2020年1月30日木曜日

「ピアノも弾き手によって」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ピアノも弾き手によって」

 礼拝堂の音響のよさから、コンサートの申込が多くなりました。今年もすでに5つのコンサートがあり、11月にはシャンソンとアコーデオンの2つが予定されています。いろんなジャンルの音楽を聞くことができ、牧師としては楽しい限りです。先週は、ブルースのコンサートがありました。ブルースというのは、本人たちの説明では「ロックのお父さん、ジャズのお姉さんくらいの位置づけ」だそうです。感想としては、大人の音楽だなあというところでしょうか。ピアニストに有吉須美人氏がこられ、素晴らしいものでした。めったには聴けない演奏でした。

  さて、どの演奏会でも教会にあるピアノが用いられています。ところが、このピアノは弾き手によって様々な音を聞かせてくれるのです。次女・愛美の練習のときはそれなりに、邦楽アンサンブルでは邦楽っぽく、シャンソンではやわらかく、ロックでは他の楽器に負けない音がでます。そしてブルースにはブルースにあった音なのです。ピアノは変わらないのです。多少、調律の仕方が違うくらいですが、同じピアノが弾き手と音楽によって変化し、素晴らしい演奏ができるのです。

  オルガンの2階席からながめながら、神さまと私たちの関係はピアノと弾き手に置き換えたらどうだろうと考えてみました。基本的にはピアノだろうと思います。しかし、弾き手は神さまだけではないのです。弾き手も私であったり、神さまであったりするのでしょう。神さまが弾き手のときに、私たちは素晴らしいピアノになり、私が弾き手になったときには勝手な音しかでないかもしれません。しかし、私たちがどんなピアノだったとしても、神さまの指によって福音を奏でることができるのです。神さまの指は、私たちを最高のピアノにしてくださるのです。

2020年1月29日水曜日

「内面で何を考えるか」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「内面で何を考えるか」
2コリ 5:15 生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
牧師候補生の面接では、まず召命観について聞かれます。簡単にいえば「あなたはなぜ牧師になるのか」ということです。しかし、それだけではありません。本当は「神様から牧師になるためのどんな招きをうけましたか」ということです。この微妙な違いは卒業が近くなると変わってくるように思います。初めの頃は「自分が、自分が」と語られるのですが、「主が、主が」となってくるからです。私が中心でなく、キリストが中心になったときに牧師として宣教に立つ準備完了となるわけです。
パウロは自己推薦と誇りの問題について再び語ります。パウロが語る福音は、自己推薦ではなく神様と人々の和解ということです。その務めを果たしてきたといいます。また誇りというのは、外面的なものでなく内面的なものであり、その人の内面になにがあるかを問われるとのべています。自分自身のために生きる人が多い中で、自分の救いのために死んでくださった方がおられる。そのことを思い、その方のために新しい生き方をしていこうと励ましています。その方こそキリストであると言うのです。
カトリックの黙想集「実る人生」に次のような文を見つけました。「外面の静けさと内面のあらしといった対照的な状態がよくあるものです。重要なのは、どこにいるか、ではなく、なにを考えているか、ということです」復活の朝、その知らせを婦人たちから聞いたペトロは走って墓を見に出かけています。ペトロにとってこの出来事は内面のあらしではなかったかと思います。十字架の上で死んだイエスがそこにおられないのです。外面上は静かな時間が過ぎています。人々はイエスの十字架の出来事に打ちのめされていたのですから。ペトロは空っぽの墓をのぞいたとあります。そこには亜麻布しかありませんでした。このとき何をペトロは考えていたのでしょうか。大切なことは、この出来事を前にして何を考えることができるかということです。
 パウロは「自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」といいます。パウロの内面にはキリストが生きています。そのキリストがパウロの内面にあって福音を証することへと駆り立てています。自分の内面に何が生きているか、問われているようです。

2020年1月28日火曜日

「牧師は礼拝で癒される」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「牧師は礼拝で癒される」

 この時期になると涼しくなり、過ごしやすくなります。しかし、身体にとっては夏の疲れがどっと出るころかもしれません。与えられている全国の仕事にも疲れが出てくるころです。こんなときは、日曜日の朝まで疲れが残ってしまうことがあります。牧師として心がけていることは、日曜日の朝は元気一杯でいることなんですが。そろそろ年とったということでしょうか。

