2017年4月29日土曜日

気ままな休日・大阪王将の餃子定食

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これは定番!餃子。でも餃子の王将も「大阪王将」の餃子はまた格別に美味しいと思います。
たれが種類があるし、中身も自分に合うかなと。
書いているうちにまた食べたくなりました。

2017年4月28日金曜日

阿久根の海

阿久根の道の駅によりました。
何という青さ!
海が輝いて綺麗です。

2017年4月27日木曜日

窓の内側

クレヨン牧師のミニエッセイ

「窓の内側」
 
 金曜日に二年ぶりで、礼拝堂の窓ガラスを清掃しました。毎日そこで祈っているので、汚れているのは知っていました。ところが「今度やろう、今度やろう」と思っているうちに二年が過ぎ去っていきました。なぜ自分は二年もやらなかったのだろうと考えてみました。
 
 「いつでもできる」「誰かがやってくれる」「もうすこしいいか」という思いがあったのです。もし誰かに「汚れている」と、指摘されていたらどうだったでしょうか。「なぜわたしがしなければならないのか」と反発したでしょう。教会を整えることがいかに大切かをわかったのです。
 
 ところが、礼拝堂の窓を拭いても拭いても奇麗になりません。ホースで水をかけても、ブラシでこすっても奇麗にならないのです。なぜなら、本当に汚れていたのは「窓の内側」だったからです。二年分の礼拝堂内側のホコリは大変なものです。
 
 私たちの信仰生活はどうでしょうか。外からは奇麗にみえても、内側にホコリがあるためにかすんでいないでしょうか。主イエスは「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と言われました。
 
 内側にある信仰をさえぎるホコリは、祈りによらなければ取り払うことはできません。もういちどはっきり見えるように祈りましょう。そういう願いをこめて窓ガラスの内側を磨いていたのです。

2017年4月26日水曜日

祈り・願い・お願い

阿久根ルター君の朝のみ言葉
 
「祈り・願い・お願い」

 フィリピ 4:6 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。

山口県萩にある松蔭神社にいったことがあります。吉田松陰がご神体でしょうか。とにかく吉田松陰の魂を沈めるためのものだと理解しています。そこに多くの方がやってきて願いごとをされます。絵馬にはたくさんの言葉が書いてありました。そのほとんどは「学業成就」「大学合格」でしたが。中に「恋愛成就」「長生きできますように」「家内安全」「結婚したい」というのがあり、笑ってしまいました。吉田松陰の人生、哲学、生き様を考えると、もし彼が神様であるなら願うことは違うだろうなあ~と。もちろん皆さんは神様とおもっておられるから何でも聞いてくださると考えているのでしょうが。祈りと願いの内容が違うのだろうと。

 パウロはフィリピの信徒を励まして祈りと願いを教えています。しかし、この言葉の前に「主はすぐ近くにおられます」と告げます。イエス様がすぐ近くにおられるのだ。だから心配せず、思い煩わず、近くにおられるイエス様に語りかけることを教えるのです。ただ、「何事につけ」の「何」を神様に祈り、願い、打ち明けるかはその人の信仰によることであり、その人がそのまま現れるところです。

 車で走っていますと、楽しいことがたくさんあります。とくに看板に目をひかれます。柳井市のある海岸線には、「このあたり美人おらず。わき見運転するべからず」と書いてあります。もっともその下には、「美男子は完全にいない」と落書がありました。思わず微笑んでしまいました。いっぽう、六日市に向かう道では、看板にはっとするようなことがいつも書かれています。たとえば先月は、「ありがとうが、いつのまにやらあたりまえ」と書いてありました。なるほど感謝する心の大切さをいまいちど発見する思いでした。それでは今月は何と書かれてあったか。こうです。「子は親の言うことはしないが、親のするようにする」です。

