「目的をもって」
2コリント 5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
学生の頃、目的地に無事に到着するには、正確な地図を必要とすると教えられました。当たり前のことだと考えていました。しかし先生は、「人生の目的」「人生の地図」を持っているものはいますかと問われ、すこしドキッとしました。「何のために生きるのか」をじぶんはわかっているだろうか。そのために必要な手段や道具を持っているだろうかと思ったのです。目的と手段。この二つを信仰生活の中に見出しているか?そのような問いかけを持ちながら生活しているように思います。
パウロはキリストがすべての人のために死んでくださったと教えています。その目的は何か。キリストと共に「新しい人」としてキリストのために生きるためだと言います。生きる目的は、キリストのために生きることなのです。それがパウロの心を駆り立てています。パウロにとってこの目的はたせつなものでした。何をしなければならないか、どうしてそれをするのか。そして何のおくてきでするのか。パウロの答えはただ一つ、キリストのために生きるでした。
「一歩一歩、ていねいに歩いたことがありますか」と聞かれたらどのように答えるでしょうか。一歩一歩をていねいに歩いていけば、必ず目的地につくはずです。「歩歩是道場」ということです。弘法大師の言葉にも「一歩三礼」というものがあります。つまり一歩一歩を参拝する気持ちで歩きなさいということだと思います。私たちはどうでしょうか。一歩一歩を大切にしているでしょうか。実際祈りつつ一歩を歩いてみると、なかなか大変です。一歩進んで祈り、一歩進んで祈る。大変ですがとても心が満ち足りてきます。絶えず祈るということは、一歩一歩をていねいに歩くことかもしれません。大江教会はどこに行こうとしているのか。目的地はどこなのか。宣教する教会となるには、目的が必要です。大江教会のビジョンはみえています。
パウロは「その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」と言っています。キリストの十字架の意味と目的をはっきりしめしているのです。この目的のためにキリストにあって「新しい人」として生きることが神様の御心です。