  さて、先週の日曜日の朝は起きるなり「疲れた」という気分でした。これではいけないと自分を奮い立たせるのですが、エンジンがかかりません。「だるさ」が全身をつつんでいるのです。申し訳ないことですが、そのまま礼拝の時間となりました。先週は3つの礼拝があり、自分でも大丈夫なのか心配でした。ところが、礼拝が始まり、前奏がながれだしたころ不思議な平安にみたされました。そのまま説教になり、自分の内からなんともいえない心地よさにつつまれたのです。第2の礼拝は呉教会でした。全身の力がぬけていくのがわかるくらい「のほほん」とした状態になり、第3の夕礼拝にいたっては、逆に力強いエネルギーをいただきました。

  礼拝によって癒される。牧師にとって貴重な経験でした。これまでも、礼拝の前には前日から「礼拝そのものが癒しとなりえますように。主イエスの御言葉によって心も身体も癒してください」と祈ってきました。礼拝によって癒されるということの現実を体験できて喜びにみたされました。

  礼拝は神さまが私たちにサービスしてくださることと言えます。私たちが神さまにサービスするのではない。そのことを教えてくださったのだと思います。

2020年1月27日月曜日

「本当に所有しているの」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「本当に所有しているの」
マタイ  13:12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
 「あなたは何を持っていますか」と聞かれた時、どのようにこたえるでしょうか。特別に何をと言う答え方ができるかなと思います。物はたくさん持っていますが、人や、思い、考えなども持っているものになるならば、いったい何を持っているのかと考えてしまいます。もしかすると持っていると思っているだけで、本当は持っていないかもしれません。私はこれを持っていますと言える人は幸せな人生を送っているのです。
「種まきのたとえ」を聞いた弟子たちは、「なぜたとえで語られるのですか」とイエス様に質問をしています。たとえ話は、み言葉の真理を分かりやすく説明するものです。弟子たちにとって、なおわかりにくい話だったのかもしれません。弟子たちは、与えられている神様のみ言葉を自覚し何を持っているかがわかっていなかったのでしょう。そうなるとイエス様のたとえ話も理解できない難しい話となります。
何回かの引越で「ため込む」「捨てる」という問題にぶちあたりました。引越の荷物より、捨てる荷物が多かったのです。どうしてこんなに物をため込んだのか?結局2tトラック2台分ありました。3人の子どもの小さいときからの洋服や物。思い出があり捨てられない物。2,3回つかって放置された運動品。趣味でためこんだ陶器。布団。結局どうしようもなくて、すべて処分してしまいました。「捨てる」ことの難しさを感じます。「もったいない」と思うと、捨てられないのです。かといって使用するわけでもなく。けれど捨てられずに悩んでしました。どうすれば捨てられるか?引越屋さんが来て荷造りが間に合わない瞬間に捨てる決心がつきました。イエス様は「自分を捨て、自分の十字架を背負って従ってきなさい」と教えてくださいました。捨てることの難しさを知って、あえて言われたのです。物が捨てられない私が、自分を捨てることができないのは当然のことです。ため込むことがいかに無駄を生み出すかを知らされました。内にため込んでしまうと、新しいものは何もはいってきません。自分という大きな荷物を空っぽにしてはじめて、神様を迎えるスペースが空くのです。捨てられないのは、たくさん持っているからです。
 イエス様は「持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」と言われました。何を持っているかを認識できないと、取り上げられたことも理解できません。私たちは神様のみ言葉を持っています。それを持っていることの認識がなければ、人に分け与えることもできないのです。「何を持っているかに注意しなさい」というイエス様のみ言葉もあります。自分は何を持っているのかを点検してみることも大切です。

2020年1月26日日曜日

きままな休日・阿久根のおにぎらず

礼拝後にすぐに鹿児島教会に移動!
すると阿久根教会の皆さんが「おにぎらず」を
作って持たせてくださいました。感謝!

2020年1月25日土曜日

明日は礼拝、総会です。


説教者:立野泰博牧師(主任)
礼拝後 2020年教会定期総会が行われます。

聖書朗読 

@第1日課: イザヤ    8:23-93  〈旧約 1073頁〉

@第2日課: 1コリント  1:10-18   〈新約  299頁〉

@本日福音: マタイ    4:12-23   〈新約   5頁〉

2020年1月24日金曜日

2020年1月23日木曜日

「聖霊は内へと消える」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「聖霊は内へと消える」

 体重が増えて夏を迎えました。この夏に変わったことといえば、汗をたくさんかくようになったことでしょうか。毎日、毎日、朝からTシャツを何枚も変えて過ごした夏でした。朝顔を洗いながら汗をかいているなんて。やっぱりすこしダイエットして痩せようかと真剣に考えていたら秋になってしまいました。