 パウロは「感謝をこめて」といいます。まず感謝があり、それから神様と対話するのです。あれがほしい、これをしてほしいと自分のことばかりが祈りと願いではなく、神様の御心を聞くことが祈りと願いではないかと思います。

2017年4月25日火曜日

もっと弱くなれ

クレヨン牧師のミニエッセイ

「もっと弱くなれ」
 
 一度は読んでみたいと思っていた作家の一人に、吉川英治がいます。父の書斎に彼の本を見つけたのは小学生の頃でした。しかし、なかなか読む機会にぶつかりませんでした。
 
 ところが最近になって、書店で彼の文庫を見たときに思わず買ってしまったのです。いろいろと伏線はあったのですが、いま夢中になって読んでいます。吉川英治著「宮本武蔵」全8巻。なぜ「宮本武蔵」なのかわかりませんが、この小説は面白いだけでなく、精神面での深い洞察が心を打つのです。
 
 「お前は強すぎる。もっと弱くなれ」と、宝蔵院の日観和尚に言われて悩む武蔵。「もっと弱くなれ」のなかに、主イエスの十字架が偲ばれてなりません。
 
 私もまだまだ駆け出し牧師。キリスト教の強さばかりを考えてきました。しかし、信仰とは強いことなのでしょうか。勝って勝って勝ちまくることなのでしょうか。「もっと弱くなりなさい」との主イエスの言葉が聞こえてくるのはなぜでしょうか。たぶん、「弱くなってあなたのすべてを私にまかせなさい」と十字架の主は言われているのでしょう。

2017年4月24日月曜日

友と呼んでくださる

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「友と呼んでくださる」

 ヨハネ 15:15 わたしはあなたがたを友と呼ぶ

テレビで三木たかしさんの葬儀模様が流れていました。弔辞は萩本欣一さんでした。その弔辞の内容に少し驚きました。萩本さんは次のように語りかけたのです。「今日であなたと友はやめます」(正確ではないかも)。友達関係は終わりと言われたのです。その後「これからは先生です。三木先生」と。尊敬をこめてこれからの新しい関係に心から感謝されているような弔辞でした。普通なら「ずっと友達でいましょう」というところですが「先生」と呼ばれたところに2人にしかない特別な関係の強さ、尊敬、信頼をみることができました。

 ヨハネ福音書にある告別説教でのみ言葉です。十字架での死を前にした、最後の晩餐の席上でのみ言葉になります。イエス様は、明日は死を迎えることを知っておられました。遺言のように語られた言葉で、弟子たちにむかってあなたがたは「僕(しもべ)」ではなく「友」といわれたのです。弟子たちは自分たちのことをどう思っていたのでしょう。もちろん「僕」と思っていたでしょう。イエス様のことは「先生、師匠」と考えていたかもしれません。それは、あたり前のことだと思います。しかし、あえて「友」と呼ばれたところに感動を覚えます。

 日本海外医療協会派遣医師の講演会がありました。ある地区のキリスト教会の合同集会として行なわれた講演会でした。そこで改めてキリスト者の働きについて学びました。医師は幼いころからのキリスト者で、講演の最後に祈ることについて話されました。「とにかく誰でもいいです。アジア・アフリカにいる方の顔を思い浮かべてください。テレビでみた子供でもいいです。そしてその子のために具体的に毎日祈ってください」と言われました。「そのことが、世界に友を具体的につくることです」と教えてくださいました。

 イエス様は「先生」と呼ばせず、「友」と呼べといわれました。イエス様の方から「友」と呼んでくださったのです。その関係の中におおきな神様の愛を感じます。私たちはイエス様を友としてよいと言われました。神様を友としていることは、なんと奇跡なことでしょうか。萩本さんが「先生」とよびながら、友であることを表現されたことに関係の深さをみることができました。

2017年4月23日日曜日

復活後第1主日礼拝

復活後第1主日礼拝
阿久根教会TV中継礼拝
説教:立野泰博牧師説教題:復活に鍵はいらない
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>

