2015年6月2日火曜日


「藤川天神の臥竜梅」                              小山 茂 

 春が来たと感じられるのは、やはり梅の花と香りが一番です。この季節になると、薩摩川内の「臥竜梅」がしばしばTVや新聞に取り上げられます。臥竜梅とは竜が地面を這うような枝ぶりから、つけられた名前です。菅原道真が密かにこの地に逃れて、手植えされた株が増えて梅林となったと伝えられています。TVニュースで地元の小学生たちが、梅林を訪れて俳句を詠む様子を見ました。一度訪れてみたいと思っていたので、35日に鹿児島市から車で1時間余り走りました。近付くにつれあちらこちらに、梅の花をつけた木々を見ることができました。 

 平日の昼に地元の方々が大勢訪れて、観梅を楽しんでいました。参道を進むと覆うように咲く河津桜の枝に、メジロが蜜を吸いに多数群れていました。カメラを構えるのですが、その動きの素早さについていけません。それでも下手な鉄砲数撃てば当たるで、その姿を何枚か捉えることができました。最終頁にある右側上から2枚と左側上の写真は河津桜で、その他の写真は梅です。境内に地元の名産を売っている出店があり、大宰府の天満宮で有名な、「梅が枝餅」を売る店もありました。試しにひとつ食べたところ、餅の食感とあんこの程良い甘みでした。 

 また、珍しい犬の銅像を境内に見つけました。西郷隆盛の愛犬「ツンの銅像」が、神社参道の脇にありました。東京の上野公園に、犬を連れた西郷隆盛の銅像があります。西南戦争で賊軍の将である西郷隆盛の銅像を作るにあたり、軍服ではなく浴衣姿に犬を連れた姿ならと配慮されたものだそうです。西郷隆盛が藤川天神を参拝した折、東郷町藤川の前田善兵衛が飼っていた、うさぎ狩りのうまい猟犬「ツン」を見つけました。西郷どんが望んだので献上された犬を喜ばれ、金二十貫を与えたそうです。NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」の放映を機に、平成2年に作られた銅像で、鹿児島在住の文化勲章作家中村晋也氏によるものです。

 



河津桜に蜜を吸うメジロ
 

ツンの銅像〔中村晋也氏作〕




四旬節第3主日 「私が生贄になる」 
          ヨハネ福音書2:13~22   小山 茂

《宮清めはしるし》
 今朝の福音の日課の小見出しは、「神殿から商人を追い出す」です。短くして「宮清」とも言われて、すべての福音書に記されている物語です。しかし、共観福音書のマタイ・マルコ・ルカとヨハネ福音書とでは、記者の伝える順序が違っています。共観福音書ではエルサレム入城の直ぐ後に、「宮清め」が受難物語の最初に置かれています。その直後にマタイは21章で、マルコは11章で、ルカは19章でユダヤ教の指導者たちが主イエスのされた「宮清め」を見聞して、主イエスを殺そうと相談し始めます。
 
 しかし、ヨハネ福音書では最初のしるし「カナの婚礼」の直ぐ後に、主イエスが宣教活動を開始されたその最初に「宮清め」が置かれています。主イエスが自ら生贄になることによって、動物の生贄が必要なくなり、神殿が主イエスの体に置き換えられます。そして主イエスの死と復活が、神殿礼拝の終わりを告げます。 
《イエスの過激さ》
 ユダヤ人の巡礼者たちが、大勢エルサレムに詣でる祭りが近づいています。神殿の礼拝に集まる人々は、遠くから旅行をしてエルサレムに来ます。ですから、動物を連れてくることができず、神殿の礼拝のためにエルサレムで生贄の動物を買い求めます。また、神殿に納めるお金はギリシアやローマの貨幣ではできません。コインには皇帝の顔が刻まれているからです。それゆえ、律法に適った地元のユダヤ貨幣に両替する必要があります。神殿で祭りの礼拝儀式を行うため、動物の売買と両替は必要不可欠な仕組みでした。神殿当局はその商売を容認し、場所を提供して利益を得ていたようです。 
 主イエス一行も過越祭に、エルサレム神殿に上って行かれます。異邦人の庭と呼ばれる外の前庭で、動物を売っている商人、両替商が店を出しています。すると、主イエスは持っていた縄で鞭を作り、生贄(いけにえ)の羊や牛などを全て境内から追い出します。また両替商の金銭をまき散らし、その台をひっくり返します。そして、家畜を買えない貧しい人々に、鳩を売る業者に言われます、「これらをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」主イエスの激しい行動と厳しい言葉に、躊躇される様子が全くうかがえません。私たちが抱いている主イエスの優しさは、どこに行ってしまったのでしょうか。
 ヨハネ福音書の主イエスは宣教を始めたばかりで、人々はこの方が海の物とも山の物とも未だ分かりません。三十歳位の男性が突然現れて、境内にいる商人や両替商の商いを邪魔しました。弟子たちはその様子を見て、ある詩篇を思い出します。「あなたの神殿に対する熱情が、わたしを食い尽しているので、あなたを嘲(あざけ)る者の嘲りが、わたしの上にふりかかっています。」《詩篇69:10》弟子たちはその詩篇を、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽す」と要約します。主イエスの神殿に対する熱意が、ご自分を死に追いやると語られ、十字架にかけられることを預言するものです。旧約における神の熱情は、イスラエルの民を愛するあまり、妬(ねた)むほどになられました。弟子たちはこの時、はっきりと分かりませんが、復活された後になって詩篇の言葉から確信します。 
《建てる≠甦る》
 当時の神殿礼拝のため容認されてきた慣行である、生贄動物の販売・他国通貨への両替を、主イエスは廃止しようとされます。神殿で商売する仕組みを、厳しく攻撃されます。旧約のエレミヤ書にも同様なコメントがあります。「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしもそう見える、と主は言われる。」《7:11》強盗の巣窟と譬(たと)えられている、ユダヤ人商人と神殿とのもたれ合いは、神の家である神殿を辱(はずか)しめています。主イエスは神殿の権威と礼拝そのものに対して、激しい挑戦状を突きつけます。
 ユダヤ人たちは、主イエスに「宮清め」の根拠を求めます。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか?」主イエスがされた「宮清め」は、受難のしるしなのですが、彼らに未だ分かりません。神殿で行われていた犠牲を献げることは、主イエスの十字架の死という犠牲にとって代わられるからです。さらに、主イエスはユダヤ人たちに過激に言われます、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」神殿という言葉の理解が、ユダヤ人たちと主イエスでは全く異なっています。

