キリストだと言っています。いつもイエス様だったらどうされるか考えてみようということです。自分の視点の転換がおこるとき、より本質に近づいていきます。イエス様だったら、女の子のすべてを知ってぬいぐるみと共に抱きしめてくださると思います。

2018年6月12日火曜日

「神様の計画だから」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様の計画だから」
 
 なんと、金曜日には大雪になりました。今年はよく降るなあと思っていましたら、またまたドカンと降りました。本当に今年は雪がよく降ります。と思っていましたら、反対に六日市では雪が少ないとのこと。いったいどうなっているのでしょうか。
 
 熊本生まれの私にとって、雪はとても楽しみの一つでした。なにせ1年に1回の雪合戦ができる時だったからです。そしてもうひとつの理由は、雪が降ると近くのテレビ局が、かならずニュースのために撮影にくるのです。そのニュースにどうやれば写るかを考えるのがとても楽しみだったのです。しかし、子供たちにとってはこんなに楽しい時でも、この雪で困る人達がいるのも同じニュースで観ることができました。神様はとても不思議だなとと思った最初でした。同じ出来事でも、それが嬉しい人と、悲しい人を一緒につくってしまうことに不思議を感じていたのです。
 
 神様の働きは人間では理解できないことがたくさんあります。むしろ分からないのが神様の働きといえるかもしれません。ある人には試練ばかりを与えられる。ある人にはいつも祝福がある。不公平だなと思っていると、試練のときにはいつも共にいて守ってくださる。こう考えていくと、神様の計画なのだからしかたない。信じて従うのが私たちだとしかいえませんね。
 

2018年6月11日月曜日

「もう一人いる」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「もう一人いる」

ルカ 1:36 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。

この世の中けっこう「こうでなければならない」が多いように思えます。ある時、結婚式の相談の電話がありました。相談といっても、バージンロードを誰と歩くかという相談です。電話は新婦のお母さんからで、「娘は私と入場したいと言っていますが、これはやはり父親でなければならないのでしょう。しかし、父親は10年前に他界しておりますので、やっぱり男の伯父でなければならないと思いまして」という相談です。答えは簡単。「一応『父親』となっていますが、そうでなければならないことはありません」です。しかし、お母さんは「やっぱり男でなければならないのが常識ですよね」と言われるのです。それを聞きながら「ねばならない」って人を縛るものだと考えていました。そのお母さんに牧師として答えようと思い「娘さんはお母さんと歩きたいのではないですか。そこには娘さんの感謝の気持ちや、願いや、愛が含まれていると思いますよ。その気持ちを大切にしてあげてください。娘さんはお母さんと共に歩きたいのですよ」と答えました。

マリアの受胎告知の場面で、天使ガブリエルはもう一人の存在を告げます。聖霊によって身ごもることのお告げにマリアは「どうしてそのようなことがありえましょうか」と言いました。それに対して親類のエリサベトも同じように聖霊によって身ごもっていると言うのです。同じ境遇のものがもう一人いる。これは神様がマリアにされた大きな配慮かもしれません。バプテスマのヨハネの誕生と存在は、この出来事を支える影の力だと言えます。

PTA会長をしていた時、耳の不自由な子がいました。挨拶運動で毎朝挨拶しても返事もなく、通り過ぎていくだけでした。あとで彼女の事情を知りました。転校生だったので征服も違うし、かばんも違いました。いつも一人ぼっちだなと思っていたのです。しかし、その子には一人だけ友達がいました。その子がいたので毎日学校へ来ることができたし、元気に卒業していきました。そのたったひとりの友達が、次女でした。

共に歩んでくれる人がいる。これは大きな恵みです。クリスマスのメッセージで「インマヌエル」という言葉があります。これは「神は我々と共におられる」という意味です。クリスマスの本当の意味は、神が共にいてくださるということです。