2017年4月22日土曜日

きままな休日・母の味

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   母の仮設に遊びに行きました。母が「ついでに夕食を」を。
何もないからと出してくれたのが「里芋煮と白菜」でした。
   これが私の大好物なんです。母のつくる里芋煮に勝るのはないですよね。
小さいころから食べていますから。
   懐かしい味に心もほっこりしました。熊本地震の復興はこれからです。
母の仮設にもたびたび遊びに行きます。

2017年4月20日木曜日

祈りの力を知る

クレヨン牧師のミニエッセイ
「祈りの力を知る」
 
 「どうして牧師に祈ってもらわんの」という言葉を、あらためて深く受けとめました。そういえば、「このために牧師先生祈ってください」とお願いされたことはあまりありません。私たちは祈りをお願いするということはあまりないのでしょうか。
 
 「それぞれ祈り方が違う」「祈りとはそんなものではない」「祈ってもどうにもならない」という言葉をよく聞きます。しかし、私たちは追いつめられ、どうしようもない状態になったら、祈らずにはおれないのです。
 
 祈りの力を知らない。祈ることの素晴らしさに気がついてないと思います。祈ることはキリスト者の命です。そして自分のことだけでなく、教会のために祈ることは、教会の命です。牧師のために祈ることは宣教の命です。
 
 状況は厳しければ厳しいほど、私たちは祈らざるをえません。しかし、祈りは、神様の御心にそってきかれるのだ、という信仰を持っています。
 

2017年4月19日水曜日

痛みを負う


阿久根ルター君の朝のみ言葉

「痛みを負う」

 イザヤ 53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病をしっている。

中央線を四谷から三鷹まで利用しました。東京の電車にはテレビモニターがついており、いろんな情報を教えてくれます。天気、ニュース、マナー講座、今日の一品など。その中に「ネット検索用語ランキング」というものがありました。ネットで検索するキーワードで一番多いものは何かということです。1位は「痛み」でした。とても以外でしたが、「痛み」というキーワードが意味しているものを考えてしまいました。たぶん痛みには「心」と「体」の両方があるのでしょう。痛みを取りのぞきたい、痛みから解放されたいという思いから、なんとかしたいと「痛み」という言葉で検索をされているのだろうと思います。しかし、痛みを完全に取り除くことはできません。痛みがあるから生きているという実感もあるでしょう。痛みには深い苦しみと嘆きも感じます。この痛みと共に生きていかねばなりません。でも、痛みを軽くすることはできます。痛みを共に負ってくださる存在に気がつくことです。

 イザヤ書の中にある「苦難の僕」として有名な箇所です。イエス様の十字架の苦難を預言したものです。まさに十字架の出来事がここにあるといえます。「軽蔑され見捨てられる」イエス様の姿に心が痛くなります。

 注射というのはいやなものです。とくに『痛い』ことがいやです。ところがとってもいい話を聞きました。痛みを和らげる方法です。それは、注射の数秒前に太腿をつねるという方法です。これをやると痛みが半減します。この方法は、麻酔科のお医者さんが発見し、学会に発表された説でもあります。なぜ痛みが半減するか?それはハリ療法がなぜ痛くないかと一緒です。つまり人間の体は、たくさんの痛みのなかで、一番刺激の強い痛みだけを感じるという性質をもっているのです。ですから、ハリ療法は押手というテクニックを使うのです。すると注射の前に太腿をつねれば、注射の痛みよりも刺激が大きいので、痛みが半減するというわけです。自分の痛みしか見えない人はその痛みに苦しむ。しかし、キリストが十字架の上で、それ以上の痛みを感じてくださったことを知る人は、キリストの痛みゆえに、自分の痛みが和らげられるのではないでしょうか。
イザヤは「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病をしっている。」と告げています。あなたの痛みを知って、共に負っている方がおられる。その方の存在に触れたとき、痛みは軽くなると思います。イエス様が十字架でしめしてくださったのは、この痛みを共に負うということだったといえます。心・体にみな痛みを持っています。