 今年の夏は、1枚のTシャツを好んで着ていました。夏の空のような青空と雲、白い鳩が飛んでいるものです。そのTシャツを着ていますと、青年からよく声をかけられました。「U2」ですねとか、先生も若いですねとか、先生はこのバンドのファンですかと。どうも、有名なロックバンドのTシャツだったみたいです。

 ところが、このTシャツは不思議なシャツでした。いまになって気がついたのですが、初めは白い鳩が飛んでいたのです。しかし、何回か洗濯すると鳩がだんだん消えてきて、そのかわりに青空になってくるのです。それがすぐに消えていくのではなく、だんだん消えていくのです。今ではもう少しで青空と白い雲のTシャツになってしまいそうです。

 この消えていく鳩をみながら、聖霊を思い浮かべていました。私たちに与えられた聖霊はいつか消えてしまうのだろうかと。いえいえそれは違います。消えていくのではなく、その人の中に吸い込まれていくのです。私たちに与えられた信仰が、青空のように澄み切った信仰であれば、そこに飛ぶ聖霊の鳩は内へ内へと入ってくださるのではないでしょうか。私たちの人生、聖霊と向き合っているのではなく、共に生きているのです。私の中に働かれる聖霊は、いつでも共にいて主イエスの御言葉を思い出させてくれるのです。だから私たちは弱いときに強い平安をえている。

2020年1月22日水曜日

「子どもだから、いや」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「子どもだから、いや」
ルカ 18: 17 子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。
ある人が語学を勉強するのに、良い方法をみつけたと教えてくれました。その人はドイツ語を勉強する目標を建てました。その頃自分に子どもが誕生しました。彼は、子どもが言葉を覚えていくのにあわせて自分もドイツ語を覚えることにしたのです。ところが、1年も経たないうちに諦めたそうです。なぜなら子どもが言葉を覚えていくペースは、驚くほど速かったというのです。子供の成長の速さと、学ぶスピードはどこからくるのか。子どもはなにもできないと考えていると大きな間違いをしてしまうものです。
イエス様のもとには、祝福をうけるために多くの乳飲み子が連れられてきます。福音書では、弟子たちはそれをみて叱ったと書かれてあります。乳飲み子たちがうるさかったというわけではありません。ユダヤ社会では子どもは成人するまで女性に属しており、律法順守の義務を持っていませんでした。ということは救いにも与り得ない存在だったのです。その子どもたちをイエス様は受け入れられたのです。イエス様は、たとえ子どもでも、いや子どもだからこそ神様の祝福を受けるべきと招かれたのです。ただ子どもとしてだけではなく、一人の救われるべき人間として招かれたと思います。
「乳離れ」というのがあります。これは子どもの自立と関係があるのでしょうか。私は育児の専門家ではないので、動物に乳離れがあるのかと調べてみました。動物たちの乳離れは、次ぎの子どもが生まれるとか、親がナワバリから子どもを追い出すとかといった必要から起きるとありました。ですから、子どもが哀願してもかなり邪険に突っぱねてしまうそうです。なにせ親も生きていかねばなりませんので。しかし、子どもたちはもしお乳がまだ飲めるチャンスがあれば、その機会を見逃すようなことはありません。そこに年齢はないそうです。キリンなどはすでに自分でも授乳しているものまで母親の乳を飲んでるそうです・・・。動物園の最長記録はというと、ナマケグマとマレーグマの混血のオスだったそうです。彼はなんと10年間の全生涯に渡って母親のオッパイを飲みつづけたそうです。信仰には乳離れがあるでしょうか。自立した信仰という言葉をききますが、自立したからといって絆がなくなることはありません。神様と私たちは、神様から自立する存在ではなく、むしろ乳離れかなと思いました。
今日の福音書で問題とされている「子ども」は、乳飲み子です。乳飲み子は信頼の固まりです。親に対して絶対的な信頼を持っています。しかも、乳飲み子が言葉を受け入れていくスピ-ドは驚くものがあります。信頼している人の言葉を、たっぷり吸収していくのです。神の国はこのような者たちのものです。律法が守れるかどうかの問題でなく、み言葉を聞き受け入れることができるかどうか。それが問題です。