 その建て直すと訳された元のギリシア語の動詞は、「建てる」と「立ち上がらせる」の二つの意味をもちます。ユダヤ人たちは建物である神殿を建て直すと理解したのです。しかし、主イエスは自らが甦る、つまり復活されると言われたのです。それゆえ、福音書の記者は語ります、「イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである。」その神殿は西暦70年にエルサレム陥落の時、ローマ軍により取り壊されました、その後再建
されることはありませんでした。
《しるしを求める信仰》
 ヨハネ福音書には、主イエスがしるしを示される場面が、しばしば登場します。しるしには、どんな意味があるのでしょうか。主イエスがメシアであると分かるための奇跡、自らの栄光を示される奇跡、神の子であると明かされる啓示、などがあります。今朝の福音でユダヤ人たちは、主イエスが過激な行動をとられた、その明らかなしるしを求めました。「宮清め」をされた納得できる理由を、自分たちに説明して欲しかったのです。最近よく不正をしたのではないかと疑われた人が、自らしたことが正当であると釈明することを、「説明責任」を果たすと言われます。まさに、主イエスは前代未聞の「宮清め」をされた、その説明責任をユダヤ人から求められました。 


 しるしを求める信仰は、しるしを見つけるなら信仰します、となってしまう恐れがあります。その反対に、しるしが見つからないなら信じないのです。信じるか信じないかは、しるしがあるかないかにかかってきます。弟子たちの中にも、後に主イエスにしるしを求めたトマスがいます。彼は復活されたイエスに会いますが、お体に釘の跡や、わき腹に槍の跡を見なければ、決して信じられないと言います。主イエスはトマスに、ご自分の体
触れて確かめることを許されます。そして、トマスは信仰を告白します、「わたしの主、わたしの神よ。」主イエスは彼に言われます、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」《20:29》しるしを求める信仰は、しるしに向かう信仰です。ですから、しるしについて主イエスは、「説明責任」をユダヤ人たちにされず、誤解を生む結果になりました。 
 それでも、人々は主イエスがメシアである、そのしるしを見つけようとします。証拠が見つかるなら、信じるかどうか迷ったり、悩んだりすることはありません。また、私たちも主イエスが神と同様のお方である、その資格証明を見せてください、と求めたい誘惑にかられます。それは、自らが信じ切れないことの裏返しかもしれません。主イエスはしるしを見たから信じる、そんな信仰を少しも信用されません。
 
《私が生贄になる》
 主イエスが神殿の境内で生贄の商売を邪魔されたのは、ご自身が生贄になられて、動物の生贄はもはや必要がなくなるからです。主イエスの十字架が、その成就される時にそうなります。父の家である神殿で商売をして、神殿当局と商人が相互に利益を上げる仕組みに、我慢がならなかったのです。その怒りの言葉が、「わたしの父の家を、商売の家にしてはならない」だったのです。実は弟子たちは主イエスのそのお言葉を聞いた時、その意味を正しく理解できていなかったようです。それゆえ、福音書記者ヨハネが語ります、「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」主イエスが自ら生贄となられた大きな恵みに、 心から感謝しながら、レント(四旬節)を過ごし、御後を歩んで参りましょう。