2017年4月18日火曜日

罰金ですよ

クレヨン牧師のミニエッセイ
「罰金ですよ」
 
 シンガポールという国はとても小さい島です。しかし、ありとあらゆる民族が集まった国でもあります。マレーシア系、インドネシア系、アラブ系、タイ系、中国系、ヨーロッパ系、などなど。歴史のある貿易港だったことがわかります。ですから、ありとあらゆる食べ物があります。シンガポールに行くだけで世界グルメになれるほどです。
 
 また、シンガポールはとても奇麗な国です。なんと塵ひとつ落ちていないのです。道路は整備され、地下鉄は駅まで全冷房。しかも駅はピカピカ。日本が奇麗だと思っていた私は驚いてしまいました。日本よりも美しいのです。それもそのはず、モラルに対する罰金が高いのです。バス・地下鉄の中でタバコを吸ったら、S$1000の罰金です。日本円にすれば七万円の罰金です。麻薬などを国の中に持ち込んだ場合、その場で死刑です。ですから、「ここで・・すれば罰金S$1000」という看板の多いこと多いこと。
 
 しかし、シンガポールを歩きながら、寒々しくもありました。奇麗すぎるものですから。一緒にいた牧師がポツンと言われました。「ここまで奇麗だということは、隠れたところで抑圧されている人々がいるってことだね」と。汚くてよいとは思いませんが、なにが汚いというかは大きな問題です。

2017年4月17日月曜日

中を見たい

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「中を見たい」

 ルカ 8:17 隠れているもので、あらわにならないものはなく・・

ある本で面白い話をよみました。ニューヨークの工事現場の塀にはいくつも穴があいているのだそうです。しかもわざとあけてあるそうです。理由は中で何が行われているか興味があり、穴がない塀はすべて壊されて中がみえるようになるからです。そこで始めから穴をあけて中を見せることにしたというのです。

 イエス様の教えの一つです。はじまりは「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり・・しない」という話の中にあります。ともし火は何のためにあるのかをきちんと考えないということ。また、み言葉の光は隠されたままにはなく、かならず光輝くのだということでしょう。悪いことを影でやっても公にされると読むひともいるかもしれません。

あれもいけない。これもいけない。世のなかが暗くなればなるほど、暖かい話を聞きたくなるのはどうしてでしょう。なんとかして、この世を肯定して生きていきたいからです。「隠れたところでは、こんないい話がある」ということで安心したいのです。テレビのニュ-スを観ながら、「これから中高生が生きていく世界は何と暗いことか」と嘆きたくなります。しかし、必死に肯定できるものを探してみる努力をしたいと思います。肯定できるもの、それは、この世を造られた神様が、イエス様を通して今も働かれているということです。

 さて、私たちの教会はどうでしょうか。教会で語られる福音を隠したりしてないでしょうか。いや、教会の塀をこわしてまで覗きたいものとして捉えているでしょうか。私たちに与えられている神様のみ言葉の価値をも一度再確認したいと思います。「隠れているもので、あらわにならないものはない」のに、こんな素晴らしい宝を隠しているのはいったい誰でしょう。

2017年4月15日土曜日

気ままな休日・過ぎ越しの食事

過越しの食事風景です。
イエス様の時代は、寝っころがって食事をしていたのですね。
なかなか面白いものです!

