2019年2月28日木曜日

「おのずから」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「おのずから」
 
 教会の会議に行く途中の新幹線のなかで、「桃李不言下自成蹊」という言葉に出会いました。う~んと唸りながら考え込んでしまったのです。この言葉は司馬遷が著した「史記」の中の「李将軍伝賛」に出てくる言葉です。
 
 「桃李はもの言わざれども、下おのずから蹊(みち)を成す」という意味です。簡単に説明すれば、桃や李(すもも)は「美しく咲いたから、果実を美味しく実らせたからいらっしゃい」と自己宣伝などはしない。ただ、黙々とみずからの勤めとして精一杯花を咲かせ、あるいは実をみのらせているだけであるが、その美しさ、おいしさに惹かれて人々がやってくるので、下におのずから小径ができたというのである。きっとそういうことです。
 
 読んでいた本の著者は続けて、人も商売も、いかなることも、いかに宣伝しても実がなければ人は集まらず、間違って集まっても、やがて去ってゆくであろう。だまっていても中身が本物なら、中身がゆたかならば、おのずから招かれずとも人は集まり、商売ならば繁盛してゆくものである、と書いておられました。
 
 教会の会議で、「どうすれば人が集まってくるか」という声をよく聞きます。答えはでません。教会の中身が本物なら、おのずから人は集まってくるのでしょう。しかし、問題は中身の内容です。それはいったい何かと考え込んでしまったのです。それがわかれば教会はふたたび成長していくのですが。

2019年2月27日水曜日

「有能な妻」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「有能な妻」


箴言 31:12 彼女は生涯の日々、夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない。

箴言の最終章は「有能な妻」についての格言で締めくくられています。人生における最大の幸福は、よき伴侶を見つけることだというのです。ここに登場する「有能な妻」は、料理や洗濯などの家事がよくできるというのではありません。彼女の働きは家の中の経済活動の中心です。生活全般の要の役割を担っています。そこでは、彼女がどのように生きているかが問われ、神様と共に生きる事が「有能」であると言います。

M.ルターの奥さんは、カテリーナ・フォン・ボラという人です。彼女は良妻とも悪妻ともいわれます。人々の記憶に残る働きをし、影響を与えた人だったのでしょう。だから、いろいろな伝説がのこり、人々が言い伝えてきたのだと思います。性格的には激しい人だったので悪妻などと揶揄されたのでしょう。しかし、最近発掘されたルターの家の地下台所からは、その生活ぶりや多くの人々の世話をしたカテリーナの働きの大きさがわかってきました。

私が感銘をうけた逸話は、ルターが宗教改革の動きに行き詰って塞ぎこんでいいた時、カテリーナが部屋に喪服をきて部屋にやってきます。ルターは「誰か天に召されたのか」と聞きます。すると彼女は「あなたのイエスさま・キリストが死んでいます」と言いました。ルターはハッとさせられ、それから宗教改革をより強く推進していくことになったという話です。カテリーナは、ルターにとってかけがえのない存在でした。

箴言は「彼女は生涯の日々、夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない」と言います。これは妻だけのことではなく、夫も同じだと思います。お互いが神様を中心として結びあっているならば、そこには幸いがあります。夫婦関係だけでなく、家族でも、職場でも神様を中心として共に生きることの大切さを思います。

2019年2月26日火曜日

「預言と予言は違う」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「預言と予言は違う」
 
 プロ野球日本シリーズが始まり、いつもは見ないプロ野球放送を観戦しています。なかなか面白い試合内容です。ヤクルトが絶対有利との予想とは違い、ライオンズの健闘ぶりがなかなかです。最終的には投手力が決め手かな、などといっぱしの解説者きどりでみています。(これは月曜日の文章ですが・・・)
 
 さて、このプロ野球でもサッカーでも相撲でもそうですが、必ずシーズン前には解説者の予想というものがあります。しかし、当たったためしがありません。今回のプロ野球にしても、この両チームが優勝するなんて予想した解説者はいないのです。それは、サッカーでも相撲でもそうです。しかし、なぜ当たらないのかということを考えてもみませんでした。きっと、人間の考えだからだと思います。
 
 私たちは未来がどうなるか、知りたくてたまりません。予想、予言のたぐいはこの世には氾濫しています。もちろん聖書の中にもあります。私たちの未来はどうなっていくかなど・・・。しかしそれは「預言」なのです。つまり神様の言葉を預かって人が語ることなのです。
 