2020年1月21日火曜日

「いくつあっても」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「いくつあっても」

 先週1枚の御案内はがきをいただきました。ブテックの春ものの案内です。自分にはあまり関係ないなあ~と思いつつ眺めていました。するとその中に不思議な一文をみつけて、その解釈にとまどってしまいました。その一文とは・・・。

 「特に、タンスの中がいっぱいの方におすすめいたします」というものです。

 新しい洋服のセールなのです。不思議なのは、タンスの中がいっぱいならば、もう買う必要はないのです。もっと無駄遣いをしませんかというものでもなし、もうこれ以上買う必要のない方へのお勧めかなとも考えてしまいました。しかし、それでは宣伝にならないのでは。この真意は何か。逆効果をねらったものか。

 そこへある方がきて教えてくださいました。「好きなものはいくつあってもいいもんでしょう。タンスの中がいっぱいでも、もっといいものがありますよという意味ですよ。先生ははじめからよけいな、いらないものという考えでしょう。たとえばパソコンをすでに持っていても、また新しいパソコンがほしいでしょう。好きなものはいくつあってもいいんですよ」と。納得できたような、そうでないような。

 どの視点、どの場所、どこに立つかは重要な問題です。いったい自分はどこに立って考えているのか。その場所が違うと、わかる話しもわからない話しになるのですね。私たちは神さまの御言葉、すなわち聖書の上に立っています。そこだけは、ここにいらっしゃるすべての方々に共通する部分です。考え方はそれぞれでも、ある一点では一つになれるということは素晴らしいことです。ただし、聖書(みことば)の上に立つには、御言葉を愛し受け取っていなくてはなりません。こころは御言葉でいっぱいだけれども、まだ御言葉は必要なんでしょうねえ。わかります?

2020年1月20日月曜日

「配慮と優しさ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「配慮と優しさ」
 ヨハネ  4:23 まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。
 私たちのもとから一人の兄弟が天に召されました。今日が誕生日で56歳になられるはずでした。心筋梗塞という急な病気で、あっという間に私たちのもとから神様のもとへいかれました。本当に優しい方でした。とくに弱い方々、子どもたち、お年寄りには優しく、みんな彼の笑顔が大好きでした。「どぎゃんでしょうかね~」が口癖でした。絶えず他者のことを考えておられました。「どぎゃんでしょうかね~」の言葉の中に、暖かい優しさをいつも感じていました。その優しさの横にはいつもイエス様がおられたのでした。
 イエス様は旅の途中で、サマリアの町に行かれました。そこで一人の女性と出会います。サマリアにおける伝道の記事はヨハネ福音書だけにしかありません。ユダヤ人とサマリア人との間には長い対立があり、礼拝(神殿)も違うところで行っていました。礼拝の場所が違うとうことは、交わりの拒否を意味します。しかし礼拝とは神様との交わりであり、神様が細かな配慮をして、私たちに仕えて下さる場です。まことの礼拝とは何かをイエス様は教えられたのです。
「禅の道・茶の道」という本の中に、興味深い言葉に出会いました。その言葉とは、「風邪と客は大事にすると早く帰る」というものです。きっと、あまり大事にされると客は窮屈なのでしょう。だから早く帰ってしまうというのです。客をもてなすということは大変難しいことだと言えます。私たちの教会へも、だいたい平均で6名位の新しい方が来て下さいます。その方々によって応対には気を使います。そっとしておいたほうがいい方もおられます。兄弟姉妹のように応対されたほうがよい方もおられるのです。どちらにせよ、まずは言葉をかけることが大切なのです。職務質問になってはこまりますが・・・キリストは時に応じて、きめ細かい配慮をしてくださいます。私たちがキリストの御心を伝えるときに、どのような配慮ができるかを考えたいものです。教会の礼拝もサービスといいます。教会も牧師も配慮というセンスをどこまで気づいているのかと考えさせられました。
 イエス様は「まことの礼拝をする者たちが」と言われました。この「まこと」とは何かと思います。礼拝とは神様と信じる私たちとの交わりの場です。神様はきめ細かな配慮をもって私たちを迎えてくださいます。それにきがつくセンスとは何でしょうか。教会の敷居が高い、牧師の説教がわからない、交わりが苦痛という言葉が聞こえてくるたびに悔い改めをせまられています。

2020年1月19日日曜日

気ままな休日・上天丼弁当

会議の昼食は
ほっかほっか亭の上天丼弁当。
久しぶりに食べました。
うん!いけますよ!