2017年4月14日金曜日

イースター礼拝は召天者記念の祈り

4月16日(日)の礼拝後に、天に召された方々を覚えて祈りを捧げます。
召天者記念の祈り

2017年4月13日木曜日

できると信じる心

クレヨン牧師のミニエッセイ

「できると信じる心」
 
 今年の夏は、雨ばっかりで困ってしまいます。野菜の値段の高いことといったらありません。こんなに野菜の値段が高いのでは、きっとお好み焼き(広島風)屋さんなどは大変ではないでしょうか。あのキャベツの量はどうなっているのでしょうか。減らされているかもしれません。
 
 ということで、家族で「ほうれんそうの野菜炒め」を食べにいきました。家で買って食べるより、安くて、量が多いと思ったのです。ところが、出された料理をみてびっくりです。ほうれん草はパラパラ。なんとそこにあったのは、タマネギの炒めものだったのです。わたしは「なるほど」と感心してしまいました。
 
 「これしかありません」と弟子達は主イエスに、五つのパンと二匹の魚をみせました。もうどうしようもありませんというのです。しかし、主イエスは、はじめからダメだと思っている弟子達にむかって、「だいじょうぶ。あなた達の手で配りなさい」と言われます。神様のこの言葉を信じることを要求されるのです。
 
 方法はいくらでもあります。初めからダメだと思わないことです。「できる」と信じる心に奇跡はおこるのですから。

2017年4月12日水曜日

ほめられること


鹿児島ルター君の朝のみ言葉
 
「ほめられること」

 ルカ 7:9 言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰をみたことがない。

 「キリストを人に見せばやわれはそのかげにかくれてありとしらさで」

 キリストにあって謙虚な気持がするのは、明治の歌だからでしょうか。いつだったかある本で読みました。トスカニ-ニという偉大な指揮者が、ベ-ト-ヴェンの第九のリハ-サルをしていました。その指揮振りの素晴らしさに楽団員たちは感動し、終ったときには全員が起立して彼に拍手を贈りました。するとトスカニ-ニは激しくその拍手をやめさせようとしました。拍手が小さくなったとき、目に涙をためて大声で叫んだそうです。「ほめられるのはベ-ト-ヴェンです。私はほめられる筋合いはありません」と言ったそうです。褒められるとは何かなと思います。

聖書の中で、イエス様は百人隊長の言葉に感心しておられます。弟子たちなどは、マルコ福音書で怒られてばっかりですが、それも一つのイエス様の関わり方なのでしょう。イエス様は人のことを無視されるわけでなく、何らかの方法で認めておられるように思えます。

 今朝のテレビ情報番組で「ほめられサロン」の話がありました。ウェブページの「ほめられサロン」のところにいって、自分の名前と職業をいれると「00さん、素敵です」「00さん、声がすがすがしいです」「00さん、仕事できますね」などほめ言葉が画面にたくさんでてくるのです。それはもうたくさんのほめ言葉があります。形式だけとわかっていても、やっぱり嬉しくなります。子どものときは、たくさんほめられることもありました。大人になったら忠告されたり怒られたりすることはありますが、ほめられることも、ほめることも少なくなります。やっぱり、人はいくつになってもほめられることで、誰かに認められたいのでしょう。自分のやっていることをわかってもらいたいのでしょうネ。

 神様は私たちのことをいつも見守っていてくれます。それは私たちの存在そのものを認めてくださっているからです。「ほめられサロン」で自分を確かめることより、この職場環境のなかでお互いを認め合っていけたらそれで充分なのでしょうね。イエスさまは「わたしはこれほどの信仰をみたことがない」と言われました。あなたを認めておられる方は、ここにおられますから。

2017年4月11日火曜日

クレヨンが

クレヨン牧師のミニエッセイ

「二千部の神様のクレヨン」
 
 土曜日の朝、岩国の方から電話がありました。初めて電話をくださった方で、とてもうれしい電話でした。
 
 その方の話しによれば、「友人から『神様のクレヨン』をプレゼントされ、読ませていただきました。本の中に生まれ故郷の六日市のことが書かれてありました。六日市でのキリスト教の教会や集会のことは初めて知りました。今度休みに帰った時が水曜だったらぜひ出席させてください」ということでした。
 