 人間の考えだけでは未来の確かな予想などできないのです。そこには自分勝手な考えだけしかあらわれてこないのです。主イエスは「わたしの言葉は廃れない」と言われました。未来を不安に感じるよりも、いま主イエスの御言葉に立ちたいと思います。

2019年2月25日月曜日

「小さな存在の中に知恵」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「小さな存在の中に知恵」

箴言 30:25 蟻の一族は力はないが、夏の間にパンを備える。

六日市集会への道には蛍の道があり、蛍がたくさんいます。ローマ・カトリックの祈りで「蛍の祈り」というものがあります。

 「神様。ほんの少しだけ あなたの光りを 遠ざけてくださいませんか?

      わたしはこんなに小さい 消し炭みたいなものですから

      どうしても 夜がこないことには・・・

      闇の中なら わたしの心は勇気をふるって

      希望の星をほのかにきらめかせるでしょう。

      そして どんな貧しさの中にひそむ この小さなよろこびを

      人々の心に伝えることができるでしょう」

 ひとつの蛍の光りはちいさいものですが、多くなれば山全体がクリスマスツリ-となります。

箴言30章は「アグルの言葉」となっています。しかしこのアグルという人物が何者で、どこまでがアグルの言葉なのかはっきりしません。冒頭には「神よ、わたしは疲れた。神よ、わたしは疲れ果てた」とアグルは言います。アグルが神様の知恵を探し求めたが、結局はわからなかったということです。しかし、神様が作られた小さな存在の中に「知恵」を見つけたということでしょうか。

「黒い絨毯」という映画がありました。アマゾンを舞台にした、恋愛映画のような不思議な物語でした。アマゾンで農地を開拓し大金持ちになった主人公が、アマゾンにいる蟻と戦ってすべての財産をなくすというストーリーでした。その蟻の描き方は、1匹から始まって最後には全てを食いつくす集団として出てきます。山中に広がった様子が「黒い絨毯」と呼ばれていました。この蟻は、実存するらしいのですが、まずは1匹の偵察蟻が集落に紛れ込みます。そこに食べ物があれば数日後には何百万・何千万の大群となって押し寄せてきます。そして財産を食いつくされる。映画は、主人公の男性がこの蟻と戦い全てを無くすが、最後に奥さんに言うのです。「あなたに与えるものは愛しか残らなかった」と。

箴言は「蟻」「岩狸」「いなご」「やもり」という小さな存在のなかに「知恵」を見ています。どんなに小さな集団であっても、そこに「知恵」があれば、大きな存在となるのです。神様はそのような「知恵」をすべての人に与えておられます。私たちも小さな存在かもしれませんが、そこに神様からの「知恵」があるとき、その働きは神様の働きとして大きなものになると教えられます。

2019年2月24日日曜日

きままな休日・日本三大饅頭だってよ!

仙台来客がありました。
そして、おみやげに薄皮饅頭をいただきました。
日本三大饅頭の1つとか!
うん、朝から美味しい恵みをいただきました。感謝!

2019年2月23日土曜日

明日は礼拝です

明日の礼拝
大江教会とのTV中継礼拝です。
説教:ランディ宣教師

2019年2月22日金曜日

教会の変化あり

阿久根教会の礼拝にきました。
看板がかわりました。これでキリスト教会とわかりますね。
椅子もかわり、聖書讃美歌がおけるようになりました。
総会で決めたことがすぐに実施されました。感謝!

2019年2月21日木曜日

「ゆっくりと」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「ゆっくりと」
 
 運動不足解消に、室内歩行器?というものを通信販売で注文しました。ところがあまりの売上のせいか、2ヶ月待ってもまだ届きません。それが届いたら運動を始めようと思っています。ところが、幼稚園・保育園の運動会に出て走ったこともあり、やっぱり始めることにしました。ですから、今は毎日サウナスーツを着て走っております。とくに教会には3階まで階段があるで、ここを往復することにしたのです。
 
 初日は3往復がやっとでした。これではいけないと思い、一日に1往復ずつ増やす計画を立てました。一日1往復ずつふえることなんて大したことはないと考えていました。ところがです。3日目になり、6往復になったとたん足が動かないのです。四日目にはリタイアしてしまいました。やっぱりあまりにも急ぎすぎたのでしょうね。ついでに風邪までひいてしまいました。
 