2018年6月10日日曜日

礼拝へどうぞ

本日は主日礼拝があります。
説教者:吉谷正典牧師(引退教師)

2018年6月8日金曜日

休日クレヨン・教会ロコモコ

長崎教会の中高生キャンプでの一品
なんとロコモコ!みんな喜びました。
なんだか全部のせって感じでしたか。美味しかったです。

2018年6月7日木曜日

「底知れない力を」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「底知れない力を」
 
 「精いっぱいの嘘」という、従軍体験をもとに書かれた本に次ぎのように書かれてあります。
 
 「兵隊が完全武装で強行軍をする。たいてい六里(23.6キロ)でぶったおれる。しかし、撲って叱咤すると立ってあと二里(7.9キロ)歩く。が、もう動けない。ところがそこへ敵が現れた。彼らは起き上がって一里(3.9キロ)逃げる」。
 
 このことを通して作者がいいたかったことは、どんな人間でも自己の限界までは出し切っていないものなのだ。ギリギリのつもりでも、実は四割程度の余力を残していることが多いということでしょうか。
 
 私たちは、「ベスト」をつくしたと思うことが多いものです。「ベスト」をつくしたのだからしかたがない、とあきらめてしまいます。しかし、実際は余力をもっているからこそその言葉がでてくるのでしょう。
 
 神様は私たちに、底知れない力を与えておられます。もうだめだと言う言葉を必要としない位の力を与えておられるのです。その力を信じることができるでしょうか。信じる者にはもっともっとその力を与えてくれるのではと思うのです。
 
 最近「ああ疲れた」「もうだめだ」と思うことが多くなりました。そのようなとき上記の文を読み心を引き締めました。

2018年6月6日水曜日

「捨てる・拾う」

 阿久根ルター君の朝のみ言葉

「捨てる・拾う」

ルカ 5:28 彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。

「違う角度からの人生観」という本に、《信じること》と題して書いてあります。

「ぼくは小さくて、野球もフットボールもまだできない。だって八歳になっていないんだもの。それに、ママは、ぼくが野球をはじめても速く走れないって言う。足のしゅじゅつをしたからね。でもぼくはママに言ったんだ。『速く走れなくてもかまわないんだ』って。だって、ぼくが球を打つと、ぜったい野球場の外に出ちゃうんだから・・・。走る必要がないんだ。あとは歩いてホームインするんだ」。私たちは、人生の中で困難に出会うと、どうしても後ろ向きに考えてしまいます。なにかのバチが当たったとか、もうだめだとか。しかし、本当にだめなのでしょうか。そのようなことにぶち当たったときに、どうしたら前向きに考えることができるでしょうか。それは《信じる》ことです。

徴税人レビの召命箇所です。イエス様が、ローマへの税金を同朋からあつめていたレビを弟子に召されました。徴税人はローマ帝国の手下と思われ、同朋を苦しめるものとしてユダヤ人から嫌われていました。しかし徴税人レビは、イエス様の「わたしに従いなさい」という一言で、何もかも「捨てて」従ったのです。彼の人生にとって、すべてを捨てても得るものがあったのでしょう。

山頭火という俳人の句に「秋風の石を拾う」というのがあります。山頭火は、財産を捨て、家をすて、故郷を捨て、家族を捨てて放浪の旅をしながら悟りの境地に近づいていく俳人でした。しかし、捨てても、捨てても煩悩はすてきれずに苦しんでいたようです。そんな中でふと「石を拾う」ということに何かを見出したのです。この石というのはただの石ころのことです。人間は捨ててばかりでは生きていけない、拾うということでバランスをとっているのではないかなと思います。大切なことは「すべてを捨てて何を拾うか」です。

徴税人レビは、すべてを捨ててイエス様に従いました。しかし同時に信仰を拾った(与えられた)のです。一番確かなものを与えられたことになります。ということは、イエス様を拾ったということです。今週もまた、一番大切なものは何かをかんがえながら過ごしていきたいと思います。