 なんだかうれしくなってきました。「神様のクレヨン」の第一刷が残り四十冊になった時にとても迷いました。これで止めておこうか、それとも増刷しようかと。思いもかけず収益をいただいたので決心しました。お金が必要だったのではなく、一人でも多くの方に「キリスト」を伝えることが目標だったのだと。しかし、ギョッとしたのも事実です。増刷したのはいいが、山とつまれた「神様のクレヨン」がここにあるからです。
 
 それでも神様は電話で祝福してくださいました。この電話がどんなに励ましとなったことでしょうか。祈りつつ決心したことは、神様が支えてくださるのです。二千部の「神様のクレヨン」が、今度はどんな恵みを伝えてくれるのでしょうか。楽しみです。

2017年4月10日月曜日

すみません

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「すみません」

 ヨハネ 3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。

ある牧師先生の家に四匹の小犬が生れました。早速見に行きましたがとてもかわいい犬で、一匹ほしいなあと思うくらい。ところが母親犬は四匹を平等に愛し育ててはいないと、その牧師は言われるのです。ある一匹だけをよく面倒をみて、ある一匹には全く無関心なんだそうです。残りの二匹にはまあまあとのこと。どうも理由がありそうです。実は、愛されているのは父親似の犬。嫌われているのは自分に似ている犬なのだそうです。どうしてそうなるのかわかりませんが、愛の執念かもしれません。愛というのは難しいものです。

 ヨハネ福音書の中で、最も有名な箇所です。たいてい好きな聖句のトップにこの聖句が上げられます。神様が、独り子であるイエス様を十字架の死に渡してまで、私たちを愛してくださったのです。私たちの罪を赦しあがなうためです。「たち」というより、これを読む人は「私」と置き換えます。こんな私のために、神様がそこまでしてくださったことに感謝するのです。

 会話の中でよく聴く言葉があります。「すみません」という言葉です。本来「ありがとう」と言うところで、「すいません」といいます。何も悪いことはしていないのに謝っているように聞こえます。しかし、ある仏教のお坊さんの解釈を思い出しました。「すいません」という言葉は、「私」はこれまで多くの人、出会い、物、大自然のおかげで今日まで生きてくることができた。しかしそれに対して何一つ恩返しができていない。つまり「すみません(申し訳ない)」という気持ちを表した言葉ですと。あなたからの恩になにも返せなくて「すみません」ということです。

 ヨハネは「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」と告げています。神様から私たちが頂いたものを数えることができません。(あまりにも多くて)イエス様の命までも頂いたのです。神様に何を返していけばいいのでしょうか。いや、返すことを神様は望んでおられないと思います。「ありがとう」と感謝して受け取ればいいのです。そして、頂いた恵みを隣人と分かち合い、「あなたも神様から愛された存在ですよ」と伝え、隣人に仕えることが「すみません」の本当の生き方だといえます。

2017年4月8日土曜日

きままな休日・カキフライ

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 九学通りに「若竹」という居酒屋さんがあります。古くからのお店で、常連さんで一杯です。私たちもよく利用します。
   ここでは必ず「カキフライ」です。普通の大きさの3倍は、いや4倍はあるでしょうか。とにかくでかい。その秘密は何個かの牡蠣を合わせてフライにしてあるからです。
   しかしこれがやたらと美味いのです。みなさんもどうですか~
 

2017年4月7日金曜日

礼拝はいつも楽しい!

