2019年7月17日水曜日

「安易な答えでなく」

阿久根ルター君の朝のみ言葉

「安易な答えでなく」

黙示録 2:5 どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。

ある本で読んだ話です。毎日職場に遅刻する職員がいました。上司は再三注意し、彼に遅刻をしないように解決策を出させました。彼が出した解決策は「目覚まし時計を増やす」というものでした。ところが、遅刻は改善されませんでした。上司の方が考えを改め、問題を根本的に考えてみることにしたのです。「何についての問題か」朝起きられないこと。「何が問題か」睡眠時間が少ない。「それはなぜか」遅くまでテレビゲームをしている。「何が問題解決のカギか」夜23時以降はゲームをしない。この話はとても面白いと思いました。安易に答えをだしてしまうより、問題の発生源までとことん考えようということです。それが見つかったら本当の解決策がありそうです。あとは本人がやるかどうか。それで仕事を続けられるか辞めざるをえなくなるか。そこからは本人の問題なのです。

本日読みました黙示録の箇所は、エフェソの教会にあてた手紙の一節です。ここに「落ちる」という表現があります。これはキリスト信仰から外れることを意味しています。エフェソの人々は初期に伝えられた福音とは異なる信仰に陥っていたようです。むしろ信仰の緩み、疲れが問題とされています。このような状況の中で、神様に従うことへ立ち返るように「悔い改め」を筆者は勧告しているのです。

「ここで陸終わり、海はじまる」という言葉を航空機内の雑誌で読みました。マカオの観光案内にポルトガルの言葉として紹介してありました。ポルトガル大航海のスローガンだったようです。ポルトガルの岬に立った彼らは「ここで陸が終わる。新しい出発のために海に出ていく」との決意を現した言葉でした。その後マカオについた彼らは、次ぎのように叫んだといいます。「ここで海終わり、陸はじまる」と。キリスト教の宣教、み言葉もこうやって海を渡ってきたのだと、ちょっと感慨深く思いました。と考えながら・・・はたしてキリスト教はこの日本の陸に立っているかと疑問をもちました。簡単にいえば土着しているかということです。まだ海の上にあって、私たちの国にとっては、いまでも外国の宗教として受け取っているのではと思ったのです。海が終わる直前まで来ているけれど、まだ陸が始まってない。そのような所にいるような気がします。遠くでながめていないで、キリスト教を陸にあげなければなりません。その為には初めに戻って考えることです。

今日の聖書でも、「どこから落ちたかを思いだし」とあります。その出発点で何があったかを思い出せをいうのです。出発点が一番の問題だからです。それがわかったら悔い改めること、そして神様が与えてくださった道にもう一度立ち返ることを教えているのです。私たちも何か問題を抱えた時、安易に答えを出して決めるのでなく、問題の発生源にいきつくとこまで考えみたいと思います。そこに解決のカギがあるからです。