2018年6月5日火曜日

「底知れない力を」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「底知れない力を」
 
 「精いっぱいの嘘」という、従軍体験をもとに書かれた本に次ぎのように書かれてあります。
 
 「兵隊が完全武装で強行軍をする。たいてい六里(23.6キロ)でぶったおれる。しかし、撲って叱咤すると立ってあと二里(7.9キロ)歩く。が、もう動けない。ところがそこへ敵が現れた。彼らは起き上がって一里(3.9キロ)逃げる」。
 
 このことを通して作者がいいたかったことは、どんな人間でも自己の限界までは出し切っていないものなのだ。ギリギリのつもりでも、実は四割程度の余力を残していることが多いということでしょうか。
 
 私たちは、「ベスト」をつくしたと思うことが多いものです。「ベスト」をつくしたのだからしかたがない、とあきらめてしまいます。しかし、実際は余力をもっているからこそその言葉がでてくるのでしょう。
 
 神様は私たちに、底知れない力を与えておられます。もうだめだと言う言葉を必要としない位の力を与えておられるのです。その力を信じることができるでしょうか。信じる者にはもっともっとその力を与えてくれるのではと思うのです。
 
 最近「ああ疲れた」「もうだめだ」と思うことが多くなりました。そのようなとき上記の文を読み心を引き締めました。

2018年6月4日月曜日

「非難されないように」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「非難されないように」

2コリ 8:20 わたしたちは、自分が奉仕しているこの惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。

出久根達郎さんの本で、ぞっとするような話しを読みました。

「いつのことだろう。ロシアでは政府を批判した本の著者には、その本を食べさせる刑罰を科した。毎日、医者立ち会いのもと一定時間、本を寸断してくわせた。発行部数を全部食べ終わった時、刑が終了したとして赦免した。ベストセラー作家は生涯くいつくせないわけである」というような話しです。もしも、自分の本が刑にふれて、このような刑罰をうけたとしたら、考えただけでゾッとしました。批判、非難はできるだけ避けたいと思います。

8章16節以下には、募金を呼び掛け、集金し、保管するという務めをしていたテトスのことが称賛されています。またテトスと同じように諸教会で選ばれた兄弟たちも同じです。パウロは、これらの人々は信用できる人柄であると述べています。しかし、パウロ自身に対しては彼の金銭的活動に身に覚えのない疑惑がもたれていたようです。そこで、テトスをはじめコリントでも良く知られた人物を立てて身の潔白をしめしたのでしょう。

ボランティア活動で募金をする場合、大切なことがいくつかあります。それは「何のために必要か」「いくら集まったか」「それをどのように使ったか」を誰にでもわかるように公表することです。この中の一つでも欠けると疑惑をもたれます。集まったお金を、自分たちのためにつかっているといった非難中傷を良く聞きます。せっかく素晴らしい活動なのにと思いますが、3つのうちのどれかが欠けているのです。簡単なことですが、公表することは信頼を生むことです。また第三者にみてもらうことはもっと確か信頼を生みます。監査というのはそういうものです。募金活動は信頼されることが一番大切です。

パウロは「だれからも非難されないようにしています」と言っています。パウロは、自給自足の立場をしっかり守ってきましたが、金銭的な問題で誤解されたようです。そこで募金活動においては非難されないことを心がけているのです。すべては公にされていること。それは神様が公にして下さっていることに感謝するということばで分かります。

2018年6月3日日曜日

2018年6月2日土曜日

気ままな休日・教会のお昼

阿久根教会では毎週礼拝後に共に食事をします。
ある日曜日の食事はロールキャベツ。
かなり美味しかったです。
なんたって手作りですから。

2018年6月1日金曜日

麦畑

緑豊かなな麦畑
気持ちいですね~
車をとめて写メをとりました。
空といい麦と言い。神様が作られたのは素晴らしい!