阿久根教会の礼拝はいつも楽しいです。
礼拝後はみんなで食事をします。
この日は春の山菜弁当でした。初たけのこがおいしかった~

2017年4月6日木曜日

イエス様のご臨在

クレヨン牧師のミニエッセイ

「イエス様の御臨在」
 
 北海道留萌のキリスト教団が出している、「電話による聖書メッセージ」という小冊子をいただきました。電話に三分間のメッセージを入れておくと、誰でも自由に聞くことができるという伝道方法です。私の雑文よりも大変な伝道で、毎週つくるれることに感動したしました。
 
 その小冊子の中に、ドイツ人の神父さんが、十九年の留萌での仕事を終え転勤される時の話しがでていました。ある人が「留萌での伝道で一番恵まれたのは何ですか」と聞きました。しばらく考えて神父さんは答えました。「そうですね。吹雪の時に三時間も車で走って、やっと集会の場所につき、雪を除いて、部屋のストーブに火を付けて待っていましたが一人もこなかった時です。私は何のために日本に来たのか。そしてこの留萌に・・・。とても淋しくなり、空しく感じました。その後、ハッとしました。ここに来たのは自分からでなく、キリストによって遣わされたのだ。リアルにイエス様の御臨在を感じました」と。
 
 この言葉に涙がでてきました。まったくその通りだからです。アーメン。
 

2017年4月5日水曜日

ゆとり・いい・加減で

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「ゆとり・いい・加減で」

 マルコ 6:31 イエスは「さあ、あなたがただけで人里離れた所へいって、しばらく休むがよい」といわれた。

「一日に何時間あればいいと思いますか?」というアンケ-トをビジネスマンにしたそうです。その結果、回答の平均は何と「二九時間一二分」だったそうです。皆さんあと五時間欲しいと思っておられるのでしょう。その五時間が生活にゆとりができる時間と考えておられるのかもしれません。しかし、実際には残業が五時間増えるだけになりそうです。この結果にもとづき売り出されたのが、二五時間時計です。とても実用性には欠ける品物ですが、飛ぶように売れていると聞きました。これに気をよくして売り出されたのが、十時までしかない時計です。もっとゆったりとした一日を送りたいと願っている人もいる、という逆転の発想です。この時計が飛ぶように売れているそうです。

 イエス様が弟子たちを派遣されたとき「杖一本の他に何ももっていくな」と言われています。これを聞いた弟子たちは一生懸命に宣教したことでしょう。宣教する以上は「きちんと」「熱心に」「他人に配慮しながら」「しっかりと」「しかも迅速に」が求められていたことでしょう。しかし、本当にそうかなと思います。イエス様が何も持っていくなというとき、それは神様にすべてを委ねなさいということだと思います。それが出来ないから燃え尽きてしまいます。

賀来周一先生が信徒の友に「信仰者とこころの健康」と題して紹介されていました。先生は「いい・加減」のすすめと題してこの問題を取り上げておられました。まじめな人間ほど小さいときかた駆り立てられるような命令のもとに生きているそうです。たいてい5つの事柄で「完全であれ」「努力せよ」「他人を喜ばせよ」「強くあれ」「急げ」だそうです。牧師などは大抵まじめな方が多いようで、これに従って(支配されて)全力疾走しているものだから「燃え尽き症候群」になるといいます。これが親の言いつけを忠実に守ろうとする「良い子」の姿勢なのです。それでは考えるべきか?ある意識をおきながら、この5つを対処すればいいといわれます。どのような意識なのか。「いい・加減」です。5つには「ここまでにする」「これをするだけでよい」「自分が喜んでよい」「自然にふるまってよい」「時間をかけてよい」というおまじないを自分にかけてあげればいいのです。

 イエス様も弟子たちの一生懸命にたいして「しばらく休みなさい」といわれました。「休んでいいのだよ」というメッセージをくださるのです。心の休みを持ちつつ与えられた仕事をしましょう。燃え尽きないように。あなたが燃え尽きると、隣の人にも火は移りますから。

2017年4月4日火曜日

自由の中の

クレヨン牧師のミニエッセイ

自由の中の不自由」
 
 いつからかセキセイインコを飼っています。といっても本当の飼い主は隣りの教会の牧師でした。じつは今年の春の北海道転勤にともない我が家にやってきたのです。
 
 先日、このセキセイインコをただなんとなくながめていました。すると、餌を勢いよく食べるので、オリの外にこぼしていたのです。数分後こんどはスズメがきてそれを食べていました。なんだかその光景がとっても不思議だったのです。
 