 なにごとも急速に進めるのはいけないことです。ついあせってしまって今までの状況が見えないのです。ベットの中でうんうんとうなりながら、これからはゆっくりやろうと決めました。
 
 イエス様に従うということも、急速では疲れてしまいます。たまにはゆっくりと恵を味わうことがひつようなのです。ゆっくりと回復していく信仰もあります。

2019年2月20日水曜日

「冷静になって」


阿久根ルター君の朝のみ言葉

「冷静になって」

箴言 29:11 愚か者は自分の感情をさらけ出す。知恵ある人はそれを制し静める。

雑誌で会社内でのトラブル相談という特集記事を読みました。多くは上司に対する不満が多く、理不尽に感情的になる上司に対してどう対処するかというものです。多くの回答が「まともに相手にしないことです。まともに相手にしたら、あなたの品格が下がります」というものが多かったです。人間の心理からいえば、感情的に発言された言葉はほとんど聞かれていないという調査があります。何回も感情的になって上司が怒鳴っても聞かれてないのは、言葉が届いてないから。だから同じことを繰り返すだけだと。そう思えば「まともに相手にしないことです」という回答の意味はそこにあります。

箴言29章では、教育の限界をのべています。いくら教師から忠告をうけ、懲らしめられても聞き従わない者(頑固者)がいる。現代風にいえば、つっぱる生徒に教師はお手上げの状態になることがあるというのです。そのような時に教師はどうするか?まずは教師から「冷静になれ」と教えています。

風邪の治し方は、昔からいろいろあります。野菜ジュ-スを飲むといいとか、ニンニクをすりりおろして水に溶きうがいをする、卵酒、熱湯に入れたレモンを飲む、足を熱いお湯につける、山芋シップ、梅干しの黒焼き・・・。それほど風邪は治しにくいというか、治し方が見つからない病気かもしれません。風邪は万病のもと、なんとか早く治しておかなければなりません。それでは何が一番よい方法かといえば、それぞれです。ある有名な風邪博士のお医者さんたちに、「あなたが風邪をひいたらどうしますか?」と質問しました。全員が同じ答えだったそうです。「安静にして寝る」。人間には自分で治す力が備えられています。そのように神様が守っていてくださるのです。風邪をひいたときは、神様が「安静にしてなさい」といメッセ-ジを送られているのです。

箴言は「愚か者は自分の感情をさらけ出す」とあります。感情をさらけ出す愚かさは、それが相手に伝わらないからです。「知恵ある人はそれを制し静める」とは、本当に伝えたいならば自分を静めること。冷静になって伝える努力をすることなのでしょう。感情的な言葉では伝わらないけれど、静かに諭されたとき伝わることが多いことを箴言は静かに語りかけています



2019年2月19日火曜日

「雑文で朝がくる」

クレヨン牧師のミニエッセイ
 
「雑文で朝がくる」
 
 牧師になってまだ10年ですが、これでも毎週続けているものがあります。それは、この雑文「神様のクレヨン」を書くことです。5年ごとにまとめて本にしていますが、やっと「神様のクレヨン2」の出版のめどがつきました。楽しみにしていてください。
 
 さて、この雑文を書くという作業は、楽しい時と苦しい時とがあります。書くことが見つからない時は、今回のように苦しみながら行を埋めなければなりません。いざ、パソコンの前に座って、1週間を思い浮かべる。自分に与えられた神様の恵のどれを紹介するか。どんなことが、どんな言葉が心に残っているかを考えてみる。そこからどんな神様の御言葉に出会ったかを思い出すのです。
 
 先週もいろいろなことに出会いました。牧師会で泊まった国民宿舎の箸袋に「何のために生きているかわかる宿」と書かれてあったこと。運動会での先生や子どもたちの一生懸命な姿。ちょっとかじり読んだ「閻魔大王ものがたり」の話。メサイアの練習をみていて思ったこと。キーホルダーの見本が出来上がったことなど。
 
 しかし、問題はこれをどのようにまとめるかなのです。結局まとまらないので、今回はこのような文章になってしまいました。なにせこれ以上悩んだら朝がきてしまいますので。たくさん恵みをいただいていると、次から次と忘れていくものですね。