2020年1月18日土曜日

明日は礼拝です。


説教者:立野泰博牧師(主任)
皆さんのお越しをお待ちしています。

聖書朗読 

@第1日課: イザヤ    49: 1- 7  〈旧約1142頁〉

@第2日課: 1コリント   1: 1- 9  〈新約  299頁〉

@本日福音: ヨハネ    1:29-42  〈新約 164頁〉

2020年1月17日金曜日

先週の礼拝の様子

阿久根教会の礼拝堂が整備されました。
先週の礼拝風景です。
聖壇周りが広くなって、聖なる雰囲気があります。
まだまだ整えられていきますよ!
お楽しみに!

2020年1月16日木曜日

「神様とキャッチボール」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「神様とキャッチボール」

 ちょっとダイエット、いえ運動をしています。牧師執務室に座っていますと、パソコン作業が多くからだを動かすことがあまりありません。しかし、何か定期的に運動といっても長続きがしません。やっぱり、好きなことを、開いている時間に、楽しくやれるものを捜した方がいいものです。それでは、牧師はなにをしているでしょうか。じつは長女とキャッチボールをはじめました。

 これがなかなか楽しい運動になっています。長女が学校から帰ってくるのが待ち遠しいくらい楽しい時間になりました。そこで、思い出したことがあります。それは、グローブを買ってもらうときのあのウキウキした感覚。私もはじめて父にグローブを買ってもらったときの、あの新鮮で心躍る気持ちを久しぶりに思い出しました。最近なくしていた感覚でもあります。表現するのが難しいのですが、新しいグローブと新しいボールで父とキャッチボールをする。なんて楽しく、素敵な時間だったことでしょうか。父を天に送って長い月日がたちましたが、その思い出だけはキラキラと輝いているものです。

 主イエスとの関係も、キャッチボールかもしれません。信頼ももってボールを投げる。すると信頼をもってボールが帰ってくる。私たちが投げるボールは、祈りであったり、嘆きであったり、訴えであった、感謝であったり。帰ってくるボールには御言葉がいっぱい詰まった平安でったり、十字架の言葉だったり。必ず応答があるのです。話しをしながら、ともにボールを追っかけてみたり。そこには一人ではないという確信が与えられるのです。

 そういえば、洗礼を受けたときの気持ちと、グローブを買ってもらったときの気持ちとは似てるような気がするのですが。

2020年1月15日水曜日

「反応とかたくな」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「反応とかたくな」
 マルコ 8:17 まだ、わからないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
 私たちは自分たちの言葉や行いを「批判」されると、反撃するか、落ち込むか、受け流すか。それぞれに何らかの反応をします。その時に、批判されている内容にもう一度目をとめて考えることをあまりしません。まずそれができれば、反応の仕方も変わってくると思います。批判されている内容を、自分のことではなく批判している側に問題ありとすり替えて考えることもあります。それでもまずは冷静になって事実を見ることが一番最初にすることです。
イエス様の言葉に対して、弟子たちが方向違いの考えをしていたときに言われたことばです。イエス様が何を言おうとされているかに集中できず、イエス様の言葉を、まったく関係のないことがら(自分たちの勝手な思い・受け取りやすい考え方)にすりかえてしまうことへの忠告だと言えます。弟子たちは、自分がわかりやすいことにすり替えて聞いています。このすり替えがおこると、イエス様の本来のみ言葉の意味も分からなくなるのです。
 大阪でお世話になった先生が天に召されました。かたくなな先生でした。脳梗塞という病のため、言語障がいが残りました。牧師として話す言葉を奪われたのです。人の名前や日常会話の大部分が奪われました。それでも、なんとか言葉にしたい、伝えたいという気持ちが全身にあふれ、最後まで言葉を発することの闘いの日々でした。闘病生活での出来事を奥様が教えてくださいました。「主人は言葉を奪われてしまいました。しかし、いくつか残された言葉もあります。祈りです。みんなが主の祈りをいのるとき、初めから終わりまで『主よ、信じます』を繰り返していました。何度も何度も繰り返していました」と。先生には、この祈りを通して最後まで教えられました。「主よ、信じます」という信仰の言葉が残されたこと。それを通して牧師とは最後までどうあるべきかを教えられたのです。牧師は病に倒れてもやっぱり牧師です。それが召命ということです。主の祈りにあわせて「私は信じます」という応答は、牧師が伝えるべき福音の全てを語っています。これはかたくなではなく、真実なのでしょう。
 教会に対する様々な厳しい意見をいただくことがあります。無茶なご意見もありますが、それでもその人が何かを思っている。教会ならと期待があるということかもしれません。自分のほうに都合がいいようにして、逆に非難するまえにちょっと立ち止まって考えることも大切です。「心がかたくなになっているのか」というイエス様の声が聞こえてきます。教会はかたくなになってはいけないと思います。