 オリの中にいて、餌に不自由しないのが幸せなのか。食べ物だけを探して、一日中大空を飛び回るのが幸せか。どちらも幸せだと思いますが、それぞれの幸せの中にも不自由な部分があることに気がつきました。
 
 私たちは幸せだけを求めています。しかしそれは、不自由さを一緒にもつ幸せでしかないのです。その不自由さを認めるか、認めないか。受け取れるか、受け取れないかなのです。
 
 主イエスは正しさだけを招かれたのではなく、罪をも招かれたのです。自分の罪を認めつつ正しさの中に生きることができるでしょうか。主イエスと共にあるならばできると信じています。

2017年4月3日月曜日

もう少し

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「もう少し」

 マルコ 12:34 あなたは、神の国から遠くない

ある時、魚の骨を喉にひっかけてしまいました。痛くて、手を入れればすぐ取れそうな気がします。奥さんに見てもらったのですが、「どこよ、どこよ、ない」と平気な顔をして笑っている。それをみながら、「なんて薄情なのだろう。愛はないのか。この痛みが分からないのか」といいたくなりました。でも、これが反対の立場だったら私も笑うでしょう。しかし、その時は真剣。その場を救ってくれたのは娘でした。その頃1歳、「痛いね」という言葉を覚えた娘は、私が痛いというと「痛いね。痛いね」と繰り返していいました。本人はどのように痛いか分かってないのでしょうが、なんだか私の痛みを分かっているような気がして、ホッとしたのです。私たちは自分の痛みはとてもよくわかります。でも一番近い家族の痛みはといえば分からない。家族の一人にどんな苦しみがあり、痛んでいるかなどと考えてもみません。一番近いが一番遠いことにもなるなと思いました。

 イエス様は、律法学者から「あらゆる掟のなかで、どれが第一でしょうか」と聞かれます。イエス様のみ言葉をまとめると「神を愛し、隣人を愛する」こととなります。こんなに単純なことですが、これが最高に難しいものです。律法学者も「そのとおりです」と適切な答えをするのですが、そのあとに「あなたは、神の国から遠くない」と言われたのです。近いけれど入ってないということでしょうか。もう少しなのですが、このもう少しが永遠でもあります。

 事務局にいる時、ビル清掃のおばちゃんとの会話を楽しんでいました。いつも朝5時から働いているおばちゃんからたくさん学ぶことが多かったのです。とにかく毎朝、人が通る前までにきれいにしておくため、いつも時間外にきてくださっているのです。そのおばちゃんが「神様のクレヨン3」を読んだ感想を毎日教えてくれます。ある日のおばちゃんの言葉「あの本の内容は10%のうち、8%しか書いてないね。残りの2%は自分で考えるように書かれてある。この2%が神様との関係では大切なんよね」と。

 イエス様は「あなたは、神の国から遠くない」と言われます。「遠くない」「もう少し」とは自分で考えることなのです。神様から示されているみ言葉・福音は目の前にある。しかしそれを生きるためには「もう少し」を考えねばなりません。それは私たちの職場でも生活でも同じです。「もう少し」とは何かをいつも考えながら、今日も一日を生きていきましょうね。

2017年4月2日日曜日

四旬節第5主日礼拝説教

四旬節第5主日礼拝
説教:立野泰博牧師
説教題:復活を信じるか
礼拝説教は音声で聞くことができます。以下へどうぞ!
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>

礼拝へ


2017年4月1日土曜日

気ままな土曜日・焼きそば

いまや大江教会と言えば~焼きそばです。
大きな鉄板で焼くときは、幸せを感じます。
事あるごとに大江教会は焼きそばをふるまってきました。
そして味も落ち着いてきました。
一度食べにきませんか~ソースはもちろん広島オタフクソースです。
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