2019年2月18日月曜日

「一言聞いてあげれば」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「一言聞いてあげれば」


エフェソ  4:29 聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。

最近ある電話がかかってきました。高級毛皮の売り込みで、「愛する奥さんにどうぞ」とのこと。「いくらですか」と一応聞いてみました。すると「三百万円」だそうです。小さな教会の一年分の予算くらいだなと思いました。とうぜん断りましたが、それからです。その電話のセ-ルスマンが、「よろしいですよ。私も無理だとは思っていたのですが。ダメでもともと、あてにしないでお電話したのですから」というではありませんか。おかしいやら、知っているなら聞くなと、なんとも言えない気分で受話器をおきました。まったく役に立たない言葉でした。

パウロは悪い言葉を戒めています。言葉とは生き物で、言葉一つで人を励ましたり、祝福したりできます。しかし、使い方を間違うととんでもないことになります。言葉には命がありますから、言葉の中にある神様の命を大切にせねばなりません。

熊本空港にドライブにいってきました。早くもお盆休みをおえて早めに帰京する人々で満席の状態でした。事務局の時の飛行機の往復を思い出しました。私はいつも真ん中の座席の通路側に座ります。そこは3人がけになっており、隣には小学校5年位の男の子と、お母さんがすわりました。ところが座ったとたん、男の子は独り言をしゃべり始めました。「この飛行機はもうすぐでるかな」「パイロットはどんな人で何人いるか知っているよ。2人だな」とか。自問自答するのです。しかもそれから飛行機を降りるまで約2時間、しゃべりっぱなしでした。お母さんはということ、完全無視。ひとことの相槌もなく、雑誌を読んでいました。とてもつらい光景でした。きっと男の子はお母さんと話したいのでしょう。でも聞いてくれない。また聞いて言葉をかえしてくれない。これから大変だろうなと想像しました。

パウロは「聞く人に恵みが与えられるように」といいます。そのために「その人を造り上げるのに役立つ言葉」を語りなさいといいます。聞く人と語る人がいつ。この間に言葉があります。その言葉には神様が存在しておられるのですから、私たちも聞くこと、語ることに注意したいと思います。

2019年2月17日日曜日

きままな休日・バレンタインはケーキで

今年のバレンタインはケーキが!
しかも「イチゴ大福」まで入っている。
チョコもいいけど、ケーキも最高ですね。
いやそれよりも愛がいっぱいでした。

2019年2月16日土曜日

2019年2月14日木曜日

「口コミが一番」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「口コミが一番」
 
 「情報の伝達の方法で一番有効なものは何か」ということを調べた会社がありました。その結果報告を新幹線で拾った週刊誌で読みました。と書くだけで様々な情報の入手方法があるのだと思います。
 
 させ上記の結果は「口コミ」だったそうです。つまり、一人一人の口から口へと広がっていく宣伝方法のことです。それが新聞、テレビ、雑誌の情報よりも、友達からの「口コミ」の情報が一番有効で信頼性あるという結果なのです。実験では、渋谷にたむろしている女子高生10人に「プリクラがなくなるらしい」という情報を流し、それがどのくらい広がるかで実験。すると、3日後には渋谷の女子高生のほとんどが知っており、1週間では都内の女子高生のほとんどが知っていたという結果がでたそうです。実験した方も結果をだした方もあきれてしまいますが、驚きでもあります。ただし、その情報を信じているかという点では、全ての人が信じているわけではなかったとなっています。
 
 さて、それでも「口コミ」という情報伝達は、有効性はあると思います。私たちのまわりにも「口コミ」情報が溢れていますし、この情報にまどわされてもいます。どちらにせよ、それを伝える側がどれだけ伝えられる人に信頼されているかにもよります。聖書の世界はほとんど「口コミ」の世界でした。しかし、それによってユダヤ中の人たちが主イエスのもとにやってきたのでした。

2019年2月13日水曜日

「私たちの中に」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「私たちの中に」

マタイ 18:19   どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

東京の教会にいた頃「この教会の基礎は腐っていますね」とある人に言われました。牧師である私は、「そんなことはありません」と反発しました。しかし、それは本当なのです。となりのビル工事の建築家の眼でみれば事実なのです。私は聖書を読んでいたので、建物の基礎と教会の基礎をだぶらせて聞いてしまったわけです。建物にとって基礎とは何か。基礎のない建物はありえないこと。一番に気をつけるところが基礎であること。建築家の話を聞きながら、私たちの教会は幸せだなとしみじみ感じました。それは、イエス・キリストという土台の上に建っているからです。その土台の一つに祈り共同の祈りがあります。