2020年1月14日火曜日

「次が大事」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「次が大事」

 一年に一度?の「CCLコンサート」が近づいてきました。今秋は「プロムナード・コンサート」と題して行われます。そのCCLの集まりをかねて、伝道委員会が行われました。たくさんの興味ある話しの中で、フルート奏者の梶川純司氏が次のようなことを教えて下さいました。

 「コンサートの最中に、この音はあきらかに間違い、しまったという音を出すときがあります。しかしそのときは、次の音でその間違いの音をどう生かすことができるかです。間違ったことにこだわらず、間違いを生かすことを考えます。そこに生演奏の醍醐味があると思います」。

 そうだなあと思いました。私たちは間違いに捕らわれてしまいます。捕らわれたら、くよくよします。落ち込みます。二度と間違いはすまいと固くなります。しかし、間違ってしまったことはそれとして、次ぎにその間違いが生きるようにもっていくことの方が大切だといえます。そうすると、その間違いも間違いではなくなり、もっと素晴らしいことへと導かれる過程の一つになるのです。ただし、間違いをごまかしてはいけないのでしょう。間違いを生かすには、間違いは間違いとしてきちんと自分の中に受けとめねばならないからです。

 私たちも神さまの前では、多くの間違い、過ちを繰り返します。なかったことにしてほしいような現実もたくさんあります。しかし、それでも神さまは主イエスをとおして、新しい命に招かれていることに気がつくことの大切さを教えてくださいます。十字架を見上げるとき、私たちは過去の過ちから解放され、新しい生き方へと招かれます。すべては主の十字架によって、罪あるものから救われた者へと変えられるのです。罪は罪として覚え、なおそこに留まらず救われた自分を感謝したいものです。

2020年1月13日月曜日

「みんな」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「みんな」
マルコ  14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
日本人に何かをさせるには一言いえばいいそうです。それは「みんなやってますよ」と言う言葉だといいます。私たち日本人は「みんな」という言葉をよく使います。「みんなやってる」「みんなもってる」「みんな嫌いです」。しかし大抵この「みんな」は2,3人のことです。それでも全体のことにしてしまいます。一人では自信がないのか、また一人ではいたくないさみしがり屋なのか。「みんな」という中に何か問題がありそうな気がします。
イエス様は逮捕される前に、「あなたがたはみなわたしにつまずく」と弟子たちの離反を予告されています。弟子たちもみんなと同じで、自分のもとから散っていくと言われました。ペトロは「わたしはつまずきません」と言います。イエス様はそのペトロに「今夜、鶏が二度泣く前に、三度わたしのことを知らないという」と告げられました。ペトロは、わたしはみんなと違うと言いたかったのでしょう。しかし、結局みんなと同じになってしまいました。「みんな」の力に押し流されない「わたし」とは何かと思います。
集団になると・・最近このことを考えさせられます。小さな子どもまでも「みんなが、みんなが」といいます。一人一人とは話しができるのに、集団になるとまったく関係が作れない学生もいます。みんなに注目されたいのか、一人ではできないけれど、集団になってしまうと派手なことをしてしまう。個と集団の違いは、いったい何でしょうか。集団になるとホントの自分ではなくなってしまうことの危険性を感じながらの集団活動をしていました。聖書研究会は「出エジプト記」を学びました。エジプトの苦役から解放するために、神様はその苦しみを見、そして聞き、知ったとあります。そして、モーセをリーダーとして「集団」で約束の地への大移動を慣行するのです。あくまでも「集団」行動でした。しかし、この集団がモーセを悩ませるのです。神様はこの集団をひとまとめにして見ておられるのか?どうもそれだけではないのです。集団の中の個の存在を大切にしておられる。結局「集団の中の個であるあなたは、私を信じるか」と問われているみたいです。
ペトロも「みんながつまずいても、わたしは・・・」と言いました。しかし「みんな」とおなじようにつまずき、イエス様をみ捨ててしまったのです。たとえ「みんなとは違う」といっていても、人間は流されていくのです。イエス様はすべてを知って、ペテロをみつめておられました。人は神様の前にたった一人で立たねばならないときがきます。そのとき「みんな」は通用しないのです。

2020年1月12日日曜日

きままな休日・たまにはカップ麺

授業が朝から4コマありました。
この日は昼食の時間があまりとれず。
で、終わってからのおやつ時間にカップ麺。
これが美味しいですよ。

2020年1月11日土曜日

明日は礼拝です

説教者:吉谷正典 牧師(引退教師)
どうぞお越しください
聖書日課

イザヤ  42:1-9

使徒言行   10:34-43

マタイ   3:13-17

2020年1月10日金曜日

鹿児島教会に納骨室

鹿児島教会に納骨室が完成しました。
カフェもでき、納骨室も整備できました。
阿久根教会もどんどん整備されていきます。
お楽しみに!

2020年1月9日木曜日

「やることがある」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「やることがある」

 子どもたちの冬休みも、やっと、やっと終わりが見えてきました。宿題にキャンプと予定があるときは平和なのですが、中旬以降は何もすることがなくなります。そこからが、親子の勝負ところでしょうか。あと3日というところまでくると、無事に過ごせたという感動まで味わいます。

 さて、わが家の小学生の娘たちにはどんな冬休みだったのでしょうか。それぞれが過ごした2週間の時間に、何をしてきたかが問われることでしょう。とはいうものの、けっこう充実してたと思います。次女は毎日「小さな保母さん」として、ルーテル保育所に通いました。何をしていたかはわかりませんが、自分では働いていたつもりかもしれません。暖かく迎えて下さった方々に感謝します。それでは長女は何をしていたか。毎日、私の昼食をつくってくれました。その創作料理に驚くこともありました。卵あんかけソーメン。豚キムチラーメン。焼き肉のたれ焼きうどん。温ソーメンのカレーかけ。ニコニコ麺・・・etc。どれもおいしくいただくことができました。

 好きなことを好きなだけできるということは、とても幸せなことです。しかし、もっと大切なことは、それをする場所が与えられているということ。そして与えられたところで楽しくそれをやるということです。小さな保母さんでも、小さなシェフでもいいのです。それぞれに、自分の場所が与えられていることに感謝すべきだといえます。

 「今日やることがある。今日自分の場所がある」。このことが、私たちに生きる力を与えてくれるのです。しかしその2つのことを私たちに与えてくださっているのは、神さまなのだとという感謝を忘れないことです。

2020年1月8日水曜日

「自分が変わらねば」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「自分が変わらねば」
ヤコブ 1:19 わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。
「自分が変わる」ということは難しいことです。最近の説教ではそのことをよく話していると教えていただきました。確かに新しい教会に赴任して、いままでと違うことに戸惑いを感じることもあります。そんなとき、それを受け止めるには自分が変わることを求められます。また同時に教会も変わることを求められます。ただし、教会には変わらないもの、変えてはいけないものもあります。それは「み言葉」「信仰」「神様の恵み」です。それをはっきりさせるために変えていく努力をしなければなりません。イエス様が大江教会に求めておられることは何かを常に考えています。
ヤコブは、神様の言葉を聞いて実践するというテーマを持っています。その時、自分中心をどのように乗り越えるべきかを語ります。最初に3つのことの実践するように勧めます。「聞くのに早く」「話すのに遅く」「怒るのに遅く」です。これを読んでみると、すべては相手に合わせなさいということでしょうか。自分が変わるということを求められているようです。ヤコブの時代にも教会内で様々なトラブルがあったようです。そこには生身の人間の集まりがありますから、言い争いや分裂などもあったことでしょう。しかし、神様が与えてくださった交わりはそれを乗り越えるために相手を思い、愛し合い、赦しあうという恵みを与えてくださっています。そのためには「わきまえる」ことが大切なのです。
教会からの手紙を書いてくださる姉妹が、素敵な話しをしてくれました。「牧師先生、毎回教会からの手紙を書かせて頂いていて気がついたことがあります。実は『受』けるとい字を書いていると、いつの間にか『愛』という字を書いてしまうのです。上の方は同じなのですが、いつも愛になってしまう。受けることは愛に変わるのですね」と。意味のある言葉だなと思いました。神様からの恵みを受けとめたときに、そこに愛が生まれる。その愛を必要としている人たちと共有するときに愛は働くのだと。変わることも大切なことです。
ヤコブは「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」と教えています。私たちは、自分のことを話したい。聞いてもらいたい。訴えたいと自分を中心に考えています。しかしヤコブは、「わきまえなさい」と教えます。自分を変えていくことが「わきまえる」ということです。私たちは職場でも関係の中で生かされています。何かうまくいかないことがあったとき、主にあって「自分が変わる」ことを考えてみる必要があります。変わることでうまくいくことがある。私たちの人生も、主によって変えられて今があるのです。

2020年1月7日火曜日

「何が愚かなのか」


クレヨン牧師のミニエッセイ

「何が愚かなのか」

 仏教寓話集の中に次のような話しがあります。

 「あるところに、愚か者がすんでいました。あるとき、なまのゴマを食べてみると、ちっともおいしくありませんでした。そのつぎに煎って食べてみますと、それは大そうおいしく食べられました。そこで、煎ったゴマの種子をまいたら、なまの種子をまくよりおいしい実があるだろうと思って、なまの種子のかわりに煎った種子をまきました。さてどうなったでしょう」。

 休暇中、温泉に入りながら、「いったいこの愚か者の何が愚かなとこか」と考えていました。そんなことを考えて温泉に浸かっている自分はもっと愚かかもしれないのですが。いざ、考えてみますなかなか、何が愚かなことかがみつかりません。簡単にいえば、煎ったゴマでは芽がでないことを知らないことの愚かさです。しかし、根本にある愚かさがあるのではないかなと思ったのです。

 「なまのゴマではおいしくないが、煎ってみたらおいしかった」ところが、そもそも間違いの始まりです。自分に都合がよいときに、人は愚かな道へと進んでいくのではないかなと思います。煎ってみておいしくなったのは、なまのゴマがゴマであったからなんですね。根本にある確かさは、はじめのなまのゴマにあるのです。それを知らない、気がつかないところが愚かなんだと思います。

 なんだか禅問答風ですが、主イエスによって救われた私は、罪人である私がいるから恵み多い人生を過ごせるのではないでしょうか。罪人である自分をどれだけ知ることができるか、罪人である自分にどれだけ気がつくか。そこをたえず確認することによって、神様の救いの確かさを実感できると温泉で気がつきました。

2020年1月6日月曜日

「目的は何か」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「目的は何か」
ルカ  10:1 主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。
「会議とは人の仕事をやめて行う仕事である」という定義があります。大江教会の役員会はどうかを振り返っています。私たちが行っている会議は「会議をおこなうための会議」ではないかと反省しています。「会議とは人の仕事をやめて行う仕事である」という定義をまず考えるべきです。この会議は、人の仕事をやめておこなう必要がある会議か。それにふさわしい人を集めているのか。目的に添った人を集めて、効率よく会議ができているか。これから役員会をしていく中で問うべきことです。理想の会議は「目的が明確である」「必要な人が集まる」「役割が明確化されている」「それぞれが貢献している」ものです。このような会議はみな満足し、収穫があります。会議はこうでなくてはいけません。つまり目的がきちんと共有できているかどうかです。
イエス様は七十二人を選び、宣教へと派遣されました。その時、「何ももっていくな」「途中でだれにも挨拶するな」と言われています。まず福音を宣べ伝えることが急務であるといわれるのです。一番の目的は「神の国が近づいた」ことを伝えることです。この目的をはっきりさせ、共有し、派遣されたのです。
昨年は被爆70年、戦後70年の節目の年を迎えました。私は70年前の戦争を何一つ経験していません。学校の教科書や、その後に自分で学んだにすぎません。本の中での戦争、海外にでかけていっても、日本で守られた所からながめた戦争しかしりません。サミットがそこで行われており、いま何を大切にしなければならないかを考えています。その中で一番心にのこったのは、ローマ法王ヨハネ・パウロⅡ世の言葉でした。彼は広島へこられたときにつぎのようなメッセージを世界へ送られたのです。
  過去を振り返ることは、将来に対する責任をになうことです。
  広島を考えることは、核戦争を拒否することです。
  広島を考えることは、平和に対しての責任を取ることです。
 今年行われた70年目の節目にあたる原爆祈念式での子ども宣言・平和への誓いでもよまれました。過去の過ちを見据えることだけが目的ではありません。そのことを悔い改めることだけが目的ではありません。しっかりとそれをふまえ、将来に対してどのように平和を創り出していくかが目的です。
イエス様は七十二人を任命されました。そして「御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とあります。そのときに、目的、人、手段、貢献をはっきり伝えておられます。そして一番大切な「神の国は近づいた」という福音を伝えることを命じられました。これらのことが共有できていた弟子たちはおおきな収穫をもって帰ってきたのです。