イエス様は、「兄弟が罪を犯した場合にはまず2人だけになって忠告しなさい」と教えます。それでもダメなら、一人か二人をつれていって忠告しなさいと教えます。それでもだめなら教会に申し出なさいと。一方、願いごとに関しては、「あなたがのうちの二人が地上で心を一つにして求めるなら」といわれます。どちらも「まず二人で」ということが基本になっています。この二人という単位は何だろうかと思います。

会議用のワークショップ入門書を読んでいます。その中に、「私たちとは何か」という問いかけがありました。面白かったのは「You and I」と「We」の違いは何かというものでした。どちらも日本語では「私たち」になります。その本によると、「あなたと私」に第三者が加わったときに「我々」となると教えていました。この第三者をいつも感じ、受けとめている重要性をといていました。まだ読み始めたばかりなので、そのことの意味はこれから学んでいきますが。たしかに人間関係においてこの第三者の視点は確かに重要だと思います。

イエス様がまず二人でと言われるときも、この第三者の存在があるように思えます。その第三者はイエス様です。つねにそばにイエス様を感じるところで「忠告」「願い」がおこるのです。私たちの事務局の仕事の中にもこの「第三者」である、イエス様を感じながら与えられた働きを勤めていきましょう。

2019年2月12日火曜日

「女優さんの背中に」

クレヨン牧師のミニエッセイ
 
「女優さんの背中に」
 
 「女優さんの演技力というのはすごいなあ」と感心いたしました。先日行われたコンサートでの感想です。会衆をぐいぐいと引きつけていく何かをもっておられることに驚いてしまったのです。それは、コンサートの時だけではありませんでした。演技していない普通に会話をしているときでも、いちど話始められたらぐいぐい人を引きつけて行かれるのです。きっとイエス様の話もこんな風だったのかなあと考えておりました。
 
 さて、コンサートの内容はとても感動するものでした。パンフルートの音色と、女優さんのい語りの出会いの素晴らしさでしょうか。読まれたのは坂村真民さんの「念ずれば花ひらく」という本の一節でした。語りのあとにちょっと講演みたいなものがありまして、そこでは「親は自分の背中をどのくらい子供に見せて生きているか」という話がありました。もっと素直に子供とぶつかったり、感動したりしようと呼びかけておられたのです。もっともだなあと聞きながらふとみると、それを語っている女優さんの背中を、教会の十字架のイエス様が見ておられるのに気がつきました。そのなんとも暖かい、包み込むようなイエス様の十字架そのものがメッセージをおくっているいるのでした。
 
 私たちの背中もまた主イエスによって包み込まれていることに感謝したいと思います。

2019年2月11日月曜日

「死ぬことはない」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「死ぬことはない」

箴言 23:13 若者を諭すのを控えてはならない。鞭打っても、死ぬことはない。

バナナには種があるのでしょうか。食べながらふと思いました。実は今のバナナには種がないのです。「うそつけ、真ん中に黒い点があるじゃないか」といわれそうですが、それなら植えて出てくるか試してください。あれは種ではなく種の名残なのです。人間が食べやすいように品種改良され、種なしになってしまったのだそうです。それでは新しいバナナはどうやってできるのか。実がなったあと、根本からばっさり切ってしまうと新しい株がでてくるというわけです。人間の発見も素晴らしいですが、自然の力には驚かされます。ばっさり切られてもまた生えてくる。倒れても立ち上がる。その背後にある力を感じます。

箴言23章も若者に対する教育のことが書かれてあります。私の子ども時代は、先生の体罰というのをよく見かけました。納得できるものもありましたが、そうでないものもあったなと思います。納得できるものであれば心の傷は残りません。しかし、納得できない体罰が子どもの心をいかに傷つけるかを教えられます。

プロ野球楽天イーグルスの監督が星野仙一氏になり、とても興味深くみていました。初期のニュースでは、「緩慢なプレーには鉄拳制裁も辞さない」と書かれていました。星野監督といえば、鉄拳というイメージがあり怖いという印象です。しかし、その内容をきいてみると、プロの勝負師としての考え方があるのでしょう。「緩慢なプレーは許さない」という一言に、何のために野球をしているのかを問うておられるのかなと思います。楽天イーグルスがどうなるか、なんと日本一になったというからすごいと思わざるをえません。今年は苦しんでいるようですが。

箴言は「若者を諭すのを控えてはならない」といいます。いまの社会では「いってもしょうがない」という感じで諭しを控えることも多いようです。逆ギレというものもありますから、若者を諭すのには勇気がいることかもしれません。しかし何のために「諭す」のか。それは、若者自身の人生のためであり、神様が彼を導こうとされているからです。「鞭打っても、死ぬことはない」という表現は、箴言の時代には若者を諭すときの鞭打ちは普通のことだったのかもしれません。体罰とは何かを一度真剣に考えてみなければなりません。

2019年2月10日日曜日

きままな休日・天草のタコ


牧師会が天草でありました。夜は会席料理!親睦会です。
   今年は天草ということで「タコの煮つけ」がいつもついています
。これがめちゃ美味い!柔らかい!
   天草ってやっぱり最高です!

2019年2月9日土曜日

明日は礼拝です

説教者:吉谷正典牧師(引退教師)
ぜひいらしてください。

2019年2月8日金曜日

2019年2月7日木曜日

「我が家のユーモア2」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「我が家のユーモア2」
 
 「生活の豊かさはユーモアから」というコピーをみました。というわけで我が家のユーモアを探してみました。
 
 その一。スポーツ大会から帰ってきた次女・愛美が一言。「今日、私は不潔だったんよ」と。そんなに汚れている風でもなく、不潔だとからかわれたのかと心配になりました。そこでよく聞いてみると、「不潔」ではなく「補欠」の間違いでした。
 
 その二。月曜日の朝、食卓に理科の教科書が置き忘れてありました。また忘れ物したかなと思い、夜食事のときに長女・華美に聞いてみました。すると「いらないから置いていったの」だそうです。そこで忘れ物について話してみますと、クラスでただ一人だけ、絶対教科書を忘れない男の子がいるとのこと。どうして忘れないのかといえば、「毎日、全部の教科書を持ってきているから」だそうです。なるほどだなと感心したり、さぞかし重たいランドセルだろうと思ったり。とにかく大笑いしました。
 
 神様の御言葉も発想の転換して聞いてみると、不思議と分かり易いかもしれません。神様は「互いに愛し合いなさい」といわれますが、インドの詩人タゴールは、その詩の中で「あなたを愛させていただくことが、あなたのお荷物にならないように」といってます。それもまた神様の御言葉ですね。
 

2019年2月6日水曜日

「道の初めに」

鹿児島ルター君の朝のみ言葉


「道の初めに」

箴言 22:6 若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。

ティリヒという神学者が、「教育の神学」の中で現代の学校の問題として次のように述べています。「学校教育の問題は、いままで子供が問うてもいないことに、答えを与えねばならないことである」。この学校とは教会学校であり、宗教教育であると言えます。つまり、神とは何か、キリストとは誰か、愛とは何か、生きるとは、信仰とは、といった問いを子供たちが持つまえに答えを上から下へ与えているということです。問いを持つまえに答えを押しつける。問うことをさせない。答えが答えとして受け取られるには、問いを問うことが必要だといっています。教育って本当に難しいです。

箴言は教育の書とも言われています。若者が道に迷わないように、また子どもたちが確実な道を歩むようにと願う格言も多いです。とくに教育に関しては、曲がった道を歩むのは、道が曲がっているのではなく、曲がった心の者が教えるから道が曲がると教えているようです。

日本人としてはじめて中国シンクロチームのコーチとなった、井村雅代さんの本を読みました。中国チームは北京オリンピックで、中国としてはじめて銅メダルを獲得しました。井村コーチは日本人としてはじめて外国のチームのコーチと成られた方です。彼女がまず中国チームの若者たちに教えたのは、「挨拶」「愛想笑い」「ありがとう」の3つだそうです。「シンクロ協議は水の中だけの協議ではなく、会場に入って出るまでのすべてが採点の対象である」と書いてありました。いつも見られているという認識と、空気を見方につけなければ世界に通用しないというのです。中国チームにはお国柄でしょうか「愛想笑い」というものがなく、挨拶やありがとうの言葉も少なかったといいます。だからこそ、選手と言う前に人としての問題から教育したのだと。北京オリンピックで銅メダルをとった中国チームの背景が少しわかりました。教育はじめに何を置くかだったのだと思います。

箴言は「若者を歩むべき道の初めに教育せよ」と言います。道の初めにどんな教育を受けるかは大切です。若者は年老いてもその道を歩いていかねばならないからです。若者は道の初めに誰と出会うか、何を聞くか、そして何を信じるか。教会学校や、教会教育にあたるものは、すべては神様のみ言葉に立って行うということを求められます。そこに若者を導く知恵があるのです。

2019年2月5日火曜日

「どう受け取るか」

クレヨン牧師のミニエッセイ

「どう受け取るか」
 
 ある本に「おいしいものを食べる」ことと、「おいしく食べる」ことは違うと書いてありました。なるほどと感心してしまいました。おいしいものをおいしく食べるのは簡単ですが、自分にとって苦手なものでもおいしく食べることは難しいものです。しかし、できないわけではありません。そこに「感謝」があれば、なんでもおいしくいただけるような気がします。
 
 いろいろな教会の会議にでますと、「広島教会はどう?」と聞かれます。そう聞かれると「ええ、壮年会が毎月1回昼食を作るくらい時代先端の教会です」と答えます。みな「そりゃあすごい」といいますが、決まって「それで、その料理はまともで、おいしいの」と言われるのです。どうも「たいしたことありません」との答えを待っているようです。
 
 一応、私も壮年会のメンバーですから「おいしい」かどうかは判断しかねます。しかし、とっても「おいしく食べることができる」のではないでしょうか。教会のいいところは、「おいしく食べることができる」ということです。信仰を与えられている私たちは、試練がやってきてもそれを、神様の恵として受け取ることができるのです。私たちの人生「信仰によってどう受け取るか」が大切なポイントだと思います。今日は天丼なんだそうです。心持ち一つで期待が高まります。

2019年2月4日月曜日

「何かを一つ」

阿久根ルター君の朝のみ言葉


「何かを一つ」

箴言 20:24 人の一歩一歩を定めるのは主である。人は自らの道について何を理解していようか。

死刑囚の記録だけを集めた本があります。裁判で死刑の判決をうけ、絞首台の階段を上るまでの、ある者にとっては長い、またある者にとっては短い「待っている」時間の記録です。その中に一人の男性の記録がありました。その男性はある日突然、花を生けはじめたのでした。といっても、単に粗末な花瓶に一輪の花を生けはじめたのです。しかしそれ以来、死刑囚特有の無気力な凶暴さからうってかわって、見違えるほどに元気になったそうです。死刑の直前、その訳を尋ねた看守に、その男性は言いました。「仕事がある。明日起きたら花ビンの水を取り変えるという仕事がある。夜寝るとき私はそう思いました。だから少なくとも明日は生きていける」と。何か1歩でも歩むことができるということは希望を生むのだと思います。

箴言の20章には、心の中にある深い知恵について語る箇所があります。5節「思い計らいは人の心の中の深い水」という表現で出てきます。これは汲みだすことが難しいということです。心の中にある隠された計画は、他人にはよくわからない。しかし、賢者はそれを見つけ出すことができる。その賢者とは神様と共に歩む者だというのです。

あるスポーツのコーチが指導方法について書いていました。選手が壁にぶつかった時はどうするかということです。選手が全然うまくならないときがある。その時は「なんでうまくならないのだろう」と悩みます。そんな時にコーチは「でも今日はひとつだけ、何かを上手にして帰らそう」と思うのだそうです。そしたらいつかうまくいく。家が片付かなくて途方に暮れる時、パニックになってもしょうがない。そんな時は何も考えずに、何かを一つ動かす。するといつかは片付くのだと。立ち止まるのではなく、一歩でもいいから前へ進むことだと言うのです。

箴言は「人の一歩一歩を定めるのは主である」といいます。人間はどこへ行くのか、自分の道についても理解してはいない。しかし、神様は人がどこへ行くかを知っておられるのです。またその一歩を定めるのも神様なのです。この神様に信頼し、勇気をもって一歩踏み出す時に新しい道が開けてくるのだと言えます。行き詰った状況の中でそれを解決するには、神様を信頼して今日一歩を踏み出すことなのです。

2019年2月3日日曜日

きままな休日・ホテルの夜ご飯

ホテルで会席料理
たまにはいいでしょう。
しかし、しかし、なんと魚ばっかりでした!

2019年2月